聖書理解の助け ― 軍隊
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
軍隊 陸上での戦闘のために組織され,訓練された多数の人々の集団。アブラハムの時代から,クリスチャン時代以前のエホバの僕たちは武力による戦闘に携わりました。エラム人ケダラオメルとその同盟者たちがアブラハムのおいロトとその家の者たちを連れ去った時,アブラハムは「訓練された者,三百十八人の奴隷たち」で成る自分の軍隊を召集し,近隣の盟約者たちと共にダンまで北へ200㌔近く追撃しました。そこからは軍勢を幾手かに分けて夜襲をしかけましたが,それは聖書時代に繰り返し用いられた戦術でした。―創世 14:13-16,新。
イスラエル人
その400年余り後,イスラエル国民は大急ぎでエジプトを出ましたが,そのとき民はよく組織された「戦闘隊形」を整えていました。それは,本隊,前衛,後衛,左右両翼の五隊編成であったのかもしれません。(出エジプト 6:26; 13:18,新)これを追うエジプト軍は「より抜きの兵車六百両,それにエジプトの他のすべての兵車が加わって」構成されていました。一台の兵車には普通三人が乗りました。一人は馬を御するため,他の二人は戦闘のため,それは恐らく弓の射手であったでしょう。弓はエジプト人の主要な攻撃用具であったからです。これに騎兵が同行しました。(出エジプト 14:7,9,17,新)ヨセフスの記述によると,この時のエジプト軍はおよそ25万を数えました。
エジプトを出てまもなくイスラエル人は自由な民として最初の交戦を経験しました。アマレク人がシナイ山域のレピデムで攻撃して来たのです。モーセの指示の下にヨシュアは直ちに実戦部隊を集めました。戦闘はその日ほとんど一日続き,イスラエルは戦闘に未熟であったにもかかわらず,エホバはこれに勝利を与えました。―出エジプト 17:8-14。
エジプトを出て約一年後,軍役に堪える者として二十歳以上の男子の数が数えられました。それは合計60万3,550人でした。(民数 1:1-3,45,46)荒野での旅の終わり近くに同様の調査がもう一度行なわれましたが,兵員の数はやや下がって60万1,730人となっていました。(民数 26:2,51)レビ人は軍務を免除されたのでこれらの数字に含まれず,別に数えられました。―民数 1:47-49; 3:14-39; 26:57,62。
免除規定
レビ族に加えて,次の人々に兵役の免除が規定されていました。(1)「新しい家を建ててそれを奉献していない」者,(2)「ぶどう畑を設けてそれを使いはじめていない者」,(3)「女と婚約してまだめとっていない者」,(4)妻をめとった者,「その者は軍隊に出るべきではなく……一年のあいだ自分の家にあって免除されている」,(5)「恐れておじ気づいている者」。―申命 20:5-8; 24:5,新。
カナン征服後の軍隊の編成
カナンに定着して後,大規模な常備軍を維持する必要はほとんどなくなりました。境界での小ぜり合いは普通,関係するその地方の部族によって処理されました。数部族からの兵力を結集して大きな勢力を作ることが必要な場合,エホバは裁き人を起こしてその指揮を執らせました。動員令はいろいろな方法で伝えられました。ラッパによる合図,使者たち,また戦闘員を奮起させるために特別のしるしが送られた場合もあります。―民数 10:9。士師 3:27; 6:35; 19:29。サムエル前 11:7。
戦士たちは,剣,槍,ほこ,投げ矢,石投げ,弓,矢などの武器を自分で用意したようです。人々は一般に食糧も自分でまかないました。サウルの軍隊に入っている自分の息子たちのためにエッサイが糧食を送ったのはそのためです。(サムエル前 17:17,18)しかし,志願した人々の一割が取り分けられて他の人々の糧食調達に当たった例も一度あります。―士師 20:10。
