第3部 ― ドイツ
強制収容所における霊的食物
兄弟たち,とりわけ強制収容所内で兄弟たちが「孤立させられ」ていた何年かの間,聖書あるいは他の出版物を入手する機会にはほとんど恵まれませんでした。ただ,中庭に何時間も立たねばならなかったりした時,あるいはバラックの中で晩の少しの静かな一時を過ごしたりする時,「ものみの塔」誌の重要な記事の内容を思い起こすために相当の努力が払われました。何らかの方法で聖書を入手できた時の兄弟たちの喜びは特に大きなものでした。
エホバは時には,興味深い方法を用いてご自分のしもべたちに聖書を入手させてくださいました。レンヒュン(シュワルツワルト)出身のフランズ・ビルクは,ブッヒェンワルトである日,この世の一囚人から聖書を1冊入手したいかどうかを尋ねられた時のことを覚えています。囚人は自分の働いていた紙の工場で聖書を1冊見つけていたのです。もち論,ビルク兄弟は感謝してその提供物を受け取りました。
また,1943年のことですが,単に当時の時代の圧力に動かされて親衛隊の組織に加わった年配のある親衛隊員が休日に聖書を求めて何人かの牧師を訪ねたのをフランケ兄弟も覚えています。牧師たちは皆,残念ながら聖書はもはや手もとにはないと述べましたが,その晩,彼は遂にある牧師を見つけました。特別の理由があってルーテル訳の小型の聖書を取って置いたと述べたその牧師は,親衛隊員が聖書に関心を示すのを見て大いに喜んだものの,その聖書をもらって行くと告げられました。翌朝,この白髪まじりの親衛隊員はその聖書をフランケ兄弟に与えましたが,自分の監視している囚人の一人にその贈物を与えることができたので明らかに喜んでいました。
時が経つにつれて新しい「ものみの塔」誌の記事を強制収容所にひそかに持ち込むことができるようになりました。ビルケンフェルトの強制収容所では次のようにして持ち込まれました。囚人たちの中に,建築に通じていたため,エホバの証人に好意を持つある民間人と一緒に働くようになった兄弟がいました。彼はその親切な人を通して収容所の外部の兄弟たちと連絡を取り,兄弟たちはまもなく最新の雑誌をその人に供給したのです。
ノイエンガム収容所の兄弟たちも同様の機会を捉えました。同収容所のおよそ70人の兄弟たちのほとんどは空襲後のハンブルク市内で焼け跡をかたづける仕事をさせられました。そのハンブルク市内で兄弟たちは聖書を入手し,ある時など,ほんの数分のうちに3冊見つけることもできました。自らそのことを経験したウィリー・カルガーはこう述べています。「デーベルン出身のある姉妹が私たちにもたらした別の霊的食物についてお話ししましょう。その事が決して忘れられませんように。彼女の兄,ハンス・イェガーはハンブルクの近くのベルゲドルフの作業班に所属しており,グルンツ鉄工所で働かされました。私たちは厳重な監視下で重労働をさせられることになりました。それにもかかわらず,イェガー兄弟はひそかに手紙を持ち出させ,昼の時間中の彼の居場所を妹に知らせることに成功しました。彼の妹は汽車でハンブルクに着き,そこからは『慎重に行動して』私たちの働いている場所に注意しながらやって来ました。彼女は求められた雑誌を私たちの手に渡すことに成功し,こうして親衛隊の監視下にもかかわらず,エホバの監督のお蔭で貴重な雑誌が見つけられることなく収容所にもたらされました。
皆がさまざまの違った方法を考え出したので,時が経つにつれて収容所には多数の聖書が持ち込まれました。ある兄弟はダンチヒにいる妻に宛てた手紙の中で『エルベルフェルトのしょうが入りケーキ』を食べたいと書いたところ,次に送られてきた(当時その収容所では兄弟たちが受け取ることのできた)食糧袋からは焼いたしょうが入りケーキの中に注意深く入れられていたエルベルフェルト聖書を入手しました。ある兄弟たちは火葬場で働く囚人と接触を持っていました。それら囚人たちは火葬場でたくさんの本や雑誌が焼かれているということを話したので,兄弟たちは自分たちの貯えていた食物の一部と引き替えに聖書や雑誌を入手する取決めをひそかに設けました。
ザクセンハウゼンでは依然「隔離施設」にいる兄弟たちも聖書を何冊か入手しました。不思議に思えるかもしれませんが,隔離施設はこの場合,ある程度の保護をもたらすものとなりました。ある兄弟は隔離施設に通ずる入口を見張るよう割り当てられただけでなく,戸の鍵をも持っており,入口に鍵をかけたり,その鍵をあけたりしなければならなかったからです。室内には大きなテーブルが七つあり,56人の兄弟たちがその回りに腰かけました。しばらくの間,一人の兄弟が聖句を取り上げて15分間注解を述べ,その間に他の兄弟たちは朝食を取りました。これはそれぞれのテーブル,またその回りに腰かける兄弟たちの間で交替で行なわれました。中庭に何時間も強制的に立たされた時,兄弟たちはその注解を会話の主体にしました。
1939年から40年にかけての厳寒の冬の間,証人たちはこの文書の問題で祈りのうちにエホバに嘆願したところ,ご覧なさい,奇跡です! エホバはある兄弟に保護の手を差し伸べられたので,彼は厳重な検査を受けたにもかかわらず,木製の義足の内側に「ものみの塔」誌を3冊入れて,ひそかに「隔離施設」に持ち込むことができました。兄弟たちはベッドの下にもぐり込んで懐中電燈の光を頼りにそれを読み,他の人たちはその左右に立って見張りをしなければならなかったとはいえ,それはエホバの驚くべき導きがあったことの証拠です。良い牧者であられるエホバはその民を見捨てることはなさいません。
兄弟たちが「隔離施設」から解放された1941年から42年にかけての冬には,ダニエル書 11および12章を扱った「ものみの塔」誌7冊,初めてミカ書を論じた雑誌,「キリスト教に対する十字軍」と題する書籍そして「会報」(現在の「王国奉仕」)のすべてが一度に届きました。それは本当に天からの贈物でした。彼らは今や他の国々の兄弟たちとともに,「北の王」と「南の王」に関する明確な理解を得ることができたからです。
「隔離施設」以外の囚人たちには日曜日の午後には自由時間が与えられたうえ,その午後になると,ブロックの政治上の監督は他のバラックにいる友人に会いに行ったので,幸いにも兄弟たちは数か月の間,毎週日曜日に「ものみの塔」研究を開くことができました。平均220人ないし250人の兄弟たちがその研究に参加する一方,6,70人の兄弟たちが収容所の入口に至るまで見張りを行ない,危険な事態が生じたならすぐ特定の合図を出すことにしていました。ですから,研究中に親衛隊員に不意をつかれたことは一度もありませんでした。1942年に行なわれた研究は,出席した人たちにとって忘れ難い思い出になりました。ダニエル書 11,12章の預言に関するすばらしい説明に非常に深い感銘を受けた兄弟たちは,研究の終わりに,王国の歌を所々に挿入した民謡を喜びにあふれた行進曲風の調子で歌いました。それで,バラックから数メートル離れた監視塔にいる番兵には怪しまれずに済ました。むしろ,番兵は美しい歌声を聞いて楽しみました。ちょっと想像してみてください。投獄されているとはいえ,250人の男子が現実には声を合わせ,魂をこめてエホバを賛美する歌を自由に歌っているのです。何という背景でしょう。天のみ使いたちもともどもに声を和したのではないでしょうか。
強制収容所内の人たちに対する圧力は緩和される
エホバの忠実な証人たちの血は,ナチ政権が完全に崩壊する時までナチの処刑センターで流され続けましたが,それでも,エホバの証人は火葬場の煙突を通る以外絶対に強制収容所を出ることはできないと再三断言していた者たちの武器の威力は衰え始めました。また,戦争が提起した問題もありました。それで特に1942ないし43年以降,エホバの証人は比較的に平穏な状態に置かれる時期がありました。
戦争は今や全面戦争と化し,事態は利用できる諸勢力すべてを総動員するまでに変化しました。そのため,1942年に政府は国の経済に資する生産計画にできるだけ囚人を加わらせ始めました。この点に関連して,親衛隊隊長ポールが「強制収容所の状態」について彼の上司であるヒムラーに伝えた所見は興味深いものです。
「戦争は強制収容所の機構に明白な変化をもたらし,囚人の使用に関して収容所の機能を根本的に変化させるものとなった。
「単に安全や教育もしくは犯罪予防上の理由ゆえに囚人を監禁することはもはや主要な事柄ではなくなった[大量虐殺のことは触れられてさえいない]。事態は一変して物事の経済面が強調されるようになったのである。全囚人をまず第一に戦争に関係した仕事(軍需生産の増強)に,次いで第二に平和に関係のある事柄のために総動員することが,いよいよ支配的な要素となっている。
「目下講じられている必要な措置は,強制収容所の以前の偏ぱな政治的企画を徐々に変更し,収容所を経済上の必要にかなう組織に変えなければならないというこうした認識の結果である」。
もち論,そうした転換を行なうためには,囚人をもっと有効に用いて仕事をさせねばならず,それにはもっと良い食べ物を囚人に与えることが必要でした。そのために兄弟たちの苦しみはいっそう緩和されることになりました。役人たちはまた,ごく少数の例外を除いて実に利口だったので,兄弟たちを軍需関係の工場に入れようとはせず,むしろそれぞれの職業技能に応じて兄弟たちを色々の仕事場で用いました。
その間にエホバはご自分の分を尽くされました。エホバは人間の心を ― 敵の心をさえ ― 水の流れのように動かすことができるからです。その著しい実例はヒムラーです。何年もの間,彼はエホバの忠実なしもべたちの生命に関しては自分だけが決定を下せると考えていましたが,「聖書研究者」に関するその考えを突然変え始めました。彼の主治医であったフィンランド人のケルステンという医師が重要な役割を果たしたのです。
マッサージ師ケルステンは,いつもかなり病気がちだったヒムラーに強力な影響を及ぼし始めました。エホバの証人が残忍な迫害を受けていることを聞いた彼は,ある日,ベルリンの北およそ70キロの所にあるハルツワルデの自分の屋敷で使うため何人かの女性を与えるようヒムラーに要求しました。ヒムラーはためらいはしたもののその求めに応じ,後日ケルステンの再度の要請を認め,強制収容所からある姉妹を釈放したので,彼女はスウェーデンにあるケルステンの別の家で働くことができました。ケルステンが強制収容所の状態や何年もの間とくにエホバの証人が被ってきた筆紙に尽くせない苦しみに関する真相を初めて聞かされたのはそれらの姉妹たちからでした。自分の施したマッサージのためにその極悪な男が殺人の仕事を遂行するに足る十分の健康を再三取り戻す結果になったのを知って仰天した彼は,自分の影響力を行使してそれら囚人すべての苦しみを少なくともある程度軽減させてやりたいと決心しました。そのようなわけで,特に終戦までの時期に何万人もの囚人がせん滅されずに済んだのは彼の影響力のせいだったと言うことができます。とりわけエホバの証人にとって彼の影響力は非常に有益なものとなりました。それはヒムラーがその最も親しい同僚であった親衛隊の最高指導者,ポールとミュラーに書き送った手紙からもわかります。「機密」というスタンプの押されたその手紙には一部次のように記されています。
「同封の報告は,私の主治医の農場で働いている十人の聖書研究者たちに関するものである。私は敬謙な聖書研究者の問題をあらゆる角度から研究する機会を得た。ケルステン夫人は非常に良い提案をしてくれた。彼女はそれら十人の女性ほどに善良で,進んで働く,忠実で,従順な職員をかつて一度も用いたことがないと述べた。これらの人々は愛と親切の気持ちから多くの事を行なっている。……それらの女性の一人はある時,客からチップとして5マルクもらったが,彼女はその家に非難を招きたくはなかったのでお金は受け取ったものの,収容所ではお金を持つことが禁じられていると言ってそれをケルステン夫人に渡したのである。それらの女性は要求された仕事は何でも自発的に行なった。晩には編み物をし,日曜日にはほかの仕事を忙しく行なった。また,夏の間は機を逸さず,いつもより2時間早く起きては幾つかのかごに一杯きのこを取ってきた。しかも,1日に10時間,11時間または12時間働くよう要求されていたのである。こうした事実により聖書研究者に関する私の心像は完全に描き出された。彼らは信じ難いまでに熱狂的で,喜んで働き,進んで自らを犠牲にする人々である。もし彼らの熱狂的行為をドイツのために生かす,あるいはそれほどの熱狂的行為をわが国民に浸透させることができれば,われわれは今日以上に強い国民になれるであろう。もち論,彼らは戦争を否認するゆえにその教えはきわめて有害であるため,それを認めようものなら,わが国は最大の損害を被らずには済まないであろう。……
「彼らを処罰したところで何も達成されない。受けた処罰について後日彼らは熱意を込めて語るだけだからである。……受けた処罰は皆,あの世のための功績として役だつのである。真の聖書研究者はすべてためらうことなく処刑に臨むのはそのためである。……地下牢への監禁,飢えの苦しみ,寒さに凍えることはすべて功績,処罰も殴打もすべてエホバに関しては功績なのである。
「今後収容所で聖書研究者に関係する問題が生じた場合,私は収容所の司令官が処罰を申し渡すことを一切禁ずる。そのような事件は事情に関する簡単な説明を添えて私に報告しなければならない。これから私は正反対の処置を講じ,当事者各自に対して,『お前は一切働いてはならない。お前にはほかの者よりも良い食べ物を与えるが何もしてはならない』と命ずる予定である。
「というのは,そうなれば,これら温厚な精神異常者の信仰によると功績は絶え,それどころか逆に以前の功績はエホバにより減らされることになるのである。
「さて,私の提案は,聖書研究者全員を仕事に ― たとえば,戦争とそのすべての狂気ざたに全く関係のない畑仕事などに従事させることである。仕事を正しく割り当てたなら,監視せずに放置しておいてもよい。彼らは逃げ去りはしない。彼らには自由な仕事を与えてよい。彼らは最良の管理者で,最良の労働者であることを示すであろう。
「ケルステン夫人の提案した,彼らを使用する別の方法として,われわれは聖書研究者を『レーベンスボルンハイメ』(最優秀民族を生み出すために親衛隊員の手で養育される子供たちのための家)で看護婦としてではなく,むしろ料理人や家政婦として,あるいは洗濯その他の仕事に用いることができる。門衛として依然男子を用いている場合は,がっしりした聖書研究者の女子を用いることができよう。たいていの場合,彼らに関してはほとんど問題は生じないと私は確信している。
「私はまた,聖書研究者を大家族に割り当てるという提案にも賛成である。必要な能力を備えた,資格のある聖書研究者たちを探して私に報告してもらいたい。そうすれば,私が直接それらの者を大家族に割り当てることができる。それらの家では囚人服ではなく,民間人の服を着用すべきであり,ハルツワルデで自由な住み込み実習者として働いている聖書研究者たちの場合と同様の仕方で滞在すべきである。
「囚人たちを半ば自由の身としてそうした仕事に割り当てる場合はすべて,記録書類や署名を避けて,ただ握手だけを交してそうした協約を結びたいと考えている。
「この処置を始めるに当たり,貴下の推薦状とそれに関する報告を送ってもらいたい」。
それで推薦状が送られ,短期間のうちにかなり多くの姉妹たちが親衛隊員の家庭や野菜栽培場,屋敷そして「レーベンスボルンハイメ」に送られて働きました。
しかし,親衛隊員がエホバの証人を喜んで自分たちの家に迎え入れた理由はほかにもありました。親衛隊員は一般の人々の間に暗に憎しみが増大しており,自分たちが単にひそかに笑いものにされているのではないことに気づいていたのです。彼らの多くは自分たちの女中をさえ信用せず,女中が食べ物の中に毒を入れはしまいか,あるいは何らかの方法で自分たちが殺されはしまいかと恐れていました。時が経つにつれて親衛隊の幹部将校は,のどを切られはしまいかと恐れて普通の理髪店にさえ行こうとしなくなり,マックス・シュレールとパウル・ワウエルが定期的に彼らの顔をそる仕事を割り当てられました。エホバの証人なら決して復讐したり,敵の人間を殺したりしないことを知っていたからです。
収容所の外で働くことになったそれらの兄弟姉妹たちは親族の訪問を受けたり,自ら親族を訪問したりすることさえ許され,中にはそのための数週間の休暇を与えられた人もいました。その結果,やがて兄弟姉妹たちはさらに多くの食物を入手でき,彼らの健康状態は急速に改善され,飢えや虐待による死亡者数は減少するようになりました。
強制収容所の当局者の態度がエホバの証人にどれほど有利に変化したかは,ラインホルト・ルューリングの経験からもわかります。1944年2月のこと,ある作業班にいた彼は突然呼び出しを受け,収容所の事務所に出頭するよう求められました。その事務所こそ,大勢の人々が虐待され,エホバに対する信仰を放棄するよう説得するためのさまざまの試みがなされた所でした。向かい合って腰かけた将校たちから,ある屋敷を管理し,そこの仕事や労働者たちを正しく指導してもらえまいかと依頼されたとき,ルューリング兄弟はどんなにか驚いたことでしょう。彼らの質問にすべてはいと答えた同兄弟は後日,他の15人の兄弟たちと一緒にチェコスロバキアに送られ,ヘイドリヒ夫人の屋敷を管理することになりました。
全員優れた職工である42人の兄弟たちで成るある作業班は,親衛隊のある幹部将校の家を建てるためにオーストリアのウォルフガング湖畔に送られました。山腹での仕事は容易ではありませんでしたが,その他の点では兄弟たちはずっと楽な生活をしました。たとえば,その一団に属していたエーリヒ・フロストは自分の家からアコーディオンを取り寄せる許可を得ました。それが送られて来た後,彼と他の兄弟たちはしばしば晩になると湖畔に出る許可を得,湖の岸で民謡やコンサート用の小曲を演奏し,兄弟たちだけでなく,兄弟たちの仕事を監督していた親衛隊員を含め,湖畔に住む人たちもその演奏を楽しみました。
また,強制収容所内の兄弟たちに霊的な食物を供給することも引き続きさらに容易になりました。この点ではケルステン博士の演じた役割は決して小さなものではありませんでした。彼はしばしばスウェーデンの自宅とハルツワルデの屋敷の間を往き来していたからです。彼はいつも,その屋敷とスウェーデンの自宅で働くようヒムラーから与えられた姉妹たちにスーツケースに荷物を詰めさせることにしていました。その両者の間には暗黙の了解があって,スウェーデンの姉妹はケルステンのスーツケースに荷物を詰める際,何冊かの「ものみの塔」をその中に入れました。ハルツワルデに着くと彼は,そこで自分のために働いている姉妹を呼んで,いつもその姉妹だけにスーツケースを開かせました。姉妹たちはそうして得た「ものみの塔」誌を注意深く研究した後,それらを近くの強制収容所に回していました。
ハルツワルデにあるケルステン氏の屋敷は,ラベンスブリュックの女子収容所の南約35キロ,ザクセンハウゼンの男子収容所の北約30キロの格好な場所にありました。同地からはその両方の収容所に物品が絶えず輸送されていたので,それら収容所の兄弟姉妹のもとに霊的な食物をひそかに送り込むのは難しいことではありませんでした。
こうして,各地の収容所と,姉妹たちが親衛隊員の家族のために働くよう割り当てられた隊員個人の家との間にはたいへん密接な連絡が保たれました。この興味深い時期のことについてイルゼ・ウンテルデルフェルはこう伝えています。
「私たちの働いた場所ではかなりの自由に恵まれ,検閲を受けずに親族に手紙を送ることに成功しました。私たちはまた,収容所の外で働いていた兄弟たち,あるいは親衛隊員のために働く,責任のある立場につけられ,いっそう自由に恵まれた兄弟たちと連絡を取ることもできました。そうです,自由の身で生活していた兄弟たちと接触して,『ものみの塔』誌を入手することにさえ成功しました。以前学んだ事柄や新たに入って来た人たちから聞いた新たな真理を基にして何年間も生活してきた後だけに,『ものみの塔』を再び直接読めるようになった時には驚くほど気持ちがさわやかにされました。私は親衛隊将校ポールの管轄下にあったラベンスブリュックの近くのある親衛隊員の農場に割り当てられ,囚人管理者として姉妹たちの仕事を監督する責任を与えられました。私たちのうち何人かはその農場で眠り,もはや収容所に行く必要さえ全然ありませんでした。こうして私は,ある姉妹から渡された手紙に記された取決めに従って,ベルリンから来たフランズ・フリッチェと連絡を取り,ある晩農場の森の中で彼に会うことができました。彼はいつも私に何冊かの『ものみの塔』誌を供給してくれました。そのうえ,私たちはまた別の方法で霊的な食物を受け取りました。ある工場で働いていたふたりの姉妹がやはり『ものみの塔』誌を何冊か収容所に持ち込んだのです。こうしてエホバはたいへん危急な時に愛をもって私たちを世話してくださいました」。
霊的な食物をより容易に入手できたので,それを他の人々にも得させようと努力した兄弟たちはエホバから祝福されましたが,そのことはフランク・ビルクの寄せた記録からもわかります。彼はハルツワルデの屋敷に連れて行かれた人たちの一人でした。彼らはまもなく,ある兵隊の監督下で働く,投獄された他の兄弟たちが10キロほど離れた森の中で建物の建築に従事しているということを聞きました。ハルツワルデの屋敷の兄弟たちは既にある程度の自由を享受していたので,その森にいる兄弟たちに会う機会を求めました。
ビルク兄弟はこう伝えています。「ある日曜日の朝,クレマー兄弟と私は自転車に乗ってそれらの兄弟たちを捜しに出かけました。森に入ると間もなく,切り開かれた土地に建築中の新しい建物が立っているのを見つけました。その空き地をひとりの囚人が横切るのが見えたので,私たちが手を振ると,彼は森を通って私たちの方にやって来ました。やがて上衣に薄紫色の三角形のバッジが見えたので,彼が兄弟であることを私たちは知りました。私たちはハルツワルデの作業班の者であることを述べると,彼は私たちをその新しい建物に案内しました。私たちは新しい『ものみの塔』誌を持っていたので,腰をおろして研究を始めました。その後,私たちは毎週日曜日にその兄弟たちを訪ねました。彼らはフライブルク出身のある特務曹長の監視下にありましたが,同曹長は兄弟たちに対して親切でした。クリスマスの少し前,私は彼に,『あなたや私の兄弟たちが今度の祝日にハルツワルデの屋敷を訪ねてはいかがでしょうか』と尋ねてみました。彼は考え深げに,自分の作業班の者たちをどこかへ連れていって散髪をさせてやりたいと思っていると答えました。ハルツワルデの私たちのところに理髪師が一人いると聞くと,彼はすぐ勧めに応じました。それでクリスマスの日の早朝,兄弟たちはその将校に伴われて農場にやって来ました。台所で働いていたベルリン出身のシュルゼ姉妹は特にその将校を丁重にもてなし,私たちの互いの交わりが妨害されないようにしました。兄弟たちはその晩,一緒に楽しんだ祝福された集いの喜びに満たされて家に帰りました。ちょっと考えてみてください,私たちの敵のただ中でそうした事が起きたのです!」
