聖書理解の助け ― 血(その一)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
血(その一)。「動物の主要な導管系統内を循環し,体のあらゆる部位に栄養分と酸素を運び,老廃物を除去して排せつさせる液体」。(ウェブスター新国際辞典,第二版)このように,血は体を養うと共に清めます。血の化学的組成は非常に複雑ですから,科学者にとって依然未知の分野に属することが相当あります。
聖書では,魂が血のうちにあると言われています。それは,血が生命作用と密接に関係しているからです。神の言葉はこう述べています。「肉の魂は血のうちにあるからである。わたしは,あなた方が自分たちの魂のために贖罪をするため,それを祭壇の上に置いたのである。血がその中の魂によって贖罪をするからである」。(レビ 17:11,新)同様の理由で,しかもその関係を一層直接的なものとして,聖書は,『あらゆる肉の魂は……その血である』と述べています。―レビ 17:14,新。
命は神聖なものです。ですから,被造物の命の宿っている血は神聖なもので,みだりにもてあそぶべきものではありません。今日,地上に生きているすべての人々の先祖であるノアは,大洪水後,食物に肉を加えることをエホバから許されました。しかし,血を食べないよう厳重に戒められました。同時に,ノアはその仲間の者の命,つまり血を尊重するよう命じられました。―創世 9:3-6。
命を取る
命の源はエホバのもとにあります。(詩 36:9)人は命を取ったなら,それを返すことはできません。「すべての魂 ― それはわたしのもの」とエホバは言っておられます。(エゼキエル 18:4,新)ですから,命を取ることは,エホバの所有物を取ることなのです。生きとし生けるものはみな,神による創造という点で目的を持ち,場所を占めています。人間には,神の許しがない限り,また神の指示される仕方によるのでなければ,命を取る権利はありません。大洪水後,親切にも神が人間の食物に肉を加えることを許されたとき,すべて狩りで捕らえた野生動物の血は地面に注いで,その血をちりで覆い,被造物の命が神のものであることを認めるよう神は要求されました。これは,命を自分勝手な目的で用いずに,神に返すのと同じことでした。(レビ 17:13)酬恩祭の供え物として聖所に運ばれた動物の場合,祭司と,その犠牲を持って来た人(およびその家族)は食事をするようにその犠牲にあずかりましたが,その血は地面に流し出されました。イスラエルがパレスチナに定着して,聖所がずっと遠くなってからは,食物にするため動物を家でほふることができましたが,血は地面に注がなければなりませんでした。―申命 12:15,16。
人間は神から授けられた命を享受する資格を持っていたので,だれでも人の命を奪ったなら,神に対して責めを負うことになりました。このことは,神が殺人者カインに向かって,「あなたの兄弟の血が地面からわたしに向かって叫んでいる」と言われたときに示されました。(創世 4:10,新)自分の兄弟を憎んでその死を願ったり,あるいは兄弟を中傷したり,兄弟に対して偽りの証言をしたりして,その命を危うくさせる場合でさえ,人はその仲間の者の血に関して罪を負うことになりました。―レビ 19:16。申命 19:18-21。ヨハネ第一 3:15。
神は命の価値を大変神聖なものと考えられたので,殺害された人の血は地を汚すものとみなされました。このような汚れは,殺害者の血を流すことによってのみ清めることができました。このような根拠に基づいて,聖書は殺人行為に対する処罰として,正式に立てられた権威者によって科せられる死刑を認めています。(民数 35:33。創世 9:5,6)昔のイスラエルでは,故意に人を殺した者に死刑を免れさせるため贖いを取ることはできませんでした。―民数 35:19-21,31。
調べても,人を殺した者が見つからない場合でさえ,死体が見つかった現場に最も近い都市が流血の罪を問われました。その罪を取り除くには,その都市の責任のある長老たちが,神の要求しておられる処置を講じて,殺人の罪が全くないこと,あるいはそれに全く関知していないことを示し,神のあわれみを祈り求めなければなりませんでした。(申命 21:1-9)もし,誤って人を殺した者が,命を取ることの重大性を真剣に考えず,身を守るために逃れの町に逃げてそこにとどまるという神の取り決めに従わないなら,死んだ人の最近親者がその人を殺してその地から流血の罪を取り除くことを認められた,またそうする務めのある復しゅう者となりました。―民数 35:26,27。
血を食べること
昔の異教国民の中には,動物の血を飲んだ者もいましたし,ある民族の中には,打ち負かされた敵の血を飲めば,その敵の持っていた勇気や力などの特質を自分のものにすることができると信じてそうした戦士もいました。その行為には宗教的な意味が付されていました。人食いが一種の宗教儀式だったのと同様です。
イスラエル国民と結ばれた律法契約の中に,エホバはノアに与えた律法を組み入れられました。動物を殺すことに関してでさえ神の律法が規定している処置を無視する人には皆,「血の罪」があることを神は明らかにされました。(レビ 17:3,4,新)食物として用いられる動物の血は,地面に注がれ,ちりで覆われることになっていました。(レビ 17:13,14)どのような肉の血でもこれを食べた者は皆,『その民の中から断たれ』なければなりませんでした。血の神聖さに関するこの律法を故意に破ることは,『断たれて』死ぬことを意味しました。―レビ 17:10; 7:26,27。民数 15:30,31。