イスラエルの宿営にエホバが臨在されたことは,兵士たちに清浄と儀式上の清さとを要求しました。(申命 23:9-14)律法下において性交は人をその翌日まで汚れた者としましたから,ダビデもウリヤも軍務に就いている間は注意して性関係を避けました。(レビ 15:16-18。サムエル前 21:1-6。サムエル後 11:6-11)異教諸国の軍隊はしばしば征服した都市の婦女を犯しましたが,イスラエルの兵士は勝利を得てもそのような事を行ないませんでした。捕虜にした女と結婚することも一か月過ぎてからでなければ許されませんでした。―申命 21:10-13。
イスラエルの窮極の勝利はエホバに依存していましたが,それでも軍を巧みに統率することは必要でした。その責任は任ぜられた士官たち,および千人の長や百人の長に委ねられました。祭司たちは士気を鼓舞し,その戦役に指示と目的を与える任務を割り当てられていました。(民数 31:6,14。申命 20:2-4,9)裁き人の時代にはエホバによって起こされたその者が軍を戦線に導きました。また,戦術と戦略を練ったのもその裁き人です。裁き人は自分の兵力をいろいろな形で展開させました。分隊編成(普通は三分),不意打ち,待ち伏せ,正面攻撃,渡し場の掌握などです。―ヨシュア 8:9-22; 10:9; 11:7。士師 3:28; 4:13,14; 7:16; 9:43; 12:5。
王政時代
民は裁き人の下での神権的な取り決めに満足せず,むしろ「諸国民すべてのように」,「わたしたちの前を出て行き,わたしたちの戦いを戦う」王を持つことを願いました。(サムエル前 8:20,新)しかしサムエルは,そのような王は自分独りで戦うのではないことを警告しました。王は民の息子たちを取り,「自分のものとして兵車に乗らせ,自分の騎兵たちの中に置き,ある者たちは彼の兵車の前を走らねばならない」でしょう。(サムエル前 8:11,12,新)王は最高指揮官であり,軍の長がこれに次ぐ権威を持ちました。―サムエル前 14:50。
サウルの軍隊の規模と兵力は必要に応じて変わりました。ある時サウルは3,000人を選び取り,そのうち1,000人を息子ヨナタンの指揮下に置きました。(サムエル前 13:2)別の戦いの時には33万人が集められました。(サムエル前 11:8)しかし,ミクマシでしたように,3万台の兵車,6,000人の騎兵に加えて「砂粒のように数多い民」を動員することのできたペリシテ人の高度に機械化された軍隊と比べると,イスラエルの装備ははるかに貧弱に見えました。サウルとヨナタンを別にすれば,「戦いの日に民のだれの手にも剣も槍も見当たらなかった」と記されています。―サムエル前 13:5,22,新。
ダビデの治世にイスラエルの軍隊は規模の点でも効率の面でも大いに強化されました。戦いの装備をし,ヘブロンに来てサウルの王権をダビデに委ねた者はおよそ33万2,500人いました。(歴代上 12:23-38)ダビデの軍隊にはイスラエル人以外の人々も加わっていました。―サムエル後 15:18; 20:7。
ダビデは自ら最高司令官の地位を保持し,ヨアブ,アブネル,アマサなど野戦司令官を任命し,またその下に千人の長,百人の長を置くなど,従来の軍の機構の多くを保存しました。(サムエル後 18:1。列王上 2:32。歴代上 13:1; 18:15)しかしダビデは独自の新しい仕組みも創案しました。それは月ごとの交替制です。2万4,000人ずつ12組(合計は28万8,000人)の兵員が整えられ,各兵士は普通年に一か月だけ軍務に服することになりました。(歴代上 27:1-15)これはある月の2万4,000人すべてが同じ部族から来たという意味ではありません。各部族は年間を通じ月ごとに自部族の分担の人数だけ出したのです。
騎兵隊と兵車隊
古代の軍隊で強力を誇ったのは兵車隊です。移動式発射台とも言うべきこの兵車はその速さと機動性のゆえに,バビロニア人,アッシリア人,エジプト人などにより大いに重んじられました。そのため兵車は有力な世界帝国の軍事力の象徴とされるようになりました。しかし,イスラエル最大の軍司令官ダビデの下にあった軍隊は,その全体が剣,槍,弓,石投げ器などの武器を手に持つだけの歩兵から成っていました。ダビデは,勝利を求めて馬に頼ってはならないというエホバの諭しを銘記していたのでしょう。(申命 17:16; 20:1)また,ファラオの馬と兵車がエホバによって「海に投げ込まれた」こと(出エジプト 15:1,4,新),シセラの「鉄の大鎌付きの戦車九百両」の上にエホバが天の水門を開き,「キシヨンの奔流」がその敵軍を流し去ったことを思い起こしたに違いありません。―士師 4:3; 5:21,新。