やがて全強制収容所に霊的な食物を持ち込める可能性が増大しました。アウシュヴィッツに拘禁されたゲルトルド・オッツと他の18人の姉妹たちは,親衛隊員の家族の住んでいるホテルに送られて働きました。他の人々もそのホテルに来て食べたり飲んだりしていたので,ほどなくして,なお自由の身であった姉妹たちは,投獄中の仲間の姉妹たちが窓ふきをしているのを見つけました。そして,そばを通り,上を見上げずに小声で,「私たちも姉妹なのよ」とつぶやきました。3週間後,姉妹たちはトイレで会うよう取り決めました。それ以後,その姉妹たちは定期的に外からやって来ては,ホテルで働く姉妹たちに「ものみの塔」誌や他の出版物を渡し,ついでそれら文書はラベンスブリュックに送られました。
1942年の12月初めのこと,ウェヴェルスブルクに残っていた約40人の兄弟たちは,そこで特別の仕事に携わるすばらしい機会を得ました。依然収容所として扱われてはいましたが,彼らはある程度の自由に恵まれました。というのは,もはや彼らを収容所内に留まらせておく電流の通った有刺鉄線もなければ,見張りもいなかったからです。
当時,なお自由の身だったエンゲルハルト兄弟は,同収容所の近くに住んでいる兄弟たちに「ものみの塔」誌を収容所内に送り込む方法を見つけるよう指示しました。幾つかの問題を克服した後,ヘルフォルト出身のサンドル・バイエルとレムゴ出身のマルタ・チュンケルは,若い夫婦のような格好でその地区をただ散歩しながら通って様子を探りました。二人はまもなく兄弟たちと接触し,その後定期的に「ものみの塔」誌を兄弟たちに供給しました。まず最初,ふたりは墓地の特定の墓石のそばで兄弟たちと会い,次は麦わらの山の中に雑誌を隠しておいたり,あるいは前もって決めておいた場所で真夜中に雑誌を直接兄弟たちに手渡したりしました。またそのたびに,次に会う新たな場所を決めました。雑誌を生産し,配っていたエンゲルハルト兄弟や姉妹たちが逮捕されてからは,なお自由の身であった人たちにどうすれば霊的な食物を供給できるかが問題になりました。
今度はウェヴェルスブルクにいる兄弟たちが自ら解決策を見いだすよう努力しました。兄弟たちはタイプライターを1台入手することができ,ひとりの兄弟はそれを使って原紙を切りました。別の兄弟は板材を利用して簡単な謄写版印刷機を組み立てました。兄弟たちとなお接触していた外部の姉妹たちは謄写版印刷に必要な資材を兄弟たちに届けました。そして遂には,北部ドイツのかなり広い地域に供給するに足るほどの非常に多くの量の「ものみの塔」誌がそこで生産されるようになりました。エリザベス・エルンスティングは自分の受け持っていた区域に供給するため,いつも「ものみの塔」誌を50冊受け取っていたことを覚えています。こうして,ナチ政権が1945年に崩壊するまでのほとんど2年間,ウェストファーレンその他の地域に住む兄弟たちに「ものみの塔」誌を供することができたのです。
強制収容所内の兄弟姉妹のための霊的な食物の供給量は大いに改善されたため,ザクセンハウゼンにおける1942年までのそれは小川の流れに例え得るほどでした。ナチ政権崩壊直前に死刑を宣告されながら処刑を免れたベルリン出身のフリッチェ兄弟は,1年半余の期間にわたって新しい雑誌すべてを供給できただけでなく,その間に発表された書籍や小冊子すべてはもとより数多くの古い号の雑誌をも供給できました。兄弟たちはあたかも豊かな牧場に導かれたかのようでした。兄弟たちは皆,協会の出版物を1冊持っていて毎晩研究できたからです。何という変化でしょう。しかも,それがすべてではありませんでした。組織が非常によく運営されたので,フリッチェ兄弟は仲間の兄弟たちの親族に宛てて,あるいは他の収容所内の兄弟たちや外国の支部に手紙を出すことができました。こうして,1年半の間に150通ほどの手紙をひそかに送り出したり,ほとんどそれと同数の手紙を収容所にこっそり持ち込んだりすることができました。送り出された数々の手紙は,兄弟たちが霊的に優れた状態を保っていたことを証するものでした。そうした手紙のコピーが数多く作られたのももっともなことでした。中には謄写版で刷られた手紙さえありましたが,それは外部の兄弟たちに,とりわけ投獄されている人たちの親族に励みを与えるものとなりました。
収容所内で大胆に宣言された神権的一致
フリッチェ兄弟が逮捕された1943年の秋までの約1年半の間,万事順調に進みました。ところが,各地での家宅捜索にさいしてザクセンハウゼンに関する報告が見つかり,同兄弟に注意が向けられるようになりました。警察は彼が所有していた「ものみの塔」誌その他の出版物だけでなく,彼が届けようとしていた兄弟たちからの何通かの手紙をも発見しました。手紙による通信連絡がほとんど国際的な規模で行なわれていることを知った警察は,収容所の指導者たちの責任遂行能力もしくは意欲のほどを疑うようになりました。そこでヒムラーは,疑わしい収容所すべてを直ちに調査するよう命じました。
その運動は4月の終わりに開始されました。ある朝,秘密警察の何人かの役人がザクセンハウゼンにやって来ました。兄弟たちに対するその突然の攻撃は十分に計画された処置でした。収容所内で働いていた人たちはそれぞれの作業場から呼び出され,中庭に立つよう命じられ,そこで日々の聖句について尋問され,また衣服の上からさわって調べられました。そして,何冊かの出版物が見つけられ,所持者はみないつものむち打ちの罰を受けました。しかし,ゲシュタポは兄弟たちをおじけさせることはできませんでした。それはエホバが敵のただ中で兄弟たちを豊かに養っておられたからです。兄弟たちは自分たちの使命をはっきりと理解しており,恐れることなく一致団結して神権的支配を支持する立場を取りました。
エルンスト・ゼリンガーはフリッチェ兄弟と連絡を取っていることが知られたため,特に「注目」されました。同兄弟は身体面の傷だけでなく,霊的な面の傷をも包んで癒すことに努め,その謙遜な,慈父のような態度はこの収容所の兄弟たちの享受した一致した関係に大きく貢献しました。しかし彼は,最初に受けた尋問の結果を非常に憂慮し,彼はそれを「敗北」とみなし,それを勝利に変えていただきたいとエホバに祈り求めました。しかし,それはただ一人の人の試練として終わるものではありませんでした。ヒルデン出身のウィルヘルム・レガーはその事情を,「今やそれは,『一人が身代わりになるか,それとも全員が滅びるか』のどちらかでした」と説明しています。互いに励まし合うため日々の聖句を自分が回していたと自供したゼリンガー兄弟の声明書がそのとおりであることを兄弟たちは全員認めました。また,ゼリンガー兄弟が収容所に持ち込んだ文書を読んでいたこと,そして今後も互いに励まし合い,将来に対する自分たちの希望について語り続けるつもりであることをも認めました。
四日間が過ぎました。そして日曜日の朝,ゼリンガー兄弟は収容所の管理部に出頭しました。それは当局者が調書を取るためでした。彼はその経験をこう述べています。「最初,私は三つの病室[彼が助手として働いていた場所]で証言しました。……次いで私は喜びにあふれながらライオンの穴に入りました。私たちが非合法な仕方で収容所から送り出した手紙類を一人の医師と一人の薬剤師が調べていました。それから2時間にわたる激しい論争が続きました。そして,調書を取り終わる時になって,尋問を行なった将校がこう言いました。『ゼリンガー,お前はこれから何をするつもりだ。これからも日々の聖句を書いて,お前の兄弟たちを励ますつもりか。この収容所の囚人たちの間で伝道を続けるつもりなのか』。『はい,全くそのとおりです。私だけではなく,私の兄弟たちも全員そうするつもりでいます!』……尋問は2時に終わり,兄弟たち全員の名において記された宣言書が当局者側に提出されました。それで兄弟たちは皆」― 収容所のバラック内での「宣べ伝えるわざに喜んで出かけて行きました」。
1934年10月7日,エホバの証人はヒトラーに手紙を送って,自分たちはたとえ脅しを受けても集まり合うことや宣べ伝えることをやめる訳にはゆかないと知らせて以来,およそ10年経ったことを兄弟たちは思い起こしました。ほとんど10年を経た今,収容所の内外を問わず,神の民の闘志はなおも打ち砕かれてはいないことをゲシュタポは思い知らされました。種々の手紙はそのことを裏づけるものでした。
今やゲシュタポは他の収容所を調べて,盛んにふれ告げられていた『神権的一致』なるものが広まっているかどうかを確かめることにしました。次の収容所は,ザクセンハウゼンから分かれた収容所であるリヒテルフェルデでした。これら二つの収容所の間の連絡係を勤めたパウル・グロスマン兄弟は後日その調査の模様を次のように述べました。
「1944年4月26日,ゲシュタポは新たな打撃を加えました。その日の午前10時,二人のゲシュタポ将校がリヒテルフェルデにやって来て,ザクセンハウゼンとリヒテルフェルデの間の連絡係をしていた私を徹底的に調べました。彼らは私がベルリンの兄弟たちに書き送った2通の手紙を見せました。それらの手紙は私たちの活動方法を明らかに示していました。[そのような情報を手紙に記すのはいかに無分別かがわかる。なぜなら,当局者が逮捕や捜査を行なえば,当然それは遅かれ早かれ見つけられるから。] こうして当局者は組織の詳細をことごとく知り,そのうえ,私たちが私たちの『母』から定期的に食物を受け取っていたことをも知りました。
「彼らはあらゆるものをひっくり返して調べましたが,『ものみの塔』誌を1冊見つけただけでした。私は他の兄弟たちが仕事から戻って来た時,門のそばで立たされていました。兄弟たちもやはり調べられ,門のわきに立たされました。警察によるそのような大々的な手入れは久しくなかったので,それには本当に驚かされました。尋問中にはかなり打たれたり,ののしられたりしたうえ,数冊の『ものみの塔』誌と幾つかの聖句が見つかりました。また,ザクセンハウゼンの経験に関する詳しい報告,聖書1冊その他の書類が没収されました。兄弟たちは神権政治の関心事のために活発に働いていたこと,また『ものみの塔』誌を読んでいたことを隠したりはしませんでした。その夜,私たちは11時まで門のそばに立たされました。その間に首謀者12人をザクセンハウゼンに移すため警察のトラックが到着しました。それは彼らが絞首刑に処されることを意味しました。彼らは自分たちのスプーンや皿その他を返さねばなりませんでした。ところが,その移動は実現しませんでした。親族に対する死亡告知書は既に作成されていましたが,翌日も何事も起きませんでした。三日目には驚いたことに,それら12人の兄弟たちは処刑されるどころか,仕事に戻されました」。
次いで,リヒテルフェルデの兄弟たちは次のような宣言書に署名するよう要求されました。「_____以来,当収容所にいるエホバの証人の一人である私,_____は,ザクセンハウゼン強制収容所に存在する『神権的一致』集団の者であることを認めます。私は日々の聖句や文書類を受け取って読み,それらを他の者に回してきました」。兄弟たちはみな,大喜びして署名しました。
警察による同様の手入れは他の収容所でも行なわれ,同じような結果が見られました。一例としてラベンスブリュックでは1944年5月4日に調べられました。同収容所とザクセンハウゼンとの間でも連絡が取られていることが種々の手紙から明らかにされたからです。その収容所の『首謀者たち』に対しては厳しい処置が取られましたが,ここでもまた,種々の部門の責任者たちの要請で,それらの姉妹たちは前の仕事に戻されました。これは当時までに圧制者の力がかなり衰えていたことをさらに裏づける証拠となりました。
ドイツ軍は1944年に東部戦線の各地で敗北をこうむり,非常に多くの人命を失ったため,老齢者やヒトラー青年隊の青少年が戦闘に投入されただけでなく,囚人たちにさえ東部戦線に出陣する機会が与えられました。そのために委員たちが収容所にやって来て,格下げされたディルレワンゲル将軍の師団に加わる機会を政治犯に提供しました。もし彼らが出陣するなら,自由なドイツ国民とみなされることになりました。しかし興味深いことに,そうした機会を他の囚人に提供する前に,薄紫色の三角形のバッジをつけた囚人たちは皆,それぞれのバラックに帰されました。当局者はエホバの証人たちから得る答えを知っていたので,証人たちの希望を聞くのをやめたのです。
大急ぎで行なわれた収容所からの撤退
1945年,米英両空軍が投下した爆弾の雨は夜昼続き,ドイツ軍の退去は遂にはまぎれもない敗走と化し,第二次大戦の終わりが近いことはだれの目にも明らかになりました。親衛隊員は自分たちの権力を誇示しなくなりました。強制収容所の何十万人もの収容者たちがあせりながら解放を待ちわびていた時のことを思い起こせば,親衛隊員たちがうらやましい立場にいなかったことはよくわかります。それら囚人たちの大集団は何を引き起こすか予測し難い,そうです,爆発を起こしかねない材料だったので,多くの親衛隊員は囚人たちを恐れました。しかし,依然総統の命令に従っていたヒムラーは,ダハウとフロゼンビュルクの指令官に次のような電報を送りました。「降服は考えられない。収容所から直ちに撤退せよ。囚人は一人として生きたまま敵の手に渡してはならない。(ハインリヒ・ヒムラーの署名)」。同様の指令が他の収容所にも送られました。
それは収容所に拘禁されている神の忠実なしもべたちの生命を再び危険にさらす最後の悪魔的な企てでした。しかし彼らは過度に心配したりせず,個人個人当面どんな結果に遭おうともそれにはかかわりなくエホバに信頼していました。
囚人たちを片づける任務を受けた親衛隊の将校たちは,解決不能の問題に直面しました。親衛隊の酒保で働くよう割り当てられていたウォルター・ハマン兄弟は,親衛隊の将校たちが交した興味深い会話を立ち聞きしました。彼はこう述べています。「将校たちは囚人をガス室で殺すことについて話していましたが,その施設はあまりにも手狭でしたし,十分の量の毒ガスもありませんでした。次いで私は,焼却炉用の石油の運送に関する電話のやり取りを立ち聞きしましたが,運送はできないとのことでした。次に,収容者ごと収容所を爆破する件が指摘されました。方々のバラック,特に病棟には既にダイナマイトの箱が設置されていました。しかし,その計画も放棄されました。最後に,3万人の囚人を撤退させることに決まりました。囚人たちはもっと大きな収容所 ― それは存在しなかった ― に送られるのだと告げられましたが,実際には当局者は私たちをリューベック湾という集団墓地に連れて行く考えでした。それには毒ガスも石油もダイナマイトも不必要だったのです」。
その間にも,連合軍は東西両方面からいよいよ急速に近づいて来ました。今や親衛隊員はわが身の安全を恐れ始め,ますます困惑するようになりました。収容所を一掃する政府の決定が知られるようになってからは特にそうでした。克服し難い問題に直面した彼らは,囚人たちをただ道路に追い出し,ほんのわずかの食物だけを持たせて進み去らせました。いみじくも「死の行進」と呼ばれたそれらの行進のルートをあとでたどってみれば,だれでも全員同一の目的地に導かれたことがわかるでしょう。当局者の目的は囚人をリューベック湾つまり北方の公海に連れて行き,次いで敵軍が到着しないうちに囚人を船に乗せ,船もろとも囚人たちを海に沈めることでした。
間もなく食べ物はなくなり,時には一滴の水さえもないことがありました。それでもなお,飢えた囚人たちは平均気温わずか摂氏4度の寒さのもと,しのつく雨の中を一日じゅう,それも立て続けに何日間も強制的に行進させられました。夜になると,森の中の,雨でびしょびしょにぬれた地面に横たわることを許されました。定められた速度についてゆけない人たちは後衛の親衛隊員に情け容赦なく頸部を撃たれて殺されました。こうした行進でおびただしい数の人々が命を失いましたが,そのことはザクセンハウゼンの例からもよくわかります。撤退開始時になお生き残っていた2万6,000人の囚人のうち,ザクセンハウゼンからシュウェリンまでの途中で1万700人もの囚人が射殺されたまま置き去りにされました。
マウトハウゼンに残された少数の兄弟たちもまた危険な状態に置かれていました。山腹には巨大なトンネルが掘られていて,その中で人々に恐れられた“V-2号”ロケットが組み立てられていましたが,ある日,そのトンネルの一つが閉鎖され,内部に地雷が仕掛けられました。そして,空襲と見せかけて1万8,000人の囚人をそのトンネルに押し込み,そこを爆破する計画だったのです。しかし,収容所の管理部は,急拠進撃したソ連軍戦車隊に突然占拠されたため,親衛隊員は囚人をほったらかしにしたまま,どうにかしてわが身を救おうとしました。しかし,それは長続きはしませんでした。『おれが見たいのは死亡証明書だけだ』と言ったことで知られていた収容所の指令官は,ほんの2,3日の後,囚人たちに見つけられ,踏み殺されてしまいました。今や政治犯たちは,多大の流血の罪を犯していた収容所の長老やブロックの長老,また工夫長など同僚の囚人に対する復讐を図りました。
ダハウの収容者の死の行進は森林を縫うようにして続けられ,行進について行けない人たちは親衛隊員により射殺されました。彼らの目的地はエーツテラー・アルプスで,最後にその目標地点に着いた者たちはとにかくすべて射殺されることになっていました。兄弟たちは一緒になって歩き,互いに助け合いました。こうして,ある人たちは死なずに済み,遂にバートテルツにたどり着き,そこで解放されました。ワーキルヒェンの森の雪の中で過ごした最後の夜のことをロペリウス兄弟は今も覚えています。夜が明けると,ババリア州の警官がやって来て,兄弟たちは自由の身になったこと,また親衛隊員は逃げてしまったということを知らされました。兄弟たちが道をさらに進んで行ったところ,立ち木に銃が立て掛けてあるのを見つけましたが,親衛隊員は一人もいませんでした。
囚人を全員片づけよとの政府の命令を親衛隊は真に受けました。降伏が行なわれるほんの数日前のことですが,囚人の幾つもの集団がノイエンガムで一緒にされ,貨物船に乗せられ,ノイシュタット湾に停泊していた豪華な客船,『ケープ アルコナ号』に移されることになっていました。全長200メートルの同船には既におよそ7,000人の囚人が入れられていました。親衛隊側はその『ケープ アルコナ号』を公海に航行させたうえ,囚人もろとも沈没させる予定でした。しかし,その船は依然国旗を掲げていたため,1945年5月3日,英軍戦闘機の攻撃を受けて沈没してしまいました。2,000人ないし3,000人の囚人を乗せた貨物船,『ティールベク号』も沈没しました。こうして,およそ9,000人もの囚人がノイシュタット湾の海底の墓場に消えて行ったのです。生存者たちがそのできごとを思い起こしてぞっとするのももっともな話です。ノイシュタット湾の浜辺では海水浴客や土砂を掘る作業に携わる人たちが今だに毎年12ないし17体の死骸を発見しています。
220人の兄弟たちを含め,ザクセンハウゼンの囚人も同様の運命に定められていました。囚人たちは殺人的な行進をさせられ,2週間でおよそ200キロの道のりのところを歩きました。
証人たちは迫り来る危険にいち早く気づき,靴を修理し,からだがひどく弱っている人たちのわずかな所持品を運ぶ数台の小さな荷車を集め,衰弱した人たちを荷物の上に乗せました。そうせずに,全行程を歩かねばならなかったとしたなら,それらの兄弟たちは,1万人余の死者の中に数えられていたことでしょう。しかしこうして,肉体的にあまり弱っていない兄弟たちはそれらの荷車を引くことができました。途中で他の兄弟たちの力が尽きると,それらの兄弟たちは車に乗せられ,2,3日からだを休め,体力を十分取り戻すと再び交替して荷車を引っ張りました。このようなわけで,その死の行進の最中でさえ,兄弟たちは全員一つの大きな家族としていつも一緒に行動し,最後に至るまでエホバの保護を享受しました。
次いで,ある日の午後,撤退する囚人たちのその一団がリューベックまでわずか三日の行程を残すばかりになった時のこと,シュウェリンの近くの森で全員キャンプを張るよう親衛隊員から命じられました。行進の途中,兄弟たちは幾つもの小グループに編成され,自分たちの毛布を利用して間に合わせのテントを作っていました。それで,床を小枝で覆って夜の寒さを防ぎました。その夜,ソ連軍の撃つ銃弾が兄弟たちの頭上をうなり声をたてて飛び,米軍は前進し続け,同地区のドイツ軍の戦線は崩壊してしまいました。突如,真夜中に「われわれは自由だ!」という叫び声が上がり,幾千回となくこだまして響き渡ったとき,そこに居合わせた人々の感慨は言語に絶するものがありました。その時まで囚人たちを指揮していた約2,000人の親衛隊員は,ひそかに自分たちの制服を脱いで民間人を装い,中には自分の正体を隠そうとして囚人服を着た者さえいました。しかし,数時間後にはそれら隊員のある人々は正体を見破られ,容赦なく虐殺されました。
兄弟たちは今や自分たちのもとに到着した米軍将校の勧めに従って,その真夜中に宿営を解くべきでしたか。兄弟たちは問題を祈りのうちに考慮し,日の出まで待つことに決めました。しかし,日の出になってさえ,さらに何時間かそのまま留まりました。というのは,難民の一農夫が90キロほどの豆を兄弟たちに譲ってくれたからです。兄弟たちはそれを煮て,すばらしい食事を取りました。ああ,どんなにか感謝したことでしょう。兄弟たちは行進の途中で茶を摘んで集め,水が手に入ると晩に林の中でわずかのお茶をわかして飲む以外,およそ2週間ほとんど何も食べてはいませんでした。
仲間をだれひとり失わずに済んだことを知った時,兄弟たちはどんなにか感謝したことでしょう。しかし,あとでわかったのですが,エホバに感謝すべきもう一つの理由がほかにもあったのです。一行が北を指して行進していたとき,親衛隊員たちは戦線がいったいどこなのかわからなかったので,数日の間一行をある森の中に留めました。その数日の時間こそ,戦線が最終的に崩壊する以前に一行がリューベックに着くには行進して費やさねばならない時間だったのです。
今や兄弟たちは大急ぎで行進し続ける必要は少しもありませんでした。兄弟たちはシュウェリンの森のほかならぬその場で,兵隊たちが移動式事務所から投げ捨てて行ったタイプライターを使って自分たちの経験に関する報告を作成し始めました。その中には,解放後の数時間の筆紙に尽くし難い感情をこめ,それとともに「ライオンの穴」で過ごした何年にもわたるエホバの保護に対する,きわめて深い感謝の念をもって書き上げた決議文が含まれています。その決議文は次のとおりです。
決議!
