その5
ヨハネ 1:1,2にもどる
58 クリスチャンたちにあてた最初の手紙の終りの方で,ヨハネは,イエス・キリストを私たちにどのように理解させてくれますか。
使徒ヨハネは,クリスチャンたちにあてて書いた最初の手紙の結びの部分でも,同じ理解をいだいています。すなわちイエス・キリストは神の子であり,神によって産み出された人間はイエスと共に神の子であるということです。聖書のアメリカ訳は,ヨハネの手紙の結論を次のように訳しています,「神の子が罪を犯さないことを,私たちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので,悪い者が彼に触れることはできない。また,私たちは神の子であり,全世界は悪い者の勢力下にあることを知っている。さらに,神の子が来て,真実なるかたを知る力を私たちに与えて下さったことも知っている。私たちは真実なかたと一致している」。どのように? 「御子イエス・キリストによる。彼は真の神であり,永遠の生命である。愛する子たちよ。偶像を避けなさい」。―ヨハネ第一 5:18-21,新口。
59 多くの翻訳で,ヨハネ伝 1章1節はどうなっていますか。しかしいま私たちは何を決定できる立場にいますか。
59 イエス・キリストを子とする御方は「真の神,永遠の生命」であり,イエス・キリストは「神から生れたかた」で,神の他の子たちを守る方であるゆえ,私たちはいろいろの翻訳の存在するヨハネ伝 1章1,2節をどのように理解すべきですか。たくさんの訳は次のようです,「そして言葉は神と共にあった。言葉は神であった」。他の訳によると,「そして,言葉(ロゴス)は神性を持つものであった」。別の訳,「そして言葉は神であった」。他の訳,「言葉はひとりの神であった」。私たちは肉体になられた言葉なるイエスについて,ヨハネの書いたものをくわしくしらべました。それで,今ではそれらの翻訳の中どれが正確であるかを決めることができます。それは私たちの救いを意味します。
60 普通の翻訳に従い,レオ・トルストイ伯爵は,ヨハネ伝 1章1節についてどんな注解をしていますか。
60 最初,欽定訳あるいはドウェー訳による次の通俗的な訳を考えてみましょう,「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。そして言葉は神であった。同じものは,はじめ神とともにあった」。いまレオ・トルストイ伯爵著の「調和させて訳された四福音書」という本から,次の数行を引用することは適当です,
はじめに理解,あるいは言葉があり,そしてその言葉が神とともにあった,あるいは神のためにあったと言いながら,それは神であったと言うことは不可能である。もしそれが神であるなら,それは神と無関係な立場に立つa」。
使徒ヨハネは,ある者(「言葉」)が他の方(「神」)と共にいて,同時にその方(「神」)であると言うほど論理に欠けるはずはありません。
61 (イ)ヨハネが,イエス・キリストを「神の子」と証明した以上,言葉について当然どういうことが言えますか。(ロ)黙示録 19章13節を考慮に入れると,ヨハネ伝 1章1節は,言葉についてせいぜい何を意味しているにちがいありませんか。
61 神とともにいた言葉は「肉体になって」,イエス・キリストになり,イエス・キリストは「神の子」であると,ヨハネはあかししています。それで,その言葉が神の子であると言うのは正しいことです。その言葉が神である,すなわち「唯一の真の神」であると言うことは,使徒ヨハネの書いた他の部分によって証明されていることに反します。聖書の最後の本である黙示録 19章13節でヨハネは彼を「神の言」と呼んでいます。「彼の名は神の言と呼ばれる」。(欽定訳。ドウェー訳)彼の名が「神なる言」と呼ばれず,「神の言」と呼ばれるのに気をつけて下さい。それで,ヨハネ伝 1章1節は,せいぜいのところ,その言葉が神からのものであることを意味するにちがいありません。
62 「初期キリスト教教父の福音」という題の本は,ヨハネ伝 1章1節の真実の訳はおそらくどのようだと述べていますか。
62 ロスリン・ド・オンストン著「初期キリスト教教父の福音書 ― 第二世紀に存在した聖なる福音書の英語訳」と題する本bがあります。その表題の頁には,この訳がどのように編集されたかが述べられています。ヨハネ伝 1章1節は,この訳によると,「言は神であった」と書かれています。しかし,そこには次のような脚註あります,「ここの真実の訳は,おそらく,神の言とすべきであろう。批判的なノートを見なさい」。―118頁。c