そのため,攻め取った馬のひかがみを切り,敵軍の兵車を火で焼いたヨシュアと同じように,ダビデもゾバの王ハダドエゼルから奪った馬に対してそのようにしました。ゾバの王から攻め取った多数の馬のうち100頭を除き,残りはすべてそのひかがみを切って不具にしました。(ヨシュア 11:6-9。サムエル後 8:4)ダビデはある歌の中で自分の敵たちがいかに兵車や馬にこだわっているかを説明し,「しかしわたしたちは,わたしたちの神エホバについて述べます」と語っています。「馬はその救いに関しては欺瞞である」。(詩 20:7; 33:17,新)また,箴言の述べるとおり,「馬は戦闘の日のために備えられる。しかし救いはエホバのもの」です。―箴 21:31,新。
ソロモンの統治と共にイスラエル軍制史に新時代が画されました。その治世は比較的に平和でしたが,それでも彼は馬と兵車の数を多くしました。多くの場合,その馬はエジプトから買って輸入したものです。そうした新しい分隊を収容するため国の各地に幾つもの新都市をそっくり建設しなければなりませんでした。(列王上 4:26; 9:19; 10:26,29。歴代下 1:14-17)しかしエホバがソロモンのこの新制度を祝福された例はありません。彼の死およびその後の王国の分裂と共にイスラエルの軍事力は衰えました。イザヤは後にこう書いています。「援助を求めてエジプトに下って行く者たち,単なる馬に頼る者たち,またその数が多いので戦車に,それが強力なので乗用馬に信頼を置き,イスラエルの聖なる方を仰がず,エホバを求めなかった者たちに災いが来る」― イザヤ 31:1,新。
分立王国時代
王国の分裂後もユダとイスラエルとの間にはずっと敵対関係が続きました。(列王上 12:19,21)ヤラベアムが80万の兵を率いて攻めて来た時,レハベアムの後継者アビヤには40万の軍しかありませんでした。数の面では二対一の劣勢であったにもかかわらず,「エホバに頼ったために」南の王国のほうが勝利を収めました。イスラエルは50万の兵員を失いました。―歴代下 13:3-18,新。
こうした部族間の抗争に加えて,周囲の異教諸国との外的な敵対関係がありました。イスラエルは北のシリアとの外交関係の緊張のために常備軍を維持しなければなりませんでした。(列王下 13:4-7)ユダもまた異教の軍勢の侵出に抵抗する必要がありました。ある時エジプトはユダを侵略して多くの物資を略奪して行きました。(列王上 14:25-27)別の時にはエチオピアが100万の兵と300両の兵車とをもってユダに攻めて来ました。アサ王の軍勢は58万にすぎませんでしたが,彼が「その神エホバを呼びはじめた時」,「エホバがエチオピア人を撃ち破られ」,その一人も生き残りませんでした。―歴代下 14:8-13,新。
また,モアブ,アンモン,アンモニムが攻撃してきた時,ヨシャパテには116万の軍勢がありましたが,それでもヨシャパテは「エホバを求めることに顔を向け」,一方エホバは「戦いはあなた方のものではなく,神のものである」と述べて彼を力づけました。(歴代下 17:12-19; 20:1-3,15,新)これは戦史に残る事例となりました。訓練された合唱隊が「武装した者たちの前を進んで」,「エホバに賛美を捧げよ」と歌うと,敵の軍勢は混乱して同士討ちを始めたのです。―歴代下 20:21-23,新。
ローマ人
ローマの軍隊はアウグスツスの治世に約30万と推定されていますが,それ以前の諸帝国の場合とは大いに異なる組織となっていました。ローマ軍の常設編制において中心をなしたのは軍団です。それは独立した大きな単位で,大きな軍隊に属する特殊化された部隊というより,それ自体がすべてを備えた軍隊を成していました。幾つかの軍団が連合し,その器材と兵力を中央司令下に統合して戦う場合もありました。西暦70年,エルサレム攻囲のため四つの軍団がティツスの下に連合したのはその一例です。しかし軍団は普通単独でそれぞれの任務に当たりました。これらの軍団を補ったのは帝国の全域から取られた非市民の補助軍で,それは各地域ごとの志願兵である場合もありました。これら補助軍は軍団の支援を受けつつ国境ぞいに配置されました。補助軍の兵士は満期除隊の際にローマ市民権を与えられました。
