第2章
見えない天の領域で活動する聖霊
1 聖霊が見えない天の領域でどのように働いてきたかを知ることはわたしたちにとってなぜ大切ですか。
見える物質的領域,すなわち人間が知る限りの宇宙において神の聖霊がどのように作用しているか,人はこの点に一層の興味を覚えるかもしれません。しかし実際には,見えない天の領域で起きている事柄のほうが人間の物事に大きな影響を与えてきたのです。近い将来,わたしたちの世代のうちに聖霊がどのように活動するかも,見えない領域で起きる事柄と結び付いており,人間にとって非常に重要な問題となっています。ゆえにわたしたちは,現在わたしたちに重要な関係を持つ事柄において聖霊がどのように働くかを理解することを願うべきです。
2 詩篇 104篇29,30節は,人類が見えない天の領域に依存していることをどのように示していますか。
2 現代的な考えを持つ人々は認めようとしないかもしれませんが,人類は実際のところ見えない天の領域に依存しています。仮に創造者なる神が地上のわたしたちからその顔をそむけ,わたしたちにとって言わば「死んだ」ものになるとすれば,わたしたちはどうなるでしょうか。聖書の詩篇作者は神に向かって述べた次の言葉の中でその点を正しく言い表わしました。「あなたがみ顔を覆い隠されると,彼らはかき乱されます。あなたが彼らの霊を取り去られると,彼らは息絶え,その塵へと戻ります。あなたがご自分の霊を送り出されると,彼らは創造されます。そしてあなたは地の表を新たにされます」。(詩 104:29,30)したがって,人間にとって主要な研究対象は人間そのものではなく,創造者なる神であるはずです。見えない天の領域に関して神が何事かを啓示してくださる限り,それはわたしたちの考察に値する重要な事柄となります。
3 神は天においてただ独りで住み,適合する環境をなにも有していないと考えるのは,なぜ近視眼的,また道理に添わないことですか。
3 『神は霊である』という点を常に覚えていましょう。(ヨハネ 4:24)したがって,神は霊の領域に住んでおられます。ただ独りで,適合する環境を持たずにですか。そうではありません。神が創造し得るのはわたしたちに見える物質界のものだけで,見えない天の領域の事物は創造していないと考えるとすれば,それは近視眼的,また道理に添わないことでしょう。そうした高い領域の事物は,わたしたち人間を含む物質的創造物より高度の成り立ちを備えているはずです。
4 見えない天の領域が光を得るのにわたしたちの太陽に頼っていないのはなぜですか。
4 神がこの物質界に置いた,美しく驚嘆すべきあらゆる事物を見るわたしたちは,神が霊の領域で創造された,壮大で栄光ある様々な事物についてただ想像するだけで畏怖の念に満たされます。そこでは,光を得るのに,わたしたちの太陽に依存するようなことはありません。そのところに夜はありません。光を発するもろもろの太陽の創造者自ら,天的な太陽,光の源となられるのです。文字通りにも,比喩的にも,また倫理的な意味でも,次の言葉は真実です。「神は光であり,神と共にはいかなるやみもありえません」。(ヨハネ第一 1:5)聖書筆記者ヨハネによる上記の言葉よりずっと以前に,詩篇作者は,創造者が昼の陽光のごとくに好ましく,慕わしいものであるとしてこう記しました。「エホバ神は太陽また盾であり,恵みと栄光を与えてくださいます。エホバご自身,とがなく歩んでいる者たちから善いものを何一つ差し控えられません」― 詩 84:11。
5 神は見えない天の領域でご自分のもとにどんな者たちを有しておられますか。それらの者たちは人間とどんな点で異なっていますか。
5 神はご自分のもと,見えない霊の領域に,霊的な成り立ちを持つ理知ある者たちを有しておられます。そのように考えるのは道理にかなう事ですが,それだけでなく,聖書そのものがそのことをはっきり証ししています。神はそれらの者と直接の接触を持つことができます。神はそれらの者をご覧になりますが,それらの者たちもまた同じように神を見ることができます。より高度の超人間的な成り立ちを有していますから,彼らはただ神を見るだけで溶けたり,分解したり,滅び尽きたりすることはありません。彼らは神と直接の接触を持つことができ,神のおられるその所で神に仕えるのです。(ルカ 1:19)神が次のように言われたのは,み使いに対してではなく,人間に対してなのです。「あなたは,わたしの顔を見ることはできない。人は,わたしを見てなお生きていることはできないからである」。(出エジプト 33:20)神はご自分の預言者モーセに対してさえこう言われたのです。