63 ギリシャ語原文のヨハネ伝 1章1節の言いまわしは,言葉が何であったかについて,なぜ翻訳者の意見をまちまちにさせてしまうのですか。
63 その言葉が「神」か,「神」,あるいは「ひとりの神」かということについて,なぜ翻訳者たちの間に意見の一致がありませんか。そのわけは,「神」というギリシャ語は,述語に属するべきであるのに,文章のはじめにあり,またその(言葉の)まえに「その」という定冠詞がないからです。ヨハネ伝 1章1,2節を言葉順に文字通り訳すと次のようです,「はじめにその言葉があった。そしてその言はその神と共にあった。神はその言であった。これは,はじめ,その神と共にあった」。
64 主教ウエストコットは,モウレ教授によって引用されているとおり,定冠詞「その」がまえについていない「神」という言葉は何を説明すると言いましたか。
64 2番目の「神」の前に「その」という定冠詞が省略されているのに気をつけて下さい。この省略についてモウレ教授は「セオス・エン・ホ・ロゴスに冠詞の省略されていることは,慣用語法に過ぎないのではないか」と述べています。それから,次の節でモウレは次のように言っています,
一方,次のことを認めることは必要である,すなわち4番目の福音伝道者〔ヨハネ〕はこの言葉の配列を選ぶ必要がなかったことである。しかし,彼がこの言葉の配列を選んだことは,少々あいまいな意味をつくり出すが,それ自体彼の意味を示すものであろう。そして,〔主教〕ウェスコットのノート(イン・ロック)は,慣用句にいくつかの参照句をつけ加えることを必要とするかも知れぬが,おそらく筆者の神学的な意図を,今でも表わしている,『それはその言葉の性質を述べており,彼の位格を示していないゆえ,当然冠詞なしでなければならぬ(ホ・セオスでなくセオス)「その言はホ・セオスであった」と言うことは,純粋なサベリ主義である。その表現形式によれば,性質の劣っているという考えは,すこしも示されていない。そのことは,その言が真実に神であることを証明しているに過ぎない。5章27節にキリストが真実に人間であることを示す逆の言葉と比較しなさい。(ホチ・フィオス・アンスロポウ・エスチンd……)
65 主教ウエストコットの言ったことを考えにおいて,いく人かの翻訳者たちは,ヨハネ伝 1章1節をどのように訳しましたか。そして,その訳は,言葉を何であるように描写しますか。
65 クリスチャン聖書の有名なウエストコットとホート・ギリシャ語写本の共同作者,故ウエストコット卿は,「キリストが真実に人間である」と語っていながら,イエス・キリストが「真実の人間」でなく,まぜ合わされた者,すなわち神人と言われるものであると論じています。しかし,ギリシャ語セオスの前の定冠詞そのが省略されていることは,セオスという言葉を,言葉の位格を示すよりも,「言葉の性質を述べる」形容詞のようにすると同主教が言っているのに気をつけて下さい。このわけで,ある訳者は「そして言葉は神性であった」と訳しているのです。それは,言葉が神であって,神と同じであると言うこととはちがいます。一文法家は,「そしてその言は神格者であった」と訳し,その言葉が「神の全部」でないという見解を述べていますe。三位一体論者によると,その言葉は神の3分の1に過ぎず,三者一体の神の中の同等の第3の位格でした。しかし,ヨハネの書いたもの全部を考慮した結果,そのような教えが偽りであることは証明されました。三位一体論者でさえも,その教えを理解することができず,説明することができません。その言葉は神の子であって,神の第2位ではありません。
66,67 (イ)トレイの翻訳は,ヨハネ伝 1章1節をどのように印刷していますか。(ロ)「エンハチック・ダイアグロット」はどのように印刷していますか。
66 シー・シー・トレイの書いた「四つの福音書」(英文)は,(定冠詞)ホのあるセオスとホのないセオスのあいだの相違を示し,その翻訳を次のように印刷しています,「そしてその言は神と共にいて,その言は神であった」。(1947年の再版)
67 1864年,ベンジャミン・ウイルソン著の「ジ・エンハチック・ダイアグロット」訳は,翻訳を次のように印刷することにより,その相違を示しています,「そして,ロゴスは神と共にいた。そしてロゴスは神であった」。