「1945年5月3日
「メクレンブルク州シュウェリンの近くの森に集まった六か国からのエホバの証人230人の決議。
「ここに集まった私たちエホバの証人は,全世界のエホバの忠実な契約の民とその仲間の皆さんに,詩篇 33篇1-4節および詩篇 37篇9節の言葉に基づく心からのあいさつを送ります。エホバというみ名を持っておられる私たちの偉大な神が,ご自分の民に対するみ言葉を,とりわけ北の王の領土において成就されたことを知っていただきたいと思います。長い苦しい試練の時期は過去のものとなり,生き長らえらされ,あたかも火の燃える炉からのごとくに危く救い出された者たちの身には火のにおいすらついていません。(ダニエル 3:27を見てください。)逆に,彼らはエホバから与えられた強さと力にあふれており,神権的な関心事を促進させるための王からの新たな命令を切に待ち望んでいます。働きたいという私たちの決意と意欲は,イザヤ書 6章8節およびエレミヤ記 20章11節(メンゲ訳)に言い表わされています。敵はまさに中世の異端審問所の仕打ち同然の幾千もの方法を講じて身心両面で私たちを責めさいなみ,数々の甘言や誘惑を駆使しただけでなく,悪魔的なまでに凶悪な数知れぬたくらみを弄して私たちの誠実さをくつがえさせようとしましたが,主の助けとその情け深い支援のおかげで私たちは耐え忍び,敵のそうした企ては失敗しました。それらさまざまの経験を書き綴れば数多くの書物を作れますが,そのすべてはコリント第二 6章4-10節また同 11章26,27節の使徒パウロの言葉,とりわけ詩篇 124篇(エルベルフェルダー訳)の言葉の中に簡潔に述べられています。サタンと,悪霊に取りつかれたその手先きはうそつきであることがもう一度明らかに示されました。(ヨハネ 8:44)大論争はまたもやエホバに利する仕方で結着を見,エホバに誉れが帰されました。―ヨブ 1:9-11。
「私たちにとっても,皆さんにとっても喜ばしいこととして,主なるエホバは豊かな分取り物,つまり36人の善意の人々をもって私たちを祝福してくださったことをお知らせします。それらの人たちは私たちがザクセンハウゼンを去る時……自発的にこう宣言しました。『私たちはあなたがたと一緒に行きます。私たちは神があなたがたとともにおられると聞いたからです』。ゼカリヤ書 8章23節の言葉はまさしく成就しました! 私たちは大急ぎで退去したため,神権政府を支持する多くの友は私たちに加われませんでしたが,彼らがやがて私たちのもとに戻る道を見いだせるようエホバは物事を取り計らってくださるでしょう。
「私たち,エホバの証人は,エホバに対して全き信仰を抱き,その神権政府に全く献身している者であることを改めて宣言いたします。
「私たちはただ一つの願い,すなわちライオンの穴に留まっていた期間中,エホバが驚くべき仕方で私たちを数知れぬさまざまの困難,闘争そして苦悩から救い出し,生き長らえさせてくださったことを示す数限りない一連の証拠に対する深い感謝のゆえに,永遠にわたって心から喜び勇んでエホバとその偉大な王,キリスト・イエスに仕えさせていただきたいとの願いを抱いている者であることを厳かに誓約いたします。そのように仕えること自体,私たちにとっては最大の報いです。
「私たちは近い将来再会できることを確信して喜びを抱きつつ,詩篇 48篇の言葉をもってこの決議文を結びます。
「エホバの聖なるみ名のための,あなた方の仲間のしもべたち」。
こうして,エホバの過分の親切とその保護に対して,また今や回復された自分たちの自由に対してまず第一にエホバに感謝の意を表した後,兄弟たちは宿営を解きました。自由を取り戻したその最初の夜,900人ないし1,000人もの囚人が死にましたが,兄弟たちは全く無傷でシュウェリンに着きました。しかし,エルベ川の方々の橋が破壊されていたため,2,3か月その地を去ることはできませんでした。兄弟たちは軍隊のバラックの馬小屋に泊れる場所を見つけ,またその兵舎で「ものみの塔」を謄写版で印刷し,前途のわざに対して霊的に備えるため毎朝「ものみの塔」研究を行ないました。同時に,事情が事情だけに囚人服のままでしたが,野外での奉仕の務めにも再び携わりました。そして遂に,西方に向かって旅行を続けることができ,また再び親族と連絡を取り,王国のわざを再組織するにはどうすればよいかを考えることができました。
誠実さに関する記録
この報告はエホバの民の現代史の重要な一面の再構成を試みるものですが,ドイツの兄弟姉妹たちが国家社会主義の恐怖政治のもとで経験した興味深い事柄のほんの一部を紹介できるにすぎません。それら証人たちが真の崇拝を固守し,エホバのみ名を擁護したがゆえに生じた事柄すべてを報告するとすれば,おびただしい数の本を著わさねばならないでしょう。これまでに述べた個々の経験は,これまた取り立てて述べるに値する多くの経験を代表するものとなり,その結果人間ではなくて,むしろエホバが賛美され,エホバに誉れが帰されますように。その聖なるみ名のために彼らの多くが命を捨てるのをエホバはお許しになったとはいえ,エホバこそその民を一つの集団として救い出すべく,ちょうどよい時に処置を講じられたのです。
1945年に圧制から解放された人たちと話し合った人ならだれでも,彼らがいかにしばしば一緒になって詩篇 124篇の言葉をもってエホバを賛美したかを思い起こします。彼らは迫害の始めごろに出た「ものみの塔」誌のすばらしい記事を熟考しました。エホバはそれらの記事をもって当時の苦難の時代に対処するよう彼らを備えさせておられたのです。今や彼らは,からだを殺し得る者どもを恐れてはならないと語ったイエスの言葉の意味を理解しました。また,火の燃える炉に,あるいはダニエルのようにライオンの穴に投げ込まれるとはどういうことかを知りました。しかし,エホバはより強力な方であって,彼らの額を敵のそれよりも堅くしてくださる方であることをも悟りました。局外者さえそのことを認めており,ドイツの歴史のこの部分に言及するさい,歴史家はしばしばその点を強調しています。たとえば,1969年の「歴史季刊」誌,第2部の中でその筆者,ミヒャエル・H・カーターはこう述べています。
「『第三帝国』は内部的抵抗に残忍な暴力をもって対処する方法しか知らなかったが,それでもドイツ民族内部の反抗勢力を克服できず,また1933年から1945年にかけては敬謙な聖書研究者の問題を征服することもできなかった。1945年,迫害の時期を脱したエホバの証人たちは,弱ってはいたが,その精神は損なわれてはいなかった」。
また,「ドイツの諸教会の戦い」と題する本の書評の中でフリードリヒ・ジッフェルはこう記しています。
「強制収容所の問題を分析した研究書や回顧録で,敬謙な聖書研究者の強固な信仰,勤勉さ,有用さ,また熱狂的殉教の死について述べないものはほとんどない。これはエホバの証人が投獄される以前に戦いに携わっていた時よりもさらに前に著わされた反対派の文献で,証人たちのことを全然,もしくはほんのついでに述べたものとは対照的である。しかしながら,それら聖書研究者の活動や迫害は非常に奇異な事例である。この小さな宗教団体の成員はその97%が国家社会主義政府の迫害の犠牲者となり,その三分の一は処刑その他の暴力行為によって殺されたり,飢えや病気あるいは奴隷労働のために死んだりしたのである。彼らが被った厳しい仕打ちは類例のないものであり,それは国家社会主義の理念に合致させることのできない断固たる信仰の結果であった」。
敗北したドイツ帝国の総統は今や大いに卑しめられました! 1944年12月31日,ゲーベルスは同総統について次のように言いました。「総統が語りたい,また世界に与えたいと考えている事および自国民と人類全体に対する総統の深い愛のほどを,もし世の人々が知ったなら,彼らは直ちに偽りの神々を捨てて総統を賛美するであろう。……彼の目的はその国民を救い出すことにあるのである。……偽りの言葉や低劣な考えが彼のくちびるからもれたことは決してなかった。彼は真理そのものである」。ところが,神であろうとしたその人間は自殺を遂げました。
同総統を信頼した人たちもまた,どんなにか卑しめられたことでしょう。その一例は,これまたヒトラーを神性を持つ者とみなしたヒムラーで,彼は破廉恥なことにヒトラーの命令を遂行しました。エホバの忠実なしもべたちの生活を長年にわたって困難をきわめるものにしたのはヒムラーでした。彼は流された実におびただしい血に対して責任を負わねばなりません。1937年のこと,彼はリヒテンブルクの姉妹たちに誇らしげにこう語りました。「お前たちもやはり降伏することになるのだ。お前たちがどんなにちっぽけな者かを思い知らせてやろう。我々のほうがお前らよりももっと長く持ちこたえられるのだ!」 ナチ政権崩壊後,逃亡中,ハルツワルデでリューブケ兄弟に会い,「聖書研究者の君に聞くが,これからどうなるのかね」と尋ねたヒムラーは,どんなにか意気消沈していたことでしょう。リューブケ兄弟は彼にあますところなく証言し,またエホバの証人はナチ政権の崩壊と自分たちが救い出されることとを常に考慮に入れていたということを説明しました。一言も述べずに立ち去ったヒムラーは,その後まもなく服毒自殺を遂げました。
しかし,困難な状態にもかかわらず,エホバを崇拝した人たちはどんなにか歓喜したことでしょう。彼らは宇宙のいと高き支配者に対する自分たちの誠実さを実証する特権にあずかったのです。ヒトラーの支配した期間中,それらの人々のうち1,687人が職を失い,284人は事業を,735人が家をそれぞれ失い,また457人がその職業につくことを許されませんでした。資産を没収された例は129件に達し,826人が恩給の給付を拒否され,ほかに329人が個人的損失を被りました。親のもとから奪い去られた子供は860人にのぼりました。政府当局者からの圧力のために婚姻を解消させられた事例は30件を数え,真理に反対する配偶者の要請が認められて成立した離婚は108件に達しました。合計6,019人が逮捕され,中には二回,三回あるいはさらに何回も逮捕された人々もいるので,記録された逮捕件数は8,917件に達しました。彼らに宣告された懲役年数は合計1万3,924年と2か月にのぼりました。これはアダムが創造された時以来経た期間の2倍と四分の一のそれに相当します。また,2,000人の兄弟姉妹が強制収容所に入れられ,それらの収容所で合計8,078年と6か月を,また平均4年間を過ごしました。さらに,合計635人が刑務所で死に,253人が死刑の宣告を受け,そのうち203人が実際に処刑されました。誠実さに関する何という記録でしょう。
再建のわざを開始する
戦後直ちにドイツの兄弟たちと連絡を取ったのは,スイスのベテルの兄弟たちだけでした。彼らは,兄弟たちが収容所から解放された後でも多くの会衆に存在したある種の好ましくない傾向について聞いたので,次のような回状を諸会衆に送りました。
「ドイツにいる愛する仲間のしもべである皆さんすべてへ
キリストにある愛する同信の友なる皆さん,
「遂に皆さんはナチのくびきから自由にされました! 皆さんの中のある人々は刑務所か強制収容所で,あるいは他の形での迫害により何年間も苦しんできました。……
「しかし,主のみ名のために特別の苦しみを受けるにふさわしい者とみなされた人はだれも,そのことでうぬぼれたり,殉教者に付される栄光を受けたり,あるいは刑務所や強制収容所に入らなかった他の人々よりも自らを高めたりするようなことはないはずです。だれも自分の被った苦しみについて同胞の人たちに自慢すべきではありません。家に残った同信の友の多くもやはりさまざまの問題をかかえ,厳しい圧力を受けたことを忘れてはなりません。クリスチャンは自分の受ける苦しみを選ぶことはできません。主がそれを決める,あるいはむしろそれを許されるのです。
「愛する同信の友の皆さん,それゆえ,公正さを欠いて組をつくったりせず,また妥協した人,あるいはあえて妥協しようとした人を自分の考え方に従って非難しないようにしましょう。主は私たちの心を裁かれます。主のみ前にあって私たちは開かれた書のような者なのです。……
「ライプチヒ出身のエーリヒ・フロスト兄弟は皆さんの区域の事柄を管理する権限を受けました。しかしながら,会長からの指示によ ば,この取決めは単に一時的な性格のものです。フロスト兄弟は伝道のわざの進歩に関してできるかぎり定期的に会長に報告することになりました。
「協会の新会長,ネイサン・ホーマー・ノア兄弟の指揮のもとで,宣べ伝えるわざはかつてないほどいっそう徹底的に組織され,大いに進展しています!……
「ベルンの聖書の家の家族 Fr・ズルヒャー(署名)」
フロスト,シュワフェルト,ワゥエル,ゼリンガー,ハイニケその他の兄弟たちは解放後直ちに協会の建物および地所を取り戻すことに努めました。そこから再びわざを指導できるものと考えたからです。ところが後に,ソ連当局が反対の態度を示したため,そうすることは不可能になりました。
その間,支部の監督として任命されていたフロスト兄弟はザールブリュッケン出身のウィリ・マコー,ウィースバーデン出身のヘルマン・シュレーマーとアルベルト・バンドレスおよびマインツ出身のフランケ兄弟たちに,禁令下の時期に彼らが地区の奉仕指導者として働いていた西ドイツのそれらの地方の諸会衆を組織し,その世話をするよう要請しました。
同時にフランケ兄弟は「ものみの塔」誌を少部数印刷するための紙をシュツットガルトの近くで購入するよう努力を払っていました。同時に,シュツットガルト,フランクフルトおよびザールブリュッケンからラジオを通じて話を行ない,一般の人々の注意を王国の音信に向けさせる取決めを設けました。最後にフランケ兄弟はウィースバーデンで二つの事務室を借り,1週間後,その同じ家のある小さな部屋を居間として借りました。
1945年の終わりにフロスト兄弟はマクデブルクからシュツットガルトに赴き,旅行するしもべとしての全時間奉仕あるいはベテルでの仕事を喜んで始めようとしていた忠実な兄弟たちと組織上の問題を話し合いました。協会は東ドイツのマクデブルクで登録されていたので,西ドイツのシュツットガルトに支部事務所を開設する必要があるように思われました。
間もなくフロスト兄弟は,ノア兄弟に会って初めて直接話し合うためオランダに向かいました。その途中,ウィースバーデンで下車した彼は,借りた二つの事務室をフランケ兄弟から見せてもらった後,シュツットガルトに支部を置く計画を直ちに取りやめ,ウィースバーデンに事務所を設置することに決めました。こうして,その二つの事務所とフランケ兄弟の小さな居間がベテルの家となり,やがて20人の兄弟姉妹がそこで仕事をしたり,食事をしたりすることになりました。
約1年後,フランケ兄弟は禁令下で監禁の身にされたため,ウィースバーデン市当局からウィルヘルミンネン街42番地の二間の部屋のアパートを与えられました。それで,フランケ兄弟だけでなく,ベテルもそこに移り,二つの部屋のうち大きい方がベテルの家となりました。また,エホバの過分の親切によって,ある姉妹の所有していたその同じ家の中の別の部屋も借りることができ,そこが事務所となりました。ノア兄弟がドイツの兄弟たちに会うため初めて訪問したのはその事務所でした。
それまで兄弟たちは再三市長を訪問し,市長は幾つかの部屋を,そうです,ある家をそっくり与える約束をしていましたが,その約束はまだ何一つ果たされてはいませんでした。今や兄弟たちはものみの塔聖書冊子協会の会長の訪問の好機を利用し,然るべき当局者たちすべてを,それも特に市長を対象にして会長の訪問を強い調子で発表し,自分たちの責任を遂行するための事務所としてどんな場所が提供されたかについて,米国人である協会の会長から尋ねられた場合,市長のどんな考えを会長に伝えればよいのか市長に尋ねました。兄弟たちはヒトラー治下の禁令や自分たちが多年投獄されてきたことを利用して,証人たちに強制的に課された不当な処置に対する償いを行なうため当局者が自発的に引き受けた責任を当局側に指摘しました。市長から次のように言われた時,兄弟たちはどんなにか驚いたことでしょう。「では,コールヘクの建物の西側の張り出しの部分を使ってはいかがでしょうか」。それは空軍の兵舎として建造されていたのですが,戦争が終わる前に完成しなかったので使用されませんでした。その建物こそ実は兄弟たちが目をつけていたもので,それを入手する試みは数回なされたのですが,成功しませんでした。
その知らせを聞いて喜んだ兄弟たちは,興奮しながらノア兄弟の訪問を待ち望みました。そして,その訪問中,契約書が作成され,ものみの塔聖書冊子協会の会長である同兄弟が正式に署名する運びとなったのです。
ニュルンベルクの大会
兄弟たちは会衆を再組織し,紙不足にもめげず霊的な食物を諸会衆に供給しようと忙しく努力し続ける一方,大規模な大会を開きたいという願いが高まりました。しかし,当時は食糧事情はひっ迫し,宿泊施設は少なかったばかりか,ドイツは軍事上四つの地区に分轄されていたため,一つの地区から別の地区に旅行するのは非常に困難だったので,そのような大会を組織するには多くの問題を解決しなければなりませんでした。それにもめげず,フロスト兄弟は,おのおのの占領地区で少なくとも一つの地域大会を,そしてできれば米軍地区にあるニュルンベルクでそのうちの一つの大会を催す取決めを設けるようフランケ兄弟に要請しました。
最初の試みが失敗した後,ある兄弟がニュルンベルクの当局者たちの所に直接行って,遂に同市で大会を開けるということを確認し,9月28日と29日が日取りとして取り決められました。軍事政府が遂にニュルンベルクのゼッペリンウィーゼを使うよう申し出たとの知らせが発表されると,兄弟たちの不安はいよいよ募りました。
この当時,ニュルンベルクではいわゆる“戦犯”の裁判が進行中で,9月23日に判決が下されることになっていました。その日付は何週間も前に定められ,世界中に知らされていました。
ニュルンベルクで大会を開くことが可能になった後,兄弟たちはいよいよという時になって大会を9月30日,月曜日に終わるよう1日延長させることに決めました。そして,大会のその三日目のために特別列車を再び組織し,他のすべての取決めを設けた後,突然,ニュルンベルクの軍事裁判で下される判決は9月30日まで公表されないことになったとの知らせがラジオや新聞で全世界に伝えられました。このために問題が起こりました。というのは,米軍事政府はニュルンベルクでデモが起こりはしまいかと恐れて,夜間外出禁止令を出したからです。つまり,同市の市民はだれも月曜日の公開講演に出席する訳にはゆかなくなりました。それで,フロスト兄弟は「試練のるつぼに入れられたクリスチャン」と題する講演を行なうよう日曜日の晩の7時30分に予定が変更されました。出席した6,000人の兄弟たちがほかにニュルンベルクから3,000人もの人々が出席してその講演を聞いたということを知らされたときの喜びは,筆紙に尽くせるものではありませんでした。
米軍事政府の当局者は最初,その大会の三日目の予定を中止させようとしました。その同じ日に戦犯に対する判決が下される予定だったからです。しかし,兄弟たちは問題を切り抜けました。長時間にわたる交渉の末,軍政当局者は自分たちの要求を撤回しました。今や裁判を受ける身となった人たちに何年間も抵抗してきたエホバの証人がその大会を何ものにも妨げられることなく平安のうちに終えるのを,いったいどうして当局者は阻むことができたでしょう。
