あなたは地上で永遠に生きる人となりますか
『そは義人は地にながらえおり,完全者は地に止らん。されど悪者は地より亡され,悖逆者は地より抜きさらるべし。』― シンゲン 2:21,22。
1 どんな方法で,人間は今日地を汚していますか。
人はいま地を汚しています。貪欲にも地の資源から出来るだけ早く富を得ようとして,彼らは森林や草原を全く剥いでしまいます。それで貴重な表土は洗い流されたり,吹き飛ばされています。金銭や単なる慰みのために,野の動物や鳥はやたらに殺されています。私たちの呼吸する空気は工場の煙で不必要に汚されています。多数の工業家たちは貪欲のあまりその煙を制御しようとしないのです。何千年もの間にわたつて,国家的また国際的な戦争は,血をおびただしく流してきました。その血は地を汚しました。いまや,手早い大量殺人の方法を求めている最大の強国は,放射能で大気,植物,土地,海,魚 ― あらゆるもの ― を汚染しつつあります。この傾向がつづくならば地に住めなくなる時がくると,科学者は認めています。ある処には既に人が住めなくなりました。1956年6月20日附の「サンフランシスコ・クロニクル」は次のような社説を掲げています。『永遠に不住の地となる。アメリカの核兵器の実験によつて,マーシャル群島の二つの島に人間が住むことは恐らく永遠に不可能となつたという報道を聞くと誰しも考えさせられる。また,別の一つの島の住民が重い放射能病にかかつたことは確かである。意図したのでない事は勿論であるが,核分裂と核の融合に伴う避け得ない結果として,ビキニとエニウェトクは浴びせられた放射能のため,永遠に人の住めない処となつた。ロンゲラップの住民は,空気,土地,食物からの放射能を受けたために,吐き気,頭髪の脱落,皮膚障害を起し,その他,重い放射能病の徴候を示した。』
2 どのように状態は悪化しつつありますか。そして,これは何を意味しますか。
2 広く認められる道徳の甚しい腐敗を,これに加えてごらんなさい。地とその住民は,創造主の知恵と尊厳を反映するに足らず,創造主に讃美をもたらすという目的に適つていない事は明らかです。しかも,時がたつにつれて,状態は悪化しています。『しかし,このことは知つておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。』― テモテ後 3:1-5,新口。
3 地を亡ぼす者をヱホバが亡ぼされるとき,保護されるためにクリスチャンは何をすべきですか。
3 『こうした人々を避けなさい。』なぜですか。イスラエル人がカナン人から離れねばならなかつたのと同じ理由です。なぜなら,『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』つまり,腐つたものは良いものを腐敗させ,汚れたものはきれいなものを汚染するからです。集団が悪を行い,支持し,あるいはそれを許すときには,その悪に対して共同の責任があります。それで,この共同の責任に与ることを避けるために,各人は,肉体的に交わりを断てないならば,精神的,道徳的また情緒の上で交わりを断たねばなりません。イスラエル人がその与えられた律法を守つたならば,律法は彼らを守つたことでしよう。それと同じように,クリスチャンも戒めを与えられて居り,その戒めを守るなら保護を受けます。サタンは『この世の君』であり,『この組織制度の神』であつて,『全世界は悪しき者の配下にあることを』知るゆえに,クリスチャンは『世と世にあるものとを,愛してはいけない』という戒めの正しい事を認識しています。また,誰でも『世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである』と知つているのです。クリスチャンはサタンに支配されることを欲しませんから,サタンに全く支配されているこの世から離れます。このようにして,彼らは世界のすべての悪に対しては,その責任に与りません。それ故に,彼らはハルマゲドンのヱホバの戦における世の滅びをも避けるでしよう。カナン人と背教のイスラエル人は地を汚した故に,地は彼らを吐き出しました。同じように,ハルマゲドンにおいて悪しき者は生ける者の地から吐き出されてしまうでしよう。それはヱホバが『地を滅ぼす者どもを滅して下さる』時だからです。―ヨハネ 12:31,新口。コリント後 4:4,新世。ヨハネ第一 5:19; 2:15。ヤコブ 4:4。黙示 11:18,新口。
研究と熟考
4 神の言葉の研究は私たちをどのように変えますか。
