あなたは決して独りではありません
「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり されば…我らはおそれじ」― 詩 46:1,2。
1,2 ある宣教者が7年間の独房生活を送ったことに対し,ひとりの新聞記者は,どんな反応を示しましたか。宣教者はそれに耐え抜けたことをどのように説明しましたか。
1965年,中共で7年間独房生活を送ったひとりの宣教者が釈放されました。この宣教者が香港に着いたとき彼を囲んだ新聞の報道陣の中のひとりがこう言いました。「私なら,独りでいることには決して耐えられません。7年間もひとりでいなければならないのでしたら,壁をよじのぼりでもしますがね」。
2 あなたは,この新聞記者それとも宣教者,そのどちらでありたいと思いますか。その宣教者の力の源は何だったのでしょうか。後日彼は,なぜそれほど長い間孤立した生活に耐え抜けたかを説明しました。エホバのクリスチャン証人として,彼はこう話しました。「わたしたちには考えることがあります。わたしたちの中には霊的な食物があって,それがわたしたちを養ってくれます。それで,信仰にかたく立つことができるのです。初めに研究しておかなければならないことは言うまでもありません。研究しなければ自分の中に力をたくわえられません。ですから,絶えず聖書を研究し,自分を強くし続けることが最善です。そうすれば,困難が生じ,それが自分に臨んでも,『かたく立つ』ことができるでしょう」。
3 この宣教者の経験は何を例証するものですか。なぜそう言えますか。
3 この経験は,真のクリスチャンは決して独りでないことを例証しています。信仰のない人にはとても理解しがたいことですが,献身したクリスチャンは決してひとりぼっちではありません。これは真実です。なぜなら,霊的な事柄に関する知識が,力強い仲間のようにいつもそばにいて,それに話しかけることができるからです。そのうえ,いつでも,どんな事情の下でも,全能のエホバ神が助け手としてついていてくださるのです。詩篇 121篇1-3節は,詩篇作者のような信仰を持つものは決してひとりにされないことを示しています。「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまえるエホバよりきたる エホバはなんぢの足のうごかさるゝを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし」。
失望したり気が沈んだりするとき
4 絶望や失望のために孤独感に襲われるとき,何をすることができますか。しかしどんな態度を避けなければなりませんか。
4 獄にいなくても,孤独感に襲われるときはあるものです。落胆したり,失望したり,絶望に陥ったりしたときには特にそうです。失望の原因がなんであれ,詩篇作者が述べているように,心配やざ折感などの重荷をエホバにゆだねることを忘れてはなりません。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはん たゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ」。(詩 55:22)エホバは,ご自分の民が動かされる,つまり破滅に陥れられるのを許されない,ということをわたしたちは確信できます。しかし警戒しなければならないのは,独立の態度を取らないということです。エホバ神にたより,全く依存してください。そうすれば,エホバはあなたをささえて,倒れないようにしてくださるでしょう。―箴 3:5-7。
5 (イ)エホバに依存していることをどのように示せますか。(ロ)人の子が来るときに「信仰」が見いだされるか,ということについて話されたイエスは,特に何のことを言っていたのですか。