68 (イ)そのように印刷された翻訳は,言葉について何を示しますか。(ロ)それでどんな質問が生じますか。
68 そのように印刷された翻訳でさえ,人間になる前に天界で神と共に存在した言葉は,神のごとき性質を持っていたが,神ではなく,また神の一部でないことを示しています。その言葉は神の子でした。すると,次の疑問が起きます。すなわち,天にいた神の子たちの中で,まず第1にこの敬虔な性質を持ったそのような神の子を,私たちは何と呼びますか。私たちは,ユダヤ人たちに語ったイエス・キリストの言葉を思い出します。すなわち詩篇 82篇1-6節で,神の言葉が伝えられた人間のさばき人たちは「神」と呼ばれたのです。―ヨハネ 10:34-36。
「神の子たち」
69 「ゲセニウスのヘブル語文法」は,ヘブル語聖書の中の「神の子たち」という表現について何と述べていますか。
69 ヘブル語聖書の創世記 6章2,4節,ヨブ記 1章6節,2章1節および38章7節は,「神の子たち」(ベネイ,ハーエロヒム)のことを述べています。ゲセニウスの「ヘブル語文法」の418頁,第2節は,その聖句について次のように注解して述べています,
〔「の子」〕ベン,あるいは〔「の子たち」〕ベネイには,(種族あるいは明確な級の)ギルドあるいは社会の会員を示すために,別の用法がある。それで,ベネイ・エロヒム〔「神の子たち」〕あるいはベネイ・ハーエロヒム〔「その神の子たち」〕創世記 6章2,4,ヨブ記 1章6節,2章1節,38章7節は(また詩 29:1,89:7のベネイ・エリムとも比較せよ),神の子たちという意味でなく,エロヒムあるいはエリム級の者という意味である……。
それから,この文法書は,列王紀略上 20章35節にある「預言者たちの子たち」というヘブル語の表現を,「預言者のギルドに属している人々」の意味であると説明しています。また,ネヘミヤ記 3章8節にある「製香者の子」に対するヘブル語の表現が,「製香者のギルドの者」という意味であると述べています。―アモス書 7章14節をも見なさい。
70 コエフラーとバウムガルトナーによる「旧約の本のための辞書」は「ゲセニウスのヘブル語文法」とどのように一致していますか。
70 コエフラーとバウムガルトナー著の「旧約の本のための辞書」(英文)も,ゲセニウスの「ヘブル語文法」と一致しています。その1951年版の134頁,第1欄の12,13行で,この「辞書」は,まずヘブル語の表現を印刷し,それからその意味をドイツ語と英語で示し,「ベネイ エロヒム(単独の)神なる者,神々」。それから51頁,第1欄,2,3行で,それは次のように述べています,「ベネイ ハーエロヒムその(単一の)神々 創世記 6:2。ヨブ 1:6; 2:1; 38:7」。
71 詩篇 8篇の中で,ダビデは天の御使たちをどのように呼んでいますか。それで,多くの翻訳者は,詩篇 8篇5節をどのように訳していますか。
71 詩篇 8篇4,5節でダビデは神の言葉がどのように肉体になったかを預言的に語っています。そして,ダビデは天の御使たちをエロヒムあるいは「神々」と呼び,詩篇 82篇1,6節に出ている言葉と同じ言葉を用いています。欽定訳は次のように述べています,「人はいかなるものなれば,これをみこころにとめ,人の子はいかなるものなれば,これをかえりみたまふや。汝は御使よりもすこしく低く人をつくり,栄と誉をかぶらせ給えり」。ヘブル書 2章6-9節は,その言葉をイエス・キリストに適用し,肉体になられた彼が「御使たちよりすこし低くつくられた」(欽定訳)と示しています。しかし,アメリカ訳は詩篇 8篇5節を次のように訳しています,「しかし,なんぢは彼を神よりもすこし低くつくった」。エス・ティー・バイングトン著の「詩篇の本」は,「そして,あなたは彼を神にすこし劣る者につくった」と訳しています。モハット訳は,「しかしなんぢは彼を神性者よりすこし低くつくった」。
72 「新世訳」は,詩篇 8篇5節をどのように訳していますか。なぜその訳は多神論を教えるものではありませんか。