軍団の数は時代によって異なり,ある時には25ないしそれ以下,ある時には33を数えました。各軍団を構成する兵士の数も,第一世紀には6,000人が普通であったとはいえ,状況により4,500人から7,000人と変動しました。このため聖書中の「軍団」という語は一般に数の多いことを指して用いられています。(マタイ 26:53。マルコ 5:9。ルカ 8:30)各軍団にはその司令官がおり,皇帝に対してのみ責任を持ちました。その下に六人の執政武官がいて,千人隊長(軍司令官,新)とも呼ばれていました。―マルコ 6:21。ヨハネ 18:12。使徒 21:32–23:22; 25:23。
各軍団は十の歩兵隊ないし部隊に分けられていました。ですから聖書には「イタリア隊」,「アウグスツスの部隊」などのことが出て来ます。(使徒 10:1; 27:1)西暦44年,ヘロデ・アグリッパが死んだ時,カエサレアには五つの歩兵隊が駐屯していました。軍団はさらに細分されて60の百人隊から成り,普通100人で成るその一隊は百人隊長(士官,新)の指揮下に置かれました。これらの士官は特に重要な存在であり,兵士の訓練の任に当たりました。(マタイ 8:5-13; 27:54。使徒 10:1; 21:32; 22:25,26; 23:17,23; 24:23; 27:1,6,11,31,43)各軍団には特別な階級の士官十人がいて,護衛官,伝令官,時には刑の執行官の役をしました。―マルコ 6:27。
ローマの各軍団にはそれぞれの軍旗や標章があり,それには鷲その他の動物の像があしらわれ,後には皇帝の小さな肖像が付け加えられました。これらの旗には宗教的意味が付されて神聖視され,崇拝の対象とされ,また死守すべきものとみなされました。それがエルサレムに置かれることにユダヤ人が激しく反対したのはそうした理由によります。
ローマ軍団への入隊の際には忠誠の誓約が読み上げられ,兵士はそれを守ることに同意しました。初期においてこの誓約は年ごとになされましたが,後には一度の終身の誓約がこれに代わりました。任期は年数で数えられましたが,その兵士が携わった戦役の数で数えられる場合もありました。兵士の年齢は普通17歳から46歳まででした。これらの軍隊は税金によってまかなわれ,兵士の日当は大体16セント(約32円)でした。ギリシャ人は一般に,厳しい鍛練は反発を招くと感じていましたが,ローマ人は兵士の全生活に厳格な紀律を課しました。その訓練の中には36㌔の背のうを担って一日に32㌔以上歩くことも含まれていました。結婚は奨励されないか,でなければ禁じられていました。臆病と不従順は死をもって罰せられました。心理的教化と“洗脳”は紀律と訓練の中に織り込まれていました。
初期クリスチャン
初期のクリスチャンはローマの軍隊に従軍することを拒んで軍団にも補助軍にも入らず,そのような職務をキリスト教の教えと全く相入れないものとみなしました。殉教者ユスティヌス(西暦110-165)はその著作「トリュフォンとの対話」の中でこう述べています。「戦いと殺し合いとあらゆる悪とに満たされていた我々は全地にわたり各自自分の戦闘の道具を打ち変えた ― 剣をすきの刃に,槍を耕作の道具に」。西暦204年,テルツリアヌスがクリスチャンと兵役の問題に関してどのような立場を取っていたかは明らかです。その論文「栄冠について」の第11章の中で「クリスチャンにとって戦闘が許されるものかどうか」を取り上げ,「軍隊生活そのものの不法性」について聖書から論じつつ,「わたしは軍隊生活をわたしたちの生活から追放する」と結んでいます。「オリゲネス[185-254]は……『クリスチャンの教会はいかなる国に対する戦争にも従事することができない……』と述べている。その時代には多数のクリスチャンが兵役を拒否して殉教した。紀元295年3月12日,ローマの著名な軍人の子マクシミリアヌスは,ローマ軍への従軍を求められた時,ただ『私はクリスチャンです』と言ってそれを拒んだ」― H・イングリ・ジェームズ; A・ゴルドン・ナスビー編「クリスチャン世界の宝」,1953年,369ページに引用されたもの。
