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すべての人が公正に扱われる ― いつ,またどのようにものみの塔 1977 | 5月15日
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が,「公正によりまた義によりそれを固く据え,また支える」という保証を与えられています。(イザヤ 9:6,7,新)権威を行使する他の人々についてはどうですか。イザヤ 32章1節(新)は,彼らが「公正のために君として支配する」ことを叙述的に示しています。古代イスラエルでそうであったように,王国の支配の下でも,すべての人に当てはまる同一の法,あるいは司法制度が存在するようになります。
今日と同じように,不公正な扱いが横行するようなことがありますか。イザヤ 26章9節(新)は,それに対する否定的な答えを,こう述べています。「地に対し[エホバ]から裁きがある時,義を産出的な地の住民たちは必ず学ぶ(のです)」。
『なるほど,しかしそれを拒む人々はどうなるのですか』と考える人もいることでしょう。ウイルソン教授の述べるとおり,『邪悪な人間は存在している』からです。「全地をさばく者」である神は,公正と義を学び,それを実践する意志のある人々だけが生き残るよう取り計らうと約束しておられます。―創世 18:25,口。イザヤ 26:10。詩 37:9-11。
「犯罪を引き起こす性格」について研究している二人の博士は最近次のように語りました。
「犯罪をなくすために必要とされているのは……よりよい住宅やありきたりの治療法などよりも,むしろ犯人が全く新しい生活様式に“転向”すること,そして厳格な道徳教育である。……彼らの出した結論に従えば,社会復帰には……『犯罪者の性格を完全に破壊すること……』が必要である」。
それこそ,神の新秩序での命を得る資格にかなうために,以前の悪行者たちが行なわねばならない事柄です。すなわち,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格」を着けることです。(エフェソス 4:24)そしてそれは,神の王国の支配下で行なわれる教育計画の一環となるに違いありません。それによって,公正な規準に従う意志のある人は,生きて行くためのその公正の規準に従って歩めるようになります。(イザヤ 2:3,4)ですから,すべての人が公正に扱われる時は,必ず到来するのです。
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聖書の‘語呂合わせ’から益を得るものみの塔 1977 | 5月15日
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聖書の‘語呂合わせ’から益を得る
聖書には語呂合わせが含まれています。つまり原語のヘブライ語で発音が同じで意味の異なる語を用いて要点を強調することが行なわれています。これらは翻訳の場合,認めるのが困難ですが,脚注または欄外の参照によってその存在が示されている場合もあります。明らかにこのような語呂合わせは,読み手あるいは聞き手に音信を深く銘記させるのに役立ちました。わたしたちがそれに気づくならば,それが使われている聖句はいっそう意義深いものとなるでしょう。
例えばエレミヤ記 1章11-13節の次の聖句を考えてごらんなさい。「[エホバ]の言葉がまたわたしたちに臨んで言う,『エレミヤよ,あなたは何を見るか』。わたしは答えた,『あめんどうの枝を見ます』。[エホバ]はわたしに言われた,『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行なおうとして見張っているのだ』」。(口,[文語訳])
「あめんどう」の木と「見張っている」ことと一体どんな関係があるのか,人は尋ねたくなるかもしれません。原語では語呂合わせが関係しています。ヘブライ語であめんどうという木の名前は「目ざめさせるもの」という意味です。あめんどうは冬眠期のあと最初に花をつける木のひとつであるゆえに,これは適切な名称です。
ここに挙げたのは,聖書に多く見られる語呂合わせのひとつに過ぎません。もし脚注あるいは欄外に参照のある聖書を使っている方であれば,それらを見落とさないように脚注あるいは欄外の参照を調べてごらんになると,興味深い,そして有用な発見を何かするかもしれません。
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