その2
1 陰府が低いところにあり,墓であることは,ヨブ記 17章13節から16節にどのように示されていますか。
すでに見たように黄泉(ヘーデース)あるいは陰府(シェオール)は天にあるのではなく,低いところにあります。(マタイ 11:23。ルカ 10:15)昔の忍耐の人ヨブは,それが低い場所であることを示しています。ひどい病気で死にそうになったヨブは,次の言葉を出しました。「わたしがもし陰府をわたしの家として望み,暗やみに寝床をのべ,穴に向かって『あなたはわたしの父である』と言い,うじに向かって『あなたはわたしの母,わたしの姉妹である』と言うならば,わたしの望みはどこにあるか,だれがわたしの望みを見ることができようか。これは下って陰府の関門にいたり,われわれは共にちりに下るであろうか」。(ヨブ 17:13-16)さてヨブはこの言葉の中で何を描いていますか。だれでもわかる通り,それは「墓」です。それは土のちりの中にあります。それは寝床に横たえるように死体のおかれる暗い場所であり,穴であって,そこには朽ちてゆく死体にわくうじがいます。そこに葬られた者は自分を自由にできないという意味において,陰府には関門があります。英国王ジェームスの認可した欽定訳聖書は,ヘブライ語の陰府シェオールのかわりに「墓」および「穴」という言葉を使っています。
2 詩篇 141篇7節においては,人が死んで残すどんなものが,陰府と結びつけられていますか。
2 木こりが木のくずや枝を散らかすことを連想しながら,ダビデは次のことを書いています。「人が岩を裂いて地の上に打ち砕くように,彼らの骨は陰府の口にまき散らされるでしょう」。(詩 141:7)英語欽定訳聖書は,陰府のかわりに「墓」という言葉を使っています。その表現通り,埋葬の前に骨は墓の口に散らされます。
3 イザヤ書 28章15節から18節は,陰府が墓であることをどのように示していますか。
3 神に敵対する者について述べた言葉の中で,預言者イザヤは(生命ではなく)死を陰府と結びつけて,次のことを述べています。「なんぢらは言へり,われら死と契約をたて陰府とちぎりを結べり漲りあふるる禍害のすぐるときわれらに来らじ……このゆえに神エホバかくいひたまふ……なんぢらが死とたてし契約はきえうせ陰府と結べるちぎりは成ることなし,されば漲りあふるるわざはひのすぐるとき汝等はこれにふみたふさるべし」。(イザヤ 28:15-18,文語)この言葉をみても,陰府は死んだ人間の墓であることがわかります。墓は死の場所だからです。
4 陰府が低いところである事は,イザヤ書 57章9節においても,どう示されていますか。
4 イザヤ書 57章9節も,陰府が低いところであり,その低いことにおいて墓と同様であることを示しています。ユダヤ人のユダの国が異邦を誘ってユダと政治的な同盟を結ばせようとしていることを述べてのち,この預言は,「あなたは,におい油を携えてモレクに行き,多くのかおり物をささげた。またあなたの使者を遠くにつかわし,陰府の深い所にまでつかわした」と,述べています。神の目から見るとき,不忠実なユダの国は異邦との政治的な交渉において,恥ずべき深みに陥ったため,王をいただく独立国の地位を失いつつあり,墓における死の宣告を身に招こうとしていました。
5 (イ)低いことと陰府とは,詩篇 86篇12,13節においてどのように結びつけられていますか。(ロ)詩篇 88篇2節から6節は,埋葬,穴,力の喪失と陰府をどのように結びつけていますか。
5 深いところ,また死を陰府と結びつけて,詩篇 86篇12,13節は次のように述べています。「主〔エホバ〕わが神よわれ心をつくして汝をほめたたへ,とこしへに聖名をあがめまつらん そはなんぢのあはれみはわれに大なり,わがたましひを陰府のふかき処よりたすけいだし給へり」。(文語)詩篇 88篇2節から6節において,埋葬の場所,穴,力の喪失が陰府と結びつけられています。「わたしの祈るみ前にいたらせ,わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしの魂は悩みに満ち,わたしのいのちは陰府に近づきます。わたしは穴に下る者のうちに数えられ,力のない人のようになりました。すなわち死人のうちに捨てられた者のように,墓に横たわる殺された者のように,あなたが再び心にとめられない者のようになりました。彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。あなたはわたしを深い穴,暗い所,深い淵に置かれました」。