4 では,どうすれば地から吐き出されずにすみますか。『地を滅ぼす者ども』から離れることによつてです。地と共に,神に讃美をもたらして,清められた地に対する神の御目的と一致しなさい。今からそれを始めなさい。あなたが正しいと思う方法でするのではなく,神が正しいと言われる方法でそれをしなさい。神の御言葉を研究して,神の道を学びなさい。聖書を研究することによつて,あなたは『この世の組織制度に従うのを止め……むしろ,神の善にして御旨にかなう全き御意をわきまえ知るために,あなた方の思を替えて変化』するでしよう。この研究によつて,『あなたがたは,以前の生活に属する,……古き人を脱ぎ捨て』かつ『真の義と聖とをそなえた神にかたどつて造られた新しき人を着るべきである。』それは,あなたが『肉における残りの生涯を,もはや人間の欲情によらず,神の御旨によつて過ごすためである。過ぎ去つた時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけつてきたが,もうそれで十分であろう。今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしつている。彼らは,やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに,申し開きをしなくてはならない。』しかし,研究によつて,考え方と行いを変えたあなたは,ハルマゲドンにおけるヱホバの滅びの裁きから救われるでしよう。―ロマ 12:2,新世。エペソ 4:22-24。ペテロ前 4:2-5,新口。
5 研究のどんな面は今日無視されていますか。しかし,聖書はそれについて何と述べていますか。
5 研究の一つの面で,今日残念にもおろそかにされているのは熟考という事です。聖書は熟考することを,しばしば私たちにすすめています。ヨシアは,律法の本をとつて『夜も昼もこれを念い』あるいは,もつと正確に表現すれば『夜も昼も,低い声でこれを読み取らねばならない。』と命ぜられました。この低い声で読むことは,自分自身に話しかけること,つまり,声を出して考えに耽るのに似ています。そして,黙読するよりは時間がかかりますから,考えが長く心に留められて,心の奥深くに入るのです。そのうえ,目と耳の両方を通して考えが心に入りますから,ずつと強く心に刻み込まれます。幸福な人に関して,次のように書かれています。『彼はヱホバの法をよろこびて昼も夜もこれを彼自身に語る(欄外では,独語する)。かかる人は流れのほとりにうえし樹の期にいたりて実をむすぶが如し。』ヱホバの真理の水をとりいれることによつて,私たちはクリスチャンの実を結ぶことができます。私たちは詩篇記者の手本にならうべきです。『夜われわが心にてふかく思い,わが霊に思いをめぐらして之を尋ねもとむ。』― ヨシユア 1:8,新世。詩 1:2,3,ロップス訳; 77:6,改訂標準訳。
6 イエスは熟考を重んじ,またそうすることが時々困難であつたことを,何が示していますか。
6 他の人に語る前に,自分自身に語る,つまり独語するのは一番良いことです。これは私たち自身の心に真理を刻むことであり,言葉の導きとなるものです。大いなるダビテであるキリスト・イエスは,このような熟考をなして自己準備をしました。『われ汝のほまれの栄光ある稜威と,なんじの奇しきみわざとを深く思わん。』あるいは『独語せん。』洗礼の後,40日間荒野で独り断食したイエスは深く思いをめぐらしました。そして,天が開けたときに彼が見た事柄の意味を十分に理解しようと努めたのです。この熟考によつてイエスは強くされ,前途に備えることができました。イエスは熟考し,また祈るために時々ひとりになる事をお求めになつたと聖書は示しています。イエスは『祈るためひそかに山へ登られた。』また『イエスは,寂しい所に退いて祈つておられた。』深く考えたり祈るために孤独は必要でしたが,イエスはなかなか独りになれませんでした。『イエスは寂しい所へ出て行かれたが,群衆が捜しまわつて,みもとに集まり』また,『朝はやく,夜の明けるよほど前に,イエスは起きて寂しい所へ出て行き,』ところが,共にいた者たちは『あとを追つてきた。そしてイエスを見つけ』たのです。町の群衆を避けるために『イエスは……外の寂しい所にとどまつておられた。しかし,人々は方々から,イエスのところにぞくぞくと集まつてきた。』― 詩 145:5。マタイ 14:23。ルカ 5:16; 4:42。マルコ 1:35,36,45,新口。
7 今日,私たちの熟考を困難にしているのは誰ですか。どんな手段によつて?
