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読者からの質問ものみの塔 1971 | 12月1日
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帝国の「地」はその場所からゆり動かされ,締め出されました。バビロンは,敗北を喫し,ペルシア帝国の一州になりさがるや,地のその広大な領域に対する支配権を失ったのです。
バビロンの例は,天体が人間より高い力,つまり人類を制御する影響力を行使する権力を表わすものとみなされていることを示します。そうした天体にささげられた崇拝は,実際には人間より高い見えない霊の勢力,すなわちサタン悪魔とその悪霊たちにささげられているのです。このことは使徒パウロの言明したことばから見て明らかです。「異邦人の供ふる物は神に供ふるにあらず,〔悪霊〕に供ふるなり」― コリント前 10:20,〔新〕。
確かに神のみことばは,サタンとその悪霊が,エホバ神から離反した人類社会を支配する「天」を構成していることを明示しています。一例として,使徒パウロは,政府・権威・世の支配者たちとともに,「天の処にある悪の霊」を引き合いに出しています。(エペソ 6:12)また,ヨハネ第一書 5章19節は,「全世界は悪しき者に属す」と述べています。
ゆえに,「しゅうと鳴る騒音とともに過ぎ去」るのは,サタンとその悪霊で構成される天に違いありません。いっさいを焼き尽くすような烈しい大規模な火焔は,家屋や森林の火事の場合のように,しゅうという大きな音を発します。もちろん,文字どおりの火は,サタンとその悪霊の存在を終わらせるものではありません。とはいえ,邪悪な天は,聖書の中で燃えさかる火として述べられている,神の憤りの表明を免れることはないでしょう。(詩 89:46。イザヤ 30:27)黙示録はサタンと悪霊の天が過ぎ去ることを確証しています。使徒ヨハネは,サタンの勢力が完全に敗北し,サタンが底のない穴に投げ込まれる幻を見たのち,「前の天と前の地とは過ぎ去(れ)り」と述べています。―黙示 21:1。
「前の天」が文字どおりのものでないのですから,「前の地」もやはり文字どおりの地ではありません。黙示録 19章19-21節によれば,滅びに向かっているのは,物質界の地ではなくて,地の王たちおよびその軍勢です。したがって,「前の地」は,サタンとその悪霊の支配下にある邪悪な人類社会を表わしています。地をこうした意味に解することは,聖書の語法において「地」という語が地の住民を意味する場合かあるという事実とも合致します。―詩 96:1。
したがって,象徴的な天と地の「諸要素」(もしくは構成成分)は,燃えるような神の怒りの高熱に耐えられるものではありません。それらは完全に「溶解させられ」てしまうでしょう。ペテロのこのことばはマラキ書 4章1節に示されている考えとやや類似しています。「萬軍の エホバ いひたまふ視よ炉のごとくに焼る日来らん すべて驕傲者と悪をおこなふ者は藁のごとくにならん 其きたらんとする日彼等を焼つくして根も枝ものこらざらしめん」。
地,つまり不敬虔な人類社会と,そのわざは「明かされる」でしょう。(「明かされる」と訳されているギリシァ語が,現在の最も古く,かつ最も信頼できる聖書写本つまりバチカン写本1209およびシナイ写本に出ている。)これは,邪悪な人類社会とそのわざがその仮面をことごとく焼き払われて,エホバ神とキリストによる神の王国に敵するもの,またそれゆえに滅びに値するものとして暴露されるという意味です。エホバ神はそのみ子キリスト・イエスおよび忠実な天使の大群を用いて,邪悪なわざが一つとしてあらわにされ,かつ処罰されずにすむことのないようにされます。これに類似した考えがイザヤ書 26章21節に述べられています。「エホバはその処をいでて地にすむものの不義をたゞしたまはん 地はその上なる血をあらはにして殺されたるものをまた掩はざるべし」。
古い天と地に対して燃え上がる,いっさいのものを焼きつくす熱気に耐えたいと願う人は,エホバ神の是認される道を知り,かつそれに従う決意をいだかねばなりません。次のように述べて,ペテロが仲間のクリスチャンを励ましたとおりです。「汝等…神の前に汚点なく瑕なく安然に在らんことを勉めよ。…慎みて無法の者の迷に[無知で落着きのない人々とともに]さそはれて己が堅き心を失はず,ますます我らの主なる救主イエス・キリストの恩寵と主を知る知識とに進め」― ペテロ後 3:14-18。
● サムエル前書 18章10節および19章20-24節の『預言者のようにふるまう』という表現は何を意味していますか。―アメリカの一読者より
