神の王国の定める境界
1 マタイ 5章3,19節に,神の王国に関してどんな二つの要求が述べられていますか。
世に知られた山上の垂訓の中で,イエスは,神の王国を,その境界,つまりその成員として含まれる人々との直接の関連において求めることのたいせつさを強調されました。まずイエスは,王国の相続者たちが謙遜さと祈願のこもった態度とを持つべきことを指摘してこう言われました。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。またイエスは,警告と励ましのために,王国の相続者たちが神のおきての定める範囲内にとどまることの必要性をも強調されました。「それで[モーセの律法のうちの]これらいちばん小さなおきての一つを破りかつ人にそのように教えるのがだれであっても,その者は天の王国に関連して『いちばん小さい[ゆえに,それにふさわしくない]者』と呼ばれるでしょう。だれでもそれを行ないかつ教える者,その者は天の王国に関連して『大いなる者』と呼ばれるでしょう」。―マタイ 5:3,19,新。
2 主の祈りの冒頭の請願は各人にどのように当てはまり,また当てはめるべきですか。
2 次に,その話の一部であった模範の祈りの冒頭のことばについて考えてください。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」。(マタイ 6:9,10,新)これは単なる一般的な請願のことばではありません。事実上,これは物事の境界を,もしくは指導標をなすものであり,わたしたち各自はそれを自分自身に当てはめなければなりません。わたしたちは自分の心と思いの中で,また自分のあらゆる行動において,エホバのお名前を神聖なものとしなければなりません。使徒パウロはわたしたちの行動に関してこう書きました。「これが神のご意志であるからです。すなわち,あなたがたを神聖なものとし,あなたがたが淫行を避けることです。そしてあなたがたひとりひとりが,自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知(ることです。)……神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです。平和の神ご自身が,あなたがたを全く神聖なものとしてくださいますように」。わたしたちは,神のご意志が地上において全面的に行なわれるのを見たいと願うだけでなく,今自分の生活において神のご意志を知りかつ遂行することを誠実に求め,こうして神に対する自分の愛を実証しなければなりません。これはつまり,わたしたちが献身することです。使徒ヨハネはこう書きました。「世も世にあるものをも愛してはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。……世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。―テサロニケ前 4:3-7; 5:23。ヨハネ第一 2:15-17,新。
3 イエスは,王国を求めることに加えて,ほかのどんな点に言及されましたか。多くの人がこの点でつまずいてきたことを述べなさい。
3 イエスは,その話の中で,物質主義,「諸国民がしきりに追い求めているもの」の危険について警告したのち,さらにこう言われました。「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」。(マタイ 6:32,33,新)奇妙に思えるかもしれませんが,イエスはここで,神を尋ね求めるさいにぶつかる主要な障害物の一つに触れたのです。それはユダヤ人だけでなく,人々一般にとって障害となるものです。たいていの人は,自分を正当化し,少なくとも自分の接する人々の目に正しい者として見えるようにということをしきりに求めます。このさいの正邪はその人自身の規準で決められますが,その規準は人によって大いに異なります。放縦な傾向の強い現代の社会では特にそうです。ユダヤ人は一般に,モーセを通して与えられた律法を守る自分の能力に頼り,それによって自分自身の義を確立することを求めていました。パウロの述べるとおりです。「わたしは,彼らが神に対する熱心さをいだいていることを証しするのです。しかし,それは正確な知識によるものではありません。彼らは神の義を知らないで,自分たち自身の義を確立しようと努めたために,神の義に服さなかったからです。キリストは律法の終わりであり,こうして,信仰を働かせる者はみな義を得るのです」― ロマ 10:2-4,新。ガラテヤ 3:10-14もご覧ください。
4 問題の原因はどこにありますか。それはどのように作用しますか。それをどうしたら克服できますか。
