あがない,愛と公正の驚くべき表現
1,2 (イ)論争が開始された時,エホバはどんな約束をなさいましたか。このことからどんな質問が持ち上がりますか。(ロ)ただひとりもうけられたむすこが神の主要な立証者として選ばれたのはなぜですか。
エホバはご自分の宇宙主権の威厳と調和して,一見不可能に思える問題を驚くべき方法で解決されます。そして後になってわたしたちは,『それをほかの仕方ですることはとうてい考えられない。また,それほど徹底的で,義にかなった,全く良い方法はありえなかったのだ』と言います。(イザヤ 55:9)同様に,論争が開始されたその時に,神は行なおうとしていることを正確に予知し,『彼〔苗裔〕は汝〔サタン〕の頭を砕かん』と声明されました。―創世 3:15。
2 「苗裔」として踵を砕かれるべく神により選定されたのはだれですか。エホバのただひとりもうけられた子です! 彼がエホバの主権のふさわしさと義にかなっていることとに関する論争の主要な解決に資するために仕える者として選ばれました。この偉大なかたはなぜそれほどにまでエホバの心にかなっていたのですか。それは,サタンが挑戦をした時,すべての被造物の名誉に暗い影が落とされたからです。それはこの子にまでも達するものとなりました。a そればかりか,それは神の被造物の他のだれよりもこの者に焦点を当てることになりました。なぜなら,まず第一に彼はエホバの主要な者,宇宙でエホバに次ぐ者だったからです。彼こそ他の天使たちを常に指揮していた者です。彼は神が宇宙を作る際の協働者でした。(コロサイ 1:15-17)神の挑戦者は,神に仕えるのに忠実でありたいと願う被造物すべての中で,彼は当然そうあるべきはずだ,と言うことができました。こうして,サタンの挑戦により,神のこの強力な子が注目を浴びることになりました。
3 このみ子が人間として存在する前に持っていた彼の名前にはどんな意義がありましたか。
3 さらに,このただひとりもうけられた子が人間として存在する以前の彼の名前,すなわちミカエルという名前がその事態に関係を持ってきます。(ダニエル 12:1。テサロニケ前 4:16。黙示 12:7)それは「だれが神のようであろうか」という意味です。その名前自体が質問になっており,まるで次のように言っているかのようです。だれかが立ち上がって神に挑戦し,神に対抗するようなことがあろうものなら,ミカエルこそ,起あがって,『私の父に挑戦するこの者はだれか,私がその者にエホバ神のようなかたがほかにいないことを証明しよう』と言う義務の帰する最も主要な者である,と。ゆえに,彼の名前は実際に,彼を,この論争でエホバのために立証をする者,また決着をつける者として選定するものとなりました。b
4,5 ただひとりもうけられたみ子はなぜ選ばれるべき最善のかたでしたか。彼は強制されて応じたのですか。
4 彼がどうして選ばれた者であったかに関し,わたしたちは別の角度からこの問題を見ることができます。彼はこの目的のために仕えることを強制されたのではありません。聖書はバプテスマを受けるために来たイエスが次のように言ったことを明らかにしています。「おお,わたしの神よ,あなたの意志を行なうことをわたしは大いに喜びました」。(詩 40:8,ヘブル 10:5-7,新)彼についてはこうも書かれています。「あなたは義を愛し,不法を憎まれた」。(ヘブル 1:9,新)ですから,イエスは神の意志をぜひ行ないたいと願っていたこと,そうすることを大いに喜んでいたことがわかります。彼ご自身こう言われました。『わたしは彼に喜ばれる事柄を常に行ないます』。(ヨハネ 8:29,新)イエスは他のだれよりも資格にかなっていました。そのうえ,箴言 8章の中でこの者は知恵として擬人化され,神の創造のわざについて次のように言っています。「わたしの好んだ事柄は人々の子たちとともにあった」。(31節)彼は神の創造された人類を深く愛したのです。そして,まず第一にご自分の父に対する忠節から,さらに,人類に対していだいている深い愛から,ご自分の父を立証するこの任務を喜んで引き受けました。
