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“旧約聖書”― 今日のクリスチャンに必要かものみの塔 1977 | 5月1日
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クリスチャン聖書はこのような預言を西暦一世紀に適用するにとどまらず,当時から見て遠い将来にまでその適用を延長しています。例えばイザヤ書 65章17節によると,神はこう預言されました,「われ新しき天と新しき地とを創造す 人さきのものを記念することなく之をその心におもひ出ることなし」。これは西暦前537年,ユダヤ人がバビロン捕囚から復帰した時に最初の成就を見ました。大祭司ヨシュアの補佐を得てゼルバベルが行使した総督の権を象徴的な「新しい天」として,これら復帰したイスラエル人はその下で「新しい地」すなわち新しい,義の支配に服する新しい社会を構成しました。―ハガイ 1:1,14。
しかしクリスチャン聖書の筆者がこの預言をどのように用いているかに注目してください。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすでに過ぎ去っており」。(啓示 21:1)さらに真のクリスチャンは霊的な啓発という栄光のパラダイスに導き入れられたゆえに,元来はバビロン捕囚からのユダヤ人の復帰を予告した預言にある地的な祝福のすばらしい描写は,現在の事物の体制の「終末の時」に適用されるのであって,このような適用の仕方は聖書から見て根拠のあることです。―ダニエル 12:4。
“旧約聖書”はクリスチャンにとって真に意義深いものです。それは原則,預言,預言的な歴史の,つきない倉であり,今日の真の崇拝にその必要なことは,それが最初に書かれた時と比べて少しも減少していません。確かに「聖書全体は神の霊感を受けたものであり…有益です」― テモテ第二 3:16。
『エホバの法はまたくして霊魂をいきかえらしめ エホバの証しはかたくして愚かなるものをさとからしむ エホバの訓諭はなおくして心をよろこばしめ エホバの誡命はきよくして眼をあきらかならしむ エホバをかしこみおそるる道はきよくして世々にたゆることなく エホバのさばきは真実にしてことごとく正し これを黄金にくらぶるも おおくのまじりなき金にくらぶるもいやまさりてしたうべく これを蜜にくらぶるも蜂のすのしたたりにくらぶるもいやまさりて甘し なんぢの僕はこれらによりて戒めをうく これらをまもらば大いなる報いあらん』― 詩 19:7-11。
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読者からの質問ものみの塔 1977 | 5月1日
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読者からの質問
● ローマ 10章12節で言及されている「主」はだれのことですか。主イエス・キリストですか,それとも主エホバのことですか。
ローマ 10章12節にはこう書かれています。「ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。すべての者の上に同じ主がおられ,このかたは自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです」。文脈から,ここで言われている「主」がだれを指しているかをはっきりさせることはできません。
幾世紀にもわたって,聖書学者たちの間では,パウロが主イエス・キリストを意味していたのか,それとも主エホバを意味していたのか,という点で意見の一致が見られませんでした。ローマ 10章9節の言葉は明らかにイエス・キリストを指して主と呼んでいますし,ローマ 10章11節に見られる,「彼に信仰をおく者はだれも失望させられない」というイザヤ 28章16節からの引用文もイエスに当てはまります。ですから,ローマ 10章11節がローマ 10章12節にある主と直接結び付けられるなら,ここで主と言われているのはイエス・キリストであるということになります。
一方,パウロは,ローマ 10章9節で,「神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせる」ことについて述べています。この言葉は,エホバ神に対する信仰も救いのために肝要であることを示しています。さらに,ローマ 10章13節では,ヨエル 2章32節を引用し
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