4 確かに,謙遜さの反対である誇りの気持ちがそのような問題の根底にあります。それは,「この事物の体制の神」である悪魔から始まったものであり,彼が「不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないように」するための手段として用いられています。誇りの気持ちが,真の神を尋ね求めるさいの障害となるのです。それはわたしたちの心を自分に向けさせ,自分をたたえ上げる方向に働きます。こうして人の知力は鈍り,それは覆いかぶさるベールのようになります。「しかし,[謙遜さと誠実さのゆえに]転じてエホバに向かうとき,ベールは取り除かれる」のです。誇りはわたしたちの生来の気質のようになっているかもしれません。しかし,パウロが述べたとおり,わたしたちは『古い人格を脱ぎ捨て』,かわって,『へりくだった思いを身に着け』ねばなりません。―コリント後 4:4; 3:13-16; コロサイ 3:9,12,新。
5 (イ)イエスは命を求めるための要求をどのように描写されましたか。そのように言われたのはなぜですか。(ロ)世の道はほんとうに自由を与えるものですか。
5 そのガリラヤの山の上での話の結び近くに,イエスは命を求める者たちのための明確な境界線をはっきり示してこう言われました。「狭い門を通ってはいりなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通ってはいって行く者は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道はせばめられており,それを見いだす者は少ないのです」。(マタイ 7:13,14,新)これを読んで落胆することのないようにしてください。ごくわずかな者だけがそれを見いだすことが神のご意志である,とイエスは言われたのではありません。そこに含まれる弟子としての条件を受け入れる備えがあるなら,あなたは,命に通ずるその限定された道と入り口を見いだす人々の中に入ることができます。(ルカ 9:23,24)ついでながら,放縦と自己決定を中心とする世の道は,境界がなく,『広くて大きい』ように見えながら,実際には,罪と利己心に拘束された隷属の道であり,その結果はざせつと滅びであるということをつけ加えておきましょう。―ロマ 6:16,21。
6 イエスは最後にどんなことを戒め,またどんな力づよい例えでその点を強調されましたか。
6 最後に,イエスは再び従順さの必要を強調し,また,ただ口さきだけで神を尋ね求めるようなことを戒めて,こう言われました。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです」。イエスは力づよい例えでその話を結ばれました。それは,「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者」の受ける結果と,「わたしのこれらのことばを聞いてもそれを行なわない者」に臨む結末とを示すものでした。―マタイ 7:21-27; 15:7-9,新。
動機を促す深い認識
7 (イ)神を尋ね求めるにあたってはどんな資質が肝要ですか。それらの資質はどんな優れた結果をもたらしますか。(ロ)そのことはアベル,エノク,ノアの場合にどのように示されましたか。
7 こうしたイエスのことばを思いに留めるとき,神を尋ね求めるためには,すすんで神のすべての要求に従い,しかもそのことを切望しなければならないということを,いよいよ深く認識できます。信仰と献身的な態度とがどうしても必要です。これらは決して,単なる抽象的な資質ではありません。正しく培う場合,それは,神に近づいて神との緊密な関係を得ようとする強い動機を与え,わたしたちをして神とともに歩ませるものとなります。このことは,ヘブル書 11章に述べられる信仰の男女の場合に真実でした。アベルと同じように,エノクも「神をじゅうぶんに喜ばせたと証しされた」のです。ついで,ノアは「敬神の恐れを示し,自分の家の者たちを救うために箱船を造り」ました。これらの人々は「真の神とともに歩んだ」と言われています。当然のことながら,すでにだれかとともに歩んでいる人がそのいっしょに歩いている人を捜し求めている,ということは言えません。したがって,これらの人々はエホバの好意と是認を保つことを常に追い求めたとは言え,その人々にとって神を捜し求めることは終わったのです。それらクリスチャン時代以前の証人たちはみな,自分の業,忠実さ,そして忍耐によって,自分の信仰と献身を実証しました。―ヘブル 11:5,7; 創世 5:22; 6:9,新。ヤコブ 2:17。ヨハネ第一 3:18。
8 ヘブル 11章6節はどんな真理を述べていますか。今日のわたしたちには信仰のための強力な根拠があることを述べなさい。
