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あなたはアルコール飲料を飲みますかものみの塔 1974 | 2月1日
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聖書はアルコール飲料の正しい用い方の例を示し,またその誤用を戒める強い警告を与えています。また若い人たちに,「主と結ばれたあなたがたの親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです」と助言しています。(エフェソス 6:1)ですから,アルコール飲料を飲むかどうか,あるいはどんな時に飲んでもよいかについては,神のことばに基づく両親の判断を尊重してください。飲んでいるのがみな若い人ばかりで,監督の役をする親とか近親者がいない場合には飲まないのが賢明です。―箴 1:7-9; 6:20-22; 22:15。
永続する幸福を得るためには,「食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のために」することが,なによりもたいせつです。―コリント第一 10:31。
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「純一な目」が必要ものみの塔 1974 | 2月1日
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「純一な目」が必要
わたしたちの目が何を見すえるか,何をどのように見るかということは,わたしたちの取る行動に影響を与えます。視力がよければ危険を避けやすく,一方視力に欠陥があれば物事の判断を誤って自分にも他の人にも危害を招きかねません。
イエス・キリストが「目」を「ともしび」になぞらえたのはこうした理由によります。イエスはこう語りました。「体のともしびは目です。そこで,もし目が純一であれば,あなたの体全体は明るいでしょう」― マタイ 6:22。
文字どおりの意味で言えば,「純一な」目とは,物をはっきりと見すえ,脳裏に明確な映像を送る目のことでしょう。そうした明確な視覚的印象が与えられるなら,体全体に役だつ判断や決定がなされることになります。一方,もし目があてどなくさまよい,一定の事物に対する注意を集中することができないなら,混乱したぼやけた映像が脳裏に送られることになります。その結果は夜のやみの中を歩くのに似ています。
文字どおりの意味で言えることは,霊的な意味でも言えます。事実,「純一な」目について話したイエス・キリストは,霊的な面を念頭に置いていました。そして,霊的な視力は,その人の心や思いや良心が神のご意志にそって訓練されているかどうかによって決まります。もしそうした訓練を受けていないなら,その人は「やみ」の中にあります。その人は神や仲間の人間に対する責任に関して盲目であり,そのゆえに自分にも他の人にも害となるような行動をします。
神のことばに基づく義の原則を導きとしない人は,不純な態度で,もしくはよこしまな意図をいだいて物事を見ます。聖書が『寛大でない目』,「そねむ目」,「姦淫に満ちた目」について述べているのはそのためです。(申命 15:9; 箴 28:22,新。ペテロ第二 2:14)どういう意味で人の目は「寛大でない」ものとなるでしょうか。『寛大でない目』は思いやりを持たず,人の必要を知りながらそれをあえて見ようとしません。利己心のため,また他の人の益を図ってすすんで自分を犠牲にしようとする気持ちがないために,その人の脳裏に映る像はくもったものとなります。同様に,人は他の人の持つものをそねみをいだいて見,「そねむ目」を持つ者となることがあります。また,結婚している男子が妻以外の女性を見つづけてその女性に対する情欲を育てるなら,その人の目は「姦淫に満ちた目」です。
よこしまな事がらを願い見るようなことのない「純一な」目を保つためには努力が必要です。わたしたちの内面には罪に進む傾向が働いていますから,わたしたちは絶えずそれを抑制することに努め,よくない事がらを願い見たりしないように祈り求めなければなりません。これは詩篇作者の
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