5 祈りは,神に依存していることを示す一つの方法であり,また,わたしたちの荷を神にゆだねる方法でもあります。祈りという手段を決しておろそかにしてはなりません。(エペソ 6:18)たゆまずに祈るには信仰がいります。事実,主イエスは祈りに関して,「人の子の来るとき地上に信仰を見んや」という質問をされたことがあります。(ルカ 18:8)この時イエスは,1,7節からわかるように,祈る必要性,祈りを通して「夜昼よばはる」必要性について弟子たちに教えておられたのです。したがって「信仰」に関するその質問は,神への祈りの力に対する信仰と特別な関係を持っていました。今日だれがこの種類の信仰を持っていますか。あなたはいかがですか。そういう信仰を持っている人はさいわいです。その人は決してひとりぼっちではありません。
6,7 祈りはいつ特に重要ですか。神はご自分に祈りを通して近づく忠実なクリスチャンをささえることができますが,わたしたちはなぜそれを確信できますか。
6 失望したり落胆したり,また,うちひしがれたときなどには,祈りは特に重要です。(サムエル前 1:5-18)心配の原因を神にゆだねてください。神は必ずあなたをささえることができます。(ピリピ 4:6)エホバ神は,荒野にいたイスラエル人の大群衆を40年間もささえたではありませんか。彼らをささえるために,翼を広げたわしのように舞い降りてくださったのです。(申命 32:11,12)神は彼らのために奇跡的な備えをされたので,サンダルも衣服も少しもすり切れませんでした。―申命 29:5。
7 エホバ神は,大群衆のみならず,実に全宇宙をもささえることができるのですから,自分がひとりぼっちだと感じている,ご自分のしもべのひとりをささえられないということがあるでしょうか。決してそのようなことはありません。しかしわたしたちは,クリスチャン兄弟すらも与えることのできないこのささえとなる力を,信仰をもってエホバに祈り求めねばなりません。―ピリピ 4:13。
他の人びとから一時的に離れているとき
8,9 (イ)孤独の価値を示すどんな例が聖書にありますか。(ロ)したがって,しばらく他の人々から離れていることはどうして有益ですか。
8 他の人びとから一時的に離れているとき,あなたは孤独を感じますか。それを感じる人もいます。そのような人がまず考えることは,ラジオを聞くかテレビを見るかすることです。しかし,一時的にひとりでいることは実際には有益なのです。事実,ある程度ひとりでいる時を持つのは人間の基本的な必要とされています。イエスでさえ,群衆からのがれて孤独を求めました。また,山や園で祈りました。(ルカ 4:1,42; 6:12; 22:39-41)聖書の中にはほかにも,時おり同じく孤独を求めた敬虔な人の例が載っています。エホバは,ホレブ山の奥のさびしい場所でモーセに語り,そののち,イスラエルを導く者として彼を用いました。詩篇作者ダビデは,孤独な環境に置かれたときに,最も美しい詩篇のいくつかを作りました。バプテスマのヨハネは,ヨルダン川の近くにある人のいない荒野にしばしば行きました。これらの人は孤独の必要を知っており,それを有利に,また神の栄光のために用いたのです。
9 今日の生活は目まぐるしく,どんどん動いて行きます。たちまちのうちに過ぎ行くでき事を評価するには時間が必要です。しばらくひとりでいることにより,いわばそれに追いつくことができます。それは,わたしたちに必要な聖書の真理に対する熟考と黙想の機会,それにひたる喜びを提供します。さらに,エホバの祝福を感謝し,その導きと聖霊を求める機会を与えてくれます。
10 神はイスラエル人が荒野を40年間さまようままにされましたが,その理由について神は何と言われましたか。このことにはわたしたちに対するどんな教訓が含まれていますか。
10 神はイスラエル人が40年間荒野をさまようままにされましたが,あなたはその理由を覚えておられますか。『汝を試験み汝の心のいかなるか…を知らんため』であると神は言われました。(申命 8:2,3。歴代下 32:31と比較してください。)したがって,ひとりでいるときにどう時間を使うかは,心の中に実際に何があるかを試みるものともなりうるのです。わたしたちは,肉体的な関心事を霊的な必要の次に置いて,機会あるごとに神のことばで自分を養う必要があります。
11,12 目的をもった黙想とはどういうものか説明しなさい。この点,イエスはどんな模範を示しましたか。