5 さて,神のこのみ子が進んでその任務を引き受けたのであるならば,いったい他のどの天使が,「いや,その任務は私に引き受けさせなさい」と言いうるでしょうか。だれが彼に先んずることができるでしょうか。ミカエルはご自身を提供し,この件で神と協同することに関しては,優先の地位にありました。イエスはエホバのただひとりもうけられた子であり,エホバ神に最も近い,親密なかたでした。―ヨハネ 1:18。
罪を宥恕するのではない
6,7 エホバはなぜアダムとエバの罪を大目に見ることができなかったのですか。
6 あがないがエホバにより,イエス・キリストを通して備えられました。このあがないの備えを設ける動機づけとなったのは,エホバ神とそのみ子の側における愛でした。(ヨハネ 3:16)それはあわれみを備えるものとなりましたが,あがないはエホバの公正とも調和しますか。この点を見てみましょう。アダムとエバは神の主権にそむきました。それが起こりうることを神は知っていました。神はそれら被造物を倫理的に自由な行為者として創造し,ご自分に仕えるようにされたからです。彼らは強制されて仕えるのではなく,自分たちの持っている属性,さらに神の属性に感謝し,かつそれにならう能力のゆえに仕えるのでした。エホバは物質的なものを持っておられます。たとえば惑星がそれで,最も微細な点に関してまで,しかも神の欲するとおりに仕えます。また,動物は本能に支配されています。しかし,知性を備えた被造物は自分自身の道を取ることができます。とはいえ,罪が宇宙にはいり込むようなことになれば,神はそれを宥恕して,「大目に見ることにしよう」とは言えません。罪を犯す者に向かって,「私はあなたにあわれみを示したいから,あなたの罪を許すことにしよう」と神は言うことができるでしょうか。いいえ。ご自分の公正と義とに調和して,神は罪を無視することも,その申し開きをさせないままで済ませることもできません。
7 しかしながら,これは今日の地上の諸政府の取る方法ではありません。彼らは不法を宥恕し,それに対していいかげんな態度を取っており,熱意をもって非行に立ち向かうことがありません。その結果,人々は政府に対する信頼を失っており,すべてのものが最終的には崩壊します。宇宙の立法者はご自分の律法に関してそのような事態が起こるのを許されません。
8 罪と罪人とに対するエホバの立場はどんなものですか。
8 それゆえに,宇宙の主権者なる神は,宇宙における法と秩序を支持するというご自分の責任において,罪を大目に見ることはされません。「神は侮られるべきかたではありません」。(ガラテヤ 6:7,新)事実,ハバクク書 1章13節で,預言者はこう言っています。「汝は目清くして肯て悪を観たまはざる者肯て不義を視たまはざる者なるに何ゆえ邪曲の者を観すて置きたまふや」。しかし,もちろん,神はしばらくの間,重大な論争のゆえに邪悪を許されます。エホバのみ前で罪あるものは存在しえません。イザヤの幻の中で,セラピムが「聖なるかな聖なるかな聖なるかな万軍のエホバ」と言っているところが示されています。(イザヤ 6:3。黙示 4:8)「聖なる」とは基本的に,肉体的また道徳的に清いという意味で,それが3度くり返されていることは最上級の清さを意味します。宇宙の中でこれほどまでに,あたうるかぎり最高度に清いかたはほかにだれもいません。それゆえに,罪あるものはなにものといえども,エホバに直接に近づくことはできません。
法的な問題
9 どのようにしてのみ神は罪人と交渉できますか。
9 したがって,罪のうちに生まれた者たちと交渉を持つために ― それは彼ら自身の過失によったのではありません ― 神は彼らと交渉するためのなんらかの法的な基礎を持たねばなりませんでした。(詩 51:5。ロマ 5:12)神はだれかを,その者の犠牲が法的な基礎となり,その者を通して交渉することのできるだれかを持たねばなりませんでした。神はご自身の威厳と義ゆえに,罪ある人々と直接に交渉することはできませんでした。そこで神は備えをされました。
10 人類と交渉するための取り決めを設けるに当たり,エホバは人間を律するご自分の基本的な律法を変更されましたか。