6 啓示 4章11節によると,神に同伴するそれらの霊者はどのようにしてそこに存在するようになりましたか。
6 神に同伴するそれらの霊者はどのようにしてそこにいるようになったのですか。では,最初の人間夫婦はどのようにしてこの地上にいるようになりましたか。わたしたちは,天で神を崇拝する様を聖書筆記者ヨハネが幻の中で見た者たちの言葉をその答えとします。その言葉を引用すると次のとおりです。「わたしたちの主また神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるに値しています。あなたはすべてのものを創造されたからです。あなたのご意志によってそれらは存在し,創造されました」― 啓示 4:11,アメリカ訳。
7,8 復活の日イエスは霊が何を持っていないことを語られましたか。イエスは自分を現わした時の体をどうされましたか。
7 神は最初の人間夫婦を血肉の者として造りました。これに先だって,神はご自分の天の同伴者たちを霊の者,人間に勝る成り立ちを有する者として造りました。イエス・キリストは自分が死から復活した日に,この点を明らかにする言葉を語りました。彼はエルサレムのとある錠を下ろした部屋にいた弟子たちの前に姿を現わしました。これを行なうため,イエスは自分を物質化し,死んだ時と同じような体で現われたのですが,弟子たちは,霊を見ているのだと考えました。その時イエスは彼らに何と言いましたか。こうです。「霊には,あなたがたがわたしに見るような肉や骨はないのです」― ルカ 24:36-39。
8 復活したイエスは,それら驚き惑う弟子たちと言葉を交わした後そこから姿を消しました。その身に着けた人間の体を非物質化もしくは分解したのです。その体とそれに伴った衣服を霊の領域に携えて行ったのではありません。そのようにすることが可能であったとすれば,天の霊者は,少なくとも栄光を受けたイエス・キリストは,肉と骨を有しているということになります。―コリント第一 15:50。
9 神はご自分の天の同伴者たちを初めからどのようななりたちのものとして創造されましたか。
9 これらのすべてを念頭に置いて,主なる神はご自分の天の仲間たちを初めから霊のものとして造りました。肉と血と骨を有した被造物の人間をこの地球から移し,見えない天の領域で自分のもとに共にいさせるようにしたのではありません。神が天においてどのような者たちを直接に創造したかを述べるものとして,クリスチャン使徒のパウロはこう書きました。「彼は自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする」。(ヘブライ 1:7)ここで使徒パウロは,エホバ神が「ご自分の使いたちを霊,ご自分の奉仕者たちを焼き尽くす火とされる」という,詩篇作者ダビデの言葉を引用しています。(詩 104:4)こうして,記された神の言葉そのものが証しするとおり,神は人間だけでなく霊の被造物をも創造する力を有しておられます。
10 創世記 1章26節は,霊者の創造が人間の創造に先立ったことをどのように示していますか。
10 霊の被造物の創造は,人間の創造に先だってなされました。聖書の最初の章の中に明らかにされた神ご自身の言葉がそのことを示しています。そこにこう記されています。「次いで神は,『わたしたちの像に,わたしたちの様に似せて人を造ろう。そして彼らは,海の魚と,天の飛ぶ生き物と,家畜と,全地と,地の上を動いているあらゆる動く生き物を服従させるように』と言われた」。(創世 1:26)「わたしたちの像に,わたしたちの様に似せて人を造ろう」と言われた時,神は二位もしくは三位一体の神であるかのごとく自分自身に語り掛けていたのではありません。少なくとも他の一人の天的存在者,自分とは別個の者に語り掛け,地的被造物としての人間を産み出す業に加わるようその霊者に誘い掛けていたのです。