11 それで,ひとりでいるとき,その時間を最も賢明に使うよう努力できます。その時間を黙想に費やすことができます。しかし黙想といっても,空想にふけったり,漫然と思いをめぐらすのではなく,ある線にそってものを考えるのです。黙想には目的があるべきで,物事を熟慮し,あるはっきりした結論に到達するようでなければなりません。そのためには,黙想するさいの導きが必要です。その最善の導きは聖書です。聖書を読むときには,休止を入れながら,読んだことを思いの中で敷延します。そうすれば,目標の全然ない混乱した考えを避けられます。
12 クリスチャンは荒野で神のことばを黙想されたイエス・キリストにならうことができます。イエスは,何にもじゃまされずに,神のことばを熟考されました。そしてこの黙想により,十分に備えができたので,のちに悪魔の攻撃を退けることができたのです。―マタイ 4:1-11。
かん難の時
13 真のクリスチャンが孤立させられる場合があるのはなぜですか。
13 真のクリスチャンは,迫害のために孤立する場合があります。しかしその場合にも,そうした試練のときにはエホバの霊が,エホバに完全により頼む者に慰めを与えてくれるということを銘記しておく必要があります。苦難のときに何をすべきかを知っておくことが肝要です。なぜなら,ご自分の使徒ヨハネに黙示を与えたさい,主イエスはこう言われたからです。『視よ,悪魔なんぢらを試みんとて,汝らの中のある者を獄に入れんとす』。また,使徒パウロは,『およそキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過ごさんと欲する者は迫害を受くべし』と述べました。―黙示 2:10。テモテ後 3:12。コリント後 1:3,8-10。
14 孤立の状態に耐えうるため,クリスチャンはどのようにして自分を強めることができますか。
14 あなたの信仰はどれほど強いものですか。神に忠誠を守りたいという願いを持っているために,絶えず尋問されたり,長年の独房生活をしていても,なおかつひるまずにおれますか。そうした迫害の起こる前こそ,自分を強める時です。どのようにしてですか。今,時間を賢明に用い,神のことばを研究し,黙想してそれを心に深く植えつけ,エホバの民と定期的に交わり,また,学んだことをエホバの王国奉仕において用いることにより自分を強めるのです。エホバに今より頼み,自分のあずかれる霊的な備えを活用するなら,危機の時にエホバから力を得ることができ,その力にささえられて危機を乗り切ることができるでしょう。
15,16 (イ)孤立させられた場合,クリスチャンは何をすることができますか。(ロ)詩篇作者アサフは苦しみにどう対処しましたか。
15 しかし,やむなく孤立させられる場合,いったい何ができるでしょうか。いろいろな聖句を思いめぐらしたり,神のなされたことやわざについて考えることができます。聖書中の忍耐の忠実の模範を考えることもできます。たとえば,長年投獄生活を送ったヨセフがいます。彼は実際には,独りだったのではなく,神がともにいてくださいました。(創世 39:20-23)また,サムソンがいます。囚獄に入れられ,全く自分独りだけのように見えましたが,エホバは彼を捨てられませんでした。(士師 16:21-30)たびたび投獄されても忠誠を守った使徒たちの例もあります。(使行 5:17-21; 12:3-17; 16:19-34。コリント後 6:3-5)迫害のために孤立させられたクリスチャンは,非常な苦しみを味わっていた時の詩篇作者アサフが行なったのと同じことを行なえます。『琴を執て預言した』この「先見者」は,詩篇 77篇2,12節〔新〕にこうしるしました。「わがなやみの日にわれ〔エホバ〕をたづねまつれり…我なんぢのすべての作為をおもひいで汝のなしたまへることを深くおもはん」。(歴代上 25:1。歴代下 29:30)ものみの塔協会の地帯の監督は,忠誠を守るがゆえに監禁され,悪態をつかれ虐待されたとき,このアサフと同じことをしました。のちにその経験を語ったとき,彼はこう言いました。「わたしたちは盛んに祈りました。そういう状況に置かれると,人は考える機会が多くなるものです」。
