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人間の救いは神の立証の次ものみの塔 1958 | 1月15日
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の人の亡びるのをも欲せられず,むしろ全部の人が悔い改めるようにと欲しておられるのである』ヱホバは人間の救いに関心を持つておられます。彼は決して悪人の死によろこびをもたれません。神はむしろ全部の者が迷いを悟り,悔いあらためて救われるのを欲しておられます。神は人間がそれをなすよう十分の時間を与えておられます。しかし,約束された破滅は必ずやつて来るのです。―ペテロ後 3:4,9,新世。
立証は救いを含む
約束はまだあります。それは,この古い世の破滅の次に来るものです。即ち,『わたしたちは,神の約束に従つて,義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる』その時人間は,地球を非常に美しくして,輝かしい状態に保ち,その中に棲息する動物たちを管理し,人間種族で地を満たすという特権を与えられます。そして他にも想像しがたい程の多くの祝福を与えられることでしよう。その時の状態の簡単な描写を読んで下さい,『見よ,神の幕屋が人と共にあり,神が人と共に住み,人は神の民となり,神自ら人と共にいまして,人の目から涙を全くぬぐいとつて下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去つたからである』。―ペテロ後 3:13。黙示 21:3,4,新口。
ヱホバは,御自分の御名に誓つて,彼の御言葉,聖書の中にこのことを約束されています。また神は,正義の宿る新しい世界,この地球は永久に存続すること,また地球は永久に人間の住家であること,イエスを私たちの贖として受けいれることにより救われてその中で永久に生きることなどを約束されました。これらの約束は,神が御自分の御名に誓つてなされたものですから,必ず成就されなければなりません。さもなければ,これらの約束は神の御名によつて云われた嘘言となり,神の御名を汚すものとなるでしよう。神は,彼の御名を負う人々が御名を汚すことを禁じておられるくらいですから,神御自身が,約束を成就しないことによつて,御自分の御名を汚すということは決してされません。嘲笑者たちが疑つたり嘲つたりしていたこれらの約束を成就することは,神の御名を立証することの一部であります。これらの約束の中のあるものは,人間の救いに関するものですから,従つて,従順な人々の救いはヱホバの御名立証の一部になります。立証は救いよりもより重大なものですが,それには,ちようどヱホバの御名によつてなされたあらゆる約束の成就が含まれているように,救いも含まれているのです。神の御約束は成就されないでなおざりにされるということは決してないのです,『天より雨くだり雪おちて復かえらず,地をうるおして物をはえしめ萌を出さしめて,播く者に種をあたえ食う者に糧をあたう,如此わが口よりいづる言もむなしくは我にかえらず,わが喜ぶところを成し,わが命じ遣りし事をはたさん』― イザヤ 55:10,11。
ですから,ヱホバの証者が,ヱホバの聖名の立証を強調する時,証者たち自身とまた他のすべての人類にとつて絶対に必要な救いを軽視しているのではないのです。彼らはまずヱホバの立証を最も重要なものとし,救いをその正当な第二義的な地位におくことによりつまり,それぞれを正当な場所におくことによつて立証と救いの正しい均衡を保つているだけのことなのです。人間でさえも自分の名誉を汚すよりは死をえらぶことによつて,生命よりも名誉を重んじるということが度々あります。若し人間の名が彼の生命よりも重要なものであるならば,神の御名が人間の生命よりも重要なことはいうまでもないことです! イエスは,神に対する愛を第一の重要な誡命とし,人間に対する愛を第二番目におかれました。またイエスは,彼の追従者たちに教えられた模範的な祈の中でも神の御名の神聖さを最初におかれています,『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように』ですからあなたがこの祈を捧げる時に,やはりあなたも神の御名とその神聖さと立証を最初においていることになります。また,この祈を捧げることによつてあなたもまた,人間の利益を神の立証の次においていることになります。―マタイ 6:9; 22:37-39,新口。
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神学校の教育ものみの塔 1958 | 1月15日
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神学校の教育
「命令の下で」という本の中にウイリアム・エル・サリバンはこう書いています。『神学校は未熟な心を持つ人が行く処であり,その心は未熟のまゝに留められた。教会は円熟しており,それで十分であつた。間違うことのない両親の言葉を繰り返していさえすればよい子供と,我々は全く同じであつた。この方法は実際の用に十分足りたのである。重苦しい無活動や教会の退屈な儀式のために,心が必要であろうか。我の心の中の中には,次の考えが潜在していた。つまり,独立心のある知的な人が宗教を深くまた公平に研究しようと決意するなら危険に遭うという事である。』
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