11 ヨブ記 38章1-7節は,人間の創造の時,神のもとに他に複数の者がいたことをどのように示していますか。
11 しかし,人間男女の創造のさい神と共にいた霊者はただ一人だけではありませんでした。地球さえまだ創造されない時に神の創造した霊者たちがいたのです。その点に注意を促されたのはヨブという,ウヅの地の忠実な人でした。神はその者にこう語りました。「わたしが地の基を据えたその時,あなたはどこにいたのか。悟りを知り得ているというのであればわたしに告げよ。知っているというのであれば,だれがその寸法を定め,……だれがその隅石を据えたか。その時,明けの星は共に喜び叫び,神の子らは皆称賛の叫びを上げた」。(ヨブ 38:1-7)神が人間男女を創造したのは創造の第六日目の終わりでしたが,上述の事はそれより幾千幾万年も前に起きました。(創世 1:27-31)したがって,それら喜びあふれた「神の子ら」は,最初に人間として地上にいて,後に神のおられる天に移された被造物ではありません。それらは,その存在の始めから神の霊の被造物でした。神は地の住民を取って天に移住させるということをされたのではありません。
12 存在や力の程度という点で見ると,人間とみ使いはどのように異なりますか。
12 それら神のような「神の子ら」は人間より勝っています。ゆえに詩篇作者ダビデは,神が天よりも高い存在であることを認めた後,さらにこう述べました。「死にゆく人間はいかなるものなので,あなたはこれを思いに留められるのですか。また,地に住む人の子はいかなるものなので,これを顧みられるのですか。あなたはまた,人を神のような者たちより少し低く造(られました)」。(詩 8:4,5)ここで言う「神のような者たち」とはだれのことですか。み使いたちです。聖書の一記述者は,詩篇 8篇5節を当てはめつつ,ヘブライ 2章6-9節で,「あなたは彼をみ使いたちより少し低い者とされました」と記したからです。したがって,存在また力の程度について言うと,人間はそれら「神の子ら」,それら天のみ使いたちよりも常に低い地位にあります。
天の霊者たちの集会
13 天での集会に関する最初の記録はどこに見られますか。それにおいて座長となったのはだれですか。
13 それら「神の子ら」の集会が時おり催され,至高の神が彼らに対して座長となります。神はこの事を記されたみ言葉の中で明らかにしておられます。そのような天の集会に関する最初の記録はヨブ記の初めの二つの章の中に見いだされます。ヨブの生涯の早い時期のことについてこうあります。「真の神の子らが入って来てエホバの前に立つ日となり,サタンさえ来て彼らの中に入った。その時エホバはサタンに言われた,『あなたはどこから来たか』。これに対しサタンはエホバに答えて言った,『地を行き巡り,そこを歩き回って来ました』」。その何節か後,次の章の中で,エホバとその天の子らとの集会の模様がもう一度伝えられており,この時にも,サタンと呼ばれるさきの霊者がその機会を私的に利用しています。(ヨブ 1:6,7; 2:1,2)これらの集会は,わたしたちの目には見えないものながら,はっきりした目的を持つものであり,全能の神はそこでの秩序を保ちます。そこに出席する者は皆,自分がどこで何をしてきたかについて神に答えねばなりません。サタンという名は,それがエホバ神に対する際立った反抗者であることを示していますが,この者さえ敬意を示さねばなりません。
14 ヘブライ 12章22-24節では,天でのどんな集会のことが述べられていますか。
14 天にいる「神の[霊の]子ら」のそうした集会については,ヘブライ 12章22-24節の中にさらにこう記されています。「あなたがた[ヘブライ人のクリスチャンたち]は,シオンの山,生ける神の都市なる天のエルサレム,幾万ものみ使いたち,すなわちその全体集会……に近づいた」。これら幾万ものみ使いたちは皆,その天の父への忠実を守って,サタンの例に倣うことを拒み,天にある神の大きな家族をなしています。