マクリントクとストロングの百科事典はその第一巻834ページ,第一欄で,レビ記 17章11,12節について注解し,こう述べています。「この厳重な禁止命令はイスラエル人のみならず,彼らの中に寄留したよその者たちにさえも適用された。その違反に対する処罰は,『民の中から断たれる』ことであって,これは死刑を意味していたようであるが(ヘブライ 10:28と比べよ),それが剣もしくは石打ちによって科されたかどうかを確かめるのは困難である」。
エホバは血と関係のある事柄についてはイスラエルに細心の注意を払わせられました。月経期間中の女は触れてはならない「汚れた者」とみなされ,その人の座ったり,横たわったりしたものは何でも汚れました。その汚れた状態は血の流出する期間中ずっと続きました。(レビ 15:19-27,新)もし,血の流出している期間中に故意に交接が行なわれるなら,その男女は二人共死刑に処されなければなりませんでした。―レビ 18:19,29。
モーセの法律のもとでの唯一の正しい用い方
血の唯一の正しい用い方,つまり律法のもとでの唯一の法的な正しい用い方がありました。それは犠牲のために用いる方法でした。命は神のものでしたから,血も神のもので,これは罪を贖うものとしてささげられました。(レビ 17:11)食物として用いられた動物の血は注ぎ出されたので,血を食べたり,外の神々にささげたりする,血の誤用は防止されました。血を地面に注ぐ人は,そうすることによって,神が命の授与者であることと,命がささげられて罪が贖われる必要のあることを認めたのです。―レビ 16:6,11。
キリスト教の律法のもとでの用い方
ヘブライ語聖書には,キリストの血を適用する命を救う手だてが絶えず予示されています。モーセを通して与えられた律法全体は,メシアを予表し,指し示していたからです。(ヘブライ 10:1。ガラテア 3:24)エジプトでの最初の過ぎ越しのとき,戸口の上部と側柱に塗った血のお陰で,内部にいた長子は神のみ使いの手による死を免れました。(出エジプト 12:7,22,23)予表的な意味で罪を除くことを特色とした律法契約は,動物の血によって有効になりました。(出エジプト 24:5-8)様々な血の犠牲,特に贖罪の日にささげられたものは,予表的な贖罪のためのもので,キリストの犠牲によって実際に罪が除かれることを指し示していたのです。―レビ 16:11,15-18。
血は贖罪のために神に受け入れられるものとして神の目に法的な力を持っていますが,その力は血を祭壇の基部,つまり「基」に注ぎ,また祭壇の角に付けることによって例証されました。贖罪の取り決めの根拠もしくは基礎は血にありましたし,(角によって表わされている)犠牲の取り決めの力も血に基づいていました。―レビ 9:9。ヘブライ 9:22。コリント第一 1:18。
キリスト教の取り決めにおいては,血の神聖さはなお一層強調されました。もはや動物の血はささげられなくなりました。それら動物のささげ物はイエス・キリストという実体の単なる影に過ぎなかったからです。(コロサイ 2:17。ヘブライ 10:2-4,8-10)イスラエルの大祭司はしるしとしての血の一部を携えて地上の聖所の至聖所に入りました。(レビ 16:14)真の大祭司としてのイエス・キリストは,地面に注がれたご自分の血ではなく(ヨハネ 19:34),血によて表わされているその完全な人間の命の価値を持って,天そのものに入られました。この命の権利を,イエスは決して罪によって失うことなく,贖罪のために用い得るものとして保持されました。(ヘブライ 7:26; 8:3; 9:11,12)このような訳で,キリストの血は義なるアベルの血よりも勝った事を叫び求めます。神のみ子の完全な犠牲の血だけがあわれみを叫び求めることができるのです。他方,アベルの血も,殉教の死を遂げたキリストの追随者の血も,復しゅうを叫び求めるのです。―ヘブライ 12:24。啓示 6:9-11。
神の神殿の副次的な土台である使徒たちを含む,一世紀のクリスチャンの会衆の見える統治体は,血の問題で決定を下しました。(啓示 21:14)その布告はこう述べています。「というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです。これらのものから注意深く離れていれば,あなたがたは栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。(使徒 15:6,20,28,29; 21:25)この禁止命令には,血の入っている肉(「絞め殺されたもの」)のことも含まれていました。ですから,この布告は,ノアに対する,したがって全人類に対する,血を食べてはならないという神の命令に基づいています。―創世 9:4。
人間の血
中には,この禁止命令には人間の血のことは含まれていないと論ずる人がいます。しかし,もし動物の血が神聖ならば,人間の血はなお一層神聖ですし,人の肉を食べることはなお一層責められるべきことでしょう! イスラエルに与えられた律法は,人間の肉の血をも含めて,「どのような肉の血」も食べることを禁じました。(レビ 17:14,新)人間の命の価値は動物の命の価値よりもはるかに勝っています。(マタイ 10:31。ルカ 12:7)ダビデの部下が命の危険をおかして飲み水を持って来たとき,ダビデはそれを地面に注ぎ出しました。ダビデの目には,その水を飲むことは,その兵士の人間の血を飲むに等しいことだったのです。そのように人間の血を飲むのは神の律法を破る行為であるということをダビデは知っていました。―サムエル後 23:16,17。