6 詩篇 116篇3節および7節から10節は,陰府が墓であることを示すどんな証拠を加えていますか。
6 陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)は,死んだ人間一般の墓です。この事を示す聖書中の多くの証拠のひとつとして,詩篇 116篇3節および7節から10節をあげることができます。「死の縄われをまとひ陰府のくるしみ我にのぞめり,われは患難とうれへとにあへり わが霊魂よなんぢの平安にかへれ,エホバは豊になんぢをあしらひたまへばなり 汝はわがたましひを死より,わが目をなみだより,わが足をつまづきよりたすけいだしたまひき われは活けるものの国にてエホバの前にあゆまん われ大になやめりといひつつもなほ信じたり」。(文語)この句の中で,何時も陰府と結びつけられているのは不滅の生命ではなくて死です。その事に注目して下さい。クリスチャンとしての苦しみにあっていた時の使徒パウロは,コリント後書 4章13,14節において詩篇 116篇10節のこの言葉を引用し,イエスの死からの復活にそれを結びつけています。
7 サムエル後書 22章6節および詩篇 18篇4,5節によれば,ダビデはどのように墓にひき込まれそうになりましたか。
7 詩篇を書いたダビデは,死の墓に引き込まれそうになったことがありました。それで前節に引用したのと同様な言葉を用いて,「陰府の綱はわたしをとりかこみ,死のわなはわたしに,たち向かった」と述べています。(サムエル後 22:6)この同じ経験について,ダビデは詩篇 18篇4,5節に,「死の綱は,わたしを取り巻き,滅びの大水は,わたしを襲いました。陰府の綱は,わたしを囲み,死のわなは,わたしに立ちむかいました」と書いています。ダビデは殺されそうになり,死んだ人間一般の墓である陰府にはいるばかりになりました。しかしダビデは全能の神を呼び求め,死と陰府あるいは黄泉から救われました。それはエホバ神の力によって,死から復活したかの如くでした。―詩 18:8-19。
8 三日間魚に呑まれていた預言者ヨナは,その経験を何にたとえていますか。
8 預言者ヨナはあらしの海で巨大な魚に呑まれ,三日目にようやく陸に吐き出されました。この巨大な海の怪物の腹は,ヨナにとって墓のようなところでした。そこでヨナの経験は次のようにしるされています。「ヨナ魚の腹の中よりその神エホバにいのりて 曰けるはわれ患難の中よりエホバを呼びしに彼われにこたへたまへりわれ陰府の腹の中より呼はりしに汝わが声を聴たまへり われ山の根もとまで〔魚の中に〕下れり 地の関木〔墓のかんぬきのように〕いつも我うしろにありき 然るに我神エホバよ汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり」。(ヨナ 2:1,2,6,文語)三日の間ヨナは墓すなわち陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)に死んでいたも同然でした。自身の死と埋葬について述べた主イエス・キリストの言葉は,その事を示しています。「すなわち,ヨナが三日三晩,大魚の腹の中にいたように,人の子も三日三晩,地の中にいるであろう」― マタイ 12:40。
9 ヨナが魚の腹から救われたことは,何を預言的に示していましたか。陰府からの救いは,だれによって可能ですか。
9 三日目に預言者ヨナを大魚の腹の中から奇跡的に救い出したのは,エホバという名をお持ちになる全能の神でした。この同じ神エホバは,忠実な預言者イエス・キリストを,三日目に「地の中」からひき上げました。ゆえにヨナの救いは,神のみ子が死から復活することを預言的に表わしていたのです。イエス・キリストは復活してのち,「死と黄泉のかぎ」を与えられました。それは黄泉(ヘーデース)あるいは陰府(シェオール)に死んでいる他のすべての人をよみがえらせるためです。イエス・キリストは神に用いられてその事をします。だれにしても,自分自身の手段や方法によって陰府あるいは黄泉すなわち死んで土の塵になる人間の墓から出ることはできません。
