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疑いに悩まされる世にあって確信を抱くものみの塔 1980 | 11月1日
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疑いに悩まされる世にあって確信を抱く
「エホバに信頼を置き,エホバが確信となってくださった壮健な者は祝福される」― 聖書
『穏やかで上品な懐疑は,教育を受けた成人に求められる態度である』― 世の哲学
1,2 あるギリシャ人たちはどんな態度を抱いていましたか。この世の高等教育は何を生み出しましたか。
「真理とは何か」。ポンテオ・ピラトがイエス・キリストに対して語ったこの言葉は,多くの人々が抱いている懐疑的な態度の特徴をよく示しています。(ヨハネ 18:38)古代ギリシャの懐疑学派は,「相反する論議を絶えず天びんにかけ,万事を不確実さと疑いの状態へと変えることによって,何ものにも妨げられない心の静寂を得ることを目標にしていた」と言われています。
2 この懐疑主義的態度は後年になって形を変え,フランス人ルネ・デカルト,オランダ人スピノザ,スコットランド人デビッド・ヒューム,ドイツの哲学者カントのような哲学者たちによって進展を遂げました。これらの人々および他の大勢の人々の影響を受け,物事を一貫して疑ってみるという考えが高等な学問の信仰箇条となりました。こうして,あらゆる国々の大学から懐疑論者の世代が生み出されたのです。彼らにとっては「すべての物事が相対的」です。
3 (イ)物事を一貫して疑うこの見方の及ぼす悪影響にはどんなものがありますか。(ロ)聖書の中では,どんなより優れた態度が勧められていますか。
3 物事を一貫して不確実と見るこの見方の及ぼした悪影響に関し,一人の権威者は,「我々の時代における相対主義的ならびに懐疑主義的態度は,結果として,真理に対する然るべき敬意のはなはだしい欠如をもたらした」と述べ,さらにこう続けています。
真理に対する敬意とは,我々の世代,つまり何人もまた何物も真理であると純粋に主張はできないとの信念に基づき,ありとあらゆる物事の“仮面をは(ごう)”とする世代のえせ懐疑主義に過ぎないのではない。それは,真理を必ず見いだし得るという喜ばしい確信と,真理がいつまたどこから姿を現わしたとしても,その真理に謙遜に従うこととを兼ね備えた態度である。このように真理を受け入れる備えは,真理の神を崇拝する人々にとって必要不可欠なものである。……この態度については……[旧約聖書]と[新約聖書]の双方が証拠を提出している。―「新約聖書神学新国際事典」,1978年,第3巻,900,901ページ。
真理に対する,喜びに満ちた確信
4,5 (イ)聖書は,疑いではなく確信を,どのように抱かせてくれますか。(ロ)聖書の「健全なことば」を受け入れる備えがあれば,どんな良い結果が生じますか。
4 確かに,聖書全体が読者に抱かせるものは疑いではなく確信です。ヘブライ語聖書の中には「エホバに信頼を置き,エホバが確信となってくださった壮健な者は祝福される」と記されています。(エレミヤ 17:7,新)またクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,パウロはこう書いています。「わたしは確信を失いません。わたしは自分が信頼してきたかたがだれであるかを知っており,そのかたには,かの日に至るまで,わたしがゆだねたすべてのものの世話をする力があることを少しも疑っていないからです」。ここには懐疑主義のかけらも見られません。―テモテ第二 1:12,エルサレム聖書。
5 パウロはこのように神へのゆるぎない確信を表明してから,次のことをつけ加えています。「キリスト・イエスに関連した信仰と愛とをもってわたしから聞いた健全なことばの型を常に保ちなさい」。(テモテ第二 1:13)聖書の中に見られる「健全なことば」を受け入れる備えがあれば,わたしたちの信仰と愛は増し加わり,エホバが与えてくださった貴重な約束すべての真実さに,喜びに満ちた確信を抱くことができます。それは次に,「魂の錨,確かなもの,またゆるがぬもの」である希望を生み出します。―ヘブライ 6:17-19。