10 神はその間,人間が子どもたちを生みつづけるのを許されました。親に対してご自身の述べた目的をあくまでも守られたのです。神は彼らが子どもを生み出すよう命じておられました。(創世 1:28)人類をしてこの論争のために仕えさせようと意図されたので,神はご自分の律法を変更することも,その特権を親から取り上げることも,あるいは干渉することもされず,今では不完全になってしまった人間のみずからの像にしたがって子どもを生み出すままにされました。(創世 5:3,新)親は子どもが自分の訓練したとおりになるよう子どもを養育する特権を与えられました。(箴言 22:6; 29:15)わたしたちはその原則が今日の世界に働いているのを見ており,多くの者が神を憎む者として成長しています。しかし神はそれを許されたのです。そして,人類を律するために定めたご自分の律法を尊重するとともに,それが正しい法であることを知っておられたのです。また,生まれてくる子どもたちの中には,この論争で神の側について仕える者がいることをご存じでした。―ヨブ 1:8; 2:3。
「魂には魂」
11 公正を満足させるために何が要求されましたか。それはイスラエルとの神の交渉においてどのように明示されましたか。
11 完全な公正に対する神のご要求はイスラエルに与えられた次の律法から明らかです。「魂には魂,目には目,歯には歯,手には手,足には足である」。(申命 19:21,新)ご自分のために神殿で奉仕をさせる部族を選ばれた際のイスラエルとの交渉も,この点に関する神の厳重さの例証となりました。ういごはエジプトに臨んだ十番目の災いの際に滅ぼされるところを救われたゆえ,すでにエホバにのみ属するものでした。しかし,今度はういごの代わりにレビ族がご自分の聖所で仕えることをエホバは望まれました。しかしながら,人口調査の結果,イスラエルのういごのほうがレビ人よりも273人多いことがわかりました。ゆえに,その273人をあがなうために,イスラエル人はひとりひとりのために贖金を支払わねばなりませんでした。神はこの処置において非常にきびしい立場を取られました。(民数 3:39-51)さらに,殺人を犯した者のためには,金もその他のいかなるあがないをも取ってはなりませんでした。その者は死なねばならず,魂に対して魂を与えねばなりませんでした。(民数 35:31-33)したがって,人間を罪と死からあがなうために完全な人間の魂という贖価が要求されたことは明りょうです。
12 救済を備えることに関して人間の実状はどうでしたか。
12 人間の無能力な状態は詩篇 49篇6節から9節〔新〕でこう表現されています。「おのが富をたのみ財おほきを誇るもの,たれ一人おのが兄弟をあがなふことあたはず 之がために贖価を神にさゝげ 之をとこしへに生存へしめて朽ざらしむることあたはず(〔魂〕をあがなふには費いとおほくして此事をとこしへに捨置ざるを得ざればなり)」。その費えはあまりにも貴重で,高すぎて,全人類の手の届かないものでした。人間の能力に関するかぎり,救済ははるかかなたにあり,それは定めのない時までのもの,事実望むべくもないものでした。
公正,義が支持される
13 あがないの件において,エホバはイスラエルに対すると同様にご自分に厳格であられましたか。説明しなさい。
13 ゆえに,人間が救出されることがあるとしたら,それには神が備えを設けるべく行動しなければなりませんでした。神はイスラエルに対するご自分の律法の場合と同様にご自身に対して厳格であられるでしょうか。その律法を支持して,ご自分の述べた原則をあくまでも守られるでしょうか。神はそのためにご自分の長子を与えねばならなかったにもかかわらず,まさにそのとおりに行動されました。(ロマ 5:6-8)それはなんとすばらしい特質でしょう。わたしたちはエホバがご自分の原則からいささかも逸脱しないのを知っているゆえに,エホバに全き確信を持つことができます。エホバがなにか気まぐれで,あるいは環境の力のために不合理なことをしたり,わたしたちに啓示する原則を越える何かをしたりすることは決してありません。―マラキ 3:6。
14 あがないの備えは公正と義とに関しどのように絶対的調和を保っていましたか。
