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群衆に従うのは賢明ですかものみの塔 1965 | 8月1日
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その事は今日の青少年の間に広く見られるようです。個人的に見るとりっぱな人のようでも,衆をなした時には不良の集団となります。法律にふれる行いをした多くの青少年と語り合った人は,その経験を話しています。「集団をなしている時,彼らはえらそうな口をきくが,一人になると子供っぽい。彼らは実際には子供なのだ」。たいていの非行青少年は,「ぼくは皆と一緒に行っただけだ」という言いわけをします。集団がその中の各人に悪い感化を及ぼしていることは明らかです。それはなぜですか。
群衆の中にはいると,人は悪いことをしてみたい欲求を満足させ,しかも皆がしているのだからそれほど悪い事ではないと考えて良心をなだめ得るからです。最初の人間アダムが完全さを失って以来,アダムの子孫であるすべての人は罪とよこしまの中に生まれてきました。それで悪にむかう性癖は人間につきものです。そしてこれを克服するのに必要な,義に基づく規律は,残念なことに群衆の中にはありません。それどころか多くの場合に群衆の水準は最低のメンバーの標準に成り下がり,その中にあって悪に走る大勢にさからうことは困難です。―詩 51:5。創世 6:5。ロマ 5:12。
悪に心を傾けた群衆に従うことの危険を認めて,神の律法はイスラエル人に次のことを命じていました。「あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において,多数に従って片寄り,正義を曲げるような証言をしてはならない」。また聖書の箴言は次のようにさとしています。「わが子よ,悪者があなたを誘っても,それに従ってはならない。彼らがあなたに向かって,『一緒に来なさい……』と言っても,わが子よ,彼らの仲間になってはならない,あなたの足をとどめて,彼らの道に行ってはならない」― 出エジプト 23:2。箴言 1:10-15。
群衆がすべて悪いというのではありません。しかし群衆に従う前に,それがどこに向かっているかを確かめるのは賢明なことです。群衆の行動が神の是認を得るものかどうか確かめて下さい。大ぜいのしている事だから正しいに違いないと考えてはなりません。大多数の人が間違っていることもあるのです。
「その悪を悔いて,『わたしのした事は何か』という者はひとりもない。彼らは……自分のすきな道に向かう」。神の預言者がこのように述べた者たちにならうことはできません。多くの人がとる道は,正義の原則に則った道でないことが多いと言えるでしょう。それで神の正義の原則を無視する群衆からは離れるほうが賢明です。正義の原則に従って生活し,またそのような生活をしている人々と交わって下さい。―エレミヤ 8:6。ペテロ前 4:4。
正義を愛するこれらの人々は,聖書に「大ぜいの群衆」と呼ばれている人々になったのです。義の薫陶を受けていない群衆が人を悪に誘うのと同じく,神のことばの高い教えに従って生きる人々の群衆は良い感化を及ぼし,正しい生活をする力を人に与えます。ですから神を第一にする人々,悪の道をしりぞけて正義を追い求める人々の中に来て下さい。使徒ヨハネはこれらの人々のことを次のように述べました。「見よ……数えきれないほどの大ぜいの群衆が……大声で叫んで言った,『救は,御座にいますわれらの神と小羊からきたる』」― 黙示 7:9,10。
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霊的糧を求める教会員ものみの塔 1965 | 8月1日
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霊的糧を求める教会員
◆ 雑誌配布はアルバにおけるエホバの民の霊的繁栄に大きな役割を果たしています。その事は土地の新聞に出た司祭の説明からもわかります。司祭の不満は彼が信者の家を訪問すると信者がカトリックの出版物を読むかわりに,「ものみの塔」や「目ざめよ!」を読んでいるのを見かけるという事です。多くの人は賢明にも満足する霊的食物が十分にある時に,殻だけを食べている必要のない事に気づきつつあります。
― 1965年度エホバの証者の年鑑から
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