こうして月曜日の午前中,「戦後の時期に勇敢に臨む」という標語を掲げたその大会に出席した兄弟たちは,「世の陰謀に面しても恐れない」と題する講演が行なわれた時,もう一つの印象的な事柄を経験しました。
エホバがいかに巧みに物事を動かしてこられたかをはっきり悟った時,それら集まった6,000人の兄弟たちがどう感じたかをいったいだれが言い表わせるでしょうか。考えてもみてください。ナチ政権崩壊後,かつてヒトラーの軍隊の閲兵場だったその広場で最初に集まることを許されたのは,人類に対する真の平和の音信を携えているエホバの証人だったのです。それに,エホバの証人の撲滅を図ろうとしたあの残忍きわまりない体制を代表する者たちに対して,この大会のほかならぬその三日目に死刑の宣告が下されたという事実を考えた時の兄弟たちの反応を,果たして私たちは想像できるでしょうか。大会の司会者はこう言いました。「ハルマゲドンの戦いで神の民がその敵に対して収める勝利の単なる予告編にすぎないこの日を経験できただけでも,強制収容所に9年間抑留されたかいがありました」。司会者のこの言葉は新聞紙上に取り上げられて世界じゅうに伝えられました。
海外から差し伸べられた救援の手
1947年,ノア,ヘンシェルおよびカビントン兄弟たちはドイツの兄弟たちを訪ねることができました。その訪問中,5月31日の土曜日と6月1日の日曜日シュツットガルトで大会を開く取決めが設けられました。爆撃で一切のものを破壊された同市には使用できるホールが一つもなかったので,郊外の隣接地に大会のための場所が設けられ,およそ7,000人の人々が出席しました。
その訪問中,食糧や衣類などの救援物資を協会は引き続き送り届けるべきであるということをノア兄弟ははっきりと知るようになりました。それまではスイスの兄弟たちが非常な窮境にあったドイツの兄弟たちを助けるため,食べ物や衣類の形で多くの物資を贈り,兄弟愛を示していました。しかし,ドイツの兄弟たちのことを非常に気の毒に思ったノア兄弟は,彼らの窮状について数週間のうちにロサンゼルスの大会に集まることになっていた兄弟たちに伝え,食糧や衣類を寄付するよう励ますことに決めました。しかし,ドイツの兄弟たちは自分たちの窮状を特に意識していた訳ではなく,エホバがその霊的な宴を備えてくださり,またその最高潮をなすものとしてノア兄弟を自分たちのただ中に迎え得たので大いに喜び,感謝の気持ちにあふれていました。
ノア兄弟がドイツで観察した事柄についてアメリカの兄弟たちに語り,食糧を寄付するよう励ましたところ,兄弟たちは総額14万ドル(約4,200万円)を自発的に寄付したので,大型の食料袋2万2,000袋相当の食糧がケア協会から購入されてドイツに送られました。そのうえ,兄弟たちは男女子供のためのスーツやドレス,下着や靴など衣類その他を220トン分寄付しました。
救援物資が発送されたとの発表がなされるや否や,ベテルではそれをじん速,かつ円滑に分配する準備が行なわれました。兄弟たちはウィースバーデンの郊外のとあるガストハウス(旅館)の一室を借りて,そこで衣類を分類し,分配しました。そして,野外の奉仕の務めに6か月間携わった伝道者 ― 言い替えれば,単にケア袋目あてに報告したのではない人たち ― すべてが登録されました。というのは,貴重な食糧の入った大きな袋が一つずつそれらの伝道者各人を待ち受けていたからです。
それらの物資の分配が始まるか始まらないうちに,感謝の意を表わした兄弟たちの手紙が支部事務所に山のように寄せられました。兄弟たちが深い感謝の念を抱いてそれらの贈物を受け取り,エホバと寄付者つまりアメリカの兄弟たちに対する深い感謝の祈りをささげたいという気持ちに打たれているのを見るのは実に感動的なことでした。それらの手紙に目を通した人はしばしば仕事の手を休めては沸き出る涙を懸命に拭いました。たとえば,ある父親は袋を開いてその中に入っているものを見た後,12歳の息子と一緒にひざまずいて,兄弟たちからのその愛ある贈物に対する感謝の祈りをエホバに捧げました。
ノア兄弟はまた,「神を真とすべし」「新しい世」および「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と題する書籍類を150万冊贈物としてドイツに送るよう取り計らいました。それらの書籍を配布して回収される資金は,支部事務所の仕事を遂行する基金として積み立てられることになりました。こうしてエホバは,ドイツにおけるわざを新たに開始できるよう,必要なものすべてを世話してくださいました。
戦後の困難な事態にもめげず前進する
1948年には,ドイツの南部およびルール地方ではひどい食糧事情に抗議する一連のストライキが始まりました。肉や食用油の配給量はいっそう減少していました。国際連合機構は,一日2,620カロリーの食料を配給しなければならないと宣言していましたが,場所によってはそれよりはるかに低カロリー,つまりわずか1,000,もしかすると700カロリーほどの食糧しか入手できませんでした。ほとんどすべての人が空腹を感じており,しかも事態は悪化の一途をたどり,その結果一般の人々は苦々しい感情を抱くようになりました。
それにもかかわらず,エホバの民は熱意と感激にあふれて新しい年のわざを開始しました。1月1日には各会衆で特別の集会が開かれ,合計3万8,682名の人々が出席し,またその1月中,前の月よりも2,183人も多い2万7,056人が野外奉仕を報告しました。それは例年の「ものみの塔」運動を開始する時でしたが,ここドイツで私たちが実際に必要としていたのは,私たち個人個人が用いる「ものみの塔」誌でした。紙不足に加えて他のさまざまの困難な問題すべてがもたらした悲惨な事情からすれば,それは特に問題だったのです。しかし,ノア兄弟は相当量の「ものみの塔」誌をスイスで印刷してドイツに送るよう取り計らったので,1月中伝道者はすべて各自自分の「ものみの塔」誌を入手しただけでなく,各会衆にはそれ以上の多くの雑誌が供給されたので,「ものみの塔」研究に定期的に出席している他の多くの人々もそれぞれ「ものみの塔」誌を手にすることができました。それで私たちには霊的な食物が備えられました。
その当時,ドイツのたいていの都市は瓦れきの山以外の何ものでもありませんでした。カッセルも同様で,ほとんど完全に破壊されており,廃虚を片づける作業を行なうために設けられた都市計画委員会が最初に発表した推定では,同市の瓦れきを取り除くだけで23年を要するだろうとのことでした。その町で私たちは大会を開く計画を立てました。同市が私たちの大会のために提供し得たものといえば,爆弾が破裂してできた50余りの巨大な弾孔のあるカールスウィーゼという広大な牧草地くらいのものでした。しかし,当局者が懐疑的な言葉を再三再四述べたにもかかわらず,強制収容所での経験を持つ兄弟たちは喜んで仕事に取りかかりました。原始的な方法を用いて,兄弟たちは破壊された近所の家々のおよそ1万立方メートル分の石材や瓦れきを荷車で運んで弾孔をふさぎましたが,それにはおよそ4週間かかりました。
その4週間は試練の時であることがわかりました。というのは,兄弟たちが仕事を始めるや否や雨が降り始め,遂に大会が始まるまで降りやまなかったからです。兄弟たちはずぶ濡れになりながらも重労働や雨のために意気阻喪させられるようなことはありませんでした。そのような天候のもとではカールスウィーゼでそうした大会を開くのは不可能ではないかと人々から言われたとき,兄弟たちは,ひとたび大会を開いたなら良い天気になるでしょう,と楽観的な態度で答えました。
大会の準備の仕事が急速に進められていた真最中のこと,通貨改革処置が発表され,たいへん不愉快な不都合な事態が生ずるものと考えられました。新通貨は6月21日に流通し始め,西側の三つの地区の市民は各自,60旧帝国マルクにつき新通貨40マルクを受け取り,1か月後さらに20ドイツマルクを受け取りました。また,それまでの帝国マルクによる銀行預金は十分の一に切り下げられ,たいてい一時的に凍結させられました。
新通貨の価値はまもなく明らかになりました。集積されていた物資が突然売り出されるようになり,何年もの間手に入らなかった多くの必需品が今や店頭で買えるようになりました。しかし,兄弟たちは霊的な必要を意識しており,大会に出席するために喜んで自分たちのドイツマルクを投じました。費用をまかなうためにカメラその他の貴重品を売り払った人も少なくありませんでした。王国の関心事を第一にする人たちを助けるのにエホバのみ手は短すぎるということはありませんでした。たとえば,ミュンヘン出身のノイペルト姉妹はこう伝えています。「私の飼育していたみつばちの集団は危険にさらされました。というのは,手もとには砂糖がありませんでしたし,私には砂糖を購入する余裕もなかったからです。しかし,私にとってはカッセルの集まりのほうがもっと重要なことでした。しかも,私は失望させられはしませんでした。家に戻ってみると,みつばちは非常に熱心に働いていたので,その年はおよそ1,000キロのはち蜜を収穫できました」。
カッセルに到着した支部事務所からの責任のある兄弟たちは,イザヤ書 12章3節(口語)から取られた「あなたがたは喜びをもって……水をくむ」という言葉をもって迎えられました。兄弟たちはその言葉を幕に書き,それを牧草地の入口の上方に張っておきました。地面をもっと早く乾燥させるため,残りの弾孔からなおも忙しく水をくみ出していた他の人々は,その聖句をもじって,『私たちはおけをもって……水をくみます』と言ってそれらの兄弟たちにあいさつの言葉を述べました。
カッセルには各地から特別列車が17本送り込まれるとともに,何週間も激しく降り続いた雨が上がり,金曜日の朝,青々と晴れ渡った空から1万5,000人余の出席者の上に陽光が降り注ぎました。出席者数は二日目には1万7,000人に増え,公開集会に際して場内整理係の計算では2万3,150人の最高数に達しました。しかもそれには,大会場の周囲の路上に立って話を聞いたおびただしい数のカッセル市民は含まれてはいませんでした。同市の各新聞は「カール牧草地に集まった2万5,000ないし3万人の出席者」について報じました。
市長さえその大会に出席し,兄弟たちに短い演説を行ないましたが,市長は兄弟たちの働きに大いに感心させられました。良い天気に恵まれたので,二日目に大会会場を訪れたカトリック信者のある警察署長はその視察中,兄弟たちにこう言いました。「あなたがたは天上の神さまと本当に良い関係をお持ちのようだね」。それからちょっと間を置いてこう付け加えました。「私たちのそれよりももっと良い関係のようですな」。
この大会の数多くの印象的なできごとの一つは,出席者各人が「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と題する書籍1冊と,「すべての人々の喜び」という小冊子を2冊それぞれ無料で与えられたことでした。別の印象的な事柄は,野外奉仕でした。兄弟たちは特別列車に分乗して近くの町々すべてに行き,遠くパーダーボルンにまで赴いて働いたので,司教の住む同市はたった1日で完全に網羅されました。この大会では1,200人の新しい兄弟姉妹が誕生しました。
エホバの民が霊的な関心事を喜んで第一にした結果,平安と一致と増加がもたらされました。大会の月である7月中,3万3,741名の伝道者が奉仕を報告し,8月になるとその人数は3万6,526人に増え,同奉仕年度は83%の増加をもって終わりを告げました。会衆の数も増え,10月15日付で巡回区の新たな分割が行なわれ,今や巡回区の数は70になりました。
また,1948年にはウィースバーデンのベテルに初めて何台かの平版印刷機が設置されました。同時にブルックリンからの贈物である大量の紙の積荷が届いたので,大規模な印刷を開始することができました。長い間,2台の印刷機が昼夜兼行で運転されていましたが,多くの外部の人々は私たちがどうしてそれら2台の機械を入手できたのか不思議がっていました。当時,そのような印刷機を製作できる会社は一つもなかったからです。その印刷機はかつてのある大富豪のものでしたが,ダルムシュタットの爆撃のさいに相当の損傷を被りました。1945年になって,それらの機械の鉄製の部分がその富豪と彼の事務所の経営者の手で瓦れきの中から掘り出され,最初にその機械が製作されたライン河畔のヨハニスブルクの工場に運ばれました。仕事の材料を与えられて喜んだ従業員は,それらの機械を完全に修復しました。その間に,かつてのこの金持ちの印刷業者の秘書が彼の妻となり,次いで真理を学び,自分の影響力を利用して夫に働きかけたので,彼はそれらの機械を信じられないような安い値段で協会に売却しました。
それ以前でさえ兄弟たちはカールスルーエの小さな印刷所で1年半ほどの間毎月約4,000ないし6,000部の雑誌を生産することができました。それは国家社会主義政府所有の印刷工場でしたが,進駐米軍に接収され,ナチ政権による迫害を被った人々の手に任されることになりました。ベテルの成員はそうしたグループに属していたので,その小さな印刷所は,経営一切を自分たちで引き継ぐという条件で兄弟たちに引き渡され,使用されることになりました。エルウィン・シュウァフェルトはその印刷所を経営する責任を与えられ,私たちが自分たちの印刷工場で印刷の仕事を続けられるようになるまでその印刷所で「ものみの塔」誌の印刷を監督することになりました。
ただ一つの特別の問題は,どのように分配するかということでした。伝道者は月々増加しましたが,軍事政府当局はさらに多量の紙を私たちに与えることはできませんでした。そこで私たちは毎月新たな分配計画を立てねばなりませんでした。そうすることによって,伝道者は6人ないし7人につき1冊の割合で「ものみの塔」誌を入手しました。これもまた,ノア兄弟が当協会をアメリカ,ペンシルバニヤのものみの塔聖書冊子協会の支部組織としてウィースバーデンで正式に設立させるためあらゆる努力を払った理由の一つでした。そうすれば,研究資料に対する兄弟たちの増大の一途をたどる需要に答え応ずるためドイツ以外の場所から紙を早く供給できるのです。しかし,兄弟たちはまた,戸別訪問のわざに用いる文書をも必要としていました。1948年までは兄弟たちの入手できる出版物はごくわずかしかなく,それも主に小冊子類で,それらは1,2週間ずつ貸し出されていました。
1949年には紙の供給量が増大したので,印刷部数を相当増加させることができました。1949年1月1日号の「ものみの塔」誌は4万部印刷されましたが,その部数は増大し,4月15日号は8万部,5月1日号は10万部,そして5月15日号は15万部印刷されました。
ドイツの四つの地区全部で1947年の記念式の出席者数は合計3万5,840人でしたが,翌年は4万8,120人に増え,1949年の記念式の出席者数は6万4,537人に達しました。この面でも時には解決しなければならない問題が生じました。たとえば,ゲッピンゲンの近くのホルツハイムでは1948年の記念式の祝いは警察の「保護」を受けて行なわれました。どうしてそういうことが生じましたか。オイゲン・ミューライス兄弟はこう説明しています。「福音教会の牧師はその地方でチフスが発生したため,晩さんの祝いを執り行なうことを禁じられていました。今や,私たちが記念式を開く予定にしていた学校の主事は,記念式を中止させようとしました。保健課は集会を開く許可を私たちに与えてはいましたが,伝染病が広まるのを防止するため守るべき幾つかの制限を定めていました。それで,ある警官が派遣されて私たちの記念式の祝いに出席し,それらの制限が守られているかどうかを確かめました」。
1949年の初めにはウィースバーデンの印刷所は拡大され,8台の印刷機が使用され,そのうちの2台は昼夜兼行で運転されました。同年中にはやがて製本された書籍がおよそ150万冊ブルックリンから送られ,それらの書籍が配布された結果,新しい再訪問や聖書研究をより広範囲にわたって行なう基盤が据えられました。伝道者の隊伍は月々増大し,1949年の8月には4万3,820人が報告し,同奉仕年度中伝道者は33%の増加を遂げました。
共産圏の東ドイツにおける反対
第二次世界大戦の終わりにソ連軍によって占領され,ソ連軍政当局によって統治された東ドイツとベルリンの東部地区におけるわざの進展状況は,かなり異なったものでした。ソ連軍の将校の多くは,エホバの証人については,証人たちがナチによる残忍な迫害を耐え忍んだということ以外あまり多くを知りませんでした。最初は比較的に言ってほとんど干渉を受けませんでしたが,各地で会衆が繁栄し始め,多くの人々が王国の音信に関心を示し始めるにつれ,ソ連軍政当局にとって私たちのわざは手に負えないもののように思えたため,軍当局は私たちのわざに疑惑を抱くようになりました。軍政当局により助長された共産党の政治集会よりも私たちの公開集会にもっと大勢の群衆が詰めかけることがしばしばありました。
地方のソ連当局者は諸会衆および個々の伝道者の活動を公然と制限し始めました。キリスト教世界の牧師の中には,自分たちが共産主義者の良い友であることを示す機会を見つけた者もいました。それらの牧師たちは兄弟たちのことを当局に反対する者として,また神の王国を人類の唯一の希望として宣べ伝えることにより人々を動かし,東ドイツの荒廃した経済の回復を図る軍政側の努力に対する一種の消極的な抵抗を行なわせようとしているとして偽って中傷しました。
マクデブルクの協会の事務所で働く兄弟たちはそうした干渉を受ける事態に迫られたので,東ベルリンにあるソ連軍政部の本部と交渉することになりました。最初,兄弟たちの努力は,「一切の事柄を禁ずるか,さもなければ一切を許す」という普通に実施されている原則に基づいてあしらわれました。しかし,遂に兄弟たちは,エホバの証人は合法的な活動を行なっているということを認めた証明書を軍政本部から取得することに成功しました。そして,干渉を受ける事態が生じた場所ではその書類を呈示して問題の解決に役だった例が幾つかありました。しかし,他の役人たちは,本部は縁遠い存在で,自分たちこそ主人公なのだと考えているようでした。
終戦後,ドイツ帝国のかつての首都ベルリンは,四つの戦争国の連合軍により,半ば独立し,半ば相互関係を持つ行政管理の行なわれる四つの地区に分割されました。1948年に経済改革が始められた後,ソ連側がベルリンの西側地区の封鎖を強行するに至って,連合国側の不和は激化しました。西側の連合国は制御処置の及ばない空路の使用権を利用して封鎖線を突破し,“空中輸送路”を確立することによって,西側三地区内の住民に生活必需物資を供給しました。東西の合意が得られてソ連側が封鎖を解除した時までには,ベルリンは,共産主義支配下の東ベルリンとドイツ連邦共和国とある種の結び付きを持つ西ベルリンの二つに明確に分割された都市と化していました。
1948年にはライプチヒで地域大会が開かれる予定でしたが,ソ連軍事当局者は許可を出しませんでした。次いで,ベルリンの英国地区の美しい場所にあるワルトビューネ(森のステージの意)を使う計画が立てられました。しかし,大会に関連して困難な問題はとめどなく続きました。それは通貨改革や悪天候だけではありません。最も重大な問題は,東ドイツ全土の何千人もの人々がどうしたら封鎖されたベルリン市に入れるかということでした。しかし最後に私たちは特別列車を同市に送り込む許可を得たので,危機的な政治情勢にもかかわらず,初日にはほとんど1万4,000人もの人々が集まりました。三日目には1万6,000人余の人々が出席し,日曜日の午後の公開講演には2万5,000人以上の人々が出席しました。バプテスマによって献身を象徴した新しい伝道者は1,069人を数えました。諸国家の二つのブロックの間の闘争のまさに焦点を成す場所で,エホバはご自分の民のために肥えたものを食卓に供する情け深い主人役を勤めてくださいました。
