-
無数の人々が犠牲になっても,そこなわれることなく立つものみの塔 1975 | 3月15日
-
-
30,31 (イ)「至高者のもとなる隠れた所」にいる人々は,だれが時を得た報いを受けるのをながめ,また見ていますか。(ロ)そのような人々にはどのように,またなぜ報いが臨みますか。
30 「至高者のもとなる隠れた所」に多年実際に住まって来た,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者は,そして最近では彼らの仲間の証人である「大群衆」は,霊感を受けた詩篇作者が次に述べることの真実さを見てきました。「あなたはただ自分の目でながめ,邪悪な者たちの報いを見るだけである」― 詩 91:8,新。
31 ここで,至高の神が,ご自身の「隠れた所」にいる者たちと,「邪悪な」者,すなわち外にいる者,この邪悪な世の一部となっている者とを同じに見ておられないのは明らかです。滅びに定められているこの事物の体制が終わりに向かっている現在特に,この邪悪な世のならわしを楽しんできた人々は,その報いとして自分の行ないの実を食べています。政治,経済,道徳,社会,宗教などに関する問題が増加するにつれ,当然の報いがこの世的な人々の上に臨みつつあります。彼らは自分がまいたように,また刈り取っています。いわゆる「新しい道徳」,つまり「性の革命」に対して非常に寛大になった現代社会は,性欲倒錯者たちを,「彼らの誤りに対して当然なもの」である「十分な返報を身に受け」ることに免疫性を与えることはできません。―ローマ 1:27。ルカ 21:25,26。
32 「大患難」の前にすでに,「隠れた所」にいる人々は,だれの間の結果的なちがいを見ていますか。
32 この世的に賢い人々は,自分自身の企ての犠牲になりつつあります。神のことばの知恵を退けてサタンの悪だくみに身をさらした人々は,「滅びゆく者たちに対するあらゆる不義」のかもになりました。「真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです」。(テサロニケ第二 2:9,10)エホバの保護を受けている者たちは,「大患難」の近づく前にすでに,その目でながめ,「正しい者と邪悪な者,神に仕える者と仕えなかった者との」結果的な違いを見ています。―マラキ 3:18,新。
-
-
純粋の愛はキリストの弟子を見分けるしるしものみの塔 1975 | 3月15日
-
-
純粋の愛はキリストの弟子を見分けるしるし
イエス・キリストは,その追随者が互いどうし愛をいだくなら,他の人々はイエスの追随者をその弟子として見分けることができると言われました。(ヨハネ 13:35)このことは今日でも当てはまると考えなければなりません。確かにエホバのクリスチャン証人がそのような愛を互いに示し合っていることを自分の目で見て確信している人はどこでも増えています。
なかには,エホバの証人とともに聖書研究をしているだけで,ある人々が態度や行動を変化させているのを見て驚いている人々もいます。1970年にアメリカのカリフォルニア州で徴役刑に服していたある男の人は次のように語りました。「刑務所での服役期間の始めごろ,わたしはアメリカ・ニグロの一団体に関係しはじめ,反白人また反宗教的な考えを持つようになりました。ところが,その収容所で二人の男の人が神の意志に従って生活しようと努力するのを目撃する機会に恵まれました。
「一人は白人,もう一人は黒人でしたが,両人は,あるエホバの証人と一緒に聖書研究を行なうことに同意していたのです。わたしたちは一緒に仕事をしたり,食事をとったりしていたうえ,同じ宿舎で起居を共にしていましたから,わたしはその二人の囚人をよく観察しました。反宗教的な考えを持っていたわたしは,よくふたりをからかいました。時おり彼らと神について話し合うと,ふたりはエホバについて話してくれました。その信仰は強固なものでした。事情が事情だけに,そうでなければなりませんでした。というのは,たいていの人がふたりをからかったり,両人のことでうそを言ったりしていたからです。しかし,二人の囚人はいつも互いに,また両人を侮った人々に対しても愛と親切を示しました」。
この人は自分の見た事から深い感銘を受けたため,釈放された後,ついにエホバの証人と聖書研究を行なうことになり,今では彼もまた,神のご意志に従って生活するよう努力しています。
-