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血の神聖さを尊敬するものみの塔 1961 | 12月15日
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て,ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って,ダビデのもとに携えて来た」。彼らの持ってきたものは,水に過ぎませんでした。しかし,彼らは生命の危険を冒してそのことをしたのです。ダビデはそのことを知っていました。「しかしダビデはそれを飲もうとはせず,それを主の前に注いで,言った,『わが神よ,わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです』。それゆえ,ダビデはこの水を飲もうとはしなかった」。(歴代志上 11:16-19,新口。サムエル後 23:15-17)ダビデは神の律法を尊重しました。彼は動物の血を避けただけでなく,人間の血を食べるという極悪の罪を避けました。ほんとうに,彼はその律法違反に思われるものさえも避けました。彼は神の御心にかなう人でした。今日の円熟したクリスチャンたちも,ダビデのとった道と同様な従順の道に心から従います。そして,血の誤用に関する一切の行いを避けます。彼らは神を愛しているので,血の神聖さに尊敬を示します。
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生命を神の御心と一致して用いるものみの塔 1961 | 12月15日
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生命を神の御心と一致して用いる
1 (イ)だれの御心が血の使用を制御しなければなりませんか。彼はどんな行いを禁じますか。(ロ)血を流すことが正しいと示されたどんな出来事がカインとアベルの時代に生じましたか。
生物の生命の血は神の御こころと一致するときだけ正しく使用されます。血を食物として食べることは禁ぜられています。生命を維持するための医療という口実で血を他の人に与えることは,神により許されていません。血は生物の体内で生命を維持する役割を果たします。しかし,神はそれ以外にももう一つの血の使用を認めています。このことはアダムの息子たち,カインとアベルの時代にあきらかに示されました。「アベルは羊を飼う者となり,カインは土を耕す者となった。日がたって,カインは地の産物を持ってきて,主に供え物とした。アベルもまた,その群れのういごと肥えたものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」。(創世 4:2-5,新口)カインの供え物は,魂のない野菜でした。アベルの犠牲は生命を表わし,血をそそぎ出すことを必要としました。エホバはアベルの犠牲をうけいれることにより,犠牲をささげるときに血を流す必要を示しました。しかし,カインはこのことについての神の導きをうけいれませんでした。かえって,彼は自分の弟アベルを荒々しく殺してしまいました。アベルは,彼自身の生命と羊の生命を,神の御こころ通りに用いていた当時の地上のただひとりの人だったのです。
2 神は流された血のどんな一つの正しい使用をゆるしましたか。このことはだれに知らされましたか。そして,どのように?
2 神の忠実なしもべたちは,エホバにささげる犠牲として,動物の生命の血を注ぐことが神の御心であることを認めました。そして,ノア,アブラハムその他の者たちは,それを行なった者であると聖書に述べられています。(創世 8:20; 22:13)彼らの子孫であるイスラエル人たちが,シナイ山のふもとに集まって,一つの国民に組織されたとき,エホバ神は明瞭な言葉を用いて,生物の流された血を用いるただひとつの正しい仕方を告げられました。彼は次のように言われたのです,「あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである」。(レビ 17:11,新口)血は生命の働きと密接なむすびつきを持ち,罪は生命を失わせるゆえ,神は罪をあがなう犠牲として,生命を表わすもの,すなわち血を要求されます。「血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない」。―ヘブル 9:22,新口。
3 それらの動物の犠牲は,どんな大きな犠牲を予表しましたか。その血は,どのように人類に益しますか。
3 これらの動物の犠牲は,さらに大きな犠牲,罪を永久に取りのぞいて神のしもべたちが永遠の生命を得る機会を与える犠牲を予表しました。この犠牲は,イスラエルの羊や牛から選ばれたのではありません。それは神の御子イエス・キリストでした。洗礼者ヨハネは,彼を認めて次のように叫びました,「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」。(ヨハネ 1:29,新口)これは人類のために設けられたエホバご自身のご準備でした。それは彼の小羊なる御子であって,その生命は犠牲としてささげられました。愛にみちるこの取りきめにより,地上の男や女に,王なるキリストと共に天の宮で奉仕するという特権が開かれました。なぜなら,これらの者たちは「キリストの血によって今は義とされている」からです。(ロマ 5:9,新口)14万4000人のこの「小さな群れ」のほかに,神の足台なるこの地上で,御座の前で神に仕える「大いなる群衆」は,このあがないの犠牲の益をうけ,小羊の血でその衣を洗って白くしました。その結果,彼らの罪はゆるされ,神の御前で義人と見なされます。―黙示 7:14,15。
4 私たちの生命は,何をうけいれることに依存しますか。そして,なぜ?
4 イエス・キリストの完全な犠牲は,罪ぶかい人類のために神にささげる犠牲の必要を全くみたしました。それをくり返して行なう必要はありません。動物の犠牲はもう必要ではありません。全くのところ,神は動物の犠牲を忌み嫌われます。なぜなら,動物の犠牲は神ご自身がもうけ給うた犠牲に対する不敬を示すからです。したがって,イエス・キリストのあがないの犠牲は,神がご自分のクリスチャン証者たちの中にもうけ給うたただ一つの取りきめです。この取りきめにより,他の人の生命を救うために,ひとりの人の血が流されました。「わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」。(エペソ 1:7,新口)私たちの生命は,私たちがこのご準備をうけいれるかどうか,血の正しい使用についての神の取りきめをうけいれるかどうかに依存しています。神の御手から永遠の生命を受けることを望む賢明な人々は,生命の与え主なる神の否認する仕方で血を使用するのを避けます。
魂をこめて神を愛する
5 (イ)ひとりの質問者に対する答えの中で,永遠の生命を相続するために何をしなければならぬとイエスは言われましたか。(ロ)魂をこめて神を愛することには,何が含まれていますか。そして,なぜ?
5 あるとき律法に通じていたひとりの人がイエスにたずねました,「先生,何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。それに対する答えの中でイエスは,私たちを導くための原則を示されました。その原則により,私たちは永遠の生命の報いを得るために現在の生命をどう使うべきかを知ることができます。彼は次のように言われました,「『心をつくし,魂をつくし,力をつくし,思いをつくして,あなたの神であるエホバを愛しなさい』。また『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』」。(ルカ 10:25-27,新世)さて,魂をこめて神を愛するということには何が含まれていますか。それは私たちの生命を神にささげることを意味します。そうです,神が私たちに与えるわざを行なうために生命をささげることを意味します。生命を神にささげた以上,私たちは生命を表わすものを認めねばなりません。それは生命あるいは魂の中心である血です。それで生命が取られるとき,血は流されたと言えます。血は生命の働きと本質的なむすびつきを持っているので,人の魂または生命はその血であると聖書は述べています。神はノアに語られたとき,魂,生命そして血という表現をならべて次のように言われました,「魂である血といっしょに肉を食べてはならない」。(創世 9:4,新世)そして,彼はイスラエル人に簡単にこう言われました,「血は命だからである」。(申命 12:23,新口)したがって,私たちが神に献身するとき,私たちは生命を表わす血を,神の律法
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新奇な雑誌配布ものみの塔 1961 | 12月15日
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新奇な雑誌配布
村の人々はお金を持っていないので,雑誌が会衆にたまると巡回の僕は告げられました。彼は産物と雑誌を交換する仕方を実演で示しました。その週中伝道者たちはやまのいも,とうもろこし,落花生,メロン,バナナ,そして他の品物と交換しながら,40冊以上の雑誌を配布しました。―エホバの証者の年鑑(英文)より
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