6 他の人々に「良いたより」を告げることができるようになるには,わたしたち自身に何が必要ですか。
6 真理に対するこのような喜びに満ちた確信こそ,わたしたちが出かけてゆき,神の王国の良いたよりを人類の唯一の希望として宣べ伝えることを可能にするものなのです。この希望の音信を他の人々に告げるには,それが真実なものであるという絶対の確信がなければなりません。こうしてわたしたちは,耳を傾ける人々に,「わたしたちの宣べ伝える良いたよりは,ただことばだけでなく,力と聖霊と強い確信をも伴って……もたらされた」とも,「わたしたちから聞いて神のことばを受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,事実どおり神のことばとして受け入れた」とも言うことができるのです。―テサロニケ第一 1:5; 2:13。
7,8 初期のクリスチャン会衆で,疑念を払いのけるように兄弟たちを助けたのはだれですか。
7 初期のクリスチャン会衆では,忠実な監督たちが,疑いを払いのけ,信仰に堅くあるように仲間のクリスチャンたちを援助しました。使徒たちとエルサレム会衆の長老たちから成る西暦1世紀の統治体は,聖霊の助けの下に,決定を下したり指示を与えたり兄弟たちを築き上げるために忠実な人々を派遣したりしました。聖書の使徒たちの活動には次のように記されています。「さて,彼ら[パウロ,シラス,および他の旅行仲間]は諸都市をまわって旅行を続けながら,エルサレムにいる使徒や年長者たちの決めた定めを守るようその地の人たちに伝えるのであった。こうして実に,諸会衆は信仰を堅くされ,日ごとに人数を増していった」― 使徒 16:4,5; 15:23-29。
8 コロサイ会衆に手紙を書き送った際,パウロは忠実なクリスチャン,エパフラスについて,「[彼は]祈りの中でいつもあなたがたのために励んでいます。あなたがたがついには全き者として,また神のご意志すべてに対するゆるがぬ確信をいだく者として立てるようにです」と語っています。(コロサイ 4:12)その当時でさえ,懐疑主義や疑いが入り込む余地はありませんでした。これら初期クリスチャンたちは『信仰に堅くあること』,「ゆるがぬ確信」が必要でした。
疑いを克服する
9 クリスチャンの確信が今日特に重要なのはなぜですか。
9 わたしたちの時代において,また英国の哲学者バートランド・ラッセルの言葉を借りれば,『穏やかで上品な懐疑は,教育を受けた成人に求められる態度である』とされる世の中において,クリスチャンの確信の重要性は少しでも劣ると言えますか。そうではありません。どちらかと言えば,今のほうがゆるがぬ確信はより重要なのです。これまで以上に「不従順の子らのうちにいま働いている霊」が,不信仰と疑いを助長しているからです。(エフェソス 2:2)ですから,疑いに悩まされているクリスチャンはその危険性を認識し,『ついには全き者として,またゆるがぬ確信をいだく者として立つ』ために必要な段階を踏まなければなりません。
10,11 (イ)疑いが心の中に根を下ろし始めたなら,わたしたちはどんなことを自問してみるべきですか。(ロ)200万以上の人々はこれらの質問にどう答えますか。
10 万一,油断のならない疑いがクリスチャンの心の中に忍び込んでくるようなことがあるなら,最初にその状況を検討し,それから的を射た幾つかの事柄を自問してみるのは良いことです。それは次のような質問です。
神のみ名がエホバであること,そのみ名の意味,人類に対する神の愛ある目的,また地球上で苦しみがこれほど長く続くことを神が許された理由について,自分はどこで学んだだろうか。―詩 83:18。啓示 21:3,4。ペテロ第二 3:9,13。
イエス・キリストが三位一体の第二の神ではなくエホバの独り子であるということを教えてくれたのはだれだろうか。また,キリストの贖いの犠牲による贖罪の意味を十分に理解できるようにしてくれたのはだれか。―ヨハネ 3:16; 14:28。コリント第一 15:27,28。