14 エホバはこのようにして,ご自分の義を完全に保持することができ,同時に罪の極端な悪を明らかにされました。使徒パウロはそれをこう表現しています。「凡ての人,罪を犯したれば神の光栄を受くるに足らず,功なくして神の恩恵により,キリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。即ち神は忍耐をもて過来しかたの罪を見遁し給ひしが,己の義を顕さんとて,キリストを立て,その血によりて信仰によれる宥の供物となし給へり。これ今おのれの義を顕して,自ら義たらん為,またイエスを信ずる者を義とし給はん為なり」。(ロマ 3:23-26)したがって神はご自分の公正と義とに調和し,イエス・キリストのあがないの犠牲のうちに法的な基礎を持たれました。ゆえに,約3,900年前,アブラハムと交渉を持ち,彼を義なる者と宣言した神は,正しくそうすることができました。なぜなら,神は将来あがないを備えることを知っておられたからです。(ロマ 4:9)信仰を働かせたとはいえ,アブラハムは罪から自由にされてはいませんでした。しかしながら,エホバはアブラハムと交渉を持ちえ,しかもそうすることにおいて完全に清く,かつ義にかないえたのです。それはこの法的な取り決めを通してでした。
15 (イ)なぜ神のみ子は地に送られましたか。彼はどのように完全な人間として生まれましたか。(ロ)彼が忠誠を保ち,悪魔のそしりに対して十分かつ完全な答えを与えたとどうしてわかりますか。
15 論争の解決のため,また,あがないを備えるため,神のただひとりもうけられた子は地に送られました。そこで悪魔は彼の忠誠に圧力を加えることができます。処女マリアを通しての奇跡的な誕生により,彼は人間としての神の子になりました。この子は不完全な女から生まれはしましたが,ご自身は完全で,きずなきものでした。それ以前に,天使ガブリエルはマリアにこう告げていました。「聖霊なんぢに臨み,至高者の能力なんぢを被はん。此の故に汝が生むところの聖なる者は,神の子と称へらるべし」。(ルカ 1:35)聖霊がマリアの回りに見えない力の壁を設けたため,出産までの発育期間中,なにものもこの胎児に害を及ぼすことはできませんでした。悪魔サタンは,できるなら,その子を誕生前に滅ぼしたいと願ったことでしょう。イエスは人間としての生命を持っていた全期間,その完全な状態にとどまりました。彼は「忠節で,偽りなく,汚れなく,罪人から分けら」れていました。(ヘブル 7:26,新)イエスの地上での生涯はこの論争を疑問の余地なく解決しました。彼はご自分の犠牲の死に先立ってこう言われました。『世の支配者が来ようとしています。そして,彼はわたしになんの支配力も持っていません』。さらに,「今,この世を裁くことがなされています。今,この世の支配者は投げ出されるでしょう」。(ヨハネ 14:30; 12:31,新)これらの発言から,イエスはサタンが偽り者であることを完全に証明したことが明らかです。
イエスの苦しみ
16 イエスが苦しまれたことを考慮するなら,何をよりよく認識できますか。
16 ここでイエスがいかに偉大であったか,また偉大なかたであるかを把握するのは,わたしたちにとってほんとうにむずかしいことであると言えましょう。論争の完全な解決のために仕えるに当たってイエスは苦しまれました。神のしもべはすべて悪魔とその代理者たちの手にかかってひどい事柄を経験してきました。しかしイエスは,神のどのしもべがこうむったよりもさらに激しい苦しみに耐えたのです。どうしてそう言えますか。この質問に答える際,わたしたちの主イエス・キリストがわたしたちのためにしてくださった驚くべきことをよりよく認識できます。
17 イエスは地上におけるご自分の最後の夜,逮捕される前,弟子たちとともにいた時,何をなさいましたか。
17 イエスにとって最後の夜,ご自分の弟子たちとともにおられた時に何が起こったかを考慮してみてください。その時の記述は次のとおりです。「こゝにイエス彼らと共にゲッセマネという処にいたりて,弟子たちに言ひ給ふ『わが彼処にゆきて祈る間,なんぢら此処に坐せよ』斯てペテロとゼベダイの子二人とを伴ひゆき,憂ひ悲しみ出でて言ひ給ふ,『わが〔魂〕いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝ら此処に止まりて我と共に目を覚しをれ』少し進みゆきて,平伏し祈りて言ひ給ふ『わが父よ,もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が〔望む〕ままにとにはあらず,(汝の)〔望む〕ままに為し給へ』」。このことをイエスは3度なさいました。そして,彼が弟子たちの所に戻ってきた時,彼らは毎回眠っていました。イエスは彼らにこう言われました。「なんぢら斯く一時も我と共に目を覚し居ること能はぬか」。弟子たちの思いは鈍っており,その夜,焦点を当てられていた大論争を悟っていませんでした。それゆえ,目をさましていることができなかったのです。―マタイ 26:36-44〔新〕。