8 前述のことに関連してパウロの言い表わした基本的な真理を心に留めてください。「信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。(ヘブル 11:6,新)実際のところ,わたしたちには,それら昔の証人たちに比べ,信仰のためのより強力な根拠があります。わたしたちには,情報と経験を豊富に備えた,神のことばが完全にそろっています。加えてわたしたちは,現代の証人たちの大群衆によるすぐれた経験を,年ごとに出される「エホバの証人の年鑑」などから知ることができます。さらに,昔の忠実な人々によって記録された神の預言の多くについて,その成就を今日見ることができます。予告のとおり,あらゆる証拠は,天の王イエス・キリストが1914年に即位したことを示しています。今は,ちょうど羊飼いが羊とやぎとを分けるようにして,あらゆる国の人々が分けられている時代です。やがてハルマゲドンが到来し,その後に,任命され保証された者である人の子によって神が「人の住む地を義をもって裁く」,一千年の裁きの日が続きます。わたしたちは,アベルやエノクが期待した時代,そして,ノアの時代によって予影された時代に生きているのです。そしてイエスは言われました。「これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているから……[また]神の王国の近いことを知[るからです]」。―使行 17:31; ルカ 21:28-31,新。創世 3:15,マタイ 24:37-39,ユダ 14,15,黙示 20:1-3も見てください。
9 ヤコブは信仰と忍耐をどのように結びつけていますか。そして,さらにどんな助言を与えていますか。
9 わたしたちの認識を増し加え,より高度な価値感を持ち,こうしてわたしたちの心が絶えず正しい行動を促すようにするために,ヤコブの実際的な助言に注意を払ってください。「わたしの兄弟たち,さまざまな試練に遭うとき,それをすべて喜びとしなさい。あなたがたの知っているように,こうして試されるあなたがたの信仰の質は忍耐を生み出すからです」。『忍耐にその働きを全うさせる』なら,それは結果として「命の冠」をもたらすことになります。それは,「エホバがご自分を愛しつづける者たちに約束されたもの」です。ヤコブはまた,謙遜さと,神を尋ね求めるための明確な行動とを強調しています。「『神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施される』。したがって,神に服しなさい。しかし,悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば,神はあなたがたに近づいてくださいます」。ゆるぎない献身の道を追い求めようとする動機のもととなるような,こうした深い認識を持つためには,しんぼう強さが求められます。ヤコブはそれをこう説明します。「農夫は貴重な地の実を待ちつづけ,早い雨と遅い雨があるまで,その実に対してしんぼう強い態度を保ちます。あなたがたもしんぼう強くあり,心を強固にしなさい」。―ヤコブ 1:2-4,12; 4:6-8; 5:7,8,新。
10 神はどんな相互的な原則に従って行動されますか。そして,だれに対して?
10 ヤコブはここで,神の相互的な原則,つまり,神に近づこうとする者に対して,神がいわば道の半ばまで出迎えてくださることについて述べていますが,これを述べたのはヤコブが最初ではありません。その幾世紀も前,ダビデは霊感のもとに,次の激励と警告を自分の息子に与えました。『わが子ソロモンよ なんぢの父の神を知り 全き心をもて喜び勇んでこれにつかへよ エホバはすべての心を探り(たまふなり)……なんじもしこれを求めなばこれにあはん されどなんぢもしこれを棄てなば永くなんぢを棄てたまはん』。また,先見者ハナニはのちにはアサ王にこう語りました。『エホバは全世界をあまねく見そなはし おのれにむかひて心を全うする者のために力を顕はしたまふ この事において[エホバにではなく,シリアの王により頼んだことにおいて]なんぢは愚かなる事をなせり ゆえにこののちはなんぢに戦争あるべし』。―歴代上 28:9。歴代下 16:9。
11 この相互的な原則がどのように,またなぜ逆の方向に働きうるかを述べなさい。
11 そうです,この相互的な原則は逆の方向にも働きうるのです。エホバはその見えない活動力である霊によって,正しい心の態度をいだく人々にご自身を啓示し,その人々のためにご自身の力を示されます。『心を知っておられる』神は,誠実な態度でご自分を求める者に聖霊をお与えになります。一方,もし人が自分の心をエホバから離れさせるなら,エホバはご自分の霊をその人から取り上げることができ,また実際にそうされます。ソロモンの場合にそれが起こりました。ソロモンについてこう記されています。『ソロモンの年老いたる時 妃たちその心を移してほかの神に従はしめければ 彼の心その父ダビデの心のごとくその神エホバに全からざりき』。―使行 15:8。ルカ 11:13。列王上 11:4。
12 (イ)神のことばの中ではソロモンに関してどんなことが強調されましたか。それはどんな優れた動機を与えますか。(ロ)しかし,ソロモンは最後にはどうなりましたか。なぜ?