15 パウロはそのような天の家族についてエフェソス 3章14,15節の中でどのように述べていますか。その成員は互いに対してどんな関係にありますか。
15 聖書筆記者パウロはこの天の家族について述べています。エホバ神を自分たちの天の父と認めるクリスチャンに手紙を書いた際,パウロはこう記しました。「このゆえに,わたしは父に対し,すなわち,天と地のあらゆる家族がその名を負うかたに対してひざをかがめます」。(エフェソス 3:14,15)家族はすべてその名を父に負っており,その名の品位と誉れにふさわしく生きなければなりません。ただ一人の父を共に有しているのですから,それら天にいる「神の子ら」はすべて兄弟の関係にあります。
16 西暦前10世紀の後半,預言者ミカヤは天でのどんな集会の模様を幻で見ましたか。
16 西暦前十世紀の後半にも天での集会が催されました。イスラエル人の預言者ミカヤはその幻を見ました。ミカヤはそれについて描写しつつ,同盟した二人の王,アハブとエホシャファトにこう語りました。「エホバの言葉を聞きなさい。わたしは確かに,エホバがみ座に座り,天の全軍がその傍らに,その右左に立っているのを見ました。それからエホバは言われました,『だれがアハブを欺いて彼を上って行かせ,ラモト・ギレアデで倒れさせるか』。すると,こちらの者はこのように言いだし,そちらの者はそのように言っていました。ついに,ひとりの霊が出て来て,エホバの前に立ち,『この私が彼を欺きます』と言いました」― 列王上 22:19-21。
17 その時神の傍らにあった軍勢はどんな者たちで成っていましたか。
17 邪悪な王アハブを欺いて戦いで自滅させるための良い策を提議したみ使いが「ひとりの霊」と呼ばれている点に注意してください。この事は,神の右と左にいたその「軍」の全員が同様に霊たち,すなわち理知を持つ霊の被造物であることを示しています。彼らはわたしたち人間とは異なっているのです。
18,19 この20世紀に予定された,天でのどんな公判の模様をダニエルは幻で見ましたか。
18 わたしたち今日の人間は,この20世紀に天で公判が催されるようずっと以前から定められていたことに気付いていますか。その事に関する奇跡的な幻が預言者ダニエルに与えられました。それは,今から2,500年以上も前,ダニエルがバビロンで捕囚となっていた時のことでした。彼はその幻を描写してこう記します。
19 『我夜のまぼろしのうちに見しに その後第四の獣いでたりしが これは畏ろしく猛く大いに強く……我みつつありしに遂に座を置きならぶるありて日の老いたる者座を占めたり……彼に仕ふる者は千々 彼の前に侍る者は万々 審判すなはち始まりて書を開けり……我また夜のまぼろしのうちにみてありけるに 人の子のごとき者雲に乗りて来たり 日の老いたる者のもとに到りたればすなはちその前に導きけるに これに権と栄えと国とを賜ひて諸民諸族諸音をしてこれにつかへしむ その権は永遠の権にして移りさらず またその国はほろぶることなし』― ダニエル 7:7-14,文語。
20 ダニエルの幻の中で「人の子」として高い誉れを付されているのは神の天の子たちのどの者ですか。
20 このダニエルの幻の中に「人の子」のような者として出て来る者がいますが,天にいる神の霊の子らの中でこれほどに高い誉れを与えられている者がほかにいるでしょうか。いません。では,これは一体だれでしょうか。詩篇作者はそれを明らかにしています。詩篇 89篇26,27節でこう述べています。「彼自らわたしに呼ばわる,『あなたはわたしの父,わたしの神,またわたしの救いの岩です』と。また,わたし自身彼を初子として置くであろう。地のもろもろの王の至高者として」。神はダビデ王に対しその王統による永遠の王国の契約を結ばれましたが,エホバのこの言葉はそのダビデを指すものではありません。また,ダビデの王位継承者であるソロモンを指すのでもありません。これらの王はいずれもその父の初子ではありませんでした。(詩 89:28-37。サムエル後 7:4-17)後の種々の事実は,エホバがここで天におけるご自身の「初子」に預言的な形で言及しておられたことを示しています。それは,エホバ神が人間を創造する以前から定めのない時にわたって神と共にいた特別の子を指しています。
