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デンマークにおける王国の拡大ものみの塔 1984 | 6月15日
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ささげることを望んでいました。ですからエホバにささげられた瞬間から,その建物はエホバ神のものとなり,エホバ神に神聖な奉仕をささげることを目的として維持されます。それで出席者は全員献堂式の祈りにあずかり,自分たちのこの労働の実を,本当に心から喜んで偉大な神エホバにささげました。
その晩出席者たちは食事を共にし,いろいろな話や音楽に耳を傾けました。それから,ソロモンの神殿がささげられた後のイスラエル人のように,『エホバが行なわれたすべての良いことのために歓び,心に楽しく感じながら』家に帰って行きました。―列王第一 8:66。
その新しい支部の施設は,必ずや兄弟たちにとって祝福となり,デンマークにおける王国の業の継続的な拡大に役立つに違いありません。
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読者からの質問ものみの塔 1984 | 6月15日
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読者からの質問
■ 私の友人が流産してしまいました。同じ女性として同情していますが,復活の希望を抱くよう励ますのはふさわしいことでしょうか。
お友だちを慰め,クリスチャンとしての親切な援助を与えることによって,あなたは多くの善を行なえるに違いありません。しかし聖書は,胎芽の復活を期待できる根拠を示してはいません。その理由を考慮してみましょう。
女性が妊娠した時には,ただ一つの細胞,すなわち受精卵しかありません。その細胞は分裂し,子宮内に着床し,それから胎芽が発育を遂げて最終的には子供が生まれますが,普通これには9か月かかります。流産はこの自然の過程を中断させ,すでに始まっていた生命,成長して別個の人間になるはずだった生命に終止符を打ちます。堕胎を行なうなら,それは命の神聖さにも,殺人を否とする神のご命令にも反します。―出エジプト記 20:13; 21:22,23。民数記 35:16-18。ペテロ第一 4:15。
成長し,誕生後にダビデと名づけられた胎芽を宿していたエッサイの妻について聖書が述べていることから分かるように,わたしたちの命の与え主は子宮内で成長している生命をよくご存じです。(詩編 139:13-16。ヨブ 31:15と比較してください。)しかし,流産あるいは死産の場合の復活の可能性についてはどうでしょうか。
聖書は,胎児や胎芽の死ぬ場合があることを認めています。それは,自然流産をした場合,あるいは流産や死産をした場合に生じます。―創世記 31:38。出エジプト記 23:26。列王第二 2:19-21。ヨブ 21:10。詩編 58:8; 144:14。
ヨブは流産の生じ得る様々な方法を挙げていますが,そのうちのいずれも,自分が経験していた苦しみよりまだましだとヨブは考えていました。自分は「隠された流産」,『光を見なかった子供たちのように,いない』者であればよかった,とヨブは述べました。(ヨブ 3:16)この聖句は,妊娠したことに女性が気づく前,また胎芽が母胎外での生存可能性を有していない時に生ずる流産について言及していると考えられます。「ボディー・マシン」という出版物はこう述べています。「多くの卵子[受精卵]は普通は発育しない。その数は実際のところ発育する数をはるかにしのいでいる。約10パーセントは着床に成功せず,着床したものの約半数も,普通は母親が気づかないうちに自然流産してしまう」。
ヨブはさらに,『自分の母の腹の戸が閉じられていたなら,自分は悩みから隠されていたであろう』と述べました。したがってヨブは,もし「胎から出て」あるいは「胎の中で」『死んでいたら』,苦しみを免れていたことでしょう。(ヨブ 3:10,11,新世界訳聖書; ロザハム訳)胎芽や胎児の重大な欠陥が時にこのような事態をもたらします。あるいは,母親の生殖器の異常,ビタミンやホルモンや酸素の不足,もしくは母親の病気によってそうしたことが生ずるかもしれません。
苦しみのうちにあったヨブは,こうした可能性のほうが自分にとってはまだましだと感じました。しかしヨブの母親は,受け継いだ不完全さのために流産や死産を経験した今日の女性と同じように,悲しみを味わったことでしょう。これらの可能性について言及したヨブは,自分にはともかく復活する見込みがある,とは言いませんでした。ヨブの理解していたことからすると,益となるのは自分が悩みから隠されること,あるいは煩わされずにすむことでした。
ヨブは「なぜわたしは腹から出て来たとき,息絶えなかったのか」と述べて別の可能性をつけ加えました。(ヨブ 3:11)時々生ずるように,もしヨブが生まれて間もなく,恐らく乳を与えられる前に死んでいたら,ヨブの将来の見込みはどのようなものだったでしょうか。この文脈の中でヨブはその点について論じていません。しかし後のところで,もし人間としての生活を送った後に死んでシェオルに行ったなら,神は『時の限りを設けて,自分を覚えてくださる』であろうと述べました。わたしたちの命の与え主は『呼んでくださり,ヨブは答えます』。確かにエホバ神はヨブを生き返らせ,復活させることがおできになりました。―ヨブ 14:13-15。
