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さらに拡張される,ものみの塔協会本部ものみの塔 1970 | 5月1日
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しかし,エホバの証人の印刷工場は,ブルックリン本部にある工場だけではない。カナダ,英国,ドイツ,南アフリカ,スカンジナビア諸国にそれぞれ大きな印刷工場があり,スイスにも新工場が建設中である。昨年,ブルックリン工場以外の生産工場で印刷された雑誌は合計1億2,900万部に達し,ドイツでは300万冊以上の本が印刷された。
昨年印刷された「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌は合計3億2,500万部を上回ったが,この合計部数は,他のどんな雑誌の年間出版部数をもしのぐものであろう。そのうえ,堅い表紙を付した「とこしえの命に導く真理」と題する本は,1968年10月下旬の出版以来,すでに2,300万部以上印刷された。聖書を除けば,これは,紙表紙の本も含めて,西洋諸国で出版されたどの本の発行部数をも上回る数字である。
聖書文書に対するこうした需要を考えると,エホバの証人が便利な場所に10の建物を持つ工場を新たに所有できたのは,本当に時宜を得たことである。
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読者からの質問ものみの塔 1970 | 5月1日
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読者からの質問
● 「をんなよ,我と汝となにの関係あらんや,我が時は未だ来らず」,と言われたときのイエスの態度は,自分の母に対して敬意を欠いたものではありませんでしたか。―アメリカの一読者より。
イエスが問題の聖句を言われたのは,カナの婚礼のときで,ご自分の宣教の生がいの初期のことでした。聖書の記録は次のとおりです。「ぶどう酒つきたれば,母,イエスに言う『かれらにぶどう酒なし』イエス言い給う『をんなよ,我と汝となにの関係あらんや,我が時は未だ来らず』母,僕どもに『何にてもその命ずるごとくせよ』と言ひおく」― ヨハネ 2:3-5。
最初に,キリストの用いられた「おんな」ということばについて考えてみましょう。現代の語法からすると,母のことを「おんなよ」と呼ぶのは,敬意を欠いているように聞こえるかもしれません。しかし,聖書翻訳者のひとりE・J・グッドスピードが論じているように,ヨハネ伝 2章4節のこのギリシア語は,「〔女という現代語〕ほど冷い響きを持つものではないし,そうかと言って」,母ということば「ほど愛情深いものでもない」のです。その意味は広範にわたり,ここで使われているようにある程度の尊敬と愛情の念を含んでいます。―リデル,スコット編「希英辞典」。
キリストの墓で悲しみのあまり泣いていたマグダラのマリヤに話しかける際,天使たちも,復活したイエスもともに同じことばを用いられました。しかしどちらかの態度が乱暴であったとか,敬意に欠けていたとは言えません。(ヨハネ 20:13,15)さらに,刑柱にかけられたときにも,キリストはご自分の母を同じ仕方で呼び,母親のことを心配して,ご自分が深く愛した使徒ヨハネにその世話をゆだねられました。(ヨハネ 19:26。ヨハネ 4:21とマタイ 15:28もごらんください)したがって,イエスがカナでこのことばを用いられたとき,イエスの態度が敬意に欠けていたとは言えません。むしろ,後日,学者やパリサイ人に強調したように,聖書にしるされている,母親を敬う義務をよく知っていて話されたと考えることができます。―マタイ 15:4。
「我と汝となにの関係あらんや」という表現は,聖書の中に幾度も表われる古代の質問形です。(サムエル後 16:10。列王上 17:18。列王下 3:13。マルコ 1:24; 5:7)この表現を文字どおりに訳せば,「わたしたち〔あるいは,わたし〕とあなたが共通に持っているものはなんですか」となり,これは反発感の表現に用いられます。もちろん,そのきびしさは話す人の語調によりますが,提案されたことに対する反対を表わすことばです。―エズラ 4:3とマタイ 27:19を比較してください。
この表現を用いられたときのイエスは,すでにキリストであり,神から指名された王でした。母の家でその養育を受ける年若い子供ではありませんでした。当時のイエスは,自分をつかわされた神から導きを得ておられました。(コリント前 11:3)ですから,ご自分の母が意見を述べて,事実上さしずしはじめたとき,イエスはそれに抵抗し,反対されたのです。宣教や奇跡に関して,イエスは人や家族のさしずを受けることになってはいませんでした。(ヨハネ 11:6-16)キリストの答えは,行動の必要な状況が生ずれば,自ら行動されることを示していました。問題のできごとの場合に,イエスは,いつ行動すべきか知っておられたので,他の人のさしずを受ける必要はなかったのです。
マリヤがイエスのことばを,その語調からきびしい叱責として受け取らなかったのは明らかです。賢明にも,むすこのなすままにしました。最後にひとこと付言しましょう。「ギリシア語では,質問のそっけない響きが,愛情または尊敬を示す〔女〕という語を用いることにより,いっそうそっけなく聞こえるどころか,おだやかに聞こえる」。―「新約聖書翻訳の諸問題」100ページ。
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