「慎み深いものには知恵がある」
あなたは人生の多くの落し穴と恥辱を避けたいと思われますか。またわけもなく人を怒らすようなことをさけて,まわりの人々に好かれたいと思われますか。そして,何にもまして,創造主の怒りを買うようなことをしたくないと考えていますか。では,慎みという美徳を養って下さい。慎みは,こうした面で大きな働きをするからです。
慎みをたたえた書物はたくさんあります。しかし,その中で,この問題を最も的確に扱っているのは,神の御言葉である聖書です。聖書は,戒めと例を用いて,慎みから生じたよい結果と,慎みの不足から生じた悪い結果を示し,慎みの価値を教えています。
「慎み<モデスティ>」また「慎み深い<モデスト>」という言葉には五つ六つの意味がありますが,普通使われているのは,そのうちの三つです。一つの意味は大きさと関係があります。普通の収入<モデスト・インカム>,普通の家<モデスト・ホーム>,普通程度の御国会館<モデスト・キングダムホール>と私たちは言います。この場合モデストには,適度で見えをはったところがないという意味があります。物事のはじまりというものは,たいていの場合ささやかです。ですから神は,バビロンのとらわれから戻ったユダヤ人に,「誰か小き事の日をいやしむる者ぞ」と質問されています。エルサレムにおけるエホバの宮の再建の始まりはささやかでしたが,軽べつすべきことではありませんでした。それにはエホバ神の真の崇拝が関係していたからです。―ゼカリヤ 4:10。
「モデスト」と「モデスティ」はまた,貞節,上品,適正という意味でも用いられます。一般的にいって男性は不謹慎な言葉を慎しまねばならないし,女性は品のない服装をしないように注意がいります。使徒パウロは,よろしきにかなった服装をするようにと女性に助言を与えた時,この言葉をそういう意味に用いています。「女はつつましい身なりをし,適度に慎み深く身を飾るべきであって……」。ここで,「慎み深く」と訳されているギリシャ語は「アイドス」で,下を向いた目,または恥ずかしがるという意味を含む語源からきています。最近流行しているツイストというダンスは,この種のつつましさの正反対を代表するものです。―テモテ前 2:9,新口。
モデスティに付されている三番目の意味 ― ここで特に私たちが関心をもっている意味 ― は,「自分の限度をわきまえている。過度の自信をもたぬ。見えやうぬぼれがない」などです。この意味でモデストであるということは,「自分の能力や価値を過大評価しない」ことです。(ウエブスター)また,ひかえ目にするという意味もあって,でしゃばりの正反対です。「高ぶりが来れば,恥もまた来る。へりくだる者には知恵がある」。―箴言 11:2,新口。
ここで「慎み深い<モデスト>」と訳されているヘブル語は,ミカ書 6章の8節にも出てきます。そしてたいてい「謙そんに<ハンブリー>」と訳されています。しかしソンシノ聖書は「謙そんにあゆむ」という表現についてこう述べています,「人は,人類の宗教意識の奥深く沈んでいる言葉を問題にすることをしぶる。しかし,『謙そんに<ハンブリー>』が,ヘブル語の適切な訳かどうかは疑わしい。聖書の中で,語根『ツアナ』は,ここと箴言 11章2節に見出されるだけである。(他の箇所には謙そんさを表わすのに『アナウ』が用いられている)。辞書は,この言葉の意味の解説をラビ語に求めている。そしてこの言葉はそこでも『慎み深い<モデスティ>』という意味をもっている」。しかしそれは,ラビ語が述べているように,上品とか貞節という意味の「モデスティ」でしょうか。そうではありません。ミカ章 6章8節の内容を見ると,箴言 11章12節の場合と同じく,ここで強調されているのが,貞節とか礼儀正しいという意味のモデスティではなくて,自分の限度および自分と創造主との関係をよくわきまえているという意味のモデスティであることがはっきり分かります。ですから「地の人よ。彼はよいことのなんであるかをあなたに告げられた。エホバがあなたに求められることは,公義を行ない,いつくしみを愛し,慎み深くあなたの神と共に歩むことではないか」と訳した「新世訳」は正しく,また恐らく独特のものでしょう。