共産主義支配下の東ドイツ,マクデブルクの協会の建物と地所はどうなりましたか。ワヒトルム(ものみの塔)街17-19番地の建物は1945年,戦後直ちに返還され,既に95%修復されており,またライプチヒ街16番地の建物は約90%修理されていました。兄弟たちは報酬を求めることなく自発的に奉仕して,破壊された建造物を建て直しました。1949年6月24日に行なわれたザクセン州政府の決定に基づき,フヒスベルク5-7番地およびワヒトルム街1-3番地の残りの建造物も協会に返還されました。同月,マクデブルクの支部事務所の世話を受けていた東ドイツの伝道者は合計1万6,960人に達しました。
聖書の真理に対する需要には相当のものがありました。旅行する監督たちからの報告によれば,伝道者がわずか3,40人の諸会衆の公開集会にしばしば100名ないし150名もの人々が出席しました。大都市での講演のさいの出席者数はしばしば1,000人を越えました。数多くの聖書研究が始められ,ある会衆では伝道者の聖書研究の平均は3.8に達しました。旅行する監督たちはいつも容易な時を過ごした訳ではありません。中には,借りた古い自転車に乗って旅行した人もいますし,そうした自転車の中には,ゴムのタイヤのない,鉄わくだけの車の自転車もありました。また,長距離の旅行をしなければなりませんでしたし,それに配給券の問題などもありました。ある巡回監督の報告によれば,労働事務所の発行した同兄弟の“説教者”としての身分証明書は期限を延長してもらえなかったとのことです。つまり,配給券をもらえなくなったのです。
別の巡回監督はこう伝えています。「講演のさいにはいつも数人のスパイが出席していました。ある時,兄弟たちは,私服を着て現われたある男の人がいったいだれなのかよくわかりませんでした。講演が始まる前に私はその人に近づいて,『お巡りさん,すみませんが,正確な時間を教えていただけませんか』と尋ねました。すると,彼は時間を教えてくれました。私からそのように呼びかけられても驚いた様子を見せなかったので,私たちは彼が私服警官であることを知りました」。
ソ連側とドイツの共産主義政府の役人の敵意は増大し続けました。1949年7月29日から31日にかけてベルリンのワルトビューネでは,東ドイツに住む兄弟たちのための地域大会がもう一度開かれることになりました。この大会は迫害の暗雲がしだいに募って暗い影を落とす中で行なわれましたが,それは全き心を抱いてエホバに仕え続ける兄弟たちの決意を示すものでした。大会の準備はできるだけ宣伝を控えて静かに行なわれました。それまでには既に東ドイツでは信教の自由に対する共産主義者の攻撃が何度か行なわれていました。たとえば,ザクセン州でのある巡回大会は最後のどたんばで中止させられ,暴力がふるわれたため何人かの証人たちが傷つけられました。
私たちは特別列車を8本取り決めることができました。およそ8,000人もの人たちは乗車券を得るために既に10万独-マルクを支払いましたが,出発するほんの数時間前になって特別列車は取り消されてしまいました。鉄道側は2週間経過するまで乗車券の代金の払い戻しを拒みました。何千人もの証人たちはまるで特別列車が中止されたことを聞くために駅で待っていたようなものでした。警察はベルリンに通ずるすべての道路を封鎖し,乗用車,バス,トラックなどあらゆる車を調べて,大会に行く人を捜しました。しかし,大会の最初の晩には少なくとも1万6,000人もの人々が出席し,日曜日の公開講演には3万3,000人余の人々が出席しました。敵はまるで我が身に不利な証言を自ら大々的に行なうために激しい攻撃や妨害工作をしたようなものでした。
私たちに対して取られた独裁的な処置はほどなくして知られるようになり,新聞社には招待状は出されませんでしたが,大勢の新聞記者が姿を見せ,共産主義者側が証人たちをベルリンに行かせまいとしたいきさつについて世間をあっと言わせるような記事を書きました。土曜日の晩,支部の監督エーリヒ・フロストは集まった何千人もの聴衆に向かって決議文を読みました。決議文はその同じ晩,ベルリンにあるアメリカのラジオ放送,RIASを通じて伝えられました。フロスト兄弟は次のような言葉で証人たちの勇敢な態度を要約しました。「ボルシェビズムは他の諸制度よりも優れていますか。共産主義者はヒトラーが始めたことを自分たちがし終えねばならないと信じているのでしょうか。私たちはナチを恐れなかったのと全く同様,共産主義者を恐れる者ではありません!」
ベルリンの地域大会で採択された決議には,民主主義および憲法に反する禁止措置と,ザクセン州における礼拝の集いに対する制限およびそのために用いる集会場の接収に対する鋭い抗議の言葉も含まれていました。この決議文は8月3日付の手紙を添えて,ベルリンにあるドイツのソ連軍政最高指導部に送られました。また,その写しは公職にある要人あるいは新聞,ラジオ放送局,ニュース機関その他と関係を持つ人々など4,176名の著名人にも送られました。それで,あらゆる人々が共産主義者の動向と真のクリスチャンの確固不動の立場に注意を向けるよう促されました。その大会から1か月経った後の8月には東ドイツのエホバの証人は,それまでの報告よりさらに568人も多い伝道者の新最高数に達しました!
エホバの証人の活動を阻止しようとする運動は高まり続け,いよいよその規模は大きくなってゆきました。信教の自由はますます制限され,聖書研究の司会を禁ずる禁令が出され,警官は礼拝の集いを解散させ,また兄弟たちはその信仰のゆえに公務員の職あるいは市役所の職場から解雇されました。1950年2月18日には真の信教の自由の保障を要請する請願書がドイツ民主共和国政府に提出されましたが,その結果,さらに多くの礼拝の集いが解散させられ,さらに多くの文書が没収され,主だった奉仕者数人が逮捕されるという事態が生じました。1950年6月27日,東ドイツのエホバの証人はオットー・グローテヴォール大統領に宛てたもう一通の請願書を政府に送りました。次いで,共産主義者による残忍な攻撃が加えられました。
1950年8月30日の早朝のこと,2人のソ連軍将校の指揮する共産主義政府の一群の警察官が私たちのマクデブルク・ベテルになだれ込みました。警官はある兄弟を“管理人”として留まらせただけで,他の兄弟たち全員を逮捕しました。マクデブルクのものみの塔協会に対してその活動を禁止する旨通達した内務省からの手紙は8月31日付になっていましたが,警察は“管理人”としてただ独りあとに残された兄弟に9月3日になるまでその手紙を提出しませんでした。
ベテルにいた姉妹たちが目撃証人として寄せた報告は,8月30日のその朝のできごとをこう述べています。「朝5時ごろ警報器が鳴りました。私はすばやく服を着ました。……私はドアを開けて階下に走って行こうとしたところ,二人の警官が私の前に立ちはだかり,部屋の中に留まっているようにと言いました。次いで,警官の一人が中に入って来て衣装戸だなを開くよう命じました。私は彼が身分証明書を見せるまでそうすることを拒みました。彼らはあらゆるものを破りました。……」。警官はどのようにしてベテル・ホームに侵入したのでしょうか。別の姉妹はこう述べています。「私は23号室の窓から外を見ましたが,一人の警官が門をよじ登っているのが目に入りました。他の警官は既に中に入っていました。夜警は彼らのために門を開けるのを拒否しました。私の推定では少なくとも25人から30人の警官が一団となっていましたが,だれも制服をつけてはいませんでした」。
当時マクデブルクのベテルで奉仕し,今もなお忠実にウィースバーデンのベテルで奉仕しているベンダー姉妹は,彼女の経験についてこう述べています。「1950年8月30日の朝,4時から5時の間に東ドイツの警官がベテル・ホームにやって来ました。全員自分の部屋に留まっていなければなりませんでした。午前10時ごろ私は一階のバルコニーの非常階段を降り,ベテルの建物と隣の建造物の間のへいをよじ登って越え,警官に見つからないようにしてベテルを脱出しました。路上には警官の立っているのが見えましたが,私は素知らぬふりをして隣の建物から外に出て,協会の書類の幾らかを預かっているある兄弟の家に行きました。そして,それらの書類を受け取った私は,ある兄弟の車に乗ってベルリンに向かいました」。こうして,ある記録類を無事に運び出すことができました。
文書はすべて没収され,協会のトラックごと運び去られました。台所に貯蔵してあった食糧も同様に運び去られました。ただ姉妹たちは配給券を所持することが許されました。ある目撃証人はこう伝えています。「その間に警察は ― 私たちが見ていると ― 兄弟たちを二人ずつ静かに連れ去って行きました。……」。
迫害の波は既に打ち寄せ始めていました。警官がある兄弟を逮捕するためにやって来たところ,何とその兄弟はかつてナチの収容所で強制的に着せられた「縞馬模様の縞のある囚人服」を着て,それらの警官を迎えました。そして,こっけいなまねごとの裁判が行なわれ,エホバの証人のわざは再び地下に追いやられました。
1950年に長い懲役刑の宣告を受けた兄弟たちの一人,ロター・ワグナーは,7年間にわたる独房監禁中,どのようにして誠実さを保つことができたかを次のように鮮かに説明しています。
「1950年8月30日,私はメクレンブルク州プラウで逮捕され,1950年10月4日,ベルリンのドイツ民主共和国の高等裁判所で懲役15年の刑を宣告されました。その後1956年のハンガリー動乱により私の懲役刑は10年に減刑されました。
「その10年の歳月(と,取調べを受けるために拘禁され,実刑から差し引かれなかった6週間を)私はブランデンブルク-ゲールデンの連邦刑務所で過ごしました。そして,1960年10月3日,同刑務所で釈放されました。
「その間,私は独房で7年間を過ごしました。最初の3年間,外の世界と接触できた唯一の方法は,毎月1回書いたり,受け取ったりするのを許された,タイプ用紙の半分ほどの大きさの紙に15行だけ書ける一通の手紙だけでした。―それも警察が文面を調べて許可した場合の話です。1958年までは仕事は特典とみなされていました。ですから私は働くことを許されませんでした。1958年以後は仕事は罰とみなされたので,私は働かねばなりませんでした。
「何年間も独房に監禁される人は,さまざまの苦しみと戦わねばなりませんが,中でも主要な敵の一つは時間です。時間を征服しなければなりません。
「私はこの時間という問題を次のようにして解決しました。一貫性は人を強めます。このことは時間についても当てはまります。合計15年という投獄期間全体を一単位とみなすと,その膨大な時間のために人はほとんど打ちひしがれてしまいます。なぜなら,それはまさに想像に絶するものがありますし,その計り知れないほどの長い時間はまるで怪物のように立ちはだかるからです。それで,時間を制し,時間を従わせるよう努めねばなりません。この世の支配者たちは従え得ないほどの大勢の人々を支配しようとする場合,しばしば,分割して支配せよ!という原則に従います。
「時間に関して私はこの原則を適用しました。私は時間を分けました。それを年や月,そうです,週や日でさえ数えず,むしろ,せいぜい何時間かの単位で数えました。朝,たとえば7時に私は,今日は何をしようか,ではなく,9時まで私は何をしようかと自問しました。
「すると突然,万事が異なって見え,1,2時間ほどの時間は恐ろしいものではなくなり,その程度の時間なら容易に制することができました。しかしなお別の問題がありました。それは何を行なって時間を費やせばよいかという問題です。紙や鉛筆は入手できませんし,現実の唯一の仕事は,独房をきれいにしたり食事を取ったりすることだけでした。たとえその両方を徹底的に,またできるだけゆっくり行なったところで,それだけでは一日全部を費やせるものではありません。当然のこととして,個人研究から国際大会,また戸別訪問の奉仕から公開講演に至るまで神権的な奉仕のあらゆる分野の事柄を想像して頭の中でできるかぎりそうした事柄にあずかりましたが,たとえありとあらゆることをしたところで,一日のうちにはしばしば,何もすることがない1,2時間の時間がありました。それは最も危険な時間でした。なぜなら,うっかりすると,あるいは失望したり意気消沈したりすると,1日がかりで苦労して順々に整えたものを容易に覆しかねないからです。
「ある日,私は『時計』を発見しました。それは私にとって何年もの間,そうした非生産的で危険な時間を有効に用いるのに役だちました。私は夕食までになお2時間残っていることを知ったのです。それで,独房の中を前後に5歩ずつ歩いて往復しながら王国の歌をうたいました。30番目の歌をうたい終わったとき,戸が開いて,食事が出されました。私は歌詞に注意を集中していたので,それだけの時間が経ったことにさえ気づきませんでした。このことを発見したおかげで私は何年もの間,単調で,意気消沈させられる事態を経験せずに済みました。それから数週間というものは,王国の歌を思い起こしてその全部を記憶することに専念しました。歌詞が正確にわからない場合には一,二節をとにかく自分で作りました。また,自分の好きなこの世の歌の曲を利用し,それに合わせて神権的な歌詞を考え出し,王国の歌を作りました。こうして遂には,王国の歌を100曲まとめて記憶し,それぞれに番号を付して歌えるようにしました。それらの歌はおのおの歌うのに正確に4分かかったので,ある長さの時間を過ごすには何曲歌わねばならないかを正確に割り出すことができました。何年もの期間を通して私は毎日少なくとも2時間,つまり王国の歌を30曲歌いました。このような訳で,時には,何もしたくないような場合,朝から晩まで一日じゅう歌っていることもできました。王国の歌には何と人を励まし,強める考えが収められているのでしょう。おのおのの歌の歌詞を筋書として用いれば,それぞれの歌を基にして容易に講演を行なうことができます。これも,霊的に打撃を被らずに時間を費やせる別の手だてとなります。確かに王国の歌は時に応じて供される食物と言うことができます。
「私はエホバの組織から切り離されていたその10年間,エホバの霊の助けを得たおかげで霊的強さを保ち得たことをエホバに深く感謝しています。私は私たちに与えられる霊的な食物すべてに対する正しい認識を表わすようあらゆる人に勧めたいと思います。というのは,それがいつか私たちにとってどのような形で価値あるものとなるかはわからないからです。時に応じて供される霊的な食物を定期的に摂取しているなら,私たちが非常に危険な時期に自分独りで立つ場合,そうした食物は私たちがエホバに信頼を置き,エホバの側に堅く立って耐え忍ぶのに役だちます」。
1955年9月1日から1961年8月31日まで協会は西ベルリンで美しい支部事務所を維持していました。その事務所を持っていたため協会は,分割された同市の特殊な事情により良い注意を払うことができましたし,同支部はまた,西ベルリンと東ドイツの間で組織上の密接なきずなを維持する優れた取決めでした。
東ドイツと東西両ベルリンに住むエホバの証人の間のそうしたきずなは,1961年に急に生じた,証人たち個人にとってはどうすることもできない一連のできごとのために不利な影響を被りました。戦後まもなく多くの人々が,たいていは東ドイツ政府の政策に不満を抱き,東ドイツを捨てて西ベルリンや西ドイツに去り,以来そうした難民の流出は増加の一途をたどりました。東ドイツ政府当局は国民の国外への旅行を許さなかったので,人々は難民としてひそかに「緑の国境」を越えて亡命しました。当局者は同「共和国からの逃亡」を禁ずる法律をいっそう厳しいものにするだけでなく,国境の取締りを強化し,列車内の乗客や路上の通行人を調べたりして難民のそうした流出を食い止める対抗策を講ずることに努めました。国境を越えて西ベルリンに入るのに比較的便利な方法は,ベルリンの東部地区から入る方法でした。1961年の前半の時期までには難民の流出は月に2万人に増え,7月には3万人を越えました。合計300万人の住民,つまり総人口の六分の一もの人々が財産や所有物を東ドイツに残したまま難民として西ベルリンや西ドイツに逃れ去ったのです。
さらに多くの人々が自国の領土から逃亡するのを阻止するため,共産主義政府当局は厳重な処置を講じました。1961年8月13日の早朝,当局は,平坦な「死の通路」や自動警報器を備え,いつでも狙撃できる見張りの監視する壁をセメントや有刺鉄線を用いて構築し始めました。その壁はベルリン西側の三地区と東ドイツとの全長120キロにわたる国境はもとより,同市の東西両地区の長さ50キロの境界線に沿って構築されました。そのために西ベルリンを囲む輪は締めつけられ,それまでの取締りにもめげず同市の二つの地区の間になお見られていた激しい交通は突如しゃ断されました。東ドイツに住むエホバの証人は西ベルリンへ旅行して文書を入手したり,同市にある支部事務所と通信連絡を取ったりすることはもはやできなくなりましたし,西ドイツで開かれる大会に出席することもできなくなりました。
もち論,文書を入手することはそれ以前でさえ容易ではありませんでした。東ドイツに文書類を持ち込むことは共産主義政府当局により禁じられていたので,そうすれば処罰の対象とされました。国境で取調べを受ける際,兄弟たちが協会の聖書関係の文書類を携行していることが見つかった場合には,長期間にわたる懲役刑を予期しなければなりませんでした。ですから,そうした旅行をするには,強い信仰とエホバに対する全き信頼が必要でした。
1950年に迫害が始まってから,1961年に「ベルリンの壁」が構築されるまでに東ドイツ当局は,2,897人のエホバの証人を逮捕しました。そのうち,674人の姉妹を含め,2,202人のエホバの証人が法廷に引き出され,合計1万2,013年に及ぶ懲役刑を,つまり一人平均5年半の服役刑を宣告されました。そして,投獄中に虐待,病気,栄養失調,老齢などのために37人の兄弟と13人の姉妹たちが亡くなりました。12人の兄弟たちは最初終身刑を課されましたが,後に15年の懲役刑に減刑されました。
東ドイツの兄弟たちは「ベルリンの壁」のもたらした新たな事態に早速適応しました。兄弟たちは必要な霊的な食物を供給する他の方法を採用し,たいへんな熱意をいだいてクリスチャンの奉仕の務めを続行しました。共産主義政府当局は明らかにそのようなことを予期してはいませんでした。当局者はスパイを組織に潜入させることに努め,それらスパイは,エホバの証人として知られている人々を訪ね,自分たちは変化した事情にわざを順応させるのを助けるべく協会から派遣された兄弟たちであると唱えました。しかし,兄弟たちはよく訓練されていたので,スパイとして潜入した人を直ちにそれと見破りました。