10 (イ)陰府において人間が無力なことは,詩編 89篇47,48節,ヨブ記 7章8,9節にどう示されていますか。(ロ)それでハルマゲドンを生き残る人々は,陰府に下る事をどのように免れますか。
10 エズラ人エタンの詩篇は,この事実を痛感した言葉をエホバ神にむかって次のように述べています。「人のいのちの,いかに短く,すべての人の子を,いかにはかなく造られたかを,みこころにとめてください。だれか生きて死を見ず,その魂の陰府の力から救いうるものがあるでしょうか」。(詩 89:47,48)ゆえに今日,献身したりクリスチャンが,きたるべきハルマゲドンの戦いを通過して正義の新しい秩序に生き残り,地上に永遠に生きる機会を得ることは,彼らを守って生きながらえさせる神の奇跡的な力に全く依存しているのです。同じく,死んで陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)に葬られた人が,死と腐朽のその場所から自分の力で出ることはできません。預言者ヨブは命とりになると思われた病いに苦しんだとき,人間のこの無力を悲しんで次のように述べました。「わたしを見る者の目は,かさねてわたしを見ることがなく,あなたがわたしに目を向けられても,わたしはいない。雲が消えて,なくなるように,陰府に下る者は上がって来ることがない」― ヨブ 7:8,9。
11 (イ)詩篇 49篇7節から10節は,富んだ人にもどんな力がないことを示していますか。(ロ)15節は,神のみがどんな奇跡を行ない得ることを示していますか。
11 今日地上でいちばん富んだ人がその全財産を投げ出しても,死と墓を免れることはできません。また自分はおろか,兄弟のために,陰府(シェオール)または黄泉(ヘーデース)からの復活を,金銭の力によって可能にすることはできません。詩篇 49篇7節から10節は,この事実を告げています。「まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。とこしえに生きながらえて,墓を見ないためにそのいのちをあがなう……ことができないからである。まことに賢い人も死に,愚かな者も,獣のような者も,ひとしく滅んで,その富を他人に残すことは人の見るところである」。霊感を受けて詩篇を書いた人は,富をたのみにせず,全能の神エホバにより頼みました。「しかし神はわたしを受けられるゆえ,わたしの魂を陰府の力からあがなわれる」― 詩 49:15。
12 (イ)詩篇 30篇2,3節において,ダビデは何のゆえに神を賛美していますか。(ロ)ハンナはサムエル前書 2章6節において,エホバ神のどんな力を述べていますか。
12 死んで葬られることは確実と思われた病気から回復したとき,ダビデは感謝の賛美を神にささげて次の詩篇を書きました。「わが神エホバよ,われ汝によばはれば汝われをいやしたまへり エホバよ汝わがたましひを陰府よりあげ,我をながらへしめて墓にくだらせ給はざりき」。(詩 30:2,3,文語)ダビデのこの神は,時のこないうちに人が死んで墓に下るのをとどめるだけでなく,陰府(シェオール)または黄泉(ヘーデース)に死んでいる人をよみがえらせることもできます。神はみ子イエス・キリストの場合に,その事をされました。預言者サムエルの母はこの事実を述べています。「エホバは殺し又生し給ひ 陰府に下しまた上らしめ給ふ」。(サムエル前 2:6,文語)イエスの母マリヤも,このような思いを抱いてエホバを賛めました。―ルカ 1:46-55。
死,それとも意識のある生命,いずれが真実か
13 聖書ほん訳者の多くは,シェオールとヘーデースをどんな英語の言葉に訳しており,その真実の意味を明らかにしていますか。