7 今日のイエスの追随者はイエスとは違い,群衆に取り巻かれるという事はありません。しかし,思いをめぐらすために孤独を見出そうとしても,近代生活に追われています。世界の多くの場所で,簡素な生活は復雑な生活へと変り,目を覚ましている間は重要なことと些細な事とで一杯になつているのです。そのうえ,今日の人々は考えることを嫌うようになつて居り,ひとりになつて自分だけの考えにひたることを恐れます。他の人がまわりにいないと,彼らはテレビジョン,映画,軽い読物で物足りなさをまぎらせます。あるいは,海岸や公園に行つても携帯用ラジオを持参して,考え事をしないようにします。その人々の考えは何時でも伝えられたものであつて,宣伝する者が作つた考えなのです。これはサタンの目的通りになります。サタンは何でもあれ神の真理以外の事で多数の人々の心を満たしています。敬虔な思いをさせまいとしているサタンは,些細なことか不敬虔な思いで人々を忙しくさせているのです。それは仕立てられた考えであつて,仕立てた者は悪魔です。馬が引かれているのと同じように心は働きます。他のものに左右されない考え方は,困難であつて人に好まれず,疑われてさえいます。思想の統一は今日一般の状態です。思いをめぐらすために孤独を求めると,反社会的であり,ノイローゼにかかつていると言つて眉をしかめられます。―黙示 16:13,14。
8 最もよく熟考するには,どんな状態が必要ですか。
8 ヱホバの僕である私たちは,深く考えよとの戒めに従わねばなりません。めまぐるしい時の流れに押し流されると,私たちは川の流れに浮かんだ木片のようです。流れにさからつて戦い,かたわらの小さな渦巻きか静かなよどみにまで辿りついて静かに考えないなら,自分自身の道を導き定めることは全くできません。私たちは嵐の渦巻きに捲き込まれたスズメのようです。私たちは嵐の静かな眼に何としても辿りつき,定期的に霊の事に思いをめぐらさないなら,あわただしい毎日に追われて考える機会は全くないでしよう。深く考えるためには,平和と静けさが必要です。耳を撃つ音をさえぎり,注意をそらせる光景には眼を閉じて感覚の器官は落着きを得ていなければなりません。それで,感覚器官のことで心が乱されることはなく,自由になつた心は他のこと,新しいこと,違つたことを考えることができます。そして,外からの刺戟で心が乱されることなしに,心の中で自由に考えることができるのです。部屋が一杯なら,それ以上の人は入れません。心に余裕がなければ,新しい考えは入らないでしよう。熟考するときには,受け入れる余地を作らねばなりません。私たちは心を大きく開いて新しい考えを受け入れねばなりませんが,日常の考え事やわずらいを心から捨て去ることにより,また,復雑な近代生活に伴う日常の雑事を心に入れないことによつて,そうするのです。めまぐるしい日々の煩いを心から取り去り,心を自由にするには,時間と孤独を必要とします。しかし,この事をするなら,心は神の言葉の緑の牧場で養われ,真理の水によつて休みと慰めを得るでしよう。深く考えることによつて,あなたは新鮮で喜びを与える霊の食物を豊富に得ます。この事を定期的にするなら,あなたは霊的に元気を回復し,新らしくなつて力にみちることでしよう。そこで,あなたはヱホバについて,次のように言うことができます。『ヱホバは我をみどりの野にふさせ,いこいの水浜にともないたまう。ヱホバはわが魂をいかしたまう。』あるいは『ヱホバは私に新しい生命を与えられる。』― 詩 23:2,3,アメリカ訳。
9 どんな点で,熟考は水の井戸に比べられますか。
9 水のあふれている井戸にそれ以上の水がしみ込んで行くには,いくらかの水を汲み出さねばなりません。補給のいとまが無いほど急速に汲み出すならば,井戸は涸れてしまいます。水をすこしも汲み出さなければ,水はよどむでしよう。井戸にくずを投げ込むなら,水のはいる場所は少なくなります。容積は限られていてある量を入れるに過ぎず,水面は一定しているのです。心についても同じことが言えます。心は知恵の井戸すなわち生命を与えるヱホバの真理の水にあふれた井戸となります。『義者の口は生命の泉なり』泉の水と同じく,口の言葉は人を元気づけて生気を与えるものです。『人の口の言は深き水の如し,湧きてながるる川,知恵の泉なり』私たちの言葉をつまらないもとせずに,知恵の湧き出る川とするためには,深く考えなければなりません。