自分の頭の中にあった聖霊に関する疑問を解き,それが人格的な“聖霊様”などではなくてエホバの活動力であることを明らかにしてくれたのはどの宗教か。そして,霊の実を結ぶよう誠実に努力する人々のグループをどこに見いだしたか。―使徒 2:33。ガラテア 5:22,23。コロサイ 3:12-14。
人間の魂は不滅であるとの古代異教の概念に関する自分の考えを正し,魂が死ぬものであることを聖書から証明して復活に関する聖書の教理を本当に意義のあるものにし,神を辱める地獄の火の教理から自分を解放してくれたのはどの宗教組織だったのか。―エゼキエル 18:4。使徒 24:15。ローマ 6:23。
人類の唯一の希望として神の王国を宣べ伝えてきたのはだれか。わたしたちが今「終わりの日」に住んでおり,人の子の到来に備えて『ずっと見張っている』べきことに気付かせてくれたのはだれか。―マルコ 13:10,33-37。ルカ 21:34-36。ペテロ第二 3:3-7。
人生の真の目的,「神の平和」,この世の誘惑や落とし穴に陥らないための保護,生活上の諸問題を解決するための実際的な知恵などを,どんな人々のところに見いだしたか。―マタイ 24:45-47。テモテ第一 3:15。フィリピ 4:6-9。
最後に,『互いの間に愛』を本当に抱き(ヨハネ 13:34,35),ヨハネ 17章14,16節やイザヤ 2章4節に要約されている原則を実際に尊重し,政治に干渉するためにではなく,ただ『イエスの名のゆえに』,つまり真実のクリスチャンであるがゆえに迫害されているのはどのクリスチャンのグループか。―マタイ 24:9。ヨハネ 15:18,19。
11 これらの質問に対し,200以上の国や島々に住む200万を超える人々は,率直に,エホバの証人だと答えます。それは,「忠実で思慮深い奴隷」級およびその統治体によって霊的に養われているからです。―ルカ 12:42-44と比較してください。
積極的な態度を保ちなさい
12 疑いはどこで生じますか。
12 疑惑,不信,懐疑といった世の霊に捕らわれないようにするには,自分の奥深い動機を注意深く見守ることが必要です。キリストが実際に復活したことを信じ難く思っていた11人の忠実な使徒たちおよび他の弟子たちに対してキリストは,「なぜあなたは騒ぐのですか,あなたがたの心に疑いが起きるのはどうしてですか」と言われました。(ルカ 24:38)そうです,疑いが生じるところ,それは心です。
13,14 (イ)疑いは何を示す徴候となり得ますか。(ロ)不忠実だったイスラエルからどんな教訓を学べますか。
13 したがって,不安を引き起こす疑念で少しでも悩まされるようになったら,まず自分の動機をさぐってみるべきです。その疑いは誠実なものですか,それとも手をゆるめるための口実ですか。それは忍耐の欠如をあらわにするもの,許しを与える神の力に対する信仰の欠如を示すものですか。疑いの種を播いた人がだれかいますか。(ヨハネ第一 1:9。使徒 20:30)「兄弟たち,あなたがたのうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないよう気をつけなさい。……『心をかたくなにしてはならない』」とパウロは記しています。―ヘブライ 3:12-15。
14 もしも積極的な態度を保つなら,またエホバがみ子イエス・キリストを通してわたしたちのためにしてくださったことすべて,そして「忠実で思慮深い奴隷」によって備えられた霊的な糧によって学んだ神の目的と約束のすべてを忘れないなら,イスラエルのような恩知らずにはならずにすむでしょう。イスラエルについてエホバはこう述べておられます。「牛はその所有者を知り,ロバは主人がどこで餌を与えてくれるかを知っている。しかしわたしの民イスラエルはそれほどのことも知らない」― イザヤ 1:3,「福音聖書」。
確信を取り戻した人々
15 一人の長老は自分の疑いを克服するようどのように助けられましたか。
