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クリスチャンは安息日を守らねばなりませんか目ざめよ! 1973 | 2月8日
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守役の下にいちどもいたことがなかったにもかかわらず信者に,つまりクリスチャンになりました。―使行 17:22-34。
愛の“律法”
以上のことはすべて,クリスチャンは十戒の下にいないから,何でも自分のすき勝手なことをする自由がある,という意味でしょうか。そうではありません。『兄弟よ,汝らの召されたるは自由を与えられんためなり,ただその自由を肉に従う機会となさず,かえって愛をもて互いにつかえよ。それ律法の全体は「おのれのごとく隣を愛すべし」との一言にて全うせらるるなり』。(ガラテヤ 5:13,14)もしクリスチャンがいわゆる儀式の律法から解かれただけであったならば,そのような自由は肉に従う機会とはならなかったでしょう。しかし,ここでの論点は明らかに,十戒を含むモーセの律法の下にもはやいなくても,依然,愛の律法を守る義務を負っているので,他の人のことを思いやらずに行動するような自由はない,ということにあります。
この隣人を愛する義務が,(いわゆる儀式の律法だけでなく)十戒に取って代わることを示しているのは,ロマ書 13章8節から10節のことばです。『汝らたがいに愛を負うのほか何をも人に負うな。人を愛する者は,律法を全うするなり。それ「姦淫するなかれ,殺すなかれ,盗むなかれ,むさぼるなかれ」と言えるこの他なお誡命ありとも「おのれのごとく隣を愛すべし」という言のうちにみなこもるなり。愛は隣をそこなはず,このゆえに愛は律法の完全なり』。愛の基本的重要さのゆえに,イエスは,最大の戒めは何かと尋ねられたときに,十戒の中のどの戒めにも言及せず,最大の戒めは,心と,魂と,思いと,力とをつくして神を愛することである,と言われました。―マルコ 12:29,30。
しかしながら,十戒の四番目の戒めが,クリスチャンにとって意味のないものであると言うのではありません。クリスチャンは,一週のうちの一日ではなく,神が創造のわざをやめた時におはいりになった継続的な安息を確かに守ります。(詩 95:8-11。ヘブル 3:7から4:8まで)『されば神の民のためになお安息はのこれり。…されば我らはこの休に入らんことを努むべし』とパウロは書いています。しかしどのようにしてはいりますか。それは,神が備えてくださった救いに信仰を持ち,利己的な行ないをやめてその代わりに自分の命を神の栄光のために用いることによります。『すでに神の休に入りたる者は,神のその』創造のわざ『を休み給ひしごとく,己がわざ〔自分の正当をあかしするわざ,利己的なわざ〕を休めり』。(ヘブル 4:9-11)あなたはそうされましたか。
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お子さんを育てるのはだれか目ざめよ! 1973 | 2月8日
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お子さんを育てるのはだれか
● 親が責任を放棄すれば,子どもたちは別のところに教えを求める以外に道はない。このように論じるのは,自らも父親である作家シド・スミスである。(アメリカ,ニュージャージー州)ベルゲン・レコード誌の中で彼は次のように述べている。「われわれの子どもたちはどうしたのだろうかと問う人がいるが,問題はそうではない。問題なのは,親はどうしたのだろうか,ということである。懲らしめや敬意や一致はどこにいったのか。それは,ほかならぬわれわれ親たちが置きざりにしてきたのである」。彼はまた,両親が共かせぎすることに決めた日から,「子もりや警察署,そして青少年問題の当局者が子どもたちを養子にすることになる」と述べた。
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