古い考えを心から捨て去り,次にはゆつくりと深い思いをめぐらして新しい考えを取り入れねばなりません。私たちの考えを停滞させてしまうなら,つまり,考えを変えて新たにしないならば,その考えは古くなつて陳腐なものになつてしまうでしよう。世の煩いとサタンの宣伝とで心を満してしまうなら,敬虔な考えをする余地はなくなります。井戸と同じことが心についても言えるのです。汲み出してばかりいると,井戸は涸れてしまい,全く汲み出さなければ水はよどんでしまいます。汲み出す時もあれば,水のしみ込む時もあります。話す時と休む時,熟考する時と伝える時,考える時と考えたことを告げる時があるのです。与えるためには,先ず得なければならず,出す前には取り入れなければなりません。空けようと思えば,まず満たさねばならず,再び満たすためには空けねばなりません。それは得ることと与えることの両方の過程であつて,その何れか一方だけではないのです。常に真理の水があなたの心に流れ込み,あなたの心を通つて口から流れ出て行くようにしなさい。それで,心は『泉の湧出る井』となるでしよう。―シンゲン 10:11; 18:4。創世 26:19。
10 果を結ぶように熟考する力を改善するものは何ですか。
10 心に深く考えるという力は筋肉にも似て居り,使うことによつて強くなります。ヘブル書 5章14節(新口)は述べています,『堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。』何時も食べてばかりいることはできません。時間をかけて消化しなければならないからです。それと同じように,読んだことを理解するため,研究の合間には時々深く考えねばなりません。草を食む動物が後になつて反芻するように,私たちは霊的な食物をとつた後,いわば心に反芻しなければなりません。時折は,以前に学んだ事実あるいは真理を意識して心に思い浮かべ,その価値をとりつくすまで心に深く思いめぐらさなければなりません。そうしないと,非常に多くのものは意識しない心の奥底に留まつたままで,使われることがないでしよう。熟考していない人は,自分自身の心と心の中に隠されているものを本当に知らないのです。深い考えは心の中にあり,それを取り出すには深く探らねばなりません。時間と孤独は,熟考することにより,深い考えを掘り出すためのつるはしとシヤベルなのです。心を浅くしておいたのでは,深い問題の奥底まで見ることは望めません。パウロは考えるべき良いことを列挙してから,こう勧めています,『これらのことを考え続けなさい。』あなたが多くすればする程,あなたの心はより一層に良い働きをするようになるでしよう。―ピリピ 4:8,新世。
名を残しなさい
11 神の言葉に思いをめぐらす主な理由は何ですか。この目的に関連して熟考を示しているどんな聖句がありますか。
11 熟考することの目的は一つ,すなわちヨシユアに与えられたものと同じです。ヨシユアは昼も夜も神の律法を心に深く思つて,これを低い声で読むようにと命ぜられました。それは『其中に録したる所をことごとく守りて行』うためでした。私たちは『さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげ』るべきです。舌で何を言うべきかを心に知らねばなりません。『義者の心は答うべきことを考え』る。パウロはテモテに命じました,『すべての事にあなたの進歩があらわれるため,これらの事を実行し,それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。』また,『わたしの言うことを,よく考えてみなさい。』それで,私たちは個人的に研究し聖書と神権的な聖書の手引きを読み,読んだ事柄を熟考し,それを実行に移すと共に,更に強められて他の人を愛と善い業とに励ますため,集会に出席することをしなければなりません。そうして,神の新しい世で永遠に生きるため,すべての人は一致して進み,ヱホバの御名を讃美しなければなりません。―ヨシユア 1:8。ヘブル 13:15,新口。シンゲン 15:28。テモテ前 4:15,16。テモテ後 2:7,新口。
12 死の日が生まれた日にまさるという事は,どのように真実ですか。