16 同様に詩篇作者アサフも,むずかしい状況に置かれたとき,考える機会を多く持ちました。彼は神に捨てられたかに見え,前途は暗いものでした。しかし,自分をささえるために,そしてエホバ神につき従うために,彼は何をしましたか。すでに引用したとおり,彼はこう言いました。「我なんぢのすべての作為をおもひいで[黙想する]汝のなしたまへることを深くおもはん」。神の昔のわざとそのなさったこと,エホバがご自分の民を昔どのように救い出されたかを深く思いめぐらしたのです。アサフは,神が変わらないことを知っていました。次のように書かれているとおりです。「それわれエホバは易らざる者なり 故にヤコブの子等よ汝らは亡されず」。(マラキ 3:6)そうであれば,エホバは,ご自分の民が,忠実であるかぎり,のみ尽くされたり,滅ぼされるのを決して許されません。
17,18 むずかしい事態に対して備えをするために,クリスチャンは何をすることができますか。
17 したがって,神が昔から今に至るまで,ご自分の民のためになさったわざや,ご自分の組織のためになさったことについて知ることには,十分の理由があります。今こそ,そうした事柄を心と思いにたくわえる時です。そのためには,神のことば聖書と,ものみの塔協会のいろいろな出版物がわたしたちの助けとなります。そうしておけば,アサフと同じように,むずかしい状況に置かれたとしても,正しい考え方をすることができ,かたく立つことができます。わたしたちの思いには,良いこと,貴いこと,誉れあること,愛すべきことがあり,それを黙想することができるからです。―ピリピ 4:8。
18 ですから,詩篇作者はここで,エホバ神のわざと,なされたことを黙想するという良い型をわたしたちのために示してくれています。そうすれば,それは必要な時にわたしたちの役に立つのです。
現代の例
19,20 エホバの現代のしもべのひとりは,5年間にわたる孤立した生活にどのように対処しましたか。
19 先見者のアサフが,黙想と,神に対する信頼のゆえに,決して自分独りにされなかったのと同じく,現代の神のしもべたちについても同じことが言えます。たとえば,中共の独房で5年間を過ごした宣教者の例を考えてみましょう。このエホバのクリスチャン証人は,自分がどのようにして霊的に生きていられたかを次のように話しました。
20 「私は最初から,信仰を強く保つために手段を講じなければならないことを悟りました。逮捕された日,独房に閉じ込められると,すぐひざまづいて祈りました。…霊的な事柄に対する認識を保ちつづけるため,私は『伝道』の計画を立てました。しかし独房にいるのに,だれに伝道するのですか。私は,自分の覚えている事柄をもとにして聖書の話を作り,想像上の人物に伝道しようと決心しました。そして,そのわざに取りかかりました。いわば,想像上のドアをノックして想像上の家の人に証言をしながら,午前中数軒の家を訪問するというわけです。…私はそれを声を出してしました。自分の思いにも銘記させるためでした。看守はきっと,私が気が狂いだしたと思ったことでしょう。しかし,わたしはそれによって強い信仰と健全な思いを保つことができました」。
21,22 (イ)自分が決して独りでなかったことを,この宣教者はどのように説明しましたか。(ロ)投獄された別の宣教者は,孤立させられたとき,自分の時間をどのように有効に使いましたか。
21 この宣教者はひとりにされましたが,自分独りではなかったのです。これは,エホバのしもべがどこにいようと,言えることです。その宣教者が続けて言ったとおりです。「仲間の人間から離されてひとりにされることがあっても,神から私を離すことはだれにもできませんでした。祈りはなんという霊的な力と慰めを私にもたらしてくれたことでしょう。…神の霊がその民に達するのを妨げうる銃も,壁も,鉄格子もありません。神のことばの研究に努め,それを心の奥深くに浸透させているなら,何も恐れるものはありません。私たちは自分の力で立つのではありません。しかし神はご自分の全能の力をもって,私たちの最も微弱な者でも迫害に打ち勝てるようにしてくださるのです」。
22 同様な状況のもとで投獄された別の宣教者はこう説明しました。「時間はありあまるほどありました。…多くの聖句が頭に浮かんで来,私はそれを書き留めました。…十分に聖句を書き出したあと,私は日々の聖句として一つを選び,それを写し,どこかよく目につく所に置いて,一日中それを考えることができるようにしました」。