慎み深いことと謙そん
慎み深いことと謙そんは,密接な関係にありますが,同じではありません。謙そんの反対は誇りです。慎み深いの反対は思いあがる,見えをはる,うぬぼれるです。謙そんは,地を意味する「ヒューマス」という語根からきたもので,低いという意味が含まれています。「慎み深い<モデスティ>」の語源は「モデスタス」で,適度という意味があります。
モデスティは,謙そんさの一つの面で,もっと基本的な性質であると言えるでしょう。
良識をもち,賢明で,賢実な考え方をする人は,慎み深い人でもあります。謙そんな人は,助言や批評に憤りを感じません。しかし,慎み深い人は,どちらかというと,私はどんなところを改善すべきか,何か名案はありませんかと尋ねるでしょう。
慎み深いということは,自分の限度をわきまえるという意味ですから,限りのある人々の性質です。すべての生物には限度があります。ですから慎むことは彼らににつかわしい行為です。しかし創造主は無限ですから,限度というものがありません。神の御言葉の中で,創造主が慎み深いと書かれているところはありません。しかし,創造主の謙そんなことを述べている箇所は確かにあります。「あなたの謙そんは,私を偉大にするでしょう」。「われらの神ヱホバに比ふべき者はたれぞや,みくらをその高処にすゑ己を卑くして天と地とをかへりみたまふ」。―詩 18:35,新世; 113:5,6。
これは神がごうまんだという意味ですか。決してそうではありません。ただこれは,神にはあてはまらない美徳であるというに過ぎません。
慎みは,健全な考えとも関係のある謙そんさの一面ですから,ロマ人に与えたパウロの助言にもそれが暗示されています。「思うべき限度を越えて思いあがることなく,むしろ慎み深く思うべきである」。私たちは自分を愛さなければなりませんが,愛しすぎてもなりません。それと同じように,自分のことを思うべきですが,思いすぎてはなりません。―ロマ 12:3,新口。
慎みと謙そんの区別の理解を助けてくれるのは,聖書の記録です。すなわち神の忠実なしもべが,常に謙そんでありながら,慎むということについて時々誤りを犯したことを示す記録です。彼らがその誤りを犯したのは,ひとつには,自分の弱さに気づいていなかったからでしょう。使徒ペテロはたしかに謙そんな人でしたが,それでも,彼の完全な師が言ったこと,行なったことを,改善することをなん度も考えました。特に彼が,「たとい,みんなの者がつまずいても,わたしはつまずきません」と言った時,慎むという点に欠けていることを表わしました。ペテロは謙そんでしたが,自分の限度をわきまえていなかったために,慎むことをせず誤りを犯しました。―マルコ 14:29,新口。
時には強い圧力が,神の謙そんなしもべをして,この点で誤りを犯させるかも知れません。モーセは,人のうちの最も謙そんな者でした。しかし,激しい試みに会った時,自分のことを考えすぎました。「そむく人たちよ,聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。神はモーセのこの態度をゆゆしい誤りとしてとりあげられ,「あなたが…イスラエルの人々の前でわたしの聖なることを現さ」ず,分を越えて自分に誉を帰したので,「この会衆をわたしが彼らに与えた」約束の地「に導き入れることができないであろう」と言われました。―民数 20:10,12,新口。
神は慎み深い者にめぐみを与える
「慎み深い者には知恵がある」と言われているのはなぜでしょうか。まず第一に,エホバ神は,慎む者,自己を過信しない者,自分の限度をよくわきまえている者を,最もよく用いることができるからです。そういう人は,人々の注意をエホバ神から引き離して自分に引きつけることをしないし,また,エホバ神の導きと力に頼るのが常です。