15 フランスの一人の長老は,自分が神の真の会衆と交わっているのかどうかに関して疑いを抱くようになりました。というのは,その人の言葉を借りれば,与えられる霊的食物はいつも変わりばえがしないように思えたからです。そこでこの人は,長老としてのクリスチャンの責務から解放してほしいと申し出ました。しかし,この人の家族と他の長老たちは,当人を背教者のように扱うことはしませんでした。彼らは,祈りと築き上げる会話を通してこの人を親切に援助しました。やがてこの兄弟は,そういつもいつも新しい説明があるわけではないということを悟るよう助けられました。母親が全く異なった食事を1日に3回,年に365日,出し続けることができないのと同じであることが分かったのです。同じ基本的な内容の物が異なった形で繰り返し出されますが,感謝の念をもって味わうことが,その食物を楽しみ,消化し,力を得るのに役立つのです。この兄弟はまた,霊的食物の不足が至るところに見られることを考えてみるようにも助けられました。こうして少しずつ確信を取り戻し,ものみの塔の出版物から学んだ良い事柄に対する感謝の念を深め,霊的な力を取り戻し,エホバへの奉仕に新たな喜びを見いだしました。今では,この兄弟は再びクリスチャンの長老として奉仕しています。
16 フランスの一人の若いエホバの証人は,なぜ疑いを抱くようになりましたか。そしてどのように正されましたか。
16 真理に入る前に自由主義的な思想を抱いていた南フランスの一人のエホバの証人は,無政府主義に関する本をたまたま目にしました。(無政府主義とは,「あらゆる形態の政府は個人の自由に不当に干渉するものであり,それは積極的に協力の意志を示す団体の自発的な結び付きによって取って代わられねばならないとする説」です。)この人はそれを読み,興味を覚え,同じ傾向の本をさらに求め,それらを読んでゆくうちに信仰を失い,疑いを抱くようになりました。ところが,ふとしたことから,「悪い霊的食物によって,自分の古い人格特性,つまり反抗の精神が頭をもたげるのを許すようになっていることに気が付いた」と本人は述べています。「ものみの塔」誌の二つの記事,つまり1978年1月15日号の「命の道 ― 狭くても自由な道」と1978年5月1日号の「神の王国はどのようにあなたに益をもたらすことができますか」という記事を通して,この兄弟は自分の思いの中で物事を正し,再び確信を得,全時間の伝道活動に入り,現在では特別開拓者として奉仕しています。
確信は祝福をもたらす
17,18 疑う者についてヤコブは何と述べていますか。ヤコブはそのような人たちにどんな助言を与えていますか。
17 これは,疑いに悩まされたものの,それを克服して神への奉仕に再び幸福を見いだしたクリスチャンのわずか二つの例にすぎません。これらの人たちが自分の疑いに負けていたなら,今日,幸福でもなく,希望もなかったことでしょう。聖書はこう述べています。「疑う者は,風に吹かれて揺れ動く海の波のよう……です」。(ヤコブ 1:6)確かに,疑いを抱くと,わたしたちは攻撃を受けやすくなります。ヤコブはさらに,疑う人は,「優柔不断であり,そのすべての道において不安定です」と述べています。―ヤコブ 1:8。
18 エホバとそのみ言葉,またその組織に対する強い確信があれば,気力を失わせるような疑いは取り除かれ,真の幸福がもたらされます。それは真の知恵の道です。そこでヤコブはこう述べています。「それで,あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです。そのようにすれば,それは与えられます。しかし,信仰のうちに求めつづけるべきであり,疑うようなことがあってはなりません」― ヤコブ 1:5,6。
19 なぜ「世の霊」を避けるべきですか。「初めにいだいた確信」を堅く保つ上で何が助けになりますか。