21 啓示 3章14節によると,神は「初子」を生み出した時天に妻を有しておられましたか。
21 その時神は天に妻など持っていなかったのにどうして「初子」を持てたのか,と問う人がいるかもしれません。その問いに対する答えとして,その「初子」であることを示した者自らこう語ります。聖書の最後の本,「啓示」の3章14節で彼はこう言います。「アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う」。この言葉を語ったのは,復活して栄光を受けた主イエス・キリストです。彼は「忠実で真実な証人」であり,偽りを語ることはありません。彼は自ら,自分が「神による創造の初め」であると述べています。したがって,その最初の者を創造する以前に神が妻を有していたというようなことはありません。
22 イエスは創造物の一つでしたが,神のことを自分の何と呼びましたか。
22 イエスは『創造された』ものであり,母親を通して生まれた者ではありませんでしたが,それでも神のことを終始自分の父と呼んでいます。(啓示 3:21; 14:1)また彼は,その父のことを自分の神であるともしています。啓示 3章12節で彼はこう言います。「征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱と(する)。……そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市……(の)名をその者の上に書く」。この言葉は,その復活の日に,空になった墓の近くで彼がマリア・マグダレネに語った事とも一致しています。「わたしの兄弟たちのところに行き,『わたしは,わたしの父またあなたがたの父のもとへ,わたしの神またあなたがたの神のもとへ上る』と言いなさい」。(ヨハネ 20:17)これは西暦33年ニサン16日のことであり,その三日前,彼は自分が付けられた苦しみの杭の上で,「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになりましたか」と叫んでいます。そして,その最期の時に,彼は,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と叫びました。―マタイ 27:46。マルコ 15:34。ルカ 23:46。詩 22:1; 31:5。
独り子
23 神の「独り子」として,イエス・キリストは神の創造物の中にあってどのような地位にありますか。
23 ユダヤ人の支配者ニコデモに対する言葉の中で,イエス・キリストは自らのことをどのように述べていますか。こうです。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(ました)」。(ヨハネ 3:16)自分を神の「独り子」と呼んだイエスは,自分が神の「初子」であることを示していました。神の直接の創造,他のだれも参与することなく無から有を造り出すことは,この「初子」なる「独り子」をもって始まりかつ終わりました。イエスが自らのことを「神による創造の初め」と呼んでいるだけではありません。使徒パウロも同様の呼び方をして,「彼は見えない神の像であり,全創造物の初子です」と述べています。(コロサイ 1:15)したがって,神が「全創造物の初子」を創造したその後に存在するようになったものは皆他の創造物であり,その他のすべてのものの創造にあたり,神はご自分の「独り子」をお用いになりました。
24 コロサイ 1章15,16節およびヨハネ 1章1-3節によると,他のすべてのものは神によりだれをもって創造されましたか。
