-
霊的なパラダイスへの「神聖さの道」世の苦難からの人間の救いは近い!
-
-
にとってまさに喜びを引き起こさずにはおかない出来事であるはずです。西暦前537年当時のイスラエル人の残りの者に起きたのは,まさにその通りの事でした。預言者イザヤは霊感を受けて,その時の喜びを予告しました。「そして,エホバによって請け戻された者たちは帰って来て,確かに喜ばしい叫びをもってシオンに来る。そして,定めなき時にまで及ぶ喜びが彼らの頭上に臨む。歓喜と喜びを彼らは得,悲嘆と嘆息は逃げ去らねばならない」― イザヤ 35:10,新。
22 エホバはだれを用いて,(イ)西暦前537年におけるユダヤ人の残りの者の,(ロ)この二十世紀における霊的なイスラエルの残りの者の救出をそれぞれもたらされましたか。
22 古代のイスラエル人にとってはこの喜ばしい預言の縮図的な成就は西暦前537年つまりペルシャの王,クロス大王の治世の第一年に始まりました。(歴代下 36:20-23。エズラ 1:1-4。イザヤ 44:26から45:7)当時,エホバ神は予告された油そそがれた僕クロス王を用いて,バビロンからのユダヤ人の残りの者の救出と解放をもたらしました。それと全く同様,この二十世紀にはこの同じ神は大いなるバビロンからの霊的なイスラエルの残りの者の救出と解放を成し遂げるのに,より大いなるクロスつまり統治している王イエス・キリストを用いてこられました。―啓示 14:1-8。
23,24 (イ)イザヤ書 43章1から4節で言及されている「買い戻された者たち」のための代価は何ですか。(ロ)それで,クロス大王は生来のイスラエル人を故国に復帰させた代わりとして何を受け取りましたか。(ハ)霊的なイスラエルの残りの者は西暦1919年以来「買い戻された者たち」となっていますが,それはどうしてですか。
23 神聖さの街道を通ってシオン(もしくはエルサレム)に帰った人たちは,「買い戻された者たち」「エホバによって請け戻された者たち」と呼ばれました。(イザヤ 35:9,10,新)この場合の買い戻す,つまり請け戻すための代価は,イザヤ書 43章1から4節で預言的に次のように言及されていました。『ヤコブよ なんぢを創造せるエホバいまかくいひ給ふ イスラエルよ 汝をつくれるもの今かく言ひ給ふ おそるるなかれ 我なんぢを贖へり 我なんぢの名をよべり 汝はわがものなり なんぢ水の中をすぐるときは我ともにあらん 河のなかを過ぐるときは水なんぢの上にあふれじ なんぢ火の中をゆくとき焚かるゝことなく火焔もまた燃えつかじ 我はエホバなんぢの神イスラエルの聖者なんぢの救ひ主なり われエジプトをあへてなんぢの贖ひ代となし エテオピアとセバとをなんぢに代ふ われみてなんぢを宝とし尊きものとし またなんぢを愛す このゆえにわれ人をもて汝にかへ 民をなんぢの命にかへん』。
24 クロス大王が故国に復帰させた生来のイスラエルの残りの者の代わりに,公正の神はクロスとその子孫にアフリカの地域とその民族や国々の民を征服させて与えました。それが買い戻す代価,請け戻す価,つまり贖いとなったのです。(エステル 1:1-4)現代のこの二十世紀においては,霊的なイスラエルの残りの者と,古代のネテニ人に似た羊のような者たちの「大群衆」のためにエホバはより大いなるクロス,イエス・キリストにこう言っておられます。「わたしに求めなさい。諸国民をあなたの相続財産として,また地の果てをあなたの所有物として与えよう。あなたは鉄の笏をもって彼らを砕き,陶器師の器のように彼らを粉々にするであろう」。(詩 2:8,9,新)従って,西暦1919年以来大いなるバビロンから解放された霊的なイスラエルの悔い改めた残りの者は,聖書的に言って,「買い戻された者たち」「エホバによって請け戻された者たち」と言うことができます。それで彼らは特別な意味で,キリストを通してエホバ神に属する者なのです。
25 (イ)流刑に処されたイスラエル人はすべて同じ時にバビロンからエルサレムに帰りましたか。(ロ)現代においては,霊的なイスラエルの残りの者を構成するようになった人たちすべてが1919年に大いなるバビロンを去りましたか。
