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賢人はどんな意味で述べたかものみの塔 1978 | 2月1日
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ソロモンは,危険をはらんだ他の事柄を指摘した際,無能が元来危険なものであることを例証していたと思われます。ソロモンは次のように書きました。「坑を掘っている者は自らその中に落ちこむ[口のあいている坑があれば常に危険が存在するので]。石垣に穴を貫いている者は,[古い石垣の中に住み家を造る]へびがその者をかむ。石を切り出している者はそれにより自らを傷つける。丸太を割っている者はそれについて注意深くなければならない」。(伝道 10:8,9,新)石を切り出したり木を切ったりする仕事は共に,生命や身体を危険にさらす可能性がありますから,十分注意して行なわねばなりません。
確かに,有能な人は,力量はあってもそれを正しく用いるための知恵に欠けている人よりずっと勝った立場にあります。ソロモンはこの点を例証して次のように述べています。「もし鉄器が鈍くなって,だれかがその刃を研がなかったのであれば,彼は自分の活力を用いることになる」。木を切るのに切れ味の悪いおのを使ってむだな努力を払い,それでいて満足のゆく仕事ができないなら,それは愚かなことです。ソロモン王はこう続けています。「したがって知恵を成功裏に用いることには益がある」。(伝道 10:10,新)そうです,重要なのは知恵を実際に当てはめることなのです。知識があっても,その用い方を知らなければどんな価値があるでしょうか。ソロモンはその点を次のように言い表わしています。「魔法がかかってもいないのにへびがかむなら,舌に身をゆだねる者にも益はない」。(伝道 10:11,新)へびに魔法をかける力を持っていても,魔法をかける前にかまれてしまうなら,その力は何の役にも立ちません。セプトゥアギンタ訳はこう述べています。「魔法の合い間にへびがかむなら,魔法をかける人には何の益もない」。それで人は効果的に話さねばなりません。
それゆえ,権威者としての地位にある無能な人々をうらやむのではなく,他の人々の置かれている不安定な立場を認め,自分としては,自分の持つ知識や能力を賢明に用いるよう努力すべきです。長い目で見れば,賢い人は,たとえ最初のうちその優れた判断力が認められないとしても,高い地位にありながら能力のない人よりずっと勝っています。
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ギレアデ卒業生たち,あきらめてはなりません!ものみの塔 1978 | 2月1日
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ギレアデ卒業生たち,あきらめてはなりません!
使徒パウロは,多くの試練や迫害を受けて苦しみました。身体的苦痛に悩まされ,食べる物に事欠くことも幾度となくありました。では,パウロはどんな反応を示したでしょうか。そうした試練を受けることのなかった過去を,懐かしみましたか。タルソスに帰りたいと思ったでしょうか。パウロ自身が次のように答えています。「わたしたちはこの奉仕の務めを……あきらめるようなことはしません」― コリント第二 4:1。
宣教者を訓練するギレアデ学校の教訓者であるカール・アダムズは,第63期卒業生に与えられた一連の短い講話を,上のような言葉で始めました。卒業式は,1977年9月11日,ニューヨークのロング・アイランド市にあるエホバの証人の大会ホールで行なわれ,23名の卒業生たちは,卒業証書と外国への任命を受けました。
もう一人の教訓者ユリシーズ・グラスは,同じ点,つまりあきらめてはならないという点を強調するため,聖書の例え話を用いました。グラスは,二人の息子たちにぶどう園に行って働くよう求めた父親に関する,イエスの例え話を取り上げました。一人の息子は,行きますと答えましたが,出かけて行きませんでした。もう一人の息子は,行きませんと答えましたが,出かけて行きました。是認されたのは後者のほうです。それからグラス兄弟は,卒業生たちが外国の地,つまりエホバのぶどう園へ働きに行く意志を示したことを思い起こさせました。今や卒業生たちは,その約束を果たさねばなりません。―マタイ 21:28-31。
A・D・シュローダーは,エホバが意志を伝達する方であることを指摘しました。その役割を果たすため,エホバはみ使いや預言者たち,またご自分のみ子イエス・キリストをお用いになりました。現在イエスの足跡に従う
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