13 このように聖書の提出する証拠は,きわめて豊富かつ簡明であって,疑問の余地を残しません。聖書にいう陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)は,死んだ人間一般の墓です。この理由で多くの聖書ほん訳者は,これら二つの言葉を英語の「墓」という言葉,それも(ひとつひとつの墓ではなく)集合的な意味での墓という言葉に訳しています。欽定訳すなわちジェイムス王訳の中で,ヘブライ語シェオールを「墓」と訳した箇所は31回,「穴」と訳した箇所は3回あります。またギリシャ語ヘーデースは(コリント前書 15章55節において)1回だけ「墓」と訳されています。それにもかかわらず,キリスト教国の宗教家は何世紀ものあいだ,ヘーデースが火の苦しみの場所であると教えてきました。そこでシェオール(陰府)あるいはヘーデース(黄泉)に死んでいる人々はどんな状態にあるか,という質問をしなければなりません。人間は不滅であり,従って陰府あるいは黄泉においても生きていて,意識がありますか。それとも死んだ人は死んでいるのであって,どこにも存在していませんか。キリスト教国の牧師の言葉ではなく,神のことば聖書はこの質問に何と答えていますか。
14,15 伝道の書 9章4節から6節,10節によれば,陰府にいる人々はどんな状態におかれていますか。
14 エホバ神からとくに知恵をさずけられたソロモン王は,伝道の書 9章4節から6節また10節において次のように答えています。「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は,死せるししにまさるからである。〔たとえ犬のようであっても〕生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし,〔たとえししのようであっても〕死者は何事をも知らない,また,もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも,ついに忘れられる。その愛も,憎しみも,ねたみも,すでに消えうせて,彼らはもはや日の下に行われるすべての事に,永久にかかわることがない。すべてあなたの手のなしうる事は,力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には,わざも,計略も,知識も,知恵もないからである」。
15 これによれば陰府に死んでいる人はたしかに死んでいるのであって,「中間的な存在」におかれているという事もありません。「何事をも知ら」ず,愛,憎しみ,ねたみなどの強い感情も「消えうせ」,知識も知恵もなく,わざも計略もないとすれば,たしかに死んでいるのであって,どこかに存在しているのではありません。陰府にいる人が「死者」と呼ばれ,生命ではなくて死が陰府と結びつけられているのも当然です。
16 (イ)詩篇 6篇4,5節によると,陰府においてはだれのことを語り,また思うことがありませんか。(ロ)イザヤ書 38章17節から19節によれば,39歳のヒゼキヤ王はなぜ死ぬことを望みませんでしたか。
16 陰府に死んでいる人は,神のことを考えたり,神について語ることもありません。それで敬虔なダビデは,次の祈りを詩篇に書きました。「エホバよ帰りたまへ,わがたましひを救ひたまへ,なんぢの仁悲の故をもて我をたすけたまへ そは死にありては汝をおもひいづることなし,陰府にありては誰かなんぢに感謝せん」。(詩 6:4,5,文語)39歳のヒゼキヤ王は,死を免れたとき,同じような感慨を抱きました。ヒゼキヤ王は救い主である神に次のことを述べています。「あなたはわが命を引きとめて,滅びの穴をまぬかれさせられた。これは,あなたがわが罪をことごとく,あなたの後に捨てられたからである。陰府は,あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は,あなたのまことを望むことはできない。ただ生ける者,生ける者のみ,きょう,わたしがするように,あなに感謝する」。(イザヤ 38:17-19)15年後にヒゼキヤは死んで陰府に行きました。そのときエホバを賛美することはできず,また意識もなくて神に望みをおくことはできませんでした。しかしヒゼキヤは陰府から復活する希望を抱いて死にました。