24 この考えを裏付けるものとして,使徒パウロはまず「全創造物の初子」について述べ,さらにこう語ります。「なぜなら,他のすべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも……彼によって創造されたからです」。(コロサイ 1:16)こうして今,わたしたちはヨハネ 1章1-3節にある,使徒ヨハネの次の言葉を理解することができます。「初めにことば[ギリシャ語,ロゴス]がおり,ことば[ロゴス]は神とともにおり,ことば[ロゴス]は神であった。この者は初めに神とともにいた。すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになったものは一つもない」。聖書の最後の本もヨハネによって書かれましたが,その中でもヨハネは,栄光を受けたイエス・キリストが,ことばなる神ではなく,「神のことば」という称号を担っていることを次のように示しています。「その称えられる名は神のことば[ロゴス]である」― 啓示 19:13。
25 なぜまたどのような点でロゴスには「卓越性」がありましたか。
25 「神による創造の初め」と呼ばれる者に対しては,神の「初子」,「独り子」としての尊厳と権利とが授けられました。「初子」として,この者には,後に来る「神の子ら」すべてに対する卓越性がありました。(コロサイ 1:18)その中には,天と地における他のすべてのものを存在に至らせるにあたって天の父のみ業に加わったことも含まれています。
26 ロゴスによって存在するようになった霊の被造物がロゴスの子と呼ばれないのはなぜですか。
26 それらほとんど無数の「神の子ら」を生み出すためにことばすなわちロゴスが用いられていた時,その父なる神からの聖霊は,彼の上にあり,彼を通して強力に働いていたに違いありません。それは彼と共にあり,また彼のために活動していました。その聖霊の働く様は,後に彼が地上の完全な人間となって奇跡的ないやしを行なった時と相通ずるものがあったでしょう。彼は,神の霊によって悪霊たちを追い出している,と語りました。(ルカ 11:20。マタイ 12:28)エホバ神の霊は天においてロゴスを通して同じように働いていましたから,そのロゴスを通して存在に至った「神の子」たちは,ロゴスではなく,エホバ神を自分たちの創造者また父とみなしました。それらはロゴスの子らとは呼ばれていません。「真の神の子ら」と呼ばれているのです。―ヨブ 1:6; 2:1; 38:7。
27 人間の創造の際神はだれに語り掛けておられましたか。神がそのように提議されるのはなぜふさわしいことでしたか。
27 こうして今明らかな点として,創造の第六日に「わたしたちの像に,わたしたちの様に似せて人を造ろう」と言われた時,神はご自分の「初子」,「ご自分の独り子」に語っておられたのです。(創世 1:26-31)神は,ケルブやセラフを含む天のみ使いたちの創造を思い立った際にも,このみ子に同じようにして語り掛けておられたかもしれません。エホバ神は至高者また万物の創造者であり,何を存在させるかを決定する者でした。み使いたちはこの創造者の子となるのです。その父となる者として,エホバは,天の霊の子らをいつさらに多く持つかについて,自分の意志を行使されました。エホバの霊がここにおける唯一の活動力であり,それによってさらに新たなものが存在するようになったのです。
28 放逐されたアダムとエバは園の入り口のところにどんな「神の子」たちを見ましたか。そこに置かれた絶えず回転する剣を動かしていたものは何ですか。
28 やがて,「神の子」なるケルブたちがエデンの園の入り口のところに見られるようになりました。これはなぜでしたか。最初の人間夫婦アダムとエバが神に反逆して,そのパラダイスの住みかから追い出されたためです。そのために,ケルブたちが園の入り口に置かれることになりました。その二人の罪人がその中に戻って死の刑罰に反するような行為に出ることを阻むためです。(創世 3:24)アダムとエバが見たものは物質化したケルブたちでした。「絶えず回りつづける剣」が園の入り口に置かれていましたが,それは明らかに神の聖霊によって動き続けていました。聖なる状態を離れた人間たちをそこに入らせないようにするためでした。
29 イザヤは幻の中でどんな神の子たちを見ましたか。後にエゼキエルはどんな神の子たちを見ましたか。