エホバ神は聖霊によってご自分の預言者たちを派遣されました。預言者ミカは自分自身についてこう述べました。「我はエホバの御霊によりて能力身に満ち公義および勇気衷に満ればヤコブにその愆を示しイスラエルにその罪を得」。(ミカ 3:8)とはいえ,ミカや他の預言者たちが絶えず霊感を受けて語っていたのでないことは明らかです。むしろ,時おり神の霊が『彼らに臨んで』発表されるべき音信を啓示したのです。それは預言者たちを奮い動かすものであり,彼らは話さずにはおれませんでした。預言エレミヤが「忍耐につかれて堪難し」と語ったとおりです。―エレミヤ 20:9。
エホバの霊がそれら預言者に臨んで『能力を満たした』とき,彼らは非常なことを行なっただけでなく,その表現や挙動は感情の強烈さを反映するものだったに違いありません。自分自身のことを考えてみてください。何か楽しい,あるいは憂慮すべき重大なニュースを知って,他の人に話す場合,たいてい話し出さないうちに,「様子がいつもと全然違うのですが,どうしたのですか」と尋ねられるのではありませんか。
ですから,『預言者のようにふるまった』という表現は,預言者たちの異常な話し方,もしくは挙動を示唆しているようです。彼らは自分の使命の遂行に全く専念し,その点で熱心かつ大胆だったので,そのふるまいは時に他の人びとにとって奇異に,また無分別にさえ見えました。たとえば,エヒウに油を注いで王に任命した預言者は,軍の頭たちにとって気が狂っているように見えました。しかし,その男が預言者であることを知るや,彼らはその音信を真剣そのものの態度で受け入れました。―列王下 9:1-13。
サムエル前書 18章10節(新)には,ダビデが立琴をひいたとき,サウルは『預言者のようにふるまった』とありますが,だからといって,サウルが預言を述べはじめたわけではありません。彼は,預言を述べる直前,もしくはその最中の預言者のように,身体的動揺を表わしたのです。そうした異常な動揺した状態に陥ったサウルは,ダビデめがけて槍を2度投げつけました。
後に,サウル王がダビデを捕えるため使者をナヨテに派遣したところ,それらの使者も『預言者のようにふるまい』だしました。つまり,預言をする直前,もしくはその最中の預言者のしぐさに類する挙動をしたのでしょう。神の霊がそれらの使者たちに働いて,その使命をすっかり忘れさせてしまったようです。―サムエル前 19:20,21。
その後,みずからダビデを追跡しようとして出かけたサウルも『預言者のようにふるまう』ようにさせられ,衣服を脱ぎ,「其一日一夜裸体」で横たわりました。その間にダビデはのがれたようです(サムエル前 19:22–20:1)これは預言者たちがしばしば裸で歩いたという意味ですか。そうではありません。預言者が裸で現われた例はわずか2度しかないからです。それはイザヤとミカの例で,ふたりともそれぞれの預言のある面を表わすという明確な目的をもって裸で歩きました。(イザヤ 20:2-4。ミカ 1:8-11)サウルが裸になった理由は述べられてはいませんが,それは王者の衣服を脱がされたサウルがエホバご自身の王権や権能に逆らっては無能な一介の人間にすぎないということを示すためだったとも考えられます。ダビデにかかわる神の目的に反する事がらに関するかぎり,サウルが首尾よく事を運べるという見込みはありませんでした。
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科学と聖書は一致しますかものみの塔 1971 | 12月1日
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科学と聖書は一致しますか
科学的な知識は年々増加しています。事実,科学の教科書はわずか2,3年で時代おくれになりますから,百年前の教科書があるとすれば,それはあやまりで満ちていることでしょう。きのうの重大な発表も,明日は単なる空論として片付けられることがあります。
では,その大半が3000年以上も昔に書きしるされた聖書についてはどうですか。聖書はそれ自体は純然たる科学書ではありませんが,科学的な事柄にまさしく触れている場合,その記述は時代おくれですか。それとも最新の知識と合致しますか。
ご自分で事実をお調べになってはいかがですか。「聖書は現代科学に反する本だ」と人々が言うのをお聞きになったことがあるかもしれません。しかし,そうした人は,聖書中の科学的な事柄に触れている箇所がまちがっていることを実証しましたか。
確かに,人は事実を知らねばなりません「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する啓発的な手引きをお読みになれば,事実を学べます。この本は「神が偽ることのできない事柄」と題する416ページの本とともにわずか300円のご寄付です。送料は当方が負担いたします。
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