当然のことですが,イエス・キリストは,聖書に見られる,慎み深いことの最もすぐれた模範です。そのため,イエスの御父は,イエスの手に多くのものをゆだねることができました。イエスを罪人と言える者はひとりもありませんでした。また神はイエスを,イエスの御父に近づく唯一の道とされました。しかしそれでもイエスは,慎み深い態度を保ち,すべての栄光を常に御父に帰したのです。「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はない」。「子は父のなさることを見てする以外に,自分からは何事もすることができない」。「わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである」。―ルカ 18:18,19。ヨハネ 5:19,30; 8:46; 14:6,新口。
イエス・キリストを予影したモーセも,だいたいにおいて慎み深い人でした。事実,彼は自分の限度をよくわきまえていました。(出エジプト 3:11,12; 4:10-13)キデオンも同じ性質をもっていました。「ああ主よ,わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです」。サウル王は,ごうまんであったために,ひどい最後をとげましたが,最初のうちは,慎み深い人でした。「さきに汝がちひさき者とみづからおもへるときになんぢイスラエルのわかれの長となりしにあらずや即ちヱホバ汝にあぶらを注いでイスラエルの王となせり」。―土師 6:15。サムエル前 15:17。
ソロモン王も最初はよく慎んでいました。「わが神ヱホバ汝は僕をして我父ダビデに代て王とならしめ給へりしかるにわれは小き子にして出入することを知らず」。エレミヤは,諸国民への預言者として任命されたとき,同じようなことを述べました。「ああ主ヱホバよみよわれは幼少により語ることを知らず」。ここで注意しなければならないことは,エホバ神がそのいずれの場合にも,彼らに励ましを与えると同時に,彼らの欠けたところを補われたということです。―列王上 3:7。エレミヤ 1:6。
慎みが,私たちの創造主との関係において有用な資質であることは,疑問の余地がありません。創造主によりよく用いられる人は,へりくだって神と友に歩まねばなりません。監督の地位を目ざすのが称賛すべきことであるのは事実です。しかし,野心を満たすためでなく,自分の限度を正しくわきまえてその地位を求めるべきです。―テモテ前 3:1。
慎み深い者には友人ができる
慎み深い人は,人を怒らすのを避け,友人をつくることができるので,この点でも,慎みぶかい者には知恵があると言えます。思いあがった態度ほど他人にとって不愉快なものはなく,へりくだった態度ほど善意を助長するものはありません。思いあがった者は,他人の権利を侵害して,恐れと敵意を引き起こしがちです。身のほどを知らぬ者は,必ず他の人に不愉快な思いをさせます。私たちが慎み深い者であれば,おしゃべりをしすぎたり,会話を独占したり,定められた時間よりも長く話したりしないでしょう。また,荒っぽくてぶあいそうで,必要以上に大きな声をすることもなく,謙そんで気どったところがないでしょう。
そしてまたねたみや競争心や,言葉でも行いでもあの人にひけをとるまいというような気持ちを起こして,友を遠ざけることもしません。むしろ,衣服も自動車も住む家も適度なものを用います。事業においてであろうと,スポーツ,芸術,クリスチャンとしての宣教においてであろうと,自分の業績に人の注意を引こうとしません。箴言は私たちに「人おのれのほまれをもとむるはほまれにあらず」「汝おのれの口をもて自らほむることなく,人をして己をほめしめよ,自己のくちびるをもてせず,他人をして己をほめしめよ」ということを思い出させてくれます。慎み深い人は,自分のした良い行いを知らせるために,ラッパを吹き鳴らすことはありません。むしろ左の手のしたことを右の手に知らせないようにします。―箴言 25:27; 27:2。マタイ 6:1-6。
まことに,「慎み深い者には知恵があ」ります。そして神の御言葉は,慎みについて多くの助言を与えています。ですから慎みを友とし,それを身につけるようにしましょう。