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逃れの町の中に避難ものみの塔 1956 | 4月15日
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から,身を守るためです。『選民のために艱難の日が短くされている』現在,まず霊的なイスラエル人はあやまつて人を殺した者に対する神の保護という御準備の恩恵にあずかりました。
18 その模型によつて予表されているように,実体の逃れの町は,他の誰のために設けられていますか? その模型の成就する時に関して,このことは何を証明していますか?
18 しかし,むかしの逃れの町は,またイスラエルに住んでいた『他国の人および寄留者』のためにも設けられていました。彼らは,イスラエル人に属さぬ人々を予表しています。つまり,霊的なイスラエル人の神に頼つて,神の大祭司を通してなされる恵みの御準備にあずかりたいと,欲しています。彼らは,全世界の行つている流血の罪を,はつきり見ることができました。彼らは,その罪にあずかることを欲せず,またハルマゲドンにおいてこの世とともどもにその罪の罰を払いたいとは,欲しません。しかし,彼らも目前に迫つている処罰から逃げて,大祭司イエス・キリストの支配する実体の逃れの町に入つて行きます。そこへ逃げるときに彼らは心から悔い改めたことを示し,かつキリストを通してその生命の救を得るため神の恵みに依存していることを示します。どのように? 今より後永遠にわたつて神の御意に従おうと神に全く献身することによります。それで,今日流血の有罪者になされる死から生命を守るため,『他国の人』および『寄留者』級の幾十万という避難者は,残れる者の成員と共に,新しい世の社会というヱホバの御準備の中に入つております。1931年以来の今こそ,主イエスの『他の羊』がイエスの檻に集められて霊的イスラエルの残れる者とともに『ひとつの群』になる時です。この事実も1914年以来の今日こそ,逃れの町についてのこの予言的な縮図が成就されている時である,という証拠を強めるものです。
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逃れの町のなかに止まるものみの塔 1956 | 4月15日
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逃れの町のなかに止まる
1,2 逃れの町に逃げた人に,どんな制限が課せられましたか? それは,どの位の期間でしたか?
血の復讐者から逃げのびた人は,身の潔白なることを示し,意識的に殺人したのではなく,あやまつて殺人したということを証明することが必要でした。その者の逃げ込んだ逃れの町は,まず殺人の起きた町,あるいは附近で殺人の行われた町に,その者を引き渡さねばなりません。その町の会衆は,はたしてその者が,逃れの町の保護をうけるにふさわしいか否かを判定しました。『会衆はこれらのおきてによつて,その人を殺した者と,血の復讐をする者との間をさばかなければならない。すなわち,会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して,逃げて行つたのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで,そこにいなければならない。』(民数記 35:24,25,新口)逃れの町の一つであるヘブロンは,アロンの子孫である大祭司と,その従属の祭司たちの町でした。それで,次のことが考えられます。すなわち,殺人者が人を殺そうという悪意を持たなかつた場合に,そのことを裁決される御方はヱホバの大祭司である油注がれたイエス・キリストであります。殺人者をヱホバの新世社会の逃れの町に入れるか,どうか,そして新世社会内に止まらせるか,どうかを決定される御方は,イエス・キリストです。
2 避難者が死をまぬがれるのは,ただ神の憐みによりました。その故に,避難者に制限をつける,つまりその自由を限定するのは,全く正しいことです。その者は,その逃れの町と,その町のまわりの1000キュビットの空地の中に止まらねばなりませんでした。その制限の外に出るなら,折角救われた生命も殺されてしまうでしよう。『しかし,もし人を殺した者が,その逃げて行つたのがれの町の境を出た場合,
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