18 エホバに対する祈りの表現によって,イエスは死を免れるよう祈っておられたのですか。
18 イエスがエホバに,「わが父よ,もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給え」と願ったのは,どういう意味だったのですか。死んであがないを備えるというご自分の決定から退こうとしている,引き下がろうとしていると言われたのですか。いいえ。というのは,イエスはご自分の弟子たちに終始自分が死ぬことを告げておられたからです。彼は祭司長たちや律法学者たちに捕えられて死に処せられ,三日目にエホバによってよみがえらされると説明しておられました。(マルコ 8:31。ルカ 9:22)犠牲の死を避けるということは,考えるだけでもイエスにとって嫌悪の情を催させるものでした。(マタイ 16:21-23)ヘブル人への書はイエスがご自分のバプテスマの時に犠牲の道を歩み始めた際,次のように言ったことを明らかにしています。『なんぢわが為に体を備へたまへり』。そのからだとは,贖価としての完全なからだのことです。イエスは終始断固としてその犠牲の道から離れませんでした。―ヘブル 10:5。
19,20 (イ)イエスはご自分が何に直面しようとしていることを知っておられましたか。そして,神が望まれるなら,どうなることを祈られましたか。(ロ)イエスが直面したことはどうして彼にとってそれほどまでにつらいことでしたか。
19 いいえ,イエスは死を免れるためにご自分の父に訴えたのではありません。しかし,数時間のうちに逮捕されて,ユダヤの最高法院の前に連れ出されようとしていることを知っておられました。彼らはイエスを,考えうる最悪の犯罪,つまり神に対する冒涜の罪ありとして宣告しようとしていたのです。(ヨハネ 10:33。マタイ 26:65)イエスは『義を愛し,不法を憎んだ』かたであったことを忘れないでください。彼は神の子として,ご自分の父を立証するために天からくだってきていたのでした。ところが,まず,彼の本質的性質 ― 子たること ― が神ご自身の民であると称する者たちから拒否されました。(ヨハネ 19:7)しかし今や,彼らはイエスをありうべからざる最悪の者,すなわち神に対する冒涜者および扇動者としてくいにかけようとしていたのです。(ルカ 23:2-4)神に対するなんという名誉の毀損でしょう。イエスはご自分の父を立証し,その名前を高めるために来ました。それが,こともあろうに,のろうべきもの,また冒涜者としてくいにかけられようとしていたのです。
20 冒涜者としての責めを受け,しかも神に選ばれた国民がその告発をなすとは,それはイエス・キリストにとって恐ろしいことでした。彼は過去において,ご自分の父を喜ばせ,支持し,父の不名誉になることはいかに小さなことでも避けるという点で,宇宙のだれよりも熱心だったからです。冒涜者とは! 今日,ある人がエホバのしもべでありながら,背教して神を冒涜するなら,その人は神の民全員にとって忌まわしいものです。完全な思いと心また理解を持つイエス・キリストは,この点をわたしたちよりもはるかに鋭く感じておられました。それにもかかわらず,彼は「我が〔望む〕ままにとにはあらず,〔エホバ〕の〔望む〕ままに為し給へ」と言われました。―マタイ 26:39〔新〕。
21 その夜,イエスの肩にはどんな圧倒的な重圧がかかっていましたか。