12 悪しき者の名は腐つて神の記憶から消し去られますが,神は従順な者の良い名を記憶されます。そして,彼らがハルマゲドンの時に生存しているならば保護を与えられ,あるいはそれ以前に死んだならば生命に甦えされます。故に,一見したところでは奇妙に感ずる次の言葉も,やはり正しいのです。『名はよき膏にまさり,死ぬる日は生るる日にまさる。』誰しも,生涯の初めはその終りよりも良いと考えるかも知れません。しかし,ここで意味している事はこうです。人が死ぬとき神に対して良い名を持つているなら,それは生まれた時,すなわち神に対して良い名を持つていない時よりも良いというのです。すべての人は罪にはらまれ,生命への権利もなく,神の処罰の下にあつて不義の中に生まれています。そして,神から罪に定められています。『御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は,命にあずかることがないばかりか,神の怒りがその上にとどまるのである。』生涯を始めたときから持つている相続した罪とその処罰は,私たちが神とキリストに対して信仰と従順を示さない限り,留まります。生涯を始めたとき,私たちがどんな生活を送るかは未知の事柄です。運命は予め定められていないからです。しかし,生涯を終えるときに,敬虔な業によつて築いた良い名を持つているなら,新しい世における私たちの将来は確かなものです。良い名を残して死ぬなら,神は甦えらせて下さるでしよう。また,ハルマゲドンが来たときに良い名を持つているなら,神は保護して下さいます。―伝道之書 7:1。ヨハネ 3:36,新口。
13 宴楽の家に行くよりも悲しみの家に行く方が更に益となるのは,なぜですか。
13 『哀傷の家に入るは宴楽の家にいるにまさる。そは一切の人の終かくの如くなればなり。生ける者また之をその心にとむるあらん。』とソロモンは続けています。これは,喜ぶよりも悲しむ方がよいと言つているのではありません。私たちは幸福な神と喜びにあふれるキリストを持ち,歎く者を喜ばせよとの使命を与えられているのに,どうして,そのようなことがあり得ますか。それは,人が死んで家が喪に服している特別な時を指しているのです。無情にも遺族のことを忘れて宴楽を楽しむよりは,その家に行つて悲しみに沈む遺族を慰めなさい。近親の死後7日間は喪に服するのがユダヤ人の習慣であり,喪に服した家を訪問するのは良いことと考えられていました。それは遺族を慰めることになつたばかりでなく,訪問した人は生命のはかないことを思い起すと共に,その家に来た死は間もなく凡ての人に来ること,そして,生きている者はその事を心に留めなければならないと,知らされました。死にかかつている時ではなく,まだ生きている間にこそ,良い名を作ることができるのです。そして,良い名は死につつある人にとつて価値ある唯一のものです。―伝道之書 7:2。創世 50:10。ヨハネ 11:31。
14 なぜ,悲しみは笑いにまさり,賢い者の戒めは愚かな者の歌にまさるのですか。
14 ソロモンは続けて述べています,『悲しみは笑いにまさる。そは顔に憂色を帯ぶるなれば心も善に向えばなり。』笑いは良い薬ですが,私たちの生活と,生活の仕方を真面目に考えてみるべき時もあります。つまらない楽しみに時間を浪費するの余り,良い業をなさず,従つて良い名を作つていないと知るなら,悲しむ方がよく,そして改める方が良いのです。それで,心は善に向うでしよう。それは良い名を作るように私たちを助け,死ぬ日あるいはハルマゲドンの日は,生まれた日よりも良いものとなるでしよう。『賢き者の心は哀傷の家にあり。愚かなる者の心は喜楽の家にあり。賢き者の勧責を聴くは愚かなる者の歌詠を聴くにまさるなり。』死人の出た家にいる賢い人の心は,当然その遺族の家に満ちる厳粛さに打たれ,そして生命というものを凝視するようになります。しかし,宴楽の場所にみちる無頓着な気分は,愚か者の心に合います。それで愚か者は浅い無鉄砲な気持で生命を見ます。あなたが正しい道を踏み外しているなら,賢い者の戒めはあなたを正し,あなたをして自分のために良い名を作るように仕向けるでしよう。そのようにして,あなたは生命の道に戻ります。しかし,愚かな者の歌また,あくどい称賛を聞いても,私たちの過まちをかくして,過まちを改められないようにする空しい追従は助けにはなりません。それによつて私たちは悪い名を作るにとどまり,ヱホバに対して良い名を作る道に入るよう自分を正すことはできないのです。―伝道之書 7:3-5。
15 釜の下に燃えるいばらの音は,なぜ愚かな者の笑いに似ていますか。