このことは,聖書に記されている復活の例に関する知識と一致します。復活させられた人々は,明らかにその人が死の時点で示していた人間の姿をもって生き返らされました。つまり,子供として死んだ人は子供として,大人は大人として復活させられたのです。(列王第二 4:17-20,32-37。ルカ 7:12-15; 8:40-42,49-55。ヨハネ 11:38-44)では,ヨブの場合に「隠された流産」が起こったとしたら,新秩序でその極微の胎芽が再び母親の胎内に戻され,母親が気づいていなかったかもしれない妊娠が再開されると考えるのは道理にかなったことでしょうか。それは聖書が復活について示している事柄とは調和しません。復活は,すでに誕生し,神のみ前で一個の人間として存在した人々にかかわるものでした。―ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15。
しかし,胎芽がもっと成長し,3か月を超える胎児になったり臨月に近づいたりしていたらどうでしょうか。多くの状況が考えられますが,憶測をめぐらしても意味がありません。不完全さゆえに生じた悲しい結末は今日無数にあるからです。回復された楽園で,愛に富むわたしたちの天の父は,人間の罪深い状況を逆転させ,すばらしい祝福をもたらします。多くの人が復活させられるでしょう。どのように復活が行なわれるか,どの程度行なわれるかという決定はエホバとイエスにかかっています。その決定がエホバの完全な知恵と公正を反映することをわたしたちは確信できます。
エリフはヨブに次のような保証を与えました。「まことの神が邪悪なことを行なったり,全能者が不正を行なったりすることなど決してない! 地の人の行なう仕方にしたがって神は人に報(われる)……からである。しかも,実際,神は,邪悪なことを行なわれない」。(ヨブ 34:10-12)流産や死産という非常に悲しい経験をしたご夫婦を含め,わたしたちは皆,「エホバは善良で,廉直であられる」ことを知って慰めを得られます。―詩編 25:8。
■ 神から特別に選ばれたり,神の任命を受けたりした男子のことを聖書が「油そそがれた」と述べていることからすると,今日のすべての監督を「油そそがれた者」と呼ぶことができますか。
「油そそぐ」を表わすヘブライ語とギリシャ語は,油などをこすりつける,あるいはぬるという考えを示しています。「油そそぎ」という語は,イエスや,神がイエスの共同相続者としてお選びになるクリスチャンたちのような人々に聖霊がそそがれる時にも用いることができました。―創世記 28:18,19; 31:13。詩編 133:2; 45:7。イザヤ 61:1。ルカ 4:18。ヘブライ 1:9。エフェソス 1:13,14。
聖書は時折,「油そそがれた」という語を,特別な役目や職務に選ばれた,あるいは任命された人に関して用いています。例えばエリヤは,「ハザエルに油をそそいでシリアの王とし」,「エリシャに油をそそいで,あなたに代わる預言者」としなければなりませんでした。(列王第一 19:15,16)しかしエヒウの場合とは異なり,この二人が実際の油をそそがれた記録はありません。(列王第二 9:1-6)ペルシャのキュロスは,実際の油や聖霊をそそがれたことは全くなかったと考えられますが,特別な役目のために特別な使命を受けていたため,エホバはキュロスを油そそがれた者と呼ばれました。(イザヤ 45:1)同様に,モーセは神から使命を与えられ,特別な任命を受けていたので,モーセを「キリスト[油そそがれた者]」と呼ぶことができました。―ヘブライ 11:26。
地元の会衆の長老,つまり監督たちについてはどうですか。使徒パウロは使徒 20章28節で会衆の長老たちに,「聖霊があなた方を……監督として任命した」と告げました。それは,神が是認され,バプテスマを受けたクリスチャンすべてが聖霊によって油そそがれ,天的な命へと召された時期のことでした。―コリント第二 1:21,22。ヨハネ第一 2:20,27。
しかし,「聖霊があなた方を……監督として任命した」と述べた時,パウロは油そそがれた,を意味するギリシャ語を用いませんでした。パウロが用いたのは,置く,据える,確立する,任命するという意味を持つティテーミという語でした。―マルコ 4:21; 16:6; コリント第一 3:10; 9:18; 15:25; テモテ第二 1:11; ヘブライ 1:2と比較してください。
神がご自分の聖霊を用いて,割り当てられた地位に長老たちを任命したり,その地位につくよう長老たちに使命を与えたり,その地位に長老たちを置いたりするのは確かです。しかし,会衆の監督たちすべてを油そそがれた者と呼ぶのはふさわしいことではないでしょう。それは,すべての長老が聖霊によって油そそがれ,天的な召しを受けているという間違った考えを示唆することになり,混乱を生じさせかねません。実際,現代の会衆の忠実な監督たちの圧倒的大多数は,長老として任命されていても,回復された地上の楽園における永遠の命の希望を抱いています。
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