21 こうした事柄すべてのゆえに,イエスが祈られた時,汗は血のしたたりのようになりました。(ルカ 22:44,新)彼はたいへんな重圧を受けていました。その夜,イエスはすべてのものの重荷を両の肩に負っていたのです。彼はご自分の父に訴え,「大なる叫と涙とをもて」祈られました。(ヘブル 5:7)ご自分が忠実でありつづけねばならないことを知っておられました。なぜなら,もし失敗したら,それはエホバに対するなんという侮辱となったことでしょう。他方,イエスが忠実でありとおすなら,それはご自分の父に対するなんという立証,悪魔に対するなんという侮辱でしょう。エホバはご自分のみ子の忠節に非常な信頼を置いていたので,イエスが何をするかをご自分のことばの中に記録させました。そうです,エホバは前もってそのことを語られたのです。イエスはそれを知っておられました。しかし,イエスはさらに,忠誠を保持することが自分にかかっており,自分が失敗することがありえ,罪を犯すことがありうる,ということを知っておられました。そうしたことすべてがイエスの肩にかかっていたのです。ご自分の永遠の命と全人類の命が,どちらに決するかわからないという不安定な状態に置かれていました。それは極度の緊張をしいる事態でした。
22 イエスは死ぬ前に,なぜそのように叫ばれたのですか。
22 イエスは杭の上で死ぬ直前にこう叫びました。『わが神,わが神,なんぞ我を見棄て給ひしや』(マタイ 27:46。詩 22:1)使徒パウロは仲間のクリスチャンにこう言いました。「キリストは我等のために詛はるる者となりて律法の詛より我らを贖ひ出し給へり。録して『木に懸けらるる者は凡て詛はるべし』と言へばなり」。(ガラテヤ 3:13)イエスは律法下にある者たちを解放するために,のろわれた者とならねばなりませんでした。さらにペテロは次のように言いました。『彼は木の上に懸りて,みづから我らの罪を己が身に負ひ給へり』― ペテロ前 2:24。
23 イエスがわたしたちに備えてくださったもので,ご自分には手にしえないものがありました。それはなんですか。
23 さて,わたしたちがもし罪を犯すなら,悔い改めてエホバ神のもとに行き,彼に祈ってこう言うことができます。『エホバ神,私は自分が罪を犯したことを告白します。キリストのあがないの犠牲に基づいて許しを請います。どうぞ私を許してください』。こうして,わたしたちは神の許しを得ます。(ヨハネ第一 1:9)しかしイエスはそうすることができませんでした。彼は弱まってきわめて小さな誤りをしても,『(だれかの)犠牲に基づいて』あわれみを求めることはできませんでした。イエスがその夜に負った重圧は圧倒的なものだったのです。
24 ロマ書 5章18節はイエスについてなんと告げていますか。
24 イエスが失敗しなかったことに対して,わたしたちはエホバ神とイエス・キリストになんという謝意を表することができるのでしょう。イエスは挑戦に答えるために十分に尽くされました。使徒はこう言っています。「では,そういうわけで,一つの罪過を通してあらゆる種類の人に及んだ結果が有罪宣告であったように,同様にまた,正当性を立証する一つの行為を通してあらゆる種類の人に及ぶ結果は,命のために彼らを義と宣告することです」(ロマ 5:18,新)この「正当性を立証する一つの行為」は,ご自分の犠牲をも含む,イエスのたどった忠誠の道でした。それによってイエスは正当であることを証明されました。もちろん,彼は終始義なるかたでしたが,自分が成功裏に経たこの試験の後にも,神は依然こう言いえたのです。『あなたは完全に正当であり,あらゆる面で義なるものである』。
25 キリストの義を,彼に信仰を働かせる者たちのそれと比較しなさい。
25 使徒パウロはさらに,イエスについてこう言明しました。「彼は…苦しんだ事柄から従順を学ばれました。そして,彼は完全にされたのち,彼に服従する人々すべてのための永遠の救いに対して責任を持つようになられました」。(ヘブル 5:8,9,新)ゆえに,神はキリストご自身の功において彼を義なる者と宣言されました。神はキリストに賜物として義を付与する必要はありませんでした。彼の犠牲が他の人々を義と宣言するための根拠としての役を果たすことができたのはそのためです。他の者が義と宣言されるとするならば,それはその人自身の義をよりどころとするのではなく,イエス・キリストの犠牲のあがないを根拠にしているのであり,それは賜物です。―ロマ 5:17。
エホバの愛ある親切
26,27 エホバはご自分の愛と感謝を表明するものとして,イエスのために何をされましたか。
