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魂を得るに至る信仰を行いにあらわすものみの塔 1963 | 4月1日
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を受けました。その受洗者の中に年のいった婦人がひとりいましたが,この人は,77歳の伝道者から伝道され,聖書を教えられたのです。そのお年寄の伝道者は,ほかに6人のお年寄の伝道者と一緒に大会にきました。みんなその人から伝道されたのです。そしてみんな,「私はもう年寄で勉強などできません」という人々に良いお手本になっています。
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読者よりの質問ものみの塔 1963 | 4月1日
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御使たちは,古代の預言者がクリスチャン会衆に関して記録したところを理解したいと願っていましたが,その理解は,神が,ペンテコストの時のように,御自分の目的を展開されるまで待たねばなりませんでした。そして,この場合も,御使たちが,クリスチャン会衆の地上の成員から,教えられたという意味ではありません。
エペソ書 3章10節の要点は次のようなことによって良く説明できるでしょう。私たちは,夜に輝く星空を見て神の属性の偉大さに心をうたれますが,この場合,神は,無生の天体なる星を通して,私たち人間に,御自分の資質を教えておられます。天体が知識を持つという事はありませんから,なにか人間がまだ知らない事を天体が知っているというわけではなく,天体の存在そのものが私たちになにかを教えているのです。御使とクリスチャン会衆の地上の成員の場合も同じです。神がこれまで会衆のためになされた事,あるいは,これから将来になさる事を通して,天の支配や権威である御使の衆群に,御自分の多種多様の知恵を知らせておられるのです。
● 箴言 22章6節を考えてみて,献心した両親に育てられた子供が,教えられたエホバの道から離れることがあるのはなぜですか。―アメリカの一読者より
箴言 22章6節は次の通りです,「子をその道に従ひて教へよ,然らばその老いたる時も之を離れじ」。エホバの道に従って育てられた子供が,成長するに及んでその道から離れるならば,それはむしろ,訓育の仕方に何かが欠けていたのではないかと考えられます。両親は,十分に注意を注がなかったか,徹底的な所に欠けていたか,厳格さが足りなかったか,あるいは十分に愛を示さなかったかも知れません。さらにまた,両親は,しめすべき模範を十分に見せなかったかも知れません。このような場合には,たとえ,クリスチャン両視のもとに生まれて,道に従って育てられたように見えても,実際にエホバの道に従って教えられた事にはなりません。
しかし,例外を全然認めないというわけではありません。それで,箴言 22章6節は子供が正しい道に従って育てられるならば,長ずるに及んでも適当な訓練によってつちかわれた力ないしは要素によって,正しい道から離れる事はまずないと言っているのであって,これには一つも例外はないと言っているのではないと結論しなければなりません。
一方,両親にまったくなおざりにされた子供のすべてが悪に走るとはかぎらない,という事実も否定できません。しかし,これによって,このような例外もあるから子供に注意を払う事は不必要であり,子供を道に従って訓練するのは無駄であると言うわけではありません。
● イエスが,「汝らはラビの称を受くな」と明らかに言われたのに,なぜ,洗礼者ヨハネの弟子たちは,ヨハネをラビと呼んだのですか。―アメリカの一読者より
ヨハネ伝 3章26節にあるように,ヨハネの弟子はヨハネを「ラビ」と呼びましたが,ヨハネ伝 1章38節に記録されている会話の中にもある通り,イエスの弟子もイエスの事を「ラビ」と呼びました。その部分は,次の通りです。「彼らいふ『ラビ(ときていへば師)いづこに留り給ふか』」。この聖句から,ラビは師を意味している事が明らかにわかります。ヨハネは,エホバの道をそなえ,救いに至る知識を主の民に分け与えるために,エホバから預言者として任命されていたのですから,師と称えられるにふさわしい者でした。ヨハネの弟子たちは,その事実を認めていたのです。―ルカ 1:76-79。
もちろん,ヨハネはまもなく死に,それと共に,彼はもはや師ではなくなりました。そして,イエスが弟子たちに教えて,自分が師である事,および,弟子たち相互の間で特定の者にラビという称号を与えて区別すべきでない事を明らかにされたのは,ヨハネが死んだ後でした。「汝らはラビの称を受くな,汝らの師は一人にして,汝等はみな兄弟なり」。―マタイ 23:8。
● 献身したクリスチャンが関係している事故に遭遇した場合,保険請求のためクリスチャン兄弟に対して,法的訴訟を起こす事は適当ですか。―アメリカの一読者より
もし,それが損害を受けた者にとって,保険によって与えられる補償を得るための,唯一の手段であるならば,必ずしも,不適当ではありません。問題を法廷に持ち出すかどうかは,当人の判断にまかされています。使徒パウロは,コリント前書 6章1節から8節において,訴訟をする事について論じていますが,それは,この種の問題について言っているのではありません。パウロは,クリスチャン兄弟と称える者同志が,互いに争いあう場合,一方が,他方にだまされたと感ずるような場合の事を述べているのです。しかし,パウロは賢明にも,クリスチャンは,問題を互い同志の間で解決できなければならない事,もし直接関係している者同志の間だけではむずかしいなら,会衆内にいる他の円熟した人々の助けを得て解決すべきである事を示しました。
しかし,会衆の成員相互の間にはなんら,憎悪やうらみの感情など存在せず,ただ保険会社から補償を得るために必要な手続として,法律的訴訟が行なわれる場合なら,問題は別です。この場合,いずれの道を選ぶかは,個々の人が判断する事柄になります。
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