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神の象徴的な女の訴えは勝つものみの塔 1965 | 9月15日
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とくに神に敵し,神の国の宣明者に敵対したことに対して,大きな責任を持っているからです。黙示録 18章20,21節の言葉は,これが一つの型であったことを示しています。「『天よ,聖徒たちよ,使徒たちよ,預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は,あなたがたのために,この都をさばかれたのである』。すると,ひとりの力強い御使が,大きなひきうすのような石を持ちあげ,それを海に投げ込んで言った,『大いなる都バビロンは,このように激しく打ち倒され,そして,全く姿を消してしまう』」。
19 (イ)バビロンに関する黙示録の預言が,文字通りの古代バビロンに適用されないのはなぜですか。(ロ)バビロンに関する聖書の預言を更に検討することは,なぜ有益ですか。
19 この預言が,メソポタミアにある文字通りのバビロンの都にあてはまらないことは明らかです。バビロンはこの預言の600年前に倒れて世界強国の座から落ちていたからです。また将来の事を告げた黙示録の預言が完全に成就するまでに,文字通りのバビロンはすでに何千年も完全な荒廃のちりの下に埋もれていることでしょう。それでいっそう大きな成就があるものと考えなければなりませんゆえにバビロンに関する聖書の預言を更にしらべるのは有益なことです。それは20世紀に住む私たちの眼前に起きている世界の重要な出来事の意味を理解するのに役立ちます。
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読者からの質問ものみの塔 1965 | 9月15日
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読者からの質問
● 火葬する事はクリスチャンにふさわしいですか。
古代ヘブライ人の間では死人を土や墓に埋葬することが一般の習慣となっていたようです。(創世 50:13。シシ 8:32。列王上 11:43)しかし時おり,いろいろな理由で死体が火葬にされる事もありました。ヤベシギレアデの人々はサウルと忠実なヨナタンをも含めた息子たちの死体をヤベシに運び,「これをそこで焼き,その骨を取って……葬」りました。(サムエル前 31:12,13)その事のためダビデは彼らをほめています。(サムエル後 2:4-7)それで火葬は道徳的あるいは個人的理由により,今日のユダヤ人の一般の習慣ではありませんが,「人間の死体を埋葬するよう命じている,はっきした律法は,聖書の中にないという点で大方の意見が一致している」。―ユダヤ教百科事典第4巻,343頁。
初期クリスチャンの多くはユダヤ人であり,一般に,土の中に埋葬するユダヤ人の習慣にならっていたようです。しかし聖書が土葬を要求していなかったので,クリスチャンは特別な習慣にとらわれませんでした。しかし時たってクリスチャンの信仰に異教の習慣と恐れが忍びこんできました。カトリック百科事典の「火葬」の項には「ギリシャ人とローマ人には,死後の生命に対する見方に従い,異なった習慣があった」,としるされています。異教の迫害者はクリスチャンの信仰を誤解し,クリスチャンが復活するのは死体が保存されているからだと思っていたのです。同事典はさらに次のように述べています。「異教徒たちは身体の復活に対する信仰をくつがえすために,殉死したクリスチャンの死体を火炎の中に投げいれ,身体の復活を不可能にしたとあさはかにも考えた」。第四巻,481頁。
もちろん真のクリスチャンは,復活と死体について正しい考え方をしています。キリストと共に天で支配する者について聖書は明白に,「肉と血とは神の国を継ぐことができない」と述べています。(コリント前 15:50)従って,神は死から地上の生命に復活する人のために適当な身体を備えて下さるでしょう。それで身体が土の中で腐って元素に戻っても,焼かれて灰になっても,御心ならば,その人を復活させる神の能力には一向影響しません。
ゆえにクリスチャンはこの問題を決定するのに,自分の住む地方の法的要求と近隣の人々の気持を考慮することができます。(ピリピ 1:10)エホバが聖書の中で火葬を否認されていないのですから,結局それは個人的な決定にまかされるのです。
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正直は良い証言となるものみの塔 1965 | 9月15日
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正直は良い証言となる
◆ カリビア海のボネール島には拡大のよい見込みがあります。エホバの証人はみなによく知られており,宣教者のなし遂げた良いわざや,忠実な土地の伝道者の良い行ないのため,多くの人に尊敬されています。その一例として,受けとった給料封筒に余計なお金がはいっている事に気づいた一兄弟は多すぎた分を事務所へ戻しに行ったので事務員たちはとても感心して,「お金を返しにくるような人がいるだろうか。くるとすれば足りない時ぐらいだ」と話していました。
― 1965年度エホバの証人の年鑑から
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