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神の善意をいま求めるものみの塔 1972 | 9月15日
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を実施されるからです。―ダニエル 2:44。ゼパニヤ 3:8。詩 37:10,11。
21 知恵はわたしたちがどんな道を取るよう導きますか。なぜですか。
21 警告に聞き従い,「エホバの善意の年」の残されている間に神の善意を求める選択をする人たちにとって,今すばらしい機会が開かれているのです。自分に最も益となることを選ぶのが賢明ではありませんか。信頼できる確かな源に将来の益を求めるのが知恵の道ではありませんか。聖書の箴言の中で知恵が語ることを聴いてください。「そは我を得る者は生命をえエホバより〔善意〕を獲ればなり 我を失ふものは自己の生命を害ふ すべて我を悪むものは死を愛するなり」。(箴 8:35,36〔新〕)そうであれば,自分の命を保護するのが実際的な知恵ではありませんか。自分の将来のために備えるのが賢明なことではありませんか。敬虔な知恵を退けて不法の道を選ぶ人は,知恵を憎んでおり,「死を愛する」者です。
22,23 (イ)古代のどんな例は,神の恵みを得たいと願う人の前に選択が提出されていることを明らかにしていますか。(ロ)神の善意を求めるのに遅滞は許されません。このことはなぜ重要ですか。
22 今日わたしたちが直面している選択はモアブの荒野をさまよっていたイスラエルの子らが,先祖アブラハムに約束された地にヨルダン川を渡ってはいろうとしていた直前に,彼らの前に提出された一つの選択を思い起こさせます。その時,モーセは集合している群集に語り,次の警告を与えました。「我今日天と地を呼て証となす我は生命と死および祝福と呪詛を汝らの前に置り汝生命をえらぶべし然せば汝と汝の子孫生存らふることを得ん 即ち汝の神エホバを愛してその言を聴き且これに附従がふべし」― 申命 30:19,20。
23 それと同様に,わたしたちも今日選択をしなければなりません。命を望む人は,エホバの声に聴き,その恵みを確かなものとするための手段を講じたいと思うはずです。善を望むなら,箴言 11章27節(新)が勧めているように,神の善意を得るために何かをするはずです。「善をもとむるものは〔善意を求めつづける〕悪をもとむる者には悪き事きたらん」。幸いなことに,わたしたちはまだ「エホバの善意の年」のうちにいます。わたしたちがその永遠の恵みと善意を求める機会はまだ残されています。知恵は,待つことも遅滞も許されないことを示しています。今こそわたしたちの決定をする時です。神の善意を求める機会は,わたしたちのもとにいつもあるわけではないのです。ですから,今行動し,命を選んでください。神の善意を求め,神の『善意の人の間の平和』を地上で永遠に享受してください。
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イエスを「神」と呼ぶことに関する問題ものみの塔 1972 | 9月15日
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イエスを「神」と呼ぶことに関する問題
● 多くの神学者はイエスを「神」と呼ぶことについて問題があることに気づいている。たとえば神学者のH・W・モンテフィオールは「探究 ― クリスチャンの知識に関するエッセイ」と題する本の中でこう書いている。「イエス自身,自分が天の父の子であることを知っていた。彼は自分を主また人の子と呼び,決して神とは呼ばなかった」。また1971年5月15日号のザ・クリスチャン・センチュリー誌はローマ・カトリックの神学者,カール・ラーナーについて次のように書いている。「彼は進んでイエスを『主また救主』として説明するが,イエスを神と呼ぶことまではしない」。
1968年に行なわれたある講義の中で,神学教授,G・H・ブーバイヤーはこの問題に注目し次のような質問を提起した。「一方では,福音書の綿密な研究が,イエスは神であるとの自覚を持っておらず,神と称えることもしなかったことを明らかにしており,他方では,イエスを『真実に真の神』であると宣したニケアのキリスト論は新約聖書の拠証に則った正しい説であるとする二つの立場を,多くの新約研究者たちがいまだにとっているように,同時に保持できるとみなさんは考えるだろうか。私は,この問題がすくなくとも,A・グリルマイヤーが焦眉の問題として語った,『現代に至るまでのキリストに関する教会の信条を再評価する』べき十分の理由を持つほど今日激烈なものになっていることを指摘したい」。
言いかえれば,彼らは三位一体の信条が不確かな根拠に基づいていることを認めているのである。
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