19 「世の霊」に冒されると,疑いがわたしたちの思考の型の一部になってしまいます。しかし,パウロはこう書いています。「そこで,わたしたちが受けたのは,世の霊ではなく,神からの霊です。それは,そのご親切によって神から与えられている物事をわたしたちがよく知るようになるためです」。(コリント第一 2:12)「そのご親切によって神から与えられている物事」すべてを十分に意識しているなら,また,エホバの証人と聖書を研究してこうした事柄を知るようになったということを正直に認めるなら,わたしたちはエホバに対する深い感謝の念に動かされて,疑いを払いのけ,『初めにいだいた確信を終わりまでしっかりと堅く保つ』ようになります。―ヘブライ 3:14。
20 確信することから得られる報いを二つあげてください。
20 神と,絶対に誤ることのないそのみ言葉と,キリストの指導の下にあるその地上の会衆とに対する『確信を堅く保つ』なら,現在,また将来において豊かな報いを刈り取ることになるでしょう。そうした報いの中で,軽く見てはならないのは,思いの平安です。詩篇作者はこう書いています。『なんぢの法をあいするものには大いなる平安あり かれらには躓礙をあたうる者なし』。(詩 119:165。コロサイ 3:15もご覧ください。)神の霊とみ言葉と見える組織を通し,「そのご親切によって神から与えられている物事」を深く認識している忠実なクリスチャンとの健全な交わりも,きわめて報いの大きいものです。―詩 1:1-3。テサロニケ第二 3:6,14。ヘブライ 10:24,25。
21,22 (イ)確信を抱くなら,ほかにどんな益が得られますか。(ロ)次の記事では何を検討しますか。
21 「初めにいだいた確信」を堅く保つなら,神への奉仕に熱意を抱き,エホバ神と,わたしたち自身に喜びをもたらすことになります。(箴 27:11)わたしたちの味わう喜びは,それ自体,報いとなります。(マタイ 25:23)それに加えて,喜びは保護,つまり「砦」ともなります。(ネヘミヤ 8:10,新)エホバの奉仕に対するそのような喜びがあれば,積極的な見方を持つことができます。その見方は,預言の成就を目撃するにつれていよいよ明るくなってゆきます。わたしたちには人生の目的があり,自分がどこへ向かっているかを知っています。アブラハムが待ち望んでいた「都市」つまりメシア王国を中心とした輝かしい希望があるのです。―ヘブライ 11:10,16。
22 しかし,「霊感のことばは,のちの時代にある者たちが信仰から離れ去(る)……ようになることを明確に述べています」。(テモテ第一 4:1)どうしてそのようなことがあるのでしょうか。また,それに必要以上に煩わされてはならないのはなぜでしょうか。次の記事ではその点を検討します。
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「堅い信仰」を保ちつづけるものみの塔 1980 | 11月1日
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「堅い信仰」を保ちつづける
「霊感のことばは,のちの時代にある者たちが信仰から離れ去(る)……ことを明確に述べています」― テモテ第一 4:1。
1 信仰から離れ去る人がいるとしても,わたしたちは必要以上の衝撃を受けるべきですか。
自分の知っているクリスチャンが疑いに屈して熱意を失い,反抗的にさえなって,クリスチャン会衆を捨て,他の人を自分の側に引き込もうとするのを見聞きするとき,あなたなら大きな衝撃を受け,必要以上に動揺しますか。確かにそれは悲しい出来事ですが,聖書が前もってそうした事柄について警告していたことを知れば慰めを得られるでしょう。
2,3 (イ)「背教」という語にはどんな意味がありますか。最初の背教者はだれでしたか。(ロ)背教の道はイスラエルとユダに何をもたらしましたか。
2 英語の「背教」という語は,ギリシャ語に由来しており,そのギリシャ語には「あるものから離れている」,「離れ去る,変節」,「反抗,放棄」などの意味があります。エホバへの真の崇拝から離れ去った最初の者はサタン悪魔でした。ですから,サタンは最初の背教者であると言えます。(ヨハネ 8:44)サタンは最初の人間夫婦を
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