29 西暦前8世紀,預言者イザヤは「神の子」なるセラフたちを幻の中で見ました。それらセラフたちは神殿でエホバ神に仕えているところでした。(イザヤ 6:1-7)その次の世紀,バビロンにいた預言者エゼキエルは一つの幻を与えられ,その中で「神の子」であるケルブたちの姿を見ました。―エゼキエル 1:1-25; 9:3; 10:1-20; 11:22。
30,31 神が使者として送り出す時ケルブたちが非常に速く飛ぶことを何が示していますか。彼らはどんな政府と結びついていますか。
30 ケルブは「生き物」であり,神が使者として送り出す時には非常に速く飛ぶようです。ですから,助けを求める神への訴えに答えて,「彼はケルブに乗って飛び,霊者の翼に乗って突進して来られ(た)」と記されています。―詩 18:10。
31 明らかに霊の領域においては,短時間のうちに膨大な距離を進まねばなりません。エルサレムのヒゼキヤ王は国家的な危機に臨んで神殿に行きましたが,長大な距離も彼に対する迅速な助けを阻むものとはなりませんでした。ヒゼキヤはこう祈りました。「万軍のエホバよ,ケルブたちの上に座しておられるイスラエルの神よ。ただあなたのみが,地のすべての王国の真の神です」。(イザヤ 37:14-37)ケルブたちはエホバ神に服しています。エホバはその上に座しておられるかのようです。また,ケルブたちはエホバの王国と結び付いています。それは,全人類が最も深刻な危機にひんしている時に,その速やかな救済をもたらすものです。この非常に幸いな事実と一致しているのは,預言的な意味の詩にある次の出だしの言葉です。「エホバ自ら王となられた。もろもろの民はかき立てられよ。彼はケルブたちの上に座しておられる。地はわななけ」。(詩 99:1; また 80:1)エホバがケルブたちに対して上位の立場にあることは,預言者モーセが命じられて造った契約の箱においてもよく示されていました。―ヘブライ 9:5。
32 ケルブに対するエホバの地位はモーセのこしらえた黄金の箱においてどのように示されましたか。
32 この黄金の箱もしくは櫃は神聖な品物を入れておくために用いられました。それには覆いがあり,その上には二つの黄金のケルブの像が翼を広げて,憐れみの座もしくはなだめの座を覆う形で置いてありました。この箱が幕屋もしくは神殿の至聖所に据えられると,奇跡的な光(シェキナの光)がケルブの翼の上方に現われました。(出エジプト 25:10-22。列王下 19:15)こうして,エホバがケルブの上方に座を占めてそこから指示を与えておられることが表示されました。モーセはこの点での自分の経験を次のように記しています。「さて,モーセが神と話すため会見の天幕の中に入ると,そのとき彼はいつも,証しの櫃の上にあるその覆いの上方,二つのケルブの間から彼と語る声を聞くのであった。こうして彼に語られたのである」― 民数 7:89。
見えない活動の場所
33 天は今日全地でなされている以上の活動の場所であると言えるのはなぜですか。
33 天はのらくらと安逸に過ごし,のんびり動く雲の端に腰掛けて足をぶらつかせるような所ではありません。あらゆる存在領域において最も活動的な方,あらゆる躍動的エネルギーの中心的源である方がそこにいるのです。その方の聖霊は活動的な力として,見ることのできない天の全域に浸透しています。その領域に住んでエホバに仕えている者たちの活動は,わたしたちの地球の全域で今日なされているすべての活動をはるかに凌がしているに違いありません。宇宙の主権者エホバ神への奉仕においては,この地上で普通に可能な距離また地球から月までよりはるかに長大な距離を渡り行かねばなりません。この比較的小さな惑星である地球の物事に配慮を払うこと以外になさねばならない仕事が無数にあります。わたしたちの限られた視力では見えないからといって,そのゆえに天での活動に対して盲目になってしまうことはありませんように。それを信仰の目によって見るための根拠はことごとく備わっているのです。―ヘブライ 11:1,27。
34,35 詩篇作者ダビデは天のみ使いたちのたち勝った能力を認めていることをどのように言い表わしていますか。わたしたち人間は彼らからどのような教訓を得ますか。