25 西暦前537年にバビロンを去ってシオンに向かった流刑囚たちの最初のグループは多くても4万9,942名で,そのうち4万2,360人はイスラエル人,残りは奴隷や専門の歌い手たちでした。(ネヘミヤ 7:66,67。エズラ 2:64,65)それから69年後の西暦前468年には約1,500人の男子とその家族がアロンの家系の忠実な祭司エズラと一緒に,ペルシャ王アルタクセルクセス(ロンギマノス)の許可を得てエルサレムに帰りました。これは愛する故国に復帰して耕作に従事し,その地を美化すべく努力していた帰還したユダヤ人の流刑囚たちの最初の派遣団を大いに励ますものとなったに違いありません。(エズラ 7:1から8:15)現代の二十世紀においては,霊的なイスラエルの油そそがれた残りの者が偽りの宗教の世界帝国,大いなるバビロンへの捕らわれから離れ始めたのは西暦1919年以来のことです。第一次世界大戦後の年々,それも特に西暦1935年に至るまで,さらに多くの人が大いなるバビロンを去って残りの者を構成したので,油そそがれた残りの者の人数は増えました。ですから,今日の残りの者の成員すべてが1919年に大いなるバビロンを去って,エホバの恵みとエホバへの奉仕にあずかれる状態に回復させられたのではありません。1919年後の何年もの間引き続き個々の人びとは大いなるバビロンを脱出して,エホバの回復された残りの者のパラダイスのような霊的状態に入ったのです。
26 (イ)現代の残りの者はどのようにして大いなるバビロンを出て神聖さの街道を旅して霊的なパラダイスに入りましたか。(ロ)自分たちの変化した立場に対する彼らの喜びは初期のころどこに見られましたか。その喜びはどれほど長く続きましたか。
26 西暦前537年当時のユダヤ人の流刑囚の場合とは異なり,霊的なイスラエルの現代の残りの者は地上の一つの地理的な場所から他のそれへと旅行する必要はありませんでした。彼らは汚れた大いなるバビロンへの束縛を振り切るようにとの神の命令に従い,エホバの回復された残りの者の自由な霊的な状態のもとに立つことによって,大いなるバビロンを出て霊的なパラダイスに至る神聖さの街道を進んだのです。霊的なイスラエル人の残りの者はまさしく「喜ばしい叫びをもって」神聖さの街道を上って旅立ち,神の恵みを得る立場に戻り,『シオンに来ました』が,1919年9月1日から8日まで米国オハイオ州シーダー・ポイントで開かれた国際大会に出席しさえすれば,観察者はそのことを理解できました。エホバの崇拝者たちの大戦後最初のその一般大会の喜びと新たな熱意は,地上のあらゆる場所の献身した神の民の会衆に広まりました。大いなるバビロンから勝ち得た宗教的自由や天与の霊的な状態に復帰したことに対する喜びは,はかない一時的なものではありませんでした。イザヤ書 35章10節(新)が予告した通り,「定めなき時まで及ぶ喜びが彼らの頭上に臨む」のです。彼らは「王国のこの良いたより」を全世界で宣べ伝える努力を強化し,また自分たちの霊的な状態のうちに世話されていた霊的なパラダイスのことを一層理解するにつれ,増し加わる喜びを抱いて頭を起こしました。
27,28 西暦前537年にはイザヤ書 35章10節の後半の部分の成就として何が起きましたか。
27 神からの預言の言葉は成就しなければなりませんでした。「歓喜と喜びを彼らは得,悲嘆と嘆息は逃げ去らねばならない」のです。(イザヤ 35:10,新)西暦前527年,陰暦第七の月(チスリ)の初めに,復帰したユダヤ人はエルサレムに集まり,神殿のあった場所にエホバのための祭壇を再び建てて,そこでエホバへの犠牲の供え物を新たに捧げました。次いで,チスリの15日に,七日間にわたる仮庵の集りを祝い始めましたが,それは年中行事を記したユダヤのあらゆる暦の中でも最も楽しい恒例の行事でした。(エズラ 3:1-6)流刑の身から戻った後の二年目の,教暦の陰暦第二の月にエルサレムの神殿の基がモリヤ山上のその元の位置に据えられた時,彼らの喜びはなお一層高まりました。ある人びとは感激のあまり涙を流し,他の人びとは歓喜しました。
28 『こゝをもて人びと民の歓こびて呼ばはる声と民の泣く声とを聞きわくることを得ざりき そは民大声に呼ばはり叫びければその声遠くまで聞こえわたりたればなり』― エズラ 3:8-13。
29 霊的なイスラエルの残りの者の場合,「悲嘆と嘆息」はどのように逃げ去りましたか。