その後何年かのうちに,逮捕されて刑を宣告される兄弟たちの数は著しく減少しました。エホバの証人が新たに逮捕された件数は1963年にはわずか15件,1964年には9件にすぎませんでした。一方,それらの2年間にそれぞれ96人また48人の兄弟たちが長い刑期を終えて釈放されました。1964年の夏,何年間もの懲役刑を受けて投獄されていた4人の兄弟たちは意外な驚くべき事を知らされました。元々終身刑の宣告を受けていたそれらの兄弟たちは突然釈放され,西ドイツに送られたのです。ある大会にちょうど間に合うように西ドイツに着いた彼らは,夢見る心地でした。ほんの数日前までは,東ドイツの寒々とした連邦刑務所の中で,自由の身である兄弟たちと集まり合えることをただ夢見ていたのです。それが今や,心に秘めていたその願いが突然成就されるのを経験することになりました。それら兄弟たちのうちの二人,フリードリヒ・アドラーとウィルヘルム・エンゲルは,マクデブルクのベテルの家族の成員でした。フリードリヒ・アドラーは1950年に,わざが禁じられる2か月前に逮捕,投獄されました。一方,ウィルヘルム・エンゲルは1950年8月30日,ベテルが急襲された時に逮捕された人たちの一人です。エンゲル兄弟は病身だったため,ベルリン地区国境で赤十字当局に引き渡され,直ちに病院に運ばれましたが,数週間後その病院で亡くなりました。これらの兄弟たちは既にヒトラー政権の下で9年近くも投獄されていたので,こうして信仰ゆえに合計23年間にわたる投獄生活を耐え忍んだのです。フリードリヒ・アドラーは再び,このたびはウィースバーデンでベテル奉仕に従事しました。彼は既に1920年代の当時巡回する兄弟として奉仕していましたから,波乱に富んだ全時間奉仕のその長い生涯を回顧することができました。長年の投獄生活でからだをいためた同兄弟は1970年の12月,その地上の歩みを終えました。
1964年11月のこと,共産主義政府当局は東ドイツに住む兄弟たちに新たな打撃を浴びせました。その少し前から国民皆兵制が取り入れられていました。若い兄弟たちは兵役を拒否していましたが,一般的に言って思いやりをもって扱われ,そうした態度は尊重されていました。ところが今や突如として警察は早朝の暗闇に乗じて142名の兄弟たちを逮捕しました。彼らに対する取扱い方のこうした意外な変化は,それら若い兄弟たちの信仰を試すものとなりました。それらの兄弟たちは労働キャンプに入れられました。最初,兵役の代わりに“建設兵”として兄弟たちを働かせようとする試みがなされましたが,兄弟たちは一致結束してその仕事を拒否しました。兄弟たちは処罰をもものともせずに確固とした立場を保ったので,そうした強制的な試みは取り止められました。しかし,兄弟たちは鉄道を建設する重労働に従事し,朝の4時から夜の9時まで働かねばなりませんでした。仕事がない時は,エホバの証人の中の責任のある人々は西側の手先だということを思い込ませようとする教育を受けました。それら若い兄弟たちの大半は,わざが禁止された後に真理を知るようになった人々だったので,当局者は,無神論の共産主義思想が組織的に大規模な仕方で若者たちに教え込まれているにもかかわらず真のキリスト教の原則を恐れずに擁護する若い人々を見いだして仰天しました。
1965年中,治安維持を図る内閣のスパイや秘密機関により兄弟たちが監視され,悩まされる事件は急激に増加しました。多数の家が家宅捜索を受け,また兄弟たちは路上で呼び止められ,尋問されました。自動車や家,はては兄弟たちの寝室にさえ秘密の盗聴設備が据えつけられました。当局者は兄弟たちの挙動がいっさい当局に知られているのだという印象を兄弟たちに与えようと努めました。
もち論,当局は兄弟たちの悪意のない会話を“聞いて”さまざまの細かい事柄を探り出すのに成功しました。審問が行なわれる際には秘密警察は証人たちのわざに関して自分たちが収集した情報を,“資本主義世界”から入手したかのように見せかけることに努め,そのようにしてそれら証人たちがある程度無分別だったことを示唆しようとしました。そうすることによって,統治体や協会の事務所の兄弟たちに関する疑惑や不信の種を蒔くことに努めていたのです。しかし兄弟たちはそのために動揺させられたりはせず,時が経つにつれて自分たちの回りに張られたスパイ網がいかに厳重なものかをいっそうよく知るようになりました。
そのことは特に1965年11月のある日の早朝,東ドイツ全土の兄弟たちの家々が8人の警官の一団によってそれぞれ占拠され,数時間にわたって調べられた時に明らかになりました。そして,「首謀者」とみなされた15人の兄弟たちが逮捕され,9か月ないし13か月留置場に拘禁されたのち,遂に起訴され,裁判所に連れ出されました。1966年,彼らは懲役12年,平均すると7年余の刑を宣告されました。
それらの兄弟たちが危険な犯罪者のように取り扱われていた時,刑を課されたそれらの兄弟たちが行なっていたのと全く同様に良いたよりを宣べ伝え,小さなグループになってともに集まってエホバを崇拝していた他の人々を,秘密警察は捜して捕らえていました。そして,もし兄弟たちが ― 国家の安全のために ― 自分たちの活動に関する報告を提出し,奉仕の務めに携わっている人々の氏名を知らせるなら,引き続き小さなグループに分かれて集まり合ったり,聖書関係の文書類を所持したり,他の国々の兄弟たちとの連絡を保ったりすることができるようにしようと当局者が兄弟たちに申し入れました。しかし,兄弟たちは当局の不誠実な勧めを退けました。ある警官は,「われわれはお前たちの指導者どもを連れ去ったと考えていたのだが,今やお前たちのわざの実態をまんまと見失わされる結果に陥ったに過ぎない」と言って嘆きました。
1969年のこと,時が経つにつれて,1965年の運動で逮捕された15人の兄弟たちのうち14人がおよそ4年にわたる投獄生活を送った後,突然釈放され,大半は西ドイツに送られました。そのグループの最後の一人は,勝手な処置が取られて1970年の9月までもう1年間刑務所に拘留されました。
それ以来,秘密警察は戦術を変え,目下のところ普通の警察その他の国家機関を用いて兄弟たちに対して厄介な事を行なっています。ある地方の警察は,兄弟たちが宣べ伝えるわざを行なったり,集まり合ったりして治安を妨害したとして高額の罰金刑を課しています。しかし,多くの兄弟たちは憲法の保障する信教の自由に基づいて訴えを起こし,個人的に治安を妨害されたとする証人を目の前に出してもらいたいと要求することにより,そうした罰金の支払いを延期させることに成功しました。もち論,そのような証人は存在しませんでした。
他の地方では当局者は,兄弟たちを彼らの家から立ち退かせて標準以下の家に入れたり,低賃金の世俗の仕事に就かせたり,またさまざまの特別な職業訓練を若い兄弟たちに受けさせないようにしたりして兄弟たちに圧力を加えることに努めてきました。
「ベルリンの壁」が構築された1961年に東ドイツにおけるわざは外の世界から封じられましたが,それ以来何千人もの人々が良いたよりを聞き,真理を学んで献身し,バプテスマを受けてきました。それらの人々は,エホバの霊は人間の構築した壁や要さいをもってしても抑制できるものではないことを示す生きた証拠です。このようなわけで,23年余の間禁令下の非常に困難な事情のもとで働き,生活してきた東ドイツのエホバの証人は今やダビデ王とともに,『我わが神によりて垣をおどりこゆ』と言うことができます。―詩 18:29。
功を奏した宣べ伝える特別の運動
その間,西ドイツでの一般の人々は王国の音信に再三再四大いに注目させられていました。1949年の「ものみの塔」運動は,何万人もの人々の家庭に霊的な食物を定期的に届ける基盤を据えるものとなりました。「ものみの塔」研究の出席者も,関心のある人々もすべて,「ものみの塔」誌を予約購読するよう勧められることになりました。私たちは目標を達成したでしょうか。1949奉仕年度には5万9,475件もの予約が得られ,以来その記録はいまだに一度も破られたことがありません!
神の王国の重大な音信を一般の人々の眼前に掲げるもう一つの方法は,雑誌を用いる街頭のわざでした。その活動もまた,牧師たちにとっては苦痛の種でした。カトリックの優勢なババリア州では,法律や交通法規を作って街頭での雑誌のわざを阻止しようとする試みがなされました。ある幾つかの宗教団体が妨害されたと感じていると唱えられたのです。しかし,1954年にババリアとヘッセン両州が警察当局者全員に対し,エホバの証人の行なっている奉仕は法的に制限すべきものではないとの声明書を出すに至って,それら宗教諸団体は沈黙させられてしまいました。
1956年の7,8月の夏の期間,未割当て区域全部に王国の音信を伝える特別の運動が計画されました。兄弟たちは前例を見ないほどの熱意をこめて働き,未割当て区域全体の少なくとも80%を網羅しました。同年,西ドイツで良いたよりの奉仕者の訪問を受けなかった人はまずいませんでした。とは言え,しばしば,それもとりわけ田舎の地方では反対に遭いました。そのことは次のような報告からもよくわかります。「村全体が騒然となりました。若者たちは私たちの跡について来て家々を回り,人々に私たちを即座に追い帰えすように仕向ける魂胆で私たちを紹介しました。その村全体ではただ1冊の書籍さえ配布できませんでした」。
1週間後,その同じ会衆の伝道者たちは,同じ区域の別の村で働きました。伝道者たちは鉄道の駅に集合して日々の聖句を一緒に討議し,次いで証言の際に用いる紹介の言葉について話し合いました。すると,ある男の人が一行に加わって話を聞き始めました。そこで,その男の人に対して,エホバの証人が戸口で行なうような仕方で証言がなされました。兄弟が話し終えたところ,その見知らぬ人は財布を取り出して,「それらの本を求めたいと思います」と言いました。たまたまそうだったのですが,その男の人は,1週前に兄弟たちが書籍をただの1冊も配布しなかった村に住んでいる人でした。牧師が依然としてある程度の影響を村人に及ぼしている田舎の地方では反対を受けたにもかかわらず,それら2か月間に前年の同期の場合よりも書籍は166%,雑誌は60%も多く配布されました。
こうした運動のほかにも,冊子や小冊子を配布する特別の運動がありました。ニューヨークで行なわれた1958年の「神の御心」国際大会では印象的な決議が採択されました。そして,同年の12月にその決議文を全世界で配布する計画が立てられ,50か国語で7,000万部の決議文が印刷され,ドイツでは700万部印刷されました。それらの冊子は,ごく短い紹介の言葉を述べて直接家の人に手渡されました。カトリックの優勢な地方では,配布されている冊子の内容を知った司祭たちが村人に警告を発したりしました。しかし,4週間にわたって熱心な活動を行なった後,兄弟たちは歓喜すべき理由を見いだしました。なぜなら,それは新しい人々が野外の奉仕の務めに初めて携わる良い機会だったので,たいていの会衆は伝道者の10ないし50%の増加を報告でき,西ドイツ全体では11.6%の伝道者の増加がもたらされたからです。
「教えられた者たちの舌」を与えられる
喜んで物事を行なう大勢の働き人がエホバの組織に続々入って来るにつれ,エホバはご自分の『忠実な奴隷』級を通して,老若を問わずそれらの人々すべてに必要な訓練を与える備えを設けられました。その結果として,エホバのしもべたちは,「教えられた者たちの舌」を持てるようになりました。(イザヤ 50:4,新)これは増加に寄与するものとなりました。世の人々もまた,そうした訓練が証人たちにもたらした効果に注目してきました。たとえば,ある新聞は,レクリングハウゼンで行なわれた朗読コンテストで11歳のインゴ・リュッカーが優勝したことを報じ,次のように述べました。「驚いたのは局外者だけであろう。というのは,基本的に言って彼の勝利を阻むものは何もなかったからである。11歳のインゴ・リュッカーは,エホバの証人の宣教学校で,3年間にわたってコンテストに備えて有利な得点を得ていたのである。……彼は,これまた宣教学校に出席している一少女との間で決勝戦に至るまでずっと接戦を演じたとはいえ,ヨゼフ・スクールの最優秀朗読者であった」。レーラハの会衆を訪問した,ある巡回監督はこう書いています。「火曜日の晩のこと,ある特別のことが起こりました。姉妹たちが割当ての語をしましたが,その時,思いがけないことにある高齢の姉妹が演壇に行きました。その姉妹はノートも何も持たず,ただ聖書だけを手にして流ちょうな話し合いを行なっただけでなく,話し方の原則をもすべてよく守って話しました。その姉妹に会ってお年を尋ねたところ,姉妹はほんの2,3週間前に90歳を過ぎたばかりですと答えました」。
こうした漸進的な訓練を施す重要な備えの一環として1960年11月13日には,会衆の監督たちに進んだ訓練を施すため,王国宣教学校の最初のクラスが開かれました。今ではその学校は拡張されて,ウィースバーデン,ハンブルクそしてミュンヘンの三箇所で開かれています。
証しを行なうことに著しく寄与した大会
ドイツでエホバのみ名を知らせ,王国の伝道者を増し加えさせる点で大会は重要な役割を演じてきました。出席者9,000人を迎えてニュルンベルクで開かれた戦後最初の大会や1948年のカッセル大会以来,10万人余の出席者の集う現代の大会が行なわれるようになるまでには数多くの組織上の改変が加えられ,諸問題が解決され,また新しいアイディアが開発されました。
1951年8月24日から26日までフランクフルト・アム・マインで開催された「清い崇拝」大会には24か国から出席者が参集しました。しかし,3万4,542名の出席者が金曜日の朝その大会に出席できるようになるまでには,種々の問題を解決するため,はらはらさせられながら相当の時間を費やす一幕がありました。それはどんな性質の問題でしたか。同市のある大規模な炊事施設で大会の食事の煮炊きが行なわれる約束だったのですが,大会の期日がいよいよ近づくにつれ,その施設の管理者側はそうするのをだんだん渋るようになりました。どうすればよいのでしょうか。そこで協会はガスや石炭それから蒸気用のそれぞれ容量300リットルの大型湯わかし51基を購入し,独自の炊事場を建てました。ところが,それら湯わかし全部をガス用に切り替えるのに必要な資材が入手できなかったため,全部蒸気用に切り替えなければなりませんでした。非常な苦労をして廃品業者から買い入れたパイプ類をつなぎ合わせて溶接するには何日も要りました。湯わかし器の中には金属壁が紙のように薄いものもあったので当てがねをつけなければなりませんでした。次の大問題は,必要な蒸気をどこから入手するかということでした。私たちはフランクフルトの鉄道会社と交渉して,用いられなくなった側線に置かれていた機関車を使用させてもらえるようにしました。しかし,その機関車は低圧の蒸気を出すことはできなかったので,その蒸気の圧力を24分の1に減圧させる方法を見つけなければなりませんでした。こうして遂に問題は解決され,蒸気が入れられると,それら蒸気湯わかし器は15分以内で煮炊きを行なえるようになりました。新聞記者は私たちが行なった事に驚嘆しました。この事に関する新聞報道とあいまって,兄弟たちが熱心に宣べ伝えるわざを行なったこととが貢献して,「宗教は世界の危機に対処できますか」と題するノア兄弟の行なった公開講演に4万7,432人もの聴衆が出席するという成果が得られました。
1953年の大きなできごとは確かに,「新しい世の社会」大会です。ニュルンベルクでは大量宿泊施設のための38の大テントが設置されました。また,一般市民の私室を借りる試みも行なわれましたが,それは同市の牧師たちにとって問題を引き起こすものとなりました。ニュルンベルガー・エバレゲリッシェン・ゲマインデブラット紙は,「エホバの証人の大会に警戒せよ」と題する記事を掲げて,一部次のように報じました。「福音主義教会の一部教会員が,訪問するエホバの証人に対して誠実な気持ちからではあるが無料の宿舎を提供しているため,特別の問題が生じている。宿舎を提供した人々はたいていの場合,そうした招待を取り消すよう教会当局から要求された」。しかしこれはやぶへびに終わりました。というのは,そのためにかえって多くの人々がなおいっそう喜んで私たちに宿舎を提供するようになったからです。
2年後,大規模な「勝利の王国」国際大会が同じニュルンベルク市のゼッペリン牧草地の同じ場所で開かれました。それは非常に印象的な大会でした。その大会には62か国からの出席者が集いました。また,並はずれた堂々たるステージが広大なゼッペリン牧草地を見おろしていました。そのステージの設けられた壇全体は全長300メートルに及ぶ壮大な石造建造物で,上部はその全長300メートルにわたって144本の石柱の林立する通廊となっており,その通廊に達する傾斜面は,ステージのある中央部を除いて全体が75段の階段状に造られていました。
ホテルや個人の家庭から宿舎を求めたほかに,3万7,000人分の膨大な宿舎を供するためのテントを張りめぐらした巨大な都市が設けられ,それぞれ600人の人々が眠れる大型テントが張られ,わらをいっぱい入れた袋が枕として用いられました。
金曜日の午前中に大規模な仕方でバプテスマが行なわれ,4,333人の人々が水の浸礼によって献身を象徴しました。それら新しい兄弟たちの中には東ドイツから来た人たちが何人かいました。というのは4,000人ほどの人々が東ドイツからその大会に来ていたからです。金曜日の晩,大会出席者たちは,共産主義政府の運営するラジオ放送の番組を通じて,ニュルンベルクあるいはベルリンの大会に出席した東ドイツからのエホバの証人はすべて帰国と同時に逮捕されることになろう,という脅迫放送を聞きました。しかし,何千人もの出席者はそのためにおびえたりはしませんでした。
広く宣伝されたノア兄弟の講演にどれほど大勢の人々が出席したでしょうか。8月20日付のノイエ・イルストリールテ誌はこう伝えました。「かつてヒトラーが『エホバの証人』を一掃してみせると断言した,その“ゼッペリン草原”は埋めつくされた」。それもそのはずで,10万7,423人もの聴衆が「間近に迫った,神の王国による世の征服」と題する講演を注意深く聞いたのです。ニュルンベルクからは2万人余の市民が来ていました。そして,会長が閉会の言葉を述べ始めたとたんに雨が降り出し,それもどしゃぶりになりました。しかし聴衆は席を立とうとはしませんでした。そして,ノア兄弟が話し終えた時には雨はやんでいました。次いで,出席していた人たちにとって決して忘れられない事が起こりました。壮大な虹が天空に現われたのです。それはそれは感動的な光景でした! ノア兄弟は別れのあいさつにハンカチを振りました。すると,それに答えて,会場の敷地全体はまるで一面に白い花が波のように揺れ動く草原のような光景に一変しました。多くの人々は目に涙を浮かべていました。そして,信仰の面で強められ,将来の奉仕のためにより良い備えを受けた何千人もの出席者は家路につきました。
次の大規模な国際大会は1961年にドイツ最大の港湾都市ハンブルクで開催されました。少なからぬ数の厄介な問題が解決されました。大きな問題は大会のための場所でした。それはハンブルク市最大の公園内に位置しているただの広大な芝地(広さ8万平方メートル)でした。大会が始まると同時に雨が降り出し,ほどなくして草地は泥の原と化しました。しかも,雨は大会の初日から最後の日に至るまで降り続けたのです! 何万人もの人々が毎日大会場に続々と詰めかけて,かさをさして話に耳を傾けるさまを見るのは感動的なことでした。新聞記者やカメラマンにとっては驚くべきことでしたが,確かにその大会は雨や泥のために重大な影響を受けたりはしませんでした。ハンブルガー・モルゲンポスト紙はこう伝えました。「それら出席者はほとんど皆,泥と雨の中にいてさえ喜びを表わしているのである。人は彼らのこうした良さを認めねばならない。彼らは多彩な服装をしており,その中には驚くほど多くの若い人々がまじっている。……」。ある警察当局者は大会の事務所から派遣された一代表に次のように語りました。「これはハンブルク市でこれまでに開かれた最大の大会ですが,万事順調に行くかどうかについて私たちは少しも心配していません。私たちがいなくても皆さんは容易に仲よくやってゆけるということを私たちは知っています。しかし,私どもの部下にとって良い訓練になると思いますので,皆さんのところに部下を送りますが,このことに賛同していただけるでしょうか」。