26 エホバの愛ある親切はこのすべてのことにおいて,さらにそれ以上の方法においても高められています。イエスは天に戻ってご自分の父といっしょになることを知っておられました。ご自分がそれまでに許したどの試験よりも最も過酷な試験のもとにあって,ご自分の名前を立証したイエスに対するエホバの愛と感謝は非常なものでした。エホバはキリストに不滅性と,以前よりもいっそう高い地位,天使たちよりはるかに高い地位とを与えられました。(ピリピ 2:5-11。ヘブル 7:26)しかもそればかりでなく,イエスはさらに他のものをも得ました。
27 わたしたちは神の知性ある被造物が相ともにいることを好むのを知っています。彼らは仲間を持つことを好んでいます。この点イエスは今や,エホバを除いて,ご自分だけの独自の範疇に属しておられました。しかし今度はエホバが,感謝として彼に驚くべき報いを,つまり,「花嫁」をつけ加えて与えられました。(ヨハネ 3:28,29。黙示 19:7; 21:9)イエスは彼らを個人としては「兄弟」と呼ばれました。(ヘブル 2:11)彼らはイエスが地上で味わったのと同じ経験をします。わたしたちは,同じ事柄に会い,同じわざを行ない,同じ経験をした人々との交わりや会話をたいへん楽しむものです。わたしたちと同様に,イエスもご自分の「花嫁」に対してそうであるにちがいありません。神はご自分のすばらしいみ子に対する感謝と愛の測りがたい富と深さの証拠として,イエスにこの「花嫁」を与えられました。
イエスの寛大さ
28,29 イエス・キリストご自身は,愛ある親切と寛大さとをどのように表わされましたか。
28 イエス・キリストご自身も愛ある親切,寛大さ,それに義に対する愛を示されました。なぜなら,このことに関して利己的ではなかったからです。彼は次のようには言われませんでした。『私は神の立証を完遂した。他のだれが栄光を私とわかつべきであろうか』。そうではなく,その立証にあずかり,神に栄光を帰し,かつご自分の天における栄光と力をわかち合うことのできる他の者たちを持ちうるのを,イエス・キリストは喜び,幸福に感じました。(ロマ 6:4,5)悪魔に迫害されることがあっても,なおかつ神の主権に忠実を保ち,イエスが行なったと同様にその主権を愛する他の者たちを神は地上に持たれましたが,イエスはこのことを喜びました。
29 それに,「他の羊」の「大群衆」がいます。イエス・キリストは喜んで彼らをこさせ,その立証にわずかながらあずかることをも許しておられます。(黙示 7:9,10,ヨハネ 10:16,新)ゆえに,彼は悪魔がなんと言おうとも,神のすべての「羊」がエホバの主権の側にかたく立つのを援助します。
「終のアダム」
30 イエス・キリストはどのようにして「終のアダム」となりますか。
30 イエスはご自分の忠実な歩みと犠牲のゆえに多くの者を救うことができます。彼は地上にいた時,自然の人間的な手段によってご自身の家族を持つ力を持っておられました。イエスはその家族を生み出さず,その可能性をご自分の犠牲において放棄されました。したがって,彼は「終のアダム」となったのです。アダムは悪い性向を持った家族,不完全な家族を生み出しました。イエス・キリストは義を持つ家族を生み出されます。個人個人はアダムの家族から移され,イエス・キリストの義を通して再生させられるのであり,生殖に関する神の法則に従って,神の像に似る者となることができます。彼らは「終のアダム」の子たちとしてすっかり清くされうるのです。―コリント前 15:45。
31 キリストはどんな手段により「子孫」を持つようになりますか。
31 イザヤは霊感によりキリストの苦しみのいくらかを描写してこう言っています。『もしあなたが彼の魂をとがのささげ物として置くならば,彼は自分の子孫を見るであろう』。(イザヤ 53:10,新)キリストの魂を,イエスの完全な人間の命のあがないの犠牲を,自分の罪のためのとがのそなえ物とするならば,その人はキリストの「子孫」となります。キリストは自然の仕方を通して子孫を得るのではなく,「とこしへのちゝ」として,預言者イザヤの描写した方式で,ご自分の義の性向をもった家族を生み出されます。―イザヤ 9:6,7。
あがないの益は今およんでいる
32,33 あがないの益はだれかにすでに適用されましたか。説明しなさい。