72 新世訳は次のように訳しています,「あなたも彼を,神のごとき者たちよりすこし低くつくりました」。この最後の訳は,多神論あるいは多数の神々の崇拝を教えていますか。そのようなことは全くありません! なぜですか。なぜなら,ヘブル語聖書の中にもこれらのものがはいっており,エロヒムすなわち「神々」という称号を人間や御使たちに適用しながら,しかもそれらのヘブル語聖書は多神論をユダヤ人たちに教えませんでした。
73,74 (イ)悪魔と悪魔に属する悪鬼どもは,かつて何でしたか。そして,この世とその諸国民にとって彼らは何になりましたか。(ロ)コリント前書 8章5,6節でパウロが教えていたことはなぜ多神論ではありませでしたか。
73 自らサタン悪魔になった霊者は,最初はそれらの「神の子たち」のひとり,あるいはそれらの「神のごとき者」のひとり,つまりそれらエロヒムのひとりであったという聖書の教えを忘れてはなりません。また,サタンの影響を受けて悪鬼共になった霊者たちは,かってそれらの「神のごとき者たち」の中に数えられていました。それで,使徒パウロがサタンを「この世の神」と呼んだこと,および異教の諸国民が悪鬼を彼らの神にして,それらに犠牲をささげたと述べているのも,格別目新しいことではありません。―コリント後 4:4。コリント前 10:20,21。
74 パウロは次のように語りました,「神と称ふるもの,或は天に或は地にありて,おほくの神,おほくの主あるが如くなれど……」。しかし,パウロは多神論を教えていたのではありません。なぜなら,彼は次の言葉をつけ加えました,「我らには父なる唯一の神あるのみ,万物これより出で,我らも亦これに帰す。また唯一の主イエス・キリストあるのみ,万物これに由り,我らも亦これに由れり」。(コリント前 8:5,6)私たちは主イエス・キリストの崇拝する同じ神を崇拝します。その方は「父なる唯一の神」です。私たちは「唯一の主イエス・キリスト」なる神の御子を通して,彼にこの崇拝をささげます。
75 「新世訳」は,ヨハネ伝 1章1-3節をどのように訳していますか。そして何をもとにしてそのように訳していますか。
75 使徒ヨハネの教えをもとにして,まったくのところ,聖書中のすべての聖句をもとにして,聖書の新世訳はヨハネ伝 1章1-3節を次のように訳しています,「最初に言葉があった。その言葉は神と共にいて,その言葉はひとりの神であった。このものは最初神と共にいた。すべてのものは彼によってできたのであり,彼によらないでは何一つとしてできたものはなかった」。
76 (イ)他のすべての生物を造り出すために用いられたので,天にいた言葉すなわちロゴスは何であったに違いありませんか。(ロ)話される言葉のように,言葉は何ですか。またどんな地位をしめていますか。
76 たしかに,父なる神が他の生物全部を造り出すために用いた言葉あるいはロゴスは,ヘブル語聖書がエロヒム,あるいは「神々」と呼んでいる他のすべての御使の中で長なる者,あるいは最初に生まれた者でした。彼は「ひとり子」です。なぜなら,神は他の手段あるいは生物の協力なしに,神ご自身が直接に創造されたからです。(ヨハネ 3:16)もし言葉あるいはロゴスが神の創造した最初の生ける者でないなら,神が最初に創造した子はだれですか。神の子たちの家族の最初につくられたひとりとして,この最初の創造はどのようにあがめられ,用いられましたか。それは言葉あるいは「神の言」なるロゴス以外の者ではありません。話す者がつくり出す言葉のように,言葉あるいはロゴスは,神のつくるもの,神が最初につくったものです。神のさばきの言葉が告げられた地上の不正なさばき主たちは,聖書的に「神々」(エロヒム)と呼ばれました。それで,神が正しいさばき主に任命し,その者を通して神の言葉を私たちに伝える言葉あるいはロゴスも,聖書的に「ひとりの神」と呼ばれます。彼は人間のさばき主よりも,はるかに力のある方です。
「言葉」
77 彼の称号である「言葉」は,彼が何であることを表わしますか。それはどんな話を私たちに思い出させますか。
77 「言葉」という称号そのものも,彼が神の子たちの中で主要な者であることを示します。「1768年,1769年,1770年,1771年,1772年そして1773年にナイル川の水源地探険旅行」(英文)の中でジェームス・ブルースの述べているアビシニア人カルハツェのことが思い出されますf。