東ドイツからの数千人の兄弟たちがこの大会に出席しましたが,彼らにとってこれが大会に出席する最後の機会となりました。その数日後,「ベルリンの壁」が構築され,また鉄のカーテンはいっそう堅く閉ざされたからです。
雨のため,公園の芝生は台なしになりましたが,大会が終わった後,兄弟たちの手でその空地全体に表土が敷かれ,芝生が植え直されました。今や同公園は以前よりもずっと美しくなりましたが,それはハンブルク市の当局者および一般市民のために行なわれたのです。その公園の草原が植え替えられた様子や雨の中で私たちの兄弟たちが辛抱した様子は,ハンブルク市民に深い感銘を与えました。
1963年,世界を一周する「永遠の福音大会」が行なわれたとき,旅行する出席者の一行は,ババリア州の首都ミュンヘンに着きました。このたびはテレジアン草地が私たちの“王国会館”代わりに用いられました。
大会それ自体はもとより大会の準備の仕事は,ミュンヘン市の当局者や実業家を含め,同市の人々に深い感銘を与えました。大会会場で勤務するよう配置された一警官はある兄弟にこう言いました。「私はここにいるのが好きですよ。楽な気持ちでおれますね。私は皆さんの誠実さや率直さが好きです。それは2年前にここで開かれた聖体大会とは正反対です」。率直に意見を述べる正直な観察者はしばしばこの種の比較を行ないました。こうした印象は持続するものです。3年後のことですが,ミュンヘンの一実業家がある兄弟に語ったところによると,ミュンヘンのある大きなデパートのその仲間の従業員は,同市で大規模な大会が開かれると決まって万引きが増えるということに気がついたそうです。それで彼らは私たちの大会の際にもそうした事態を覚悟していたところ,この大会は何らそのような影響を及ぼさなかったので,それらの従業員はたいへん驚きました。彼らにはどうしてもその理由がわかりませんでした。ですから,それ以前の他の大会すべてと同様,この「永遠の福音」大会はエホバのみ名,その目的,またその民のことを知らせるのに貢献するものとなりました。
良いたよりはあらゆる国々の人々に宣べ伝えられなければならない
ドイツは良いたよりが宣べ伝えられなければならない世界的な畑のほんの一部分にすぎません。(マルコ 13:10)ものみの塔ギレアデ聖書学校は,宣教者を訓練し,この世界的な畑のさまざまな部分に派遣する点で非常な成果を収めてきました。ドイツに派遣されたギレアデ第一期生,フィリプ・ホフマンは1949年に到着しました。
その後,1951年にはさらに4人の卒業生がやって来ました。彼らはいま当時を回顧して,自分たちがベテルに姿を見せたとき,フロスト兄弟がどう感じたかを思い起こしてはよく笑っています。同兄弟は仕事を手伝ってもらうためギレアデの卒業生を何人かドイツに送って欲しいとノア兄弟に依頼していました。しかしフロスト兄弟がそれら4人の卒業生を見たとき,彼らは4人とも20代に入ったばかりだったので,同兄弟にとってはまるで少年のように思えたに違いありません。その後何年かの間に結局,合計13人の外国からの宣教者がドイツで働く割当てを受けましたが,そのうち11人が依然幾つかの国で奉仕の務めに全時間従事しており(もう一人の姉妹は20年間忠実に奉仕した後,1972年に任命地で亡くなりました),それら11人のうちの9人は今もなおドイツでベテルの仕事や旅行する奉仕者としての仕事に忙しく従事しています。そのうちの3人は1956年に翻訳部門がベルンからウィースバーデンに移された時,スイスから移って来て今でも翻訳者として奉仕しています。
アリス・ベルナーは長年奉仕してきたしもべたちのそのグループの一人です。では,彼女がどんなに興味深い生涯を送ってきたかについて姉妹に簡単に話してもらいましょう。「私は1924年1月にスイスで開拓者になり,全時間奉仕を始めました。しかし,約6か月後,チューリヒのベテルに呼ばれました。その後まもなく私たちはベルンの新しいベテル・ホームに移りました。そこで私は何年かの間にさまざまの部門の仕事に従事しました。1932年,私は新しい割当てを受けてパリに赴きましたが,フランス当局から永住査証がもらえなかったので,一時フランスを去ってベルギーで開拓奉仕をしなければならなくなったため,フランスでの奉仕はある期間妨げられました。こうして約3年ほどパリに留まりました。1935年,協会はブラッセルで催された国際博覧会に参加したので,私はその博覧会場の文書のスタンドで奉仕する特権を得ました。そこからベルンに呼び戻された私は,その後10年間再びベルンで働き,1946年,第8期生としてギレアデ学校に入学するようにとのすばらしい招待を受けました。その後再びスイスに戻って楽しい奉仕を10年間続け,それから私たち3人は新しい割当てを受けてドイツに移りました。私はエホバへの奉仕を行なって数々のすばらしい機会に恵まれ,幸福で豊かな人生を送れるようにしてくださったエホバのご親切すべてに対してエホバに感謝したいと存じます」。ベルナー姉妹は毎日翻訳の仕事を続けながら,ベテルの家族の成員に今なお励みを与える人として仕えています。
ドイツの多くの兄弟たちは,この国に送られた宣教者たちに刺激され,自分たちもギレアデ学校に入って宣教者としてのわざに携わりたいとの願いを抱くようになりました。今日までにドイツ出身のギレアデ卒業生は183人になりました。そのうち29人は帰国して特別開拓者,旅行する奉仕者あるいはベテルの家族の成員として奉仕しており,他の人々は全地に散在する各地の新しいホームに送られて働いています。
ギレアデ学校に入学したいと考えている人たちのためには,英語に関する知識の向上を図る一助としての特別の取決めが設けられました。1973年の春までにはドイツでは英語を話す会衆が16組織され,伝道者は450人,全時間奉仕者として働くしもべたちは130人に達しました。それでギレアデに入学する準備をしている人たちは,それらの会衆に割り当てられて集会に参加し,英語を話す人々のいる区域に行って野外の奉仕の務めに携われるよう取り計らわれています。1967年に英語を話す会衆が初めてウィースバーデンに組織されて以来,250人ほどの人々がバプテスマを受けました。
過去数年間にドイツからはおよそ95人ほどの特別開拓者がヨーロッパやアフリカの国々に送られ,そこで特別開拓者としての仕事を続けています。中には,必要とする外国語の知識を持ち合わせていないのに,外国の野外で奉仕することに喜んで応じた人々もいます。それにしても,それらの人たちは援助を必要としている国々で奉仕できるよう,喜んで特別の努力を払って新しい言語を学びました。たとえば,4人の特別開拓者はアフリカのチャドに派遣される前に,ウィースバーデンのベテルで1週間のフランス語の特訓を受けました。当然のことながら,その任命地でもフランス語を引き続き勉強しなければなりませんでしたが,やがてフランス語で用が足せるようになり,アフリカのまばゆいばかりの太陽のもとで奉仕の務めに引き続き携わってゆけるようになりました。
また近年,他の土地から大勢の人々がドイツに移って来ました。経済面でにわかに景気がよくなってきたため政府は外国人労働者を導入することに決めたので,提供された相当の額の給料に引かれて大勢の“移住労働者”がやって来ました。1962年にはイタリア,ユーゴスラビア,ギリシャ,トルコ,スペインそしてポルトガルから既に70万人もの労働者がドイツにやって来て就職しましたが,そのほとんどの国では宣べ伝えるわざは非常な困難のもとで行なわれていました。私たちにとってそれは新たな活動分野を供するとともに,その分野は拡大し続けました。1972年9月の統計によれば235万2,392人の外国人労働者がドイツで就職しており,たとえばそのうちの47万4,934人はユーゴスラビアから,また51万1,104人はトルコから来た人々です。
多くの兄弟たちはそれらの人々が王国の音信を聞いて理解するのを助けられるようになるため,喜んで外国語を学びました。それら移住労働者の間の真理に対する渇望は実に大きなものだったので,多くの興味深い経験が得られました。ある巡回監督はスペイン語の文書を少し入手し,比較的短時間のうちに100冊余の小冊子と書籍を6冊配布したことを報告しました。彼はこう述べています。「私が小冊子を提供したスペイン人の大多数は,私が携えていた15種類の小冊子すべてを求めました」。
やがて外国語を用いる会衆が組織され,その最初のものとして1962年5月1日にギリシャ語を話す会衆がミュンヘンで設立されました。1973年5月までには,ギリシャ語を話す1,560人の伝道者は二つの巡回区に分けられました。1964年にスペイン語を話す最初の会衆がフランクフルトに,またイタリア語を用いる最初の会衆がケルンにそれぞれ組織されました。1973年の夏までにはスペイン語を用いる巡回区には660人の伝道者が交わり,またイタリア語を用いる巡回区は1,000人の伝道者に加えて全時間奉仕を行なう45人のしもべを報告しました。また,ドイツにはトルコ語およびユーゴスラビア語を話す人々の群れもあります。それら大勢の人々にとって,それまでドイツで追い求めていた“経済上の楽園”は,それよりもずっと価値のある“霊的な楽園”に変わってしまいました。
それら私たちの新しい兄弟たちの多くは真理を学んだ後,自分たちの親族や近隣の人々に真理を伝えたいとの願いに満たされて故国に戻りました。たとえば,シチリア島出身のある兄弟は1965年10月にケルンでバプテスマを受けましたが,同年12月には自分の家族のもとに行き,当然のことですが家族や親類や知人すべてに真理について話しました。翌1966年4月末に彼は旅券に判を押してもらうためドイツに戻らなければならなくなりました。しかし彼は,真理に非常に深い関心のある人々を4人見いだしたので,それらの人たちとの研究を続けるため直ちに家に帰らなければならないと報告してきました。彼の目標はその郷里で会衆の書籍研究を始めることでした。その村では宣べ伝えるわざがそれまでに一度も行なわれたことがありませんでした。そこから最寄りの一エホバの証人の住んでいる所まではおよそ100キロも隔たっていたのです。
ベテルの家族の目から見た ― 拡大
エホバの証人により宣べ伝えるわざがドイツじゅうで行なわれてきた結果,ウィースバーデンにあるものみの塔協会の支部事務所も絶えず忙しく仕事を進めてきました。兄弟たちの用いる文書類はここから供給されているので,兄弟たちはこの支部事務所に深い関心を抱いており,大勢の人々がベテル・ホームと印刷工場を見学するためにやって来ます。受付けで働いている兄弟に尋ねるなら,特に休日になると,何千人もの訪問者がベテル・ホームや印刷工場内をどのようにして案内され,見学するよう世話されているかについて説明してくれるでしょう。ある時は4,000人余の人々が訪れ,建物の前に51台ものバスが立ち並びました! 外国からの兄弟たちもまた立ち寄っては私たちの所を訪ねて楽しい一時を過ごしてゆきます。何年か前のことですが,ある紳士がベテルを見学し,そのあとで聖書研究を始めるよう励まされました。そして,その紳士とベテルのある兄弟との間で文通が続けられ,後日その人は真理を受け入れ,バプテスマを受けて全時間奉仕を始め,そして今日では巡回監督として奉仕しています。
実際にベテルで生活し,働いている人たちは何年もの間に数多くの祝福を享受してきました。それらの人々は協会の施設の拡大,取り組まれる新たな仕事,特別の準備活動などを見てきましたが,そうした活動すべての中心地にいることは彼らの特権です。時にはやはり他の人々にも助力が要請されてきました。
たとえば,1951年から同52年にかけての冬の時期には支部の施設の拡張を図るため,新たな増築工事が開始されました。そのために兄弟たちは風雨や雪の中でも1日じゅう,時には夜遅くまで忙しく働き続けました。その仕事を助けるために約20人ほどの兄弟たちがベテルに呼ばれました。また,ベテルの家族の成員の多くも通常の仕事を終えた後,晩には建築工事に携わりました。
ベルンにあるスイスの支部事務所から一台の輪転機が到着した時は本当に大喜びしました。ただし,それは単なるありきたりの輪転機ではありません! それは1928年の昔,マクデブルクの支部事務所で書籍を印刷するのに最初に用いられた印刷機だったのです。ナチ政権が禁令を下した後,その印刷機はチェコスロバキアのプラハに運ばれ,次いで数年後そこからベルンに運ばれ,こうしてナチの手に落ちるのを免れました。今やその印刷機はもう一度ドイツの支部事務所に戻り,相当の年月を経たにもかかわらず今日でもなお忙しく書籍を印刷していますが,雑誌なら1時間に7,000部まで印刷できます。
喜びをもたらすもう一つの理由となったのは,1953年1月8日付で32ページの「目ざめよ!」誌がドイツ語で刊行されたことです。その号を皮切りにドイツでも「目ざめよ!」誌が配布され始めました。同誌は雑誌配布のわざに対する兄弟たちの熱意を増し加えさせるのに大きく寄与しました。
ウィースバーデンのベテル・ホームは拡張し続けました。1956年の伝道者最高数は5万530人で,文書はおよそ130万部配布されました。次の奉仕年度の伝道者の最高数は5万6,883人でした。ノア兄弟は1956年11月の末にウィースバーデンに着き,24時間足らずのあわただしい訪問を行ないました。理由ですか? 1957年5月1日号の「ものみの塔」誌英文に発表された報告の中でノア兄弟自らその理由をこう説明しています。「ここでもやはり訪問の目的は拡張問題と取り組むことでした。現行のベテル・ホームと印刷工場は小さ過ぎるので,建築技師である一兄弟を呼びました。私たちはその兄弟と一緒に,もっと大きな工場とベテル・ホームを設計する仕事に一日じゅう取り組みました。協会はウィースバーデン市から幾らかの地所を購入することができ,また相当の話し合いを行なった後,市当局は私たちがある道路の位置を変えることに同意したので,道路を新しい建物の向こう側に移し,現在の建物の真向かいに今度の新しい建物を建てることができるようになりました。……その建物は天井が高いので天井までの垂直空間が十分あるゆえ,目下建造中の数台の新しい印刷機を設置するに足る十分大きな建物となります」。
飲み物を出して執り行なわれる因習的な“棟上げ祝い”(建物の骨組を完成した後になされる祝い)の代わりに,工事現場の労働者や工事関係者のためにおいしい食事が用意され,ベテル・ホームの食堂で出されました。それらの人々は白いテーブルクロスを掛けた食卓につき,ベテルの兄弟たちの給仕を受けました。また彼らは,その建物の目的やエホバの証人の活動の大要に関する話,そしてその建築計画の財政面の問題はどのように取り扱われているかに関する説明を聞きました。ベテル家族の成員は音楽の余興番組をも披露しました。それで,それら招待客のほとんどはエホバの証人とその活動について全く異なった見方を持ちました。出されたたいへんおいしい食べ物やすべての人が平等にもてなされた仕方は,ウィースバーデンの建築工事労働者の間ではその後何年間も語り草となりました。その祝いの終わりには出席者各人に書籍と小冊子が1冊ずつ贈られました。偏見を持っていたためにその夕食に出席しなかった労働者のある人たちは翌日やって来て,贈物の書籍だけでももらえまいかと尋ねました。その食事に出なかったのは彼ら自身が悪かったのですが,贈物の出版物の助けにより霊的食物を取り入れるかどうかは今や彼ら自身が決めるべきことでした。
1959年1月にはいろいろの部門が新しい建物に移り始めました。
その間に,工場の監督,グンター・クンツが述べるとおり,「私たちは書籍や雑誌その他の印刷物を生産する,より優れた施設を引き続き受け取りました。1958年には,以前スイス,ベルンで使用していた製本用の機械を受け取り,1日に5,000冊まで製本できるようになりました。年月が経つうちに,ノア兄弟は,既に約40年間も使用してきたそれらの機械の大半を新しい機械に取り替える許可を与えました」。こうして,1973年までには書籍の生産を大いに増やせるようになりました。
生産管理事務室の兄弟たちが一度行なった計算によれば,1966年末の何か月間かに印刷された「バビロン」の本6万1,622冊,「神が偽ることのできない事柄」の本50万796冊,そして9万8,885冊の年鑑をおのおの積み上げたとすると,高空はるか15キロの高さに達するだろうとのことでした。それは実に感動的な業績でした。必要な文書類を諸会衆に供給するため,生産活動はしばしばフルスピードで行なわれました。1968年の春には「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」と題する本の生産を完了するのを助けるため,22名の特別の働き人が一時的にベテルに呼ばれました。製本部門は二交替で仕事を進め,毎日1万冊の書籍を生産しました。それらの書籍は直ちに諸会衆に発送され,5月の運動期間中その新しい本を野外で用いて,この問題に関する真理を人々に知らせることができるようにされました。そうした苦労は報われました。私たちは13万6,525冊の書籍を配布し,1963年以来の最高数を記録したからです。
1968年にノア兄弟はウィースバーデンに二度訪れました。その最初の訪問は6月に行なわれ,ノア兄弟は1台の新しい輪転機と製本用の新しい機械3台が私たちの工場のために購入されたということを発表して家族の成員を喜ばせました。その後まもなくそれらの機械のうちの2台が据え付けられ,運転されるようになりました。11月の訪問にさいしてはノア兄弟は,印刷工場でそれまで私たちが行なっていた仕事の量を増やす大がかりな取決めを設けました。兄弟たちは二交替で働き始め,約15人から20人の兄弟たちは夜勤をすることになりました。ノア兄弟は霊性を維持することの重要性に私たちの注意を喚起したので,夜勤を行なう兄弟たちの益のため特別の会衆が組織されました。さもなければ,それらの兄弟たちは集会に出席することができなかったでしょう。それら兄弟たちの集会は日中に行なわれました。こうして,書籍の生産はスピードを増したので,私たちはオランダ,デンマーク,ノルウェーそしてスウェーデンの兄弟たちのための書籍の生産を引き受けることができました。また,ほかにも新しい機械が購入されたので,二交替で毎日およそ2万冊の書籍を生産できました。1969年もまた,生産がフルスピードで行なわれ,いまだかつて達成されたことのない数々の最高記録を達成する,これまた忙しい,しかし産出的な一年になるのは必至でした。
「終わりはまだ先のことですか」,これは1969年4月8日号のドイツ語の特別号の「目ざめよ!」誌の表題でした。諸会衆からは注文がひっきりなしに殺到したので,ますます多くの雑誌を印刷しなければなりませんでした。事実,私たちの印刷工場では1,024万1,250冊の雑誌が印刷されました。二交替勤務のどちらの側の兄弟たちも残業をさえ喜んで行ないました。というのは,雑誌のほかにも膨大な量の書籍をも印刷しなければならなかったからです。(1969奉仕年度の終わりまでには,1966年度の場合の6倍に当たる334万3,304冊の書籍が生産されました。)私たちの印刷機械類は実際四六時中働き続けました。数か月の間,私たちは二交替で働き,二交替で食事を取り,また二交替で眠りました。それは非常に忙しい時でしたが,同時に満足のゆく幸福な時でした。