12 神のおきてを知り,それの定める神権的な範囲内にとどまることのたいせつさが強調されている点に注目してください。歴代志略上 28章9節のことばの少し前のところで,ダビデは神の語られたことばをソロモンに告げています。『彼[ソロモン]もし今日のごとくわが戒めとおきてを堅く守り行なはば 我その〔王権〕を永く堅うせん』。これに対してダビデは自分自身の訴えのことばをつけ加え,奮い立たせるような次の勧めのことばを息子に与えてその結びとしています。『さればなんぢ謹しめよ エホバなんじを選びて聖所とすべき家を建てさせんとしたまえば心を強くしてこれをなすべし』。ソロモンはその使命を果たしましたが,エホバに対して心からの献身を守り通すという重要な試みにおいてのちに失敗しました。それはどのような結果になりましたか。『エホバ,ソロモンに言ひたまひけるは,[他の神々に従う]この事なんじにありしにより またなんぢわが契約とわがなんぢに命じたる法憲を守らざりしによりて 我必ずなんぢより国を裂きはなして これをなんぢの臣僕に与ふべし』。―歴代上 28:7,8,10,〔新〕。列王上 11:9-11。
13 エホバはマラキを通してどんな訴えをされましたか。それにはどのような大小の成就がありましたか。
13 ソロモンの場合,この相互的な原則は逆の結果になり,辱しめととがめを身に負うことになりました。しかし,そうでなければならないわけではありません。イスラエルは,マラキの時代までに,エホバのみまえで長い不興の歴史を築いてきましたが,そのイスラエルに対して,エホバは次の率直な,そして積極的な訴えをなされました。「なんぢらその先祖たちの日よりこのかたわがおきてをはなれてこれを守らざりき 我にかへれ われまたなんぢに帰らん」。イスラエルに対する裁きの最終的な日に,残りの者が確かに帰り,そのメシア,イエスの弟子になりました。同様に,大いなるバビロンの主要な部分をなすキリスト教世界に対するこの裁きの日に,真のクリスチャンから成る残りの者が清められまた純化され,エホバのクリスチャン証人となっています。何が彼らを異ならせているかに注目してください。『万軍のエホバ言ひたまふ 我わが設くる日に彼らをもてわが宝となすべし その時なんぢらはさらにまた義しき者と悪しきものと 神につかふるものとつかへざる者とのわかちを知らん』。―マラキ 3:2-4,7,17,18。ルカ 12:8,9もご覧ください。
14 (イ)西暦33年のペンテコステ以来どんな優れた建築の業が始まりましたか。(ロ)今日,どんな取り入れの業が世界的な規模で行なわれていますか。(ハ)ペテロの述べるとおり,良い建物のためにどんな要求に従うことがたいせつですか。
14 ソロモンには,神殿,つまり神の聖所を建てるという確かにすぐれた使命がありました。しかし,今日のわたしたちにはさらに大きな特権があります。ソロモンが担当した建物の多くは木材や石で造られていました。しかし,西暦33年のペンテコステ以来,クリスチャン会衆は「神の建物」となっています。「キリスト・イエスご自身は土台の隅石です。彼と結び合って建物全体は……聖なる神殿に成長してゆき……神が霊によって住まれる所となってゆく」のです。「生ける石」から成る「神の建物」とはいかにも高遠な考えではありませんか。今日,クリスチャン会衆の残りの者に加えて,エホバは世界的な取り入れの業を始めておられます。それはあなたも加わることのできるものですが,その業の結果として,神とその王国の側に立場を定め,王国相続者の残りの者と密接に交わる人々の「大群衆」が集められています。ペテロは,キリスト・イエスを「生ける石」の主要なものとしつつ,イザヤの次の預言を引用しています。『神エホバかく言ひたまふ 見よわれシオンに一つの石を据えてその基となせり これは試みをへたる石 貴き隅石 かたく据えたる石なり……われ公平をはかり繩とし 正義を〔水準器〕とす』。神の「はかり繩」と「水準器」とによって定められる境界を守ることは,この裁きの日にいるわたしたちにとっていかにもたいせつではありませんか。―コリント前 3:9,17。エペソ 2:20-22。ペテロ前 2:4-6。イザヤ 28:16,17。
義 ― 主要な境界
15 義をどのように定義できますか。神のどんな二つの属性がきわだったものとなりますか。
