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遊びが割りに合わなくなるとき目ざめよ! 1979 | 11月22日
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は他の人工的な行楽地と全く変わらなくなる。つまり,現代的で,機能的で,人為的な楽しさはあるが,魅力も風情もない所となる。土地の人に幾らか勤め口が提供されるが,大抵,短期滞在の専門労働者が移入され,利益の大半は外国の投資家や国内の他の地域へと流れて行ってしまう」。
自然の景観をそこなうことを何とも思わない行楽客は少なくありません。マウントフォートによると,ガラパゴス諸島では,「高さ30㌢になる文字をも含む無数の落書きが,多くの岩壁やがけの外観を完全にそこなってしまった」とのことです。それに加えて,不注意から来る空気や水の汚染,酒気帯び運転,その他快楽を追求する人々の過失などのもたらす悪影響があり,その結果は実に嘆かわしいものです。
どうすれば,快楽の追求にはめをはずして,有害な結果を招かないようにできるでしょうか。次の記事は,幾つかの有益な指針を与えてくれます。
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あなたは生活から真の喜びを得られます目ざめよ! 1979 | 11月22日
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あなたは生活から真の喜びを得られます
生活から楽しみを得たいと思わない人はいません。人々は大抵,余暇の時間に行なう様々な形のレクリエーションによって,その欲求を満たそうとします。レクリエーションが心身両面に益があるということを認めないわけにはゆきません。
しかし,近年,賃金が上がり,余暇の時間が増えた結果,多くの人は興味深い結論に達しました。そうした人々は,“良い生活をする”ことが問題を解決することも,長続きする幸福をもたらすこともないのを,経験から学んだのです。
では,どうすれば生活から真の喜びを得られるのでしょうか。ここで,ソロモン王の試みた実験を考慮してみるのは有益です。ソロモンは,ほとんどの人が真の幸福を得られずにいる理由を注意深く調べました。神の霊感の下に,ソロモンは自分の経験とそこから導き出した結論を伝道の書の中に書きました。快楽を追い求めて幸福を見いだそうとすることについて,ソロモンはこう書き記しています。
「わたしはぶどう酒で自分の肉体を元気付けて,心で探った。一方,わたしは知恵で心を導いていた。人間の子らにとって,彼らがその命の日数のあいだ天の下ですることにはどんな良いことがあるのかを見得るまでは,実に愚かしさを捉えるために。わたしはより大きな事業に従事した。自分のために家々を建て,自分のためにぶどう園を設けた。自分のために園と庭園を造り,その中にあらゆる果樹を植えた。自分のために水の溜め池を作って,樹木の生い茂った森林にそれでかんがいをさせた。わたしは下男や下女たちを取得し,家の者の子らを持つようになった。また,わたしよりも先にエルサレムにいただれよりも,家畜,牛や羊をおびただしく持つようになった。わたしはまた,銀や金を自分のために,そして王たちや管轄地区の特殊な資産を蓄積した。わたしは自分のために男の歌うたいや女の歌うたいと,人間の子らの無上の喜び,つまり婦人,いや婦人たちを作った。そしてわたしは,わたしより先にエルサレムにいただれよりも偉大で,増し加わった者となった。その上,外ならぬわたしの知恵はわたしのものとしてとどまった。そして,わたしの目の求めるものは何でも,わたしは自分の目から遠ざけなかった。わたしはどんな歓びも自分の心に得させないようにしたりはしなかった。わたしの心はわたしのすべての骨折りゆえに喜びに満たされたからであって,これはわたしのすべての骨折りからのわたしの分となった」― 伝道 2:3-10,新。
この聖書記述者は,アルコール飲料を飲むことからもたらされる幸福感を注意深く調べました。今日では,麻薬の乱用によっても,そうした感覚が追い求められています。また,巨万の富を蓄積し,自分の周りをパラダイスのように美しくしました。えり抜きの音楽による娯楽や「婦人,いや婦人たち」から得られる喜びを含むあらゆる種類の余暇の楽しみをさぐりました。
自分の調査が徹底したものであることを指摘して,ソロモンは次のように書いています。「そしてわたしは,まさしくわたしは身を翻して,知恵と狂気と愚かしさを見た。というのは,王の後に入って来る地の人に何ができるだろうか。人々がすでにしたことだけである」。(伝道 2:12,新)要点はこうです。ソロモンの調査は徹底したものでした。王であったので,十分の時間と資力を持ち合わせていました。王と比べれば微々たる資産しか持ち合わせないのであれば,『王の後に入って来る地の人に何ができるでしょうか』。普通の人はその同じ分野の事柄を幾らか扱えるだけで,人々がすでにしたことをしているにすぎません。快楽の追求によって真の幸福を得られると信じて疑わない人々に対して,この王は,『わたしはすでに行き着くところまで行ってみました。それはうまくゆきません』と答えます。
ここでソロモンが快楽の追求はすべて時間のむだであるとは言っていないことに注目するのは重要です。むしろ,ソロモンは,自分のした事柄からある程度の喜びを得たことを認めています。(「わたしの心はわたしのすべての骨折りゆえに喜びに満たされた(の)であって,これはわたしのすべての骨折りからのわたしの分となった」。)しかし,ぶどう酒や富,娯楽,その他同様の事柄から得られる快楽に,永続する幸福を見いだせるかどうかに関しては,ソロモンはどのように判断していますか。ソロモンは率直にこう答えています。「けれどもわたしは,まさしくわたしは,自分の手の行なった自分のすべての事業と,成し遂げようとして骨折ってなした骨折りとを顧みると,見よ,すべては空で,風を追うようなものであり,日の下には益となるものは何もなかった」― 伝道 2:11,新。
この意見を,消極的で,厭世的なものとみなしてはなりません。むしろこの意見は現実的なものです。そして幸福に至ることのない方法で幸福を追い求め,人生の幾多の歳月をむだにしないよう助けるものです。その一方で,同じ聖書記述者は,人生から真の喜びを得る方法について,積極的で,優れた勧めを与えています。提案されている事柄の中には,仕事と余暇の釣合いを正しく取ることがあります。
骨折って働き,『良いことを見る』
快楽を強調しすぎることが「空で,風を追うようなものであ(る)」と述べた後,賢明な聖書記述者はさらにこう述べています。「人には,食べて,まさしく飲み,その骨折りゆえに魂に良いことを見させるより良いことは何もない。これもまた,わたしは,まさしくわたしは,これが真の神のみ手によるのを見た。というのは,だれがわたしよりもよく食べたり,飲んだりするであろうか」。(伝道 2:11,24,25,新)確かに聖書は骨折って働くことを推賞しています。「愚鈍な者は両手を組み合わせて[働くことを拒み],自分の肉を食べている」。(伝道 4:5,新)しかし,勤労と『良いことを見る』,つまり自分の労働の実を楽しむこととの釣合いを保つ必要があります。霊感を受けた筆者はこう述べています。「一握りの休息は二握りの骨折りまた風を追い求めることに勝る」― 伝道 4:6,新。
毎週,長い時間残業し,場合によっては二つの職を持っているような人を,ご存じかもしれません。特別な必要が生じた場合や緊急な支出をまかなわなければならない場合などは仕方がないかもしれませんが,起きている時間のほとんどすべて
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