開拓者の係りで働いていた兄弟は,4月に1,959人の正規開拓者のほかに1万1,454人が一時開拓者として活発に奉仕したのを知ったとき,非常な喜びを味わいました。
1969奉仕年度中には,約4,000万冊の文書 ― 雑誌,書籍そして小冊子 ― が生産されました。雑誌や書籍その他さまざまの文書類をおよそ2,000トン発送するには,もち論相当の費用が要ります。それで,そうした費用を切り詰めるため,1959年12月3日から私たちは自分たちのトラックで文書類を配達し始めました。一番最初からこの部門で働いてきたアルベルト・カムはこう述べています。「警官,給油所の要員,税関当局者,私たちがちょっと車を止めて道を尋ねるさいの見知らぬ人など,どこの人々も私たちがトラックに何を積んでいるのかを知りたがります。トラックには『ものみの塔』と『目ざめよ!』誌がぎっしり詰め込まれていると告げると,いつも人々は仰天します。話のついでに,私たちはこのような大型トラックを5台,そしてもう少し小型のを2台持っており,それらのトラック全部に雑誌をいっぱい積んで運んでいるということを話そうものなら,人々は驚き入った表情を示します。そういう時には,しばしば良い証言を行なえます。2週間後に戻ってみると,多くの人々は,『ものみの塔』誌がどうしてまたもや運ばれて来るのか依然納得しかねています」。
ウィースバーデンは中心部に位置しているので,私たちのトラックはドイツ国内の11のルートを走ります。長距離の旅行では,約1,200ないし1,500キロほどの距離を走ります。そして,トラックはそれぞれ1年に約7万ないし8万キロ走破します。ウィースバーデンで印刷される書籍はまた,ルクセンブルク,オランダ,ベルギー,スイスそしてオーストリアにも配達されています。
1969年には印刷工場での仕事がフルスピードで行なわれると同時に,ベテルの建物の改築工事が行なわれ,古い建物の屋根裏の部分が改築されて新しい部屋が13作られました。ベテルの兄弟たちが一時的に自分たちの時間や体力そして能力を用いてその改築の仕事を行ないました。それらの部屋で使うベッドや用だんすその他の家具類はベテルの木工部門で製作されました。
そうした改築工事が行なわれたにもかかわらず,ベテル・ホームはなお小さ過ぎました。1970年5月にノア兄弟とブルックリンの印刷工場の監督ラーソン兄弟が約1週間にわたって私たちの所を訪問しました。ベテル・ホームと印刷工場とを視察調査したノア兄弟は,その施設を拡張することがわざの発展にとって最善の策であるとの決定を下しました。これは1969年の秋に新しい支部の監督として奉仕し始めたリチャード・ケルゼイにとって相当の仕事を意味しました。主要な建築工事の請け負い契約はある建設会社との間で結ばれましたが,内装工事は兄弟たちの手で行なわれることになりました。新しい部屋に設置する家具類の製作は,木工部門のフェルジナント・ライターがその一切を引き受けました。それはライターにとって何も目新しい仕事ではありませんでした。というのは,1947年の昔,彼は既に,現在の古い建物がほんの外郭しかなかった時に窓や戸を取り付ける仕事を助けて完成させた経験があったからです。その間に多少年を取りましたが,80歳になったにもかかわらず(ベテルの家族の中で二番目に高齢ですが),彼はなおいたって達者で,毎日働き,良い模範を示しています。若い兄弟たちは,「フェルジナント兄弟についてゆくのは容易ではありません」とさえ言っています。
こうした拡張はほんとうに必要でした。1971年4月には伝道者は8万9,706人の新最高数に達し,また同年の記念式には14万5,419人もの人々が出席しました。6月には1954年以来の奉仕時間の平均の最善の記録を得ました。そして,1971奉仕年度の終わりまでには聖書や書籍,小冊子や雑誌を合計1,900万冊配布しました。これは西ドイツと西ベルリンの各家庭に聖書研究の手引きを平均1冊配布したことを意味します。
1972年2月11日は記念すべき日となりました。なぜですか。その日の午前10時に「新世界訳聖書」の最初のドイツ語版がブルックリンから届きました。私たちの喜びは何と大きなものだったのでしょう。さっそく5月と6月に聖書運動を行なう手はずが整えられました。諸会衆は新世界訳に関する発表をおのおのの区域内の新聞社に提供しました。こうして掲載された新聞記事は,あらゆる人々の注意を「新世界訳」に向けさせるのに寄与しました。そして,「『新しい聖書翻訳』を求めて殺到する人々」「9万6,000人の奉仕者,『聖書運動』を展開す」「エホバの証人はあらゆる家庭に聖書を1冊持って来る」と言うような見出しの記事が出ました。種々の宗教新聞や宗教雑誌さえ反応を示し,教会員の注意をこの聖書に向けさせるよう独自の仕方で助力しました。たとえば,ウュルテンベルクのエバンゲリッシェ・ゲマインデブラト紙はこう述べました。「異例なことに,そのドイツ語版は100万部印刷されている。ここドイツにおけるルーテル聖書の需要は年間およそ50万部である。確かにエホバの証人は今後何年かにわたる聖書に対する自分たちの需要を満たすことを計画しているのではない。証人たちの勤勉な働きぶりからすれば,この新しい出版物を一度の大規模な運動のために用いるものと予測されている。……その聖書の値段はわずか5独マルクに過ぎないうえ……それを買い求める人は聖書研究を行なうよう勧められ,またその聖書を提供する側は,それを買う人の家庭でなされるそうした研究の司会を申し出るのである」。カソリッシェ・ゾンタクスブラト紙も同様の記事を掲げました。「新世界訳」の発表ならびに配布はほんとうに1972奉仕年度のハイライトとなりました。
1973奉仕年度が始まる時までには,西ドイツおよび西ベルリンで良いたよりをふれ告げる人々の数は9万5,975人に達し,それらの人々の必要に答えるための文書の生産量は最高数を記録しました。同奉仕年度中に17冊の異なった新しい書籍がウィースバーデンの印刷工場で印刷,製本されました。そのあるものはドイツで用いるため,また他のものはスカンジナビア諸国やオランダで用いるための文書でした。わずか1年間で書籍の生産が合計350万冊余に達した時のベテルの家族の感激のほどを想像していただけることと思います!
しかも,それらの出版物を求めた人たちの生活には良い結果が現われてきました。たとえば,12歳になるある少年は,学んだ事柄から非常に深い感動を受け,母親と自分との聖書研究を司会していた証人に野外の奉仕の務めに連れて行って欲しいと願い求めました。もち論,その証人は,そのためにはまず最初に大いなるバビロンから出て教会員の名簿から自分の名前を除いてもらわなければならないことを説明しました。するとその翌日,事の緊急性を感じた少年は学校の休憩時間に市役所に行き,必要な申請書に要件を記入しました。同市役所の職員はその時問題を取り扱う余裕がなかったので,別の時間にもう一度来るよう少年に話しました。その日の午後,授業が終わった後,少年は市役所にまた行きました。すると,職員はまたもや少年の要件の処理を延ばそうとして,申請書には母親が署名しなければならないので,また別の時に来るようにと言いました。ところが少年は,電話で母親を呼んで,すぐ市役所に来るよう伝えて欲しいとしきりに職員に頼みました。職員はその母親を電話で呼び出しましたが,いつか都合の良い時に少年と一緒に市役所に来て問題の手続きをするようにとだけ提案しました。それを聞いた少年はそうした勧めに承服できなかったので,受話器を通して大声で言いました。「そうじゃないんです,お母さん,今すぐ来てください!」母親は年下の息子を連れてさっそくやって来ました。そして,申請書に全部記入し,署名した母親は言いました。「それじゃ,私たちはここにいるのですから,私たちも教会から脱退することにしましょう」。
協会の支部事務所の兄弟たちは同年中寄せられてくる報告を深い関心を抱いて見守りました。西ドイツにおける記念式には合計15万313人,また西ベルリンのそれには7,911人もの人々が出席しました。そして,バプテスマを受ける人々の人数は月々著しい増加を見せ,7月までにはその人数は前年の同期の3,812人に比べて5,209人になりました。1973奉仕年度の終わりまでにはその人数はさらに増え,エホバの側についた人々は合計6,472人に達しました。その時までには,西ドイツと西ベルリンでは合計9万8,551人もの人々が神の王国を人類に希望を与えるものとして公にふれ告げるわざにあずかっていました。
地に平和 ― しかしそれは神の王国によってのみもたらされるもの
1939年の昔,アドルフ・ヒトラーは,彼の率いるナチ党の結成記念日のための標語として「平和」という言葉を選びました。そして,その「ナチ党の平和の日」のための記念硬貨や特別の記念切手が発行されました。しかし,その祝典は大戦勃発のために取り止めになりました。その30年後に当たる1969年の8月,ニュルングベルクの「ゼッペリン草地」,すなわち30年前に「ナチ党の平和の日」が祝われることになっていたその同じ場所で,エホバの証人の「地に平和」国際大会が行なわれたのです。
その大会では合計13万人もの出席者のために何らかの形で宿舎が備えられました。それを可能にするために,1年も前に証人たちは6万平方メートル余のテントを借り入れ,大型テント48基を設置できるようにしました。また,1年半ほど前にニュルンベルク市に依頼して,同市の学校や室内競技場を全部宿舎として使用させてもらうよう手配しました。また,前の年の初秋には簡易食堂の下準備の仕事も進められました。
大会が始まった時,78か国から出席者が集いました。大会のプログラムはドイツ語だけでなく,ギリシャ語,クロチア語,オランダ語,スロベニア語そしてトルコ語で進められました。大会場では地球上のあらゆる場所からの人々が相会し,平和裏にともに住み,クリスチャンの兄弟愛のきずなによって結ばれた暖かい関係を享受しました。
かつてナチ党の指導者たちが立って「千年統治」を夢見た巨大な石造りの壇から,ノア兄弟は15万645人の聴衆を前にして「近づく一千年の平和」と題する公開講演を行ないました。しかし,同兄弟は,人間が行なえると唱える事柄を夢見るよう聴衆を励ましたのではありません。永続する平和を人類にもたらす唯一の方法,すなわち神のみ子,イエス・キリストの治める神の王国のことを指摘していたのです。そして,同兄弟は,平和のその時代の到来が間近に迫ったことを聖書から示したのです!
神の勝利に対して備えをする
エホバの証人は,神があらゆる敵に対する勝利を収める時が眼前に迫っているとの確信を抱いて,「神の勝利」という主題を強調する1973年の一連の国際大会を計画しました。それらの大会の二つがドイツでも開かれ,少なくとも75か国から出席者が参集しました。その大会の最後の日にジュッセルドルフのライン・スタジアムで行なわれた「神の勝利 ― 苦悩する人類にとってそれが意味するもの」と題する講演には6万7,950人が出席しました。ミュンヘンのオリンピア・パークで行なわれた5日間にわたる同様の大会のその同じ講演には7万8,792人が出席しましたから,出席者数は合計14万6,742人に達しました!
ヒトラーが“ビアホール一揆”を起こして政権を獲得しようとしたのは50年前のミュンヘンでのことでしたが,今やヒトラーとそのナチ政体は去りました。しかし,増加の一途をたどるエホバの証人は引き続き確信を抱いて神の王国の勝利をさし示しています。
また,1972年のオリンピックに多くの国々の選手が出場して競争を行なったのもやはりミュンヘンでのことでした。その行事は“平和の祭典”と呼ばれましたが,世の多くの人が当時を回顧してまざまざと思い起こすのは,世の国家主義的闘争を反映させた流血の惨事です。そのことを想起した一記者はミュンヘナー・アンツァイガー紙上でこう述べました。「『神の勝利』大会の始まる前日,同会場のスタジアムの観客のいない階段座席に立って,そこで喜んで働いている(全部で7,000人ほどの)援助者たちの姿に感銘を受けた私は,思わず1972年9月5日のできごとを回想せざるを得なかった。その時,暴力と殺人行為がこの会場に忍び込んだのである。今日,自己の確信する所に従って,善良な,そして気高いことを行なうよう同胞を奮起させているのは,これら忠実な信者たちである」。エホバの証人はそのオリンピア・パークに出席して競争し,自分や自分の国家が他の人々や他の国々よりも優れていることを示そうなどとはしませんでした。むしろ,彼らは「平和を与えてくださる神」『エホバのみ名によって歩んで』います。エホバに対する愛ゆえに彼らは多くの国々からこの大会にやって来たのです。また,彼らはその同じ愛に動かされて,一致団結して神のみ名をあがめ,あらゆる非難が一掃されて神のみ名が立証される日を待ち望んでいるのです。―ローマ 15:33。ミカ 4:5,新。
これらの大会では,私たちは各自,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』ことがいかに肝要かが強調されました。その「日」は神がよこしまな人たちに対する裁きを執行し,ご自分のしもべたちに報いをお与えになる日であり,それは神の勝利の「日」なのです。(ペテロ第二 3:11,12)また,証人たちは,「エホバの日」が到来した時,もし神の恵みを享受するのであれば,イエス・キリストに見倣って,自分が世に対する勝利者であることを個人個人実証しなければならないということをも思い起こさせられました。(ヨハネ 16:33)証人たちは世の人々の仕方に従って物事を行なって世の型にはまって形造られるのを許してはなりませんし,自分の無関心な態度あるいは世の人々の反応に対する恐れのために神の意志を行なうのを差し控えたりしてはなりません。
エホバの証人は,神の勝利が今や間近に迫っているゆえに今は宣べ伝えるわざで手をゆるめるべき時ではないという気持ちをこの大会で強められましたが,証人たちはそうした気持ちを捨てませんでした。それとは逆に,残されている時間を十分に活用するよう激励され,またそれを用いて仕事をする手だてとなるものを供給されました。「人類にとって時は尽きようとしていますか」と題する冊子を国際的な規模で大々的に配布する計画の大要が示されました。また,「神の千年王国は近づいた」という感動的な表題を付した新しい本が備えられました。証人たちはまた,理知あるあらゆる被造物が直面する問題,つまり宇宙主権の大論争に焦点を当てた「真の平和と安全 ― どこから得られるか」と題する本をも入手しました。そして,証人たちは既にそうした情報を他の人々と分かち合っています。エホバの証人はこの混乱した世の中でどんな状態が生じようともそれにはかかわりなく,神の王国の良いたよりを宣べ伝えて,神から与えられた自分たちのわざを急いで行ない続けるとの決意を固めています。
ドイツのエホバの証人は他の場所の証人たちと同様,何年間かにわたって試されてきました。彼らにとってそれは決して意外なことではありませんでした。彼らは自分たちの主であり,主人であるイエス・キリストがよこしまな人々の手から迫害を受けて苦しまれたことを知っているので,同様のことを予期しています。(ヨハネ 15:20)エホバの証人は論争点をはっきり理解しています。証人たちは,悪魔サタンがエホバの主権の正当性を疑って挑戦してきたことを知っています。エホバに仕える人たちは神に対する何らかの愛ゆえにではなく,個人的な利得を目当てにして利己的な考えから仕えているのだと言ってサタンは公然と非難してきました。ひとたび圧力を受けるなら,人間はだれひとりとしてエホバの主権を忠節に擁護することはできないということをサタンはほのめかしてきました。そして,神と人間とに逆らうその敵対者は,彼に屈服する人間を用いて,この論争における自分の言い分の正しさを示そうとしています。―ルカ 22:31。
それとは対照的にエホバの証人は,自分たちの持っているもの,また将来に対する自分たちの希望はすべてエホバの過分の親切によるものであることを認識しています。証人たちは創造者に対する純粋の愛に動かされて,どんな個人的な犠牲を払おうとも,神に対する誠実さを実証することを特権とみなしています。彼らの多くは,不敬虔な世と妥協することを拒むがゆえに職業や家を失う経験をし,中にはわが子や自分の伴侶を失った人もいます。また,ある人々は鋼鉄製のむちで意識を失うまで打たれたり,飢えのために死んだり,銃殺されたりしました。
しかし,そうした事柄すべての結果として,だれが勝利者となりましたか。それは悪魔ではありません。また,その支配下にある世の人々でもありません。それはほかならぬ,唯一真の神とそのみ子に信頼を置いてきたエホバのクリスチャン証人です。使徒ヨハネが書き記したとおりです。『神の子はみな,神を認めない世に勝つ勝利者です。世に勝つ勝利者とはだれでしょう。イエスを神のみ子と信ずる者ではありませんか』。(ヨハネ第一 5:4,5,新英語聖書)確かにある人々は神の敵の手にかかって死にました。しかし,それらの人たちは天の王国でキリストとともに治める共同相続者となる希望を抱いていましたし,キリストの臨在しておられる時代に生きていたのですから,彼らは「一瞬に,またたくまに」復活させられて,不滅の天的な命を受け ― 世に対して勝利を博したのです。(コリント第一 15:51,52)神の新秩序で地的な命を受ける希望を抱く他の人びとは,偽ることのできない神により,その王国の義の支配の下でよみがえらせていただけるとの確信を抱いて,一時的に死の眠りにつきました。さらに幾千人もの人々は神の助けを得て,サタンとその見える手先から浴びせられた残忍な猛攻撃に生き残りました。それらの人たちの多くは今なお生き長らえて,依然良いたよりを宣べ伝えており,エホバに対する忠節さをなおも実証し続けています。しかも,彼らは今後の日々たとえどんな試みに直面しようとも,そうした忠実な歩みを保ち続けることを決意しています。
この報告を読むすべての人々がそれによって忠実に忍耐するよう励まされますように。霊感を受けて記された,使徒パウロの次のような言葉を銘記してください。『患難にあっても歓喜しましょう。患難が忍耐を生じさせることをわたしたちは知っているからです。かわって,忍耐は是認を受けた状態を,是認を受けた状態は希望を生じさせ,その希望が失望に至ることはありません。神の愛が,わたしたちに与えられた聖霊を通して,わたしたちの心の中に注がれているからです』。(ローマ 5:3-5)皆さんが神の愛に答え応じ,そのような気持ちに動かされて,今や間近に迫った神の勝利に対して全き確信を抱きつつ,神の意志を行なうことを生活の中で最も重要なこととされますように。
[196ページの図版]
ザクセンハウゼン強制収容所
親衛隊員のバラック
点呼の行なわれる中庭
独房の建物
隔離施設
[197ページの図版]
ガス室
処刑場
シラミの駆除施設
[218ページの図版]
ものみの塔協会がウィースバーデンで購入した建物
[245ページの図版]
ウィースバーデンのものみの塔協会のベテル・ホームと印刷所,1973年
[252,253ページの写真]
ジュッセルドルフの「神の勝利」大会(上)の出席者は6万7,950人で,ミュンヘンの同大会(下)の出席者は7万8,792人