23,24 ドイツに住む,現代の神のしもべのひとりは,自分をナチ強制収容所の生活に耐えさせた基となったものをどのように説明しましたか。
23 真のクリスチャンは決して独りではない,ということを実証する現代の例は,世界各地で見られます。ドイツでは第二次世界大戦中,何千人ものエホバの証人がヒトラーの強制収容所に入れられました。たいていの場合,聖書は与えられませんでした。それらの証人のひとりは,釈放されたあとこう書きました。「逮捕されたとき,私は自分が聖書の個人研究を怠らなかったことを感謝しました。そのおかげで,私の信仰は尽きなかったからです。私は,聖書記者ヤコブの語った次のことばを何度も思い返しました。「視よ,我らは忍ぶ者を幸福なりと思ふ」― ヤコブ 5:11。
24 「刑務所の職員は,私からは聖書を取り上げましたが,[エホバの証人でない]他の囚人たちには聖書を持つことを許しました。聖書を持っていなければ,私の信仰が弱くなり,ナチスの準備した,信仰を捨てるという主旨の宣言書に署名して実際に信仰を捨てるだろう,と考えたのです。彼らは,私が,投獄されるずっと前から,聖書の個人研究と群れの研究を通して,神のことばを思いに深く刻みつけていたことに気づいていませんでした。私の思いから,信仰を強めるその真理を取り去ることはできなかったのです」。
25-27 アラブ連合共和国の強制収容所に入れられたエホバの民がどのように感じたかを説明しなさい。そうした環境に置かれながら,彼らはどのようにして霊的な食物を取り入れることができましたか。
25 強制収容所に入れられたアラブ連合共和国のエホバの証人たちも,神のことばが信仰を強める力を持っていることを経験しましたし,また,自分が独りだとは決して感じませんでした。投獄される前に,ものみの塔協会を代表して旅行する仕事をしていたあるエホバの証人は,次のように述べました。「どれほど侮辱されても殴打されても,数秒たってしまうと,まだなぐられているのに,もう何も感じませんでした。その間じゅう,エホバ神がわたしたちといつも共にいてくださるのだということを実感しました」。
26 それらの証人は,力を与える霊的な食物を取り入れるためどのような取り決めを作りましたか。そのうちのひとりは答えました。「わたしたちは毎朝,クリスチャン兄弟を励ますと思われる適切な聖句を選んで討議しました。また,聖書から2章を選んで話し合いました。各人が記憶をたよりに,それらの章について思い出せることを話すのです。さらに毎晩,聖書の話のために集まりました。そうした毎日の聖書の討議や話は,たしかにわたしたちを強めるものとなりました」。
27 真のクリスチャンは決して自分ひとりではありません。非常に多くの現代の例がこのことを証明しています。クリスチャンがエホバを信頼し,完全により頼むなら,エホバはともにいてくださるのです。
思いの中で神を見つづける
28-30 (イ)詩篇 16篇8節に示されているように,エホバにより頼むのに何が助けとなりますか。(ロ)この点,どのようにダビデやイエスにならえますか。
28 エホバにより頼む点でわたしたちの助けとなるのは,詩篇作者の行なったように,いわば,常にエホバをわたしたちの右に置くことです。詩篇 16篇8節には次のような励ましのことばが見いだされます。「われ常にエホバをわが前におけり エホバわが右にいませばわれ動かさるゝことなし」。
29 ここで,使徒ペテロが詩篇 16篇をイエス・キリストに当てはめたことを覚えておくのは良いことです。『神は死の苦難を解きてこれを甦へらせたまへり。彼は死につながれをるべき者ならざりしなり。ダビデ彼につきて言ふ「われ常に我が前に主を見たり,我が動されぬために我が右に在せばなり」』― 使行 2:24,25。