17 死者は生きており,神から離れているに過ぎないという牧師の教えの間違いは,詩篇 139篇7,8節および箴言 15章11節からどのように証明されますか。
17 これを考えれば,陰府あるいは黄泉にいる人々が不滅の生命を持ち,神から離れているという意味で死んでいるに過ぎないと論ずるキリスト教国の牧師の論はばかげています。その論は,ダビデがエホバ神に述べた詩篇の次の言葉と一致しません。「わたしはどこへ行って,あなたのみ前をのがれましょうか。わたしはどこへ行って,あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても,あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても,あなたはそこにおられます」。(詩 139:7,8)ダビデ王の子ソロモンの箴言 15章11節も,この事実を裏づけています。「陰府とほろびとはエホバの目の前にありまして人の心をや」。(文語)人の心にあるものを知るエホバは,陰府にいる者を知っています。
18 アモス書 9章1,2節は,神のみ霊がどこに及んでいることを示していますか。
18 エホバ神のみ霊すなわち活動力は,あらゆるところに及び,陰府もその例外ではありません。アモス書 9章1,2節の預言は,エホバ神の次のことばをしるしています。「そのひとりも逃げおおす者はなく,のがれうる者はない。たとい彼らは陰府に掘り下っても,わたしの手はこれをそこから引き出す。たとい彼らは天によじのぼっても,わたしはそこからこれを引きおろす」。ここで天と陰府はそれぞれの高さと低さとのゆえに対照されています。人が陰府に掘り下ると言えるのはなぜですか。それは陰府が,人々の住み,墓の掘られるこの地にあるからです。
19 ヨブ記 26章5節から7節は,陰府に関する神の知識をどのように示していますか
19 陰府また黄泉にいる者にもエホバの目は届き,その力は及んでいます。死病と思われた病気にとりつかれたヨブが,地球の創造主に関して述べた言葉は,その事を強調しています。「亡霊は水およびその中に住むものの下に震う。神の前では陰府も裸である。滅びの穴も〔神から〕おおい隠すものはない。彼は北の天を空間に張り,地を何もない所に掛けられる」。(ヨブ 26:5-7)ゆえに陰府は,その死人を神の目からおおい隠すことができず,神の前では裸なのです。神は陰府にいる者をご存知です。
20,21 陰府にいる人々に関するどんな事実のゆえに,ヨブはヨブ記 14章12節から15節において,自分を陰府にかくして下さいと,神に祈りましたか。
20 忍耐の人ヨブは紀元前16世紀の人ですが,陰府にいる者は本当に死んでいるのであり,楽しみを味わうこともないかわりに苦しみも感ぜず,無意識である事を知っていました。それで恥さらしの,苦しい病気が死によって終わり,人々の視線を逃れて陰府に横たえられることを願ったのは,ヨブにとって自然のことでした。それでヨブはエホバ神に次の祈りをしています。
21 「人は伏して寝,〔自分の力では〕また起きず,天のつきるまで,目ざめず,その眠りからさまされない。どうぞ,わたしを陰府にかくし,あなたの怒りのやむまで,潜ませ,わたしのために時を定めて,わたしを覚えてください。人がもし死ねば,また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間,わが解放の来るまで待つでしょう。あなたがお呼びになるとき,わたしは答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう」― ヨブ 14:12-15。
22 ヨブは,陰府が「帰らざる国」であるとは信じていませんでした。その事はヨブ記 14章12節から15節のヨブの言葉から,どのように明らかですか。