15 『愚かなる者の笑いは釜の下に焚ゆる荊棘の音の如し。是また空なり。』とソロモンは次に述べています。いばらは満足な燃料ではありません。すぐに焔を上げますが,すぐに燃えつきて灰となります。釜の中のものを煮上げるほどに長続きがせず,火をつけた用を為さないものです。その見せかけに過ぎないやかましい燃え方は役に立たず,空しいものです。愚かな者の軽薄な笑いや愚行もそれと同じです。それは誰の助けにもなりません。神に憶えられる良い名を作つて,死の日が生まれた日よりも良くなることを確かにするものではないのです。―伝道之書 7:6。
16 人間にとつてこの生命が全部のものなら,なぜ生命は取るに足らないものですか。
16 私たちは空しい事にこの生涯を浪費してはなりません。将来の新しい世における真の生命に入ることを確かにするよう,生涯を用いねばならないのです。もし,生命がこれだけのものなら,重大な事は全くありません。この生命は,空中に投げ上げられ,すぐに元の塵の中に落ちるボールのようです。それはつかの間に過ぎ去る影であり,しぼむ花,刈り取られて直ぐにしおれる一片の草です。生命がこれだけのもであるなら,私たちが何を行い,話し,考えても,あるいは何かをしなくても,話さなくても,考えなくても,それはどうでも良いことになります。永遠という尺度から見るとき,私たちの一生は取るに足らぬ一点です。時の流れの中で,それはごく僅かなものです。多岐にわたる人間一生の関心事や活動を振り返つて見た伝道者が,それらは空しいと言つたのは正しいことです。私たちは余りに早く過ぎ去るため,決して来なかつたもののようであり,その存在を知られずに,来ては過ぎ去る何千万人の一人なのです。この見方は皮肉でもなければ,陰気で一風変つた病的な見方でもありません。この生命がその全部であるとすれば,これは真理であり,たしかな事実,実際に即した見方です。
17 しかし,それが人間の持ち得る凡てではない以上,人は何をするべきですか。
17 しかし,これがすべてではないなら,そして私たちに生命を与え,霊感の書物によつて私たちに生活の仕方を告げられた創造主が存在するなら,すべての力を傾けて創造主の言われることを行う方が良いのです。一時のあいだ存在する一葉の草を過ぎ去ることのないセコイヤの樹にし,過ぎ去る影を留め,しぼみかかる花に色を保つには,何をすることが必要であるかを創造主は告げられています。現在の仕事,職業,思想,言葉など何れを挙げても,私たちの生命を永続するものにし,時の流れの中で永遠の泳者とならしめるもの以上に重要なものは一つもありません。あるいは,それらのものは全く重要でさえないのです。一瞬の時にしか過ぎないこの生命にあつて,これは最も実際的な,また唯一の実際的な行いです。故に,この生命と,小さな人間があがきながら追い求めている事はすべて空しいことを示した後で,伝道者は人間のすべての空しい業と努力と弱さを捨て去り,はかない此の生命にあつて唯一の重要なことを的確に指摘しているのです。『事の全体の帰する所を聴くべし。いわく,神を畏れその誠命を守れ。これはすべての人の本分たり。』― 伝道之書 12:13。
18 私たちが地上で永遠に生きる者となるか否かは,どんな質問に対する答によつて決まりますか。
18 私たちは自分の目で周囲を見回すとき,創造主の存在と力,創造主の知恵と尊厳を示す証拠を見ることができます。私たちは創造主の言葉である聖書を読み創造主とその地球,地に対する御目的,また,私たちが地上で永遠に生きる可能性など,更に多くの真理に対して心の眼を開くことができます。私たちはすべての人の本分を守りますか。神をおそれ,神の御意を学び,それに思いをめぐらし,それを行い,また他の人にも告げて彼らの神の御意を行うように助けますか。私たちはサタンの下にあるこの世と,その業,その冒瀆,その地を滅ぼす行いを避けますか。私たちは神の御心と調和して地を用い,地を耕やし,美化し,鳥や動物を世話し,地がヱホバの讃美を反映するのを助けますか。それとも,私たちは悪く振舞つて神のこの鏡を汚し,神の知恵と力と讚美を照り輝さないようにしますか。これらの質問にどう答えるかによつて,そして,その答にふさわしく生きるかどうかによつて,私たちが地上で永遠に生きる者になるか否かは決定されるのです。『そは義人は地にながらえおり,完全者は地に止らん。されど悪者は地より亡され,悖逆者は地より抜きさらるべし。』― シンゲン 2:21,22。