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神の栄光と神が創造者であることの雄大な証しものみの塔 1979 | 6月15日
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神の律法に含まれる,諭しはすべて信頼に値し,人生の導きとして安心して従うことができました。経験に乏しく,自分に確信が持てなくても,神の諭しに聞き従った人々は賢明に行動し,破滅に至る道を避けることができました。
命令すなわちモーセの律法に定められた詳細な規定は直く,つまり義と公正の原則に全く一致していました。神の命令は正しいという確信と一致した行動をすることにより,人は内的な幸福,心の喜びを得たことでしょう。
エホバのおきては純粋で清く,望ましくない面が全く無いため,目を輝かせて明らかな視力を得させます。それは人が道徳上の間違いを避けて正しい道に歩むことを可能にします。
創造者に対する健全な恐れ,あるいは深い敬意は,その戒めを守ることによって示されます。このような恐れは清純なものです。それは偽りの神々の崇拝者が抱いた恐怖心とは異なり,人をいやしめるものではありません。偽りの神々は怒っている神,人身御供によってなだめられることを要求する神として見られていたのです。神に対する健全な恐れこそ,律法が教えていたものです。このような恐れは,献身したエホバのしもべたちによって引き続き示されることでしょう。ゆえにそれは永久に立つのです。
神の律法の一部は判決から成っていました。それらは神の公正な裁きの手順に堅く根ざしており,真実で信頼できる,安定したものでした。どの点から見ても,これら判決は正義のものでした。判決は神からのものであり,全く有益であるゆえに,それを心と思いに留めるのはきわめて望ましいことです。それらは物質の富 ― 黄金よりも貴重です。進んでその導きに従う人にとって,それは蜜よりも甘く感じられます。これらの判決は悪い道に入らないように警告するものとなり,誘惑に抵抗する決意を強めさせます。それにつき従うのは,そのような従順さが当人に最大の益を得させるがゆえに,そうするだけの価値のあることです。その人は情緒的,身体的,精神的に有害な生活の仕方を避けます。
イスラエル人に与えられたような,非常に有益で役に立つ律法は,確かに知恵と公正と愛の神について雄弁に証しするものです。
神のしもべのために備えられている助け
創造者に関する別の証しは,神がご自身の不完全なしもべのために備えられている助けの中に見いだされます。詩篇 19篇から明らかなように,ダビデは神の律法の価値を深く認識していました。それでも彼は不完全な人間として,正しく身を処するには造り主の助けが必要なことも悟っていました。これは詩篇 19篇の結びの部分から明らかです。次のように書かれています。「過ち ― だれが悟ることができるでしょうか。隠されている罪についてわたしが潔白な者であると宣告してください。また僭越な行為からあなたの僕をとどめてください。それらにわたしを支配させないでください。そうすれば,わたしは全き者となり,多くの違犯から潔白でいることでしょう。わたしの口の言葉と心の黙想とが,あなたのみ前に快いものとなりますように。ああ,わたしの岩,またわたしを受け戻す方であるエホバよ」― 詩 19:12-14,新。
ダビデは,不完全な人間である以上,自分が気づいてさえいない罪を犯すこともあるのを悟っていました。そこで彼は自分から隠されているかもしれない罪の許しを求めたのです。また不完全な肉体の欲が彼を小突いて悪い道に進ませようとする時,彼は切実に神の助けを必要としました。彼はエホバが彼をとどめて横暴で僭越な行為をさせないようにしてくださることを願いました。彼は僭越な行為が自分にとって支配的なものとならないように引き止められることを望みました。もし罪深い肉欲にふけるならば,彼は罪に支配され,そのなすがままになったことでしょう。そうなる代わりに彼は至高者への献身において全きことを望んだのです。可能な限り,彼は「多くの違犯から潔白でいる」ことを望みました。ゆえに彼は,心に動かされた「黙想」に発する彼の訴え,すなわち助けを求める願いが神の前に喜ばれるものとなることを祈ったのです。危険と苦難の時にダビデは堅い岩に頼むようにエホバにより頼みました。彼はまたエホバを自分の贖い主,罪に陥ることからだけでなく悪しき者の手から自分を救うことのできる方としてエホバを認めていました。
このように詩篇 19篇は,至高者の存在を明らかに示すものとして,聖書に収められている文字になった律法および創造の証し,加えて正しい者に与えられる神の助けという証しを力強く指摘しています。この証しは,至高者に是認されたいという願いを抱くようにわたしたちを動かすはずです。わたしたちの歩みを正しく導かれるように,引き続きエホバ神により頼みつつ,『わたしたちの心の黙想』がエホバ神に喜ばれるものでありますように。
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習慣には従うべきですかものみの塔 1979 | 6月15日
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習慣には従うべきですか
ローデシアに住むある夫婦がオーストリアの友人を訪ねていた時のことです。二人は,別の人の家で開かれるくつろいだ集まりに招かれました。その家に入ると,くつを脱ぐよう勧められ,銘々に一組のスリッパが手渡されました。最初二人は当惑しました。見知らぬ人の前で,それも他人の家でくつを脱ぐ習慣など二人にはなかったのです。しかし,すぐに思いなおし,その求めに快く応じました。なぜでしょうか。どうやらそれが家の人の習慣のようだったからです。
もちろん大きな問題が関係していたわけではありませんから,この場合は比較的容易に決定を下せました。しかし,習慣に関連したすべての問題が容易に解決できるわけではありません。それがクリスチャンの良心の問題と関係している場合には特にそう言えます。かなり多くの慣習は,無害であるだけでなく,生活に潤いと趣を添えるものです。一方,創造者との関係を著しく害したり損なったりする習慣もあれば,命の道を歩みたいと願う人が熱心に培うべき習慣もあります。
習慣とは何か
習慣とは「不文法とみなされる長期にわたって確立された慣行」と定義されてきました。また,それは,「多数の人に共通の……もしくはある個人の習性となっている……行為や仕来り」でもあり
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