32 こうした事柄を考慮すると,次のような質問が出てくるかもしれません。『あがないが与えられてから1,900年がたっている。人があがないの益を受けているのが見られないのはどうしたわけか』。見られるのです。贖価が天で提供された直後,キリストの復活後わずか50日してから,聖霊が注がれ,人は神の子たちになりはじめました。(使行 2:1,33)使徒ヨハネは,「我等いま神の子たり」と言っています。(ヨハネ第一 3:2)それらの者たちはあがないから益を受け,霊によって生み出され,天の希望を与えられました。それ以来,エホバは1,900年の期間にかけて,キリストとともに王ならびに祭司となる,14万4,000人からなるグループを構成する者たちを選んでこられました。(黙示 14:1,2; 5:9,10; 20:6)彼らを選び出してためすには時間がかかりました。彼らはエホバの主権を全宇宙で永遠に執行する者たちだからです。
33 今日,わたしたちはその犠牲の実が「大群衆」にも及んでいるのを見ています。彼らはエホバ神に近づき,かつその祝福にあずかり,神との平和のもたらすすぐれた益,幸福,人生に対する希望と目的,完全に変えられた生活を経験しています。彼らはまた,エホバの立証のためになすべき,有意義で幸福なわざを持っています。非常に間近に迫っている新秩序で,彼らは神の子たちとして人間の完全さに到達するでしょう。―ロマ 8:21。
あがないは罪より強い
34 あがないはどのようにアダムの罪より強力ですか。
34 この問題を要約すると,あがないはアダムの罪よりも強力であるということができます。アダムの罪はすべての者を下降させました。もちろん,あがないはすべての人をことごとく救うわけではありませんが,それにしてもあがないはわたしたちのうちに生まれつきある罪よりもいっそう強力なものです。どうしてそう言えますか。罪と不完全さから自由になることを欲するすべての魂はことごとく,それをぬぐい去っていただき,完全に清くしてもらえるのです。死人の中から復活させられた者たちでさえ,あがないにあずかる機会を与えられるのです。命を得ない者はエホバの主権を欲しない人たちです。彼らは義を愛さず,不法を憎みません。彼らは相続した罪に自分の故意の罪を加えて,みずからを有罪とするのです。―ヨハネ 3:17-21。
35 アダムとサタンのしたことはどのように消し去られ,無に帰しますか。
35 したがってキリストのあがないはその王国の支配によって適用され,アダムのしたことを完全にぬぐい去るものとなります。最終の敵である死(アダムの罪により人類にもたらされた)死は,無に帰します。死がぬぐい去られると,その時にはアダムのしたことすべて ― 彼が人類にもたらしたことすべて ― は全く存在しなくなります。アダムの罪を表わすものはなにも残らないでしょう。(コリント前 15:26,56)さらに,悪魔の罪を表わすなにものも残されないでしょう。なぜなら,聖書はこう言っているからです。「神の子の現れ給ひしは,悪魔の業を毀たん為なり」。(ヨハネ第一 3:8)サタンの努力は全く徒労に終わり,彼は自分の命を失ってしまうでしょう。エホバの名前とその創造物に投げかけられた暗い影は完全に消し去られます。神の名前は永遠にわたって全く立証され,エホバの主権を欲するものはとどまり,生きてエホバの賛美をもたらすものとなるでしょう。―詩篇 150篇。
36 エホバのあがないの備えを考慮した後,わたしたちはなんと叫ぶことができますか。
36 なんという神の愛ある親切でしょう。そして,わたしたちの主イエス・キリストご自身はなんという愛を示されたのでしょう。わたしたちは使徒とともにこう言うことができます。「あゝ,神の富と知恵と知識との深さといったら! 彼のさばきはなんと探りがたく,彼の道はなんと捜し出すことのおよばないものなのでしょう」。(ロマ 11:33,新)こうした事柄に対する真の感謝の念を持っているなら,この世が疑いを引き起こしたり,わたしたちの信仰を攻撃したりするためにどんな事柄をもたらそうと,こう叫ぶことができます。『このためなら,死ぬだけの価値が十分にあるではないか』。―使行 20:24; 21:13。
[脚注]
a 「新しい世」(1942年出版《英文》)の153ページ1節から,157ページの「試みがなされる」までをごらんください。現在この本は絶版になっており,在庫もありません。
b 「その時神の秘密は終わった」(1969年,ものみの塔聖書冊子協会発行 ― 英文)と題する本の305-308ページをごらんください。