15 現在の邪悪な事物の体制とは対照をなすものとして,ペテロは,『新しい天と新しい地があり,そこには義が宿る』と述べています。(ペテロ後 3:13,新)義とは,方正な,公平な,そして公正な事がらを表わしています。しかし,人間の目で見た人間の物事の場合,何が正しいかの規準はかなり異なり,その場の便宜に支配されないまでも,それに影響される場合が少なくありません。国家どうしの領土上の境界をめぐる激しい抗争などの場合,どちらの側も自分のほうが正しいと唱えますが,その結末は,『力は正義』という昔からのことわざどおりになります。エホバの場合にそのようなことは決してありません。確かにエホバは『全能の神』です。また,無限の知恵を持たれるかたでもあります。事実,エホバの属性はすべて最高度のものであり,完全な平衡を保っています。しかし,エホバの義はその愛と公正さのうちに特に例示されているのです。彼は「岩,その活動は完全である。その道はすべて公正だからである。忠実の神,不正なところはない。義かつ方正なかたである」。エホバの主権,とりわけ,自分の命を贖いとして与えたキリストのもとに置かれるその王国に関連して行使されるエホバの主権は,神の愛と公正さをすばらしいしかたで表わし示します。―黙示 16:14。申命 32:4,新。マラキ 3:6もご覧ください。
16 (イ)わたしたちの生活を神の規準に合わせて形作ることができますか。どのように?(ロ)わたしたちが適正な範囲内にとどまるのを助けるため,神はどのような優れた備えをされましたか。
16 このことを認識すればするほど,わたしたちの心は深い感謝の念に動かされ,自分の生活をこの同じ規準に合わせようとする動機を強く持つようになります。パウロは述べました,「あなたがたの思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着け(なさい)」。特に愛に関しては,それが単なるさそいではなく,律法また命令として課せられていることを銘記しなければなりません。(エペソ 4:23,24。マタイ 22:36-40,ヨハネ 13:34,ヤコブ 2:8,ヨハネ第一 4:7-12もご覧ください。)この点でわたしたちを助け導くために,エホバはご自分の民を集めて,緊密に結ばれた一つの結合体とされました。それは,強固な防壁に囲まれた,聖書時代の都市の中に住んでいるのに似ています。そのことは,イザヤ書 26章1-4,7節に美しく描かれています。『われらに堅固なる〔都市〕あり 神救ひをもてその垣その囲ひとなしたまふべし なんじら門を開きて忠信を守るたゞしき国民を入れよ……なんぢらとことはにエホバにより頼め 主エホバはとこしえの岩なり 義しきものの道は直からざるなし なんぢ義しきものの道を直く平らかにしたまふ』。―黙示 22:15-21もご覧ください。
17 規準が高すぎると感じられる場合でも,神のことばが助けと励ましを与えることを述べなさい。
17 あるいはあなたは,規準が自分には高すぎると感じて,多少失意しておられるかもしれません。そして,自分のことをあまりにも知りすぎていると言われるかもしれません。しかし,もしそうなら,エホバのほうがあなたのことをはるかによく知っておられるということを忘れてはなりません。『エホバのおのれをおそるる者をあはれみたまふことは父がその子をあはれむがごとし エホバはわれらのつくられしさまを知り われらの塵なることをおもひたまへばなり』。問題の多く,そして悪の多くでさえ,神の目的と親切な備えに対する知識の不足におおむね帰せられます。この点についてパウロがアレオパゴスの法廷で語ったことばを覚えておられますか。「神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます」。これは無意味なことばではありません。無知の時代は過ぎました。悔い改めの時代が来ているのです。結局のところ,各自の責任ということに加えて,各自の選択の機会も与えられているのであり,聖書はそのことを繰り返し示しています。自分の過去の経歴と性格が生来の弱さ,あるいはさらに悪いものを示し,自分ではそれを克服できないと感じる人がいるかもしれません。しかし,神が邪悪な者たちにさえ幾度も呼びかけをされたことは,神と神の規準を故意に退け,無知による哀願の余地も悔い改めも全くない場合でないかぎり,だれの場合にも望みが残されていることを示しています。カインに対する神の警告と呼びかけは,カインが,その時でさえ,もし助けを請い求めさえしたなら,正道に戻りえたことを示しています。―詩 103:13,14。使行 17:30,新。創世 4:6,7。