カル・ハツェというひとりの士官がいる。彼はいつも格子窓の傍にある階段の上に立っている。この格子窓には内側が緑色の琥白織のカーテンで覆われている孔がある。王はこのカーテンのうしろにすわる。そして,彼はこの孔を通して,評議員に言葉を伝える。評議員は,起立してメッセンジャーを受け入れる。……以前は彼の顔は決して見られなかった。彼の体の一部も見られなかった。時々彼の足が見られる程度であった。彼は一種の露台の中に座り,彼の前には格子窓とカーテンがある。しかもなお彼は謁見のときや公共の人に現われるとき,またさばきを行なうときに顔を布で覆う。反逆の場合,彼は露台の中に座り,その傍の孔を通して,「王の声あるいは言葉」カル・ハツェと呼ぶ士官に話し,質問やその他の事柄を会議テーブルに座る裁判官たちにする。
78 共和国の大統領が,国民の舌と呼ばれるのは,どんな意味がありますか。
78 これと類似のことを示すものは,1961年9月12日付のニューヨーク・タイムス紙に出た「インドネシア人の偶像 ― スカルノ」と題する記事です。彼の写真の下に「インドネシア人の舌」という説明が記され,記事は次のように述べています,
……ほとんどかならずといって良いぐらいに,講演者は次のように言葉をつけ加える,「私が死ぬ時に私の墓に金文字で『インドネシアの初代大統領,技術博士閣下スカルノはここに横たわる』と書いてはいけない。次のように書いて欲しい,「ここにインドネシア人の舌であるスカルノ・ブング〔兄弟〕は横たわる」。
彼を「舌」と呼ぶことは,彼が全国民のかわりに話すという意味です。
79 (イ)出エジプト記 4章16節は,アロンに対し,それによく似たどんな比喩を用いていますか。(ロ)ユダヤ人に対するどんな声明によってイエスは,彼が神の言葉であることを示しましたか。
79 聖書の出エジプト記 4章16節も,同様な比喩を用いています。神は預言者モーセに彼の兄弟アロンにつき,次のように言っています,「彼なんぢに代りて民に語らん彼は汝の口に代らん,汝は彼のために神に代るべし」。アロンは,神のごときモーセの代弁者として,彼の代りの口になって奉仕しました。イエス・キリストになられた言葉あるいはロゴスについても同じことが言えます。イエスは,彼が神の言葉すなわち代弁者であることを示すため,ユダヤ人たちにこう語りました,「わが教はわが教にあらず,我を遣し給ひし者の教なり,人もし御意を行はんと欲せば,此の教の神よりか,我が己より語るかを知らん」。イエスは,彼が神の代りに語っていると説明して,次のようにも語りました,「されば我は語るに,我が父の我に言ひ給ふままを語るなり」。―ヨハネ 7:16,17; 12:50。
80 イエスが神の言葉であることを考えると,私たちはいま,ヨハネ伝 1章1,18節,20章28節が私たちの注意を引いているように,いま何を認識することができますか。
80 神の言葉なるイエス・キリストは,神のつくられた他のものの持たぬ地位を占めているゆえ,使徒ヨハネがヨハネ伝 1章1節で「その言葉はひとりの神であった」と書いた理由も納得できます。また,大多数の昔のギリシャ語写本に記録されているごとく,ヨハネ伝 1章18節にあるヨハネの言葉の意味も良く分かります,「未だ神を見し者なし,ただ父のふところにいます独子の神のみ,彼を解き明かせり」。(ロザハム訳)彼は,天の父を私たちに解き明かしした「独子の神g」であるゆえ,私たちは復活されたイエス・キリストに「私の主,私の神」と語った使徒トマスの言葉の正しい意味を十分に認識することができます。―ヨハネ 20:28。
81 神の言葉であるゆえに,地上で肉と血になった彼の主な目的は何でしたか。
81 「神の言」なるイエス・キリストは,父なる神の宇宙的な代弁者であるゆえ,使徒ヨハネがイエス・キリストを神の長なる証者と述べていることはきわめて至当なことです。言葉あるいはロゴスが肉体になって,私たち血肉の者のあいだに住まわれた主要な目的は,証言をすることでした。ローマの総督ポンテオ・ピラトの前に立って生死を決するさばきを受けたとき,肉体になられた言葉は次のように語りました,「我はこれがために生れ,これがために世に来れり,即ち真理につきて証せん為なり。凡て真理に属する者は我が声をきく」。―ヨハネ 18:37。
82 それで,言葉は黙示録 3章14節,1章5節の中で正しく何と呼ばれましたか。
