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ヱホバを試みるものみの塔 1957 | 8月1日
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を倉に納めてヱホバを試みる機会を備え給うたのです。私たちがなせばなす程,ヱホバは新世社会の全体に注がれるのと同じように,私たち一人一人にその祝福を注がれるのです。その祝福は非常に豊かであるため,私たちには容れることができないでしよう。
たしかに,是認された仕方でヱホバを試みることができます。それはヱホバに讃美を帰すと共に私たちに永遠の祝福をもたらします。
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ヱホバの制度に尊敬を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
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ヱホバの制度に尊敬を示しなさい
『我子よ,汝の父のいましめを守り,汝の母の法を棄つるなかれ。それ,いましめは燈火なり,法は光なり。こらしめは生命の道なり。』― シンゲン 6:20,23。
1 キリスト教国の子供たちは誰ですか。その状態はどんなものですか。
キリスト教国の子供たちは,この世の組織制度の子たちです。キリスト教国はこの世の組織制度の主要な部分だからです。キリスト教国の子供たちは,多くの言語で幾千万冊と配布されている燈火,すなわち聖書を持つています。しかし,その子供たちにとつては聖書は,火の点ぜられていない燈火のようです。なぜですか。なぜなら,この世の組織制度の父と,その自堕落な裔なる『キリスト教国』は,子供たちの心を暗まして燈火の光を見させないからです。更に悪いことには,彼らはその燈火に対する正しい認識を得させずに故意に子供たちを外に追い出し,そして,子供たちをして真暗闇の窮乏の状態にさまよわせているのです。強力な手によつて阻止されないなら,覆いのかけられている聖書そのものももぎとられていたでしよう。キリスト教国内にいる古い世の子供たちは,そのような状態なのです。―コリント後 3:15; 4:4,6。
2 どんな意味深い面で新世社会の子供たちは,キリスト教国の子供たちとちがいますか。
2 ヱホバの証者の新世社会の子供たちを見るとき,それはなんという対照なのでしよう! 彼らも一つの燈火を持つています。実際のところ,それは同じ燈火である神の書かれた御言葉です。しかし,詩篇 119篇105節にはこう書かれています,『なんじの御言葉はわが足の燈火わが路の光なり。』彼らは光を持つているのに,キリスト教国の子供たちが光を持つていないのはなぜですか。両方とも同じ燈火なる神の言葉,聖書を持つています。そのちがいは何処にあるのですか。その答はこうです,顔に覆いのかけられて居ない彼らは,天の御父の光り輝く御言葉を見つめ,また母のごとき制度を通して与えられる啓開の教えをも受け入れたからです。シンゲン 6章20,23節にこう書かれています,『我が子よ,汝の父のいましめを守り,女の母の法を棄つるなかれ。それいましめは燈火なり。法は光なり。教のこらしめは生命の道なり。』
3 聖書からの光を持ちたいと欲する人々には,何が要求されていますか。
3 しばらくのあいだそれを考えてごらんなさい。父のいましめと母の教なる法の二つの事柄が言われています。そのシンゲンの説明によると,父のいましめは火のついている燈火ですが,また母の教なる法からの光もあります。この世には,神のいましめの書かれている本,聖書で充ちています。それであるなら,なぜ人々は正しい道を見つけることができないのですか。なぜなら,母の教なる法,すなわち光を持つていないからです。ヱホバ神は聖なる御言葉を全人類に与えられました。この御言葉の中には,生命の路を歩むのに必要なすべての知識が記載されています。しかし,その御言葉を自立で語らせるとか,あるいは生命の真理を自立で輝かせる,というのは神の取り極め給うことではありません。神の御言葉は『光は義しき人のためにまかれ』と述べています。(詩 97:11)シンゲンに言われている母の教なる法,すなわち光は,神の制度を通して備えられるのです。真理の光の中に歩むためには,ヱホバ神を私たちの父と認めるだけでなく,その制度を私たちの母と認めねばなりません。
4 イスラエル人たちは,どの程度まで父と母を尊ぶように要求せられましたか。そして,今日のクリスチャンは,どの程度まで?
4 自らクリスチャンと言い,神は自分の父であると言う人々の中には,こんな風に誇る人がいます。つまり,自分一人だけで神と共に歩んでおり,神は彼らの歩みを個人的に導かれているというのです。そのような人々は母の教なる法を棄てているだけでなく,実際には神の女を街路に投げ出しているのです。神の真理
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