34 主なる神の目的に添って,その天の子たちも極めて活動的な生活を送っています。彼らはわたしたち人間がするよりはるかに多くの事を成し遂げ得るのです。彼らはわたしたち人間を超越した存在です。その力の程は,わたしたちには計り知れません。聖書の歴史によれば,彼らは,聖霊の助けの下に,今日の科学も説明し得ないほどの事を行なってきました。
35 ダビデは彼らの超人間的な能力を認めました。彼らの働きに目を向けてダビデはこう語りました。「エホバを賛美せよ,ああ,あなたがたその使いたちよ。強い力を持ち,そのみ言葉を行なう者たち。み言葉の声に聞き従うことにより。エホバを賛美せよ,その軍勢を成すあなたがたすべての者よ。あなたがたその奉仕者たち,そのご意志を行なう者たちよ」。(詩 103:20,21)エホバのご意志を行なうにあたって,それら天のみ使いたちの軍勢は地上の人間の倣うべき優れた手本を示しています。それら強大な力を持つ超人間の被造物が,自分たちの創造者に仕えることを,自分たちの持つ資格から見て小さな事とはしていません。であれば,この地上に住む,薄弱短命のわたしたち人間は,どうしてうぬぼれと自尊を強くし,エホバ神に反逆し,エホバに何の責任も感じないまでになってよいでしょうか。むしろわたしたちはエホバ神をほめたたえるべきなのです。
36 聖霊は全天にわたってどのように表明されますか。そこでの一致が破られることがないのはなぜですか。
36 神の独り子,またケルブとセラフとすべてのみ使いたちが唯一の生ける真の神に愛のうちに仕える時,神から出る聖霊は全天にわたって表明されることになります。神の霊がこれら忠節な者たちすべてに分け与えられることによってそこに産み出されるものは,エフェソス 4章3節の表現で言えば,『結合のきずなである平和のうちに守られる霊の一致』です。彼らは皆,至高の神エホバの下に協力し合っています。その多彩な務めにそれぞれ一致して携わることによって,彼らはまさにエホバへの崇拝を捧げているのです。そうした,奉仕と崇拝の面での一致は,悪霊たちといえどもこれを破ることはできません。
37 神を崇拝し神に仕える面で天において率先しているのはだれですか。その事に対する認識は啓示 5章11-14節のヨハネの幻の中でどのように示されていますか。
37 神に対するそうした不動の奉仕と崇拝を捧げる面で率先しているのは,エホバの「初子」,その「独り子」です。この者は,かつてこの地上においては,犠牲の子羊となって仕えることもいといませんでした。そして,そうした自己犠牲の行為に対して,わたしたちクリスチャンに劣らぬ認識を言い表わしているのは,忠実な天の衆群です。その点を確証するものとして,使徒ヨハネは天の光景に関する一つの幻を与えられました。それは,今,この20世紀に成就を見るものです。次のとおりです。
「それから,わたしが見ると,み座と生き物と長老たちの回りにいる多くの使いたちの声が聞こえた。彼らの数は数万の数万倍,数千の数千倍であり,大声でこう言った。『ほふられた子羊は,力と富と知恵と強さと誉れと栄光と祝福を受けるにふさわしいかたです』。そして,天と地と地の下と海の上とにいるあらゆる被造物,およびそこにあるすべてのものがこう言うのが聞こえた。『み座にすわっておられるかたと子羊とに,祝福と誉れと栄光と偉力がかぎりなく永久にあらんことを』。すると,四つの生き物は『アーメン』と言い,長老たちはひれ伏して崇拝した」― 啓示 5:11-14。
38 そうした幻を見るわたしたちはどんな選択をするべきですか。どうすればわたしたちも聖霊の恵みにあずかることができますか。
38 今地上に,そう,この地表にいて,まだ「地の下」の埋葬の場所に入っていないわたしたちについてはどうですか。わたしたちにはなすべき選択があります。数万の数万倍を数える聖なるみ使いたちに加わって子羊にも似た神のみ子に当然の誉れを帰し,かつ座に座っておられる方なるエホバ神に心からの献身をすることによって,この預言的な幻の成就に自らあずかりますか。自らの意志でこの道を選ぶなら,栄光に輝く天の衆群と同じく,わたしたちもまた,あらゆる完全な贈り物の与え主なるエホバ神からの聖霊の恵みに浴することになります。―ヤコブ 1:17。