82 神の長なる証者として地上におられたときの彼の記録から判断するとき,天の栄光を持つ「神の言葉」は,黙示録 3章14節で次のように言うことができました,「アァメンたる者,忠実なる真なる証人,神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ」。したがって,使徒ヨハネは,神および「忠実なる証人,死人の中より最先に生れ給ひしもの,地の諸王の君たるイエス・キリスト」からの恵みと平和がクリスチャン会衆に与えられることを祈りました。(黙示 1:4,5)彼はエホバ神のクリスチャン証者たちの長です。
83 (イ)したがって,何をするのは私たちにとってよいことですか。(ロ)ヨハネと同様にそれをすることによって,私たちは何になりますか。
83 いまイエス・キリストは天の栄化された「神の言」であるゆえ,私たちが彼の語る事柄に耳を傾けることは良いことです。なぜなら,彼が語るとき,それはあたかもエホバ神ご自身が話しておられるのと同じだからです。(黙示 19:13)栄化されて生きている「神の言」に耳を傾けることにより,私たちは「真理に」属していることを証明します。彼の声を知り,彼の声に耳を傾けて答え応ずることにより,私たちは彼の「羊」なることをはっきり示します。(ヨハネ 10:3,4,16,27)もし私たちが彼の声を聞いて,戸を開け,私たちの住むところに彼を迎え入れるなら,彼は中にはいって,私たちと共に霊的な夕食を共にするでしょう。(黙示 3:20)霊感を受けて聖書を書いたクリスチャンたちの中で使徒ヨハネがいちばん多く証言,および証言のわざのことを書きました。もし私たちがヨハネのように,王なる「神の言」の声に耳を傾けるなら,私たちも忠実な証者になり,人を解放して神の正義の新しい世における永遠の生命にみちびく真理についてあかしを立てます。最後に,私たちは,使徒ヨハネを用いてその言葉がだれであるかを私たちに知らしめ給うたエホバ神に感謝をささげます。
[脚注]
a 「調和させて訳された四福音書」の30頁2節から引用。レオ・ウイナー教授が原語のロシア語から翻訳。1904年ニューヨーク市のウイレイ書籍会社が版権を得,出版した。著者は,1910年に死亡したロシアの作家であり宗教哲学者であった有名なレオ・トルストイ伯爵。
b この本の表題紙は次のように述べている。「第2世紀から第10世紀までの,120人のギシャ人,ラテン人の教父の言葉と照校された第2世紀の26の古いラテン語訳(イタリック体)。バルゲート訳,24のアンシャル体ギリシャ語訳,いくつかは草書体。シリヤ語,エジプト語,およびステフナス(西暦1550)から1881年のウエストコット・アンド・ホートに至るまでのすべてのギリシャ語の聖句を比較することによって改証された他のふるい聖書訳。ウイックリッフ(14世紀)から1883年のアメリカン・バプテスト聖書。実際的な訳を提出した英語および外国語のあらゆる注釈書。―ロンドン,グラト・リチャーズ,48,レイセスター・スクエア,1904年。
c 156頁のヨハネ伝 1章1節に関するこの批評的注釈は次のように述べている。「『神の』がほんとうの訳であることを信じてよい三つの理由がある。その一つは,その注釈に述べられている通り,写本である。第2は論理なぜなら,もしその福音伝道者が,『神であった』という意味で言ったなら,次の節はあり得なかったから。第3は,この文の,文法上の構造である。『神であった』とするためには,彼は,hoiógos én theósとしはしなかったであろうか。そのほうがよほど雅一致があったに違いない。しかし,kai theou én ho lógosとなっておればtheouは文章の正しい場所にある。私は,故ウエストコット主教の特別の願いにより,このくだりの聖句を訂正するのをさしひかえた」。ギリシャ語theouは,「神の」という意味。
d ケンブリッジ大学神学部レディ・マーガレットの教授シー・エフ・ディ・モウレ著「ギリシャ語新約聖書の熟語集」116頁より引用。
e 「クリスチャン・ギリシャ語新世訳」(英文)付録,774頁,1950年版1,2節を見てください。
f スコットランド,エジンバラのジェームス・ブルース・キンナード(Esq.F.R.S.)の書いたこの本の第4巻74頁,第3巻265頁から引用。
g エス・テイ・バイングトンの翻訳(まだ原稿のままになっている)は,ヨハネ伝 1章18節を「いまだ神を見た者はいない。父のふところにいます独子の神だけが彼を説明している」と訳している。