18 各自の責任と結びつけて,エゼキエルの預言の中では,邪悪な者に対してどんな呼びかけがなされていますか。
18 エゼキエル書第18章の預言全体を通して,各自の責任が強調されています。「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」。そして,呼びかけのことばが繰り返し語られています。『悪人もしそのすべて行なひしところの悪を離れ わがすべての法度を守り 律法と公義を行なひなば かならず生きん 死なざるべし』。同様の呼びかけが一つの国民全体に対してもなされました。「なんじらそのもろもろのとがを悔い改めよ……新しき心と新しき〔霊〕を起こすべし……われは死ぬる者の死を好まざるなり さればなんぢら悔いて生きよ 主エホバこれを言ふ」― エゼキエル 18:4,20,21,27,30-32; 33:11,14-19。ヨエル 2:12-14もご覧ください。
19 わたしたちひとりひとりにどんな責任と可能性がありますか。パウロ自身の経歴はこの点でどのように助けになりますか。
19 すでに述べたとおり,この原則は逆の方向にも働きます。(エゼキエル 18:26)どちらにしても,各自の選択と責任とがそこにあります。人は新たな,正しい選択をすることができ,『神を模索してほんとうに見いだす』ことを願うなら,『神を求める』ために新たなスタートを切ることができます。神は遠く離れておられるのではありません。パウロは,以前の性格や行状という面で極端に悪い経歴を持ちながら,『知らないままに,そして信仰のないままに行動していたゆえにあわれみを示された』者の顕著な例となっているのです。―使行 17:27。テモテ前 1:12-16。ガラテヤ 1:13。
20 イエスはこの同じ可能性と責任をどのように強調されましたか。
20 ヨハネ 3章16-19節(新)のイエスのことばの中にも,同じあわれみのこもった論議が含められています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え(られた)……それは,彼が世を裁く[罪に定める]ためではなく,世が彼によって救われるため」です。これは冗談に語られたことばではありません。それはほんとうにその可能性を含む事がらでした。イエスは「どんな人にも光を与える真の光」でした。しかし,イエスの言われたとおり,「人びとは光よりやみを愛し」ました。「その業が邪悪であったから」です。それは彼らの選択でした。彼らはそこにとどまることのほうを好みました。―ヨハネ 1:9,新。
21 エホバを尋ね求める人々について詩篇 24篇3-6節の中でどのように描写されていますか。
21 あなたとしては,どうして詩篇 24篇3-6節に描かれる世代とともにならない理由があるでしょうか。『エホバの山にのぼるべき者はたれぞ その聖所に立つべき者はたれぞ 手きよく心いさぎよき者そのたましいむなしきことを仰ぎのぞまず 偽りの誓ひをせざるものぞその人なる かゝる人はエホバよりさいはひを受け その救ひの神より義を受けん かくのごとき者は神をしたふものの〔世代〕なり ヤコブの神よ なんぢのみ顔を求むる者なり』。〔新〕
22 イザヤ書 55章6,7節の中で,どんな優れた呼びかけがなされていますか。
22 そうです,どうしてイザヤ書 56章6,7節に言い表わされる呼びかけに答え応じない理由があるでしょうか。「あなたがたは,見いだせる間にエホバを捜し求めなさい。近くにいてくださる間に呼び声を上げなさい。邪悪な者はその道を離れ,害意をいだく者はその考えを捨てなさい。エホバに帰りなさい。あわれみを施してくださるのです。わたしたちの神に帰りなさい。寛大にゆるしてくださるからです」(新)。あなたもこれを経験し,またこうした祝福にあずかれるのです。