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メピボセテ ― 感謝の念の厚い人ものみの塔 1980 | 3月15日
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なる我が主は真の神の使いのような方ですから,ご自分の目に善いことを行なってください。わたしの父の家の者は皆,王なる我が主にとって,死に定められた者でしかなかったでしょうに,それでもあなたはこの僕を,あなたの食卓で食べる者たちの中に置いてくださったからです。ですから,わたしには,このうえ王に叫び求める正当な資格が何かあるでしょうか」― サムエル後 19:26-28,新。
これを聞くに及んで,ダビデはヂバの言葉を受け入れたのが間違いであったことに気付いたに違いありません。そのことはダビデの気に障ったようです。その問題についてもうそれ以上聞きたくはなかったのです。このことは,メピボセテに対するダビデの次の言葉から分かります。「あなたはなぜ自分の言葉をなおも語り続けるのか。わたしは本当に言うが,あなたとヂバは畑を分け合わねばならない」― サムエル後 19:29,新。
メピボセテは,ダビデが物事をそのように扱ったことで気を悪くしませんでした。物質的な損失を気にしてはいなかったのです。メピボセテにとって重要なのは,ダビデが無事にエルサレムへ戻ったことでした。それでメピボセテはこう言います。「王なる我が主が平安に家に戻られたのですから,[ヂバ]にその全部でも取らせてください」― サムエル後 19:30,新。
メピボセテは自分の身の巡り合わせについて苦々しい気持ちになろうと思えばなれましたが,そうすることなく,命そのものの真価を認めていました。時代の背景を考えに入れれば,メピボセテはダビデに殺されていてもおかしくありませんでした。そのため,メピボセテは王の食卓に着いて食べる特権を深く感謝しましたし,ダビデ王の決定に謙遜かつ忠節に服しました。このようにメピボセテは,自分の持っているものを高く評価し,自分の持っていないものについて嘆くことのなかった点で,きわめて優れた模範となっています。わたしたちも,メピボセテ同様,感謝の念の厚い人になりたいものです。
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読者からの質問ものみの塔 1980 | 3月15日
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読者からの質問
● コリント第一 6章3節によると,クリスチャンは「み使いを裁く」とされていますが,どのような意味でそうするのでしょうか。
これは,油そそがれたクリスチャンがキリストに加わり,邪悪なみ使い,すなわち悪霊たちを将来裁くことに注意を向けた言葉であると思われます。世俗の法廷に訴えるのではなく,会衆内の円熟した兄弟たちの助けによって個人間のいさかいを解決するようクリスチャンに勧めた中で,使徒パウロは次のように書いています。「あるいは,あなたがたは,聖なる者たちが世を裁くことを知らないのですか。それで,世はあなたがたによって裁かれることになっているのに,あなたがたはごくささいな事がらを裁決することもできないのですか。あなたがたは,わたしたちがみ使いを裁くようになることを知らないのですか。では,どうして今の生活上の事がらを裁かないことがありますか」― コリント第一 6:2,3。
パウロは「裁く」という語を使って,悪霊を追い出すクリスチャンの能力について語っていたのだ,と考えた人もいます。しかし,キリストの追随者たちは折にふれて悪霊を追い出す力をすでに与えられていたのに対し,パウロはここで将来について語っています(『わたしたちは世を裁くようになり,み使いを裁くようになる』)。(マタイ 10:8。ルカ 10:17。使徒 16:16-18; 19:11,12)また,パウロの言葉は,クリスチャンがその模範的な振舞いによって,サタンに従う堕落したみ使いたちを罪ありとすることを意味していたのだ,と考える人もいます。しかし,それも将来に限られたことではありません。クリスチャンは幾年にもわたって立派な振舞いを示してきたからです。(マタイ 5:14-16。テトス 2:6-8。ペテロ第一 3:16)また,パウロの言葉の文脈からすれば,「み使いを裁く」というのは単に対照的な行動を取ることによって他を罪ありとすることではないようです。
しかし聖書は,悪魔の前途に裁きが待ち受けており,その頭が砕かれるということを示しています。(創世 3:15)啓示 20章1-3節は,その裁きの行動が起こされるときのことを描き出し,一人の強力なみ使いが悪魔を捕え,千年のあいだ縛ることについて述べています。7-10節には,その期間の終わりに,サタンが少しの間解き放されることが示されています。しかし,その後,『砕く』こと
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