29 そのすべては霊的なイスラエルの回復された残りの者が大いなるバビロンから解放された後に得た言いようのない歓喜のほどを小規模に示した型でした。第一次世界大戦中,彼らが大いなるバビロンとその世俗的情夫たちの手から受けた苦しみのために味わった悲嘆は,一変した霊的な状態の祝福ゆえの喜びに飲み込まれました。宗教的捕らわれや拘束ゆえに抱いていた嘆息は逃げ去りました。第二次世界大戦時の恐怖や迫害をさえ含め,大戦後の時代の世の困難な事柄も,彼らの歓喜と,エホバとその統治するメシアの王国に対する喜びを抑えることはできませんでした。彼らはそのような世俗の事柄のために悲しみませんでしたし,また大いなるバビロンへの捕らわれに服して同バビロンによる一層の圧制を被って嘆くことも決してありませんでした。
30,31 (イ)西暦1935年を始めとして,神聖さの街道を進む残りの者にだれが加わりましたか。(ロ)啓示 7章16,17節で予告されていたように,彼らは喜ぶべき理由となるどんな事を経験してきましたか。
30 それとは逆に,エホバ神の羊のような崇拝者たちの増大する「大群衆」が彼らの側に群れをなしてやって来たので,彼らの喜びは強められました。古代イスラエルのネテニ人のような,「ほかの羊」のこの「大群衆」は,西暦1935年以来,油そそがれた残りの者に従ってその神聖さの街道を歩みだしました。(啓示 7:9-17。ヨハネ 10:16。マタイ 25:31-46)大いなるバビロンから逃れて来たそれら羊のような人たちは,エホバ神とそのみ子イエス・キリストによる天の王国に忠節を尽くして,霊的なイスラエル人の残りの者,つまり王イエス・キリストの霊的な『兄弟たち』に積極的な援助や慰めを差し伸べました。彼らも自分たちの得た宗教的自由のゆえに喜びにあふれ,一変した霊的な状態のうちにある油そそがれた残りの者の喜びに十分あずかっています。啓示 7章16,17節で「大群衆」について記されている通りです。
31 「彼らはもはや[霊的に]飢えることも[霊的に]渇くこともなく,太陽が[神からの不興を示して]彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。
32 「大群衆」と霊的なイスラエルの残りの者の前途には,「定めなき時にまで及ぶ喜び」をさらに抱くべきどんな理由がありますか。
32 子羊イエス・キリストの羊のような追随者のこの「大群衆」に対しては,世俗的なこの事物の体制が永遠の終わりを被る来たるべき「大患難」を生き残る希望が差し伸べられています。(啓示 7:14)彼らは霊的なイスラエルの油そそがれた忠実な残りの者と共に生き残って,神のメシアの王国のもとで治められる約束の新しい事物の体制に入ることを期待しています。このような経験をするのは彼らにとって喜びではありませんか。確かに,油そそがれた残りの者と「大群衆」の双方に関して,「定めなき時にまで及び喜びが彼らの頭上に臨む」と言えるでしょう。(イザヤ 35:10,新)地球は今日の利己的な人間のもたらす破壊的なものによってますます汚染されていますが,神により祝福された残りの者とその愛すべき仲間の「大群衆」の享受する霊的なパラダイスは,人を元気づける健全さを保って繁栄しています。
-
-
霊的なパラダイスの,神を恐れる王世の苦難からの人間の救いは近い!
-
-
10章
霊的なパラダイスの,神を恐れる王
1 今日,霊的なパラダイスに住むにふさわしい者とみなされる人たちに関して,アダムとエバがエデンから追放されたことから何を学べますか。
わたしたちの最初の二親,エバそしてアダムが不従順にも禁じられた実を食べた時,神は両人に死の宣告を下し,ふたりをエデンの園から追い出しました。楽しみのパラダイスは,その園を設けた所有者に反逆する者のための場所ではありませんでした。(創世 2:8から3:24)これはエホバ神が今日の霊的なパラダイスに住むにふさわしい者とみなす人たちに関する型となりました。
2 (イ)人は目に美しい状態の中で楽しく生活していてさえ,他の人びとの態度や行ないからどのように影響されますか。(ロ)それで,エホバはどんな分子を霊的なパラダイスから締め出しておられますか。
2 自然環境がたとえどれほどパラダイスに似ていようと,周囲の隣人が自己本位で,不法で,凶悪で,不敬虔な人びとであれば,それは住み心地の良い所でないでしょう。そのような人びとの生活は惨めで,不安で,霊性や敬虔さには不利な生活となりかねません。犯罪の増加する今日の地上の生活は,居住者が周囲を目に美しい場所にしようと努めている郊外地でさえそうなってきました。エホバ神は人類の最初のパラダイスをそうした望ましくない人間の分子に汚されないよう清く保たれました。今日,神は霊的なイスラエルの
-