「入手し得る限りの情報を精細に検討して言えば,マルクス・アウレリウス[121-180]の時までクリスチャンはだれも兵士とはならなかった。クリスチャンとなった兵士でその後兵役にとどまった者もいない」。(E.W.バーンズ,「キリスト教の興隆」,1947年,333ページ)「紀元60年から165年ごろまでの間クリスチャンの兵士が一人でもいたという形跡はごくわずかであると今日言えよう。……少なくともマルクス・アウレリウス帝の治世までクリスチャンはだれもバプテスマの後兵士になろうとはしなかった」。(C・J・カドークス,「初期教会と世界」,1955年,275,276ページ)「第二世紀に,キリスト教は……兵役とキリスト教とが相入れないことを宣言していた」。(G・フェレロ,C・パルバガロ,「ローマ小史」,1919年,382ページ)「クリスチャンの行動は一般ローマ人の行動と非常に異なっていた。……キリストは平和を宣べ伝えた。そのために彼らは兵士となることを拒んだのである」。(N・プラット・M・J・ドルモンド,「我々の世界,その各時代」,1961年,125ページ)「最初のクリスチャンたちは戦うことを悪とみなし,帝国が兵士を求めた時にも兵役に就こうとしなかった」。(R・ウエスト,W・N・ウエスト,「旧世界に置かれた新世界の基」,1929年,131ページ)「クリスチャンは……公職と兵役から身を引いた」。(F・P・G・ギゾ,「ゴールにおける対クリスチャン迫害,紀元177年」)「熱心なクリスチャンたちは軍隊に入らず,政治上の職務に就かなかった」。(ハバートン,ロス,スピアーズ,「世界の歴史 ― 人間の業績の物語」,1962年,117ページ)「彼ら[クリスチャン]は無抵抗服従の哲理を唱道しつつも,政治や帝国の軍事的防衛に対する積極的参与を一切拒んだ……クリスチャンが自分の持つより神聖な職務を放棄せずに兵士であり,行政官であり,また君主であることは不可能であった」― エドワード・ギボン,「ローマ帝国衰亡史」,第一巻,416ページ。
天の軍勢
天の軍勢,それは,よく組織された衆群という意味で,天体である星の集まりを指し,さらにはエホバ神の至上の司令下にある霊の被造物であるみ使いたちの強大な集団を指しても多く用いられています。(創世 2:1。ネヘミヤ 9:6)「万軍のエホバ」という表現はヘブライ語聖書に281回あり,その初例はサムエル前書 1章3節です。それに相当する語はギリシャ語聖書にも二回出て来ます。(ローマ 9:29。ヤコブ 5:4)み使いの戦士たちについて述べる際に,「軍団」,「戦車」,「騎兵」などの軍事用語が用いられています。(列王下 2:11,12; 6:17,新。マタイ 26:53)その規模について言えば,エホバの見えない軍隊の宿営は『よろづに万をかさね千にちぢを加え』た数の戦車を擁しています。(詩 68:17)戦闘の軍勢としてみ使いたちは無敵です。「エホバの軍の君」は抜いた剣を手にしてヨシュアに現われ,エリコをどのように攻め取るかについて指示を与えました。(ヨシュア 5:13-15,新)この天の軍隊に属する一人のみ使いは一夜のうちに18万5,000人のアッシリア人を打ち倒しました。(列王下 19:35)天で戦争が起きた時,ミカエルとその使いたちはサタンと配下の悪霊たちを地の近くに投げ落としました。(啓示 12:7-9,12)さらに,『王の王,主の主』が「天にある軍勢」を率いて「野獣と地の王たちとその軍勢」を滅びに至らせる時,その手から逃れ得る者はありません。(啓示 19:14,16,19,21)同時にエホバのこの見えない強大な軍隊は地上にいる神の忠実な僕たちに保護を与えます。―列王下 6:17。詩 34:7; 91:11。ダニエル 6:22。マタイ 18:10。使徒 12:7-10。ヘブライ 1:13,14。