30 わたしたちは,ダビデやイエス・キリストと同じことを行なうことができます。自分の思いの中で,エホバを自分の前に置くことができるのです。イエスがなさったように,わたしたちも,エホバをいつも喜ばせようと努めることにより,エホバを常に自分の前に置くことができます。積極的であってください。あなたの神を知ってください。エホバがあなたの右にいてくださるなら,エホバはご自分の右手で民のために戦い,左手であなたをささえることができます。そうです,わたしたちは,詩篇 110篇4-6節〔新〕に予告されているように,メルキゼデクのような王かつ祭司である主イエス・キリストに与えられた預言的な約束を知っています。『[エホバ]はなんぢの右にありてそのいかりの日に王等をうちたまへり 主はもろもろの国のなかにて審判をおこなひたまはん ここにもかしこにも屍をみたしめ…たまへり』。したがって,わたしたちの模範者イエス・キリストの模範にならい,エホバ神を常にわたしたちの前に置き,またエホバ神がわたしたちの右にいてくださるなら,わたしたちは決して自分ひとりになることはありませんし,決して動かされることもありません。
31 わたしたちが神から与えられた希望をあくまでもかたく保つなら,それはどんな益をもたらしますか。
31 希望は,わたしたちがエホバと親しい関係を保つ助けになります。事実,使徒パウロはクリスチャンの希望を『魂の錨』にたとえました。『この希望は我らの魂の錨のごとく安全にして動かず,かつ幕の内に入る。イエス我等のために前駆し…そのところに入りたまへり』。(ヘブル 6:19,20)この錨に似た希望は神から発しているものですから,それは,イエス・キリストとエホバのおられる天に入るとも言えるのです。この希望をかたく守り,決して捨てることがないなら,その希望によってわたしたちはエホバ神にしっかり結びつけられ,決して離れ去ることはないでしょう。では,エホバまたその組織との親密な関係を,だれかに破られるようなことが決してあってはなりません。
32,33 (イ)詩篇 46篇1,2節を考えると,神があらゆる敵よりも近くにいてくださるとどうして言えますか。(ロ)明らかにこの詩篇の背景になったと思われる事態からすると,神のしもべが苦難のとき決して独りでないのは明白です。なぜですか。(ハ)わたしたちはどのように神を避け所としますか。
32 あなたは忠実なクリスチャンらしく,決してひとりではないのだということをいつも銘記してください。そのうえ,エホバ神はどんな敵よりも近くにいてくださるのです。詩篇作者が詩篇 46篇1,2節で述べているとおりです。「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり さればたとひ地はかはり山はうみの中央にうつるとも我らおそれじ」。
33 この詩篇のことばは,ヒゼキヤ王の時代に生じた重大な事態と合致しているようです。それは,エルサレムがアッシリヤの王に脅かされた時で,ヒゼキヤは自分が全く独りだと感じることもできたはずです。しかし,彼は神が「なやめるときの最ちかき助」であることを知っていました。それで彼はエホバに祈り,都市は危難から救出されたのです。(イザヤ 37:14-37)ですから,真のクリスチャンも,苦難にあるときにはこの詩篇を思い出すことができます。神を避所とするためには,神のもとにのがれなければなりません。そして,そうするためには,いつも神の正義の原則につき従う必要があります。神を信頼し,忠実にその組織につき従うことにより,わたしたちはエホバを自分たちの強固な櫓そして避所とするのです。―箴 18:10。
34 わたしたちは将来に対して何を決意すべきですか。どんなすばらしい結果がもたらされますか。
34 前途にはまだ大きな苦難の時が待っています。マゴグのゴグである悪魔サタンが,わたしたちエホバの民に,予告されていた攻撃をしかけてくる時が来ます。(エゼキエル 38:1,2,8-12)しかし,わたしたちは決して独りなのではありません。独房に監禁されようとされまいと,エホバはわたしたちが忍耐できるよう助けてくださいます。わたしたちは将来に何が起ころうと,かたく立つ決意をしています。しかるべき時に,エホバ神はご自分の敵すべてに向かって力強い行動を起こされます。そして,わたしたちは神の王国とともに勝者として立つのです。すべてが終わり,「大かん難」が過ぎ去ったのちに,わたしたちは,エホバが近い助け,強固な天,確かな避所,また力であったことを見いだすでしょう。
[716ページの図版]
神に仕えたため投獄された人たちは,祈りと聖句を黙想することとにより,長い独房生活に耐えた