22 この言葉に照らしてみるとき,陰府(シェオール)〔黄泉(ヘーデース)七十人訳〕はヨブにとって「帰らざる国」ではありません。神は陰府にいる死者を忘れず,見捨てることをしません。ヨブの神は陰府にいる者をおぼえ,その定めの時に,この人類共通の墓から死者をよみがえらせ,眠りからおこすように死から呼びおこします。それで病苦の中にあったヨブは,肉体の苦しみを終わらせるため,死んで陰府に横たえられる事を望み,神のみ手によって生命を取られるならば本望であると考えたのです。ヨブは神の怒りを受けていると感じました。それで陰府に葬られることを許されるならば,ヨブは神の怒りのやむまで,そして神が陰府にいる者を顧み,死から復活させてまさった生命を与える時のくるまで,陰府にかくされることになるでしょう。
23 復活のとき,ヨブはだれの声を聞きますか。エゼキエルとヤコブは,ヨブのことをどのように述べていますか。
23 ヨハネ伝 5章28,29節にあるイエスの言葉通り,ヨブは神の子の声を聞き,イエスの声に従って記念の墓から復活することでしょう。ヨブが陰府に下っておよそ900年後,エホバ神はエゼキエル書 14章14,20節の預言においてヨブを正しい者の一人にあげています。またキリストの弟子ヤコブも,クリスチャンのならうべき忍耐の手本としてヨブをあげています ― ヤコブ 5:11。
24 今までにしらべた事から,陰府および黄泉とその中にいる人々の状態について何が明らかですか。
24 今まで「ものみの塔」を読んだところでは,陰府あるいは黄泉に関して問題の全容をしらべたわけではありません。しかし陰府にいる人々に関して聖書が希望を与えているという事実は印象づけられました。陰府に死んでいるすべての人は実際に死んでいるのであり,全く無意識であって,存在を絶たれています。聖書的に言えば,陰府あるいは黄泉は死んだ人間一般の墓だからです。それは一つの墓,一つの記念碑ではなく,死んで土の塵の中に横たわった無数の人の共通の墓です。それは人が死んで葬られるたびに大きくなって行きます。それは無数の死人を呑み込んで,なおあきることがありません。
陰府あるいは黄泉はたゞ一つ
25 箴言 30章15,16節および雅歌 8章6節は,飽くことを知らない陰府あるいは黄泉について,何を述べていますか。
25 昔の賢い王はこの事実を見て,次のように書きました。「飽くことを知らないものが三つある。いや,四つあって,皆『もう,たくさんです』と言わない。すなわち陰府,不妊の胎,水にかわく地,『もう,たくさんだ』といわない火がそれである」。(箴言 30:15,16)罪と死に定められた人間を陰府に迎えることを求めてやまない陰府の強さは,専心の献身を求めてやまない愛にくらべられています。この同じ賢人は次のように書きました。「そは愛は強くして死のごとく,ねたみは堅くして陰府にひとし,その焔は火のほのほのごとし,いともはげしき焔なり」。(雅歌 8:6,文語)死は,罪に定められた人間の生命を求め,陰府は人間のからだを求めます。
26 (イ)古代バビロンの王の野心は,ハバクク書 2章5節において何とくらべられていますか。(ロ)イザヤ書 5章14,15節は,陰府をどのように描いていますか。なぜですか。
26 国々と人々を征服することを求めてやまなかった古代バビロンの王の野心は,死の犠牲者を求めてあくことのない陰府にたとえられています。バビロンが世界強国となる途上にあって隆盛にむかい,エルサレムをおびやかす存在となったとき,エホバの預言者ハバククは,バビロンの王朝について次のことを書きました。「また,酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって,飽くことなく,万国をおのれに集め,万民をおのれのものとしてつどわせる」。(ハバクク 2:5)象徴的に言って,陰府には,多くの人を一時に呑み込む大きな口があります。預言者イザヤの次の言葉には,この考えが盛られています。「〔多くの人がエホバ神を知る知識のないために滅びるゆえ〕陰府はその欲望を大きくし,その口を限りなく開き,エルサレムの貴族,そのもろもろの民,その群衆およびそのうちの喜びたのしめる者はみなその中〔陰府〕に落ちこむ」― イザヤ 5:14,15。
27 (イ)ヘーデースと個々の埋葬の場所は,数においてどのように異なりますか。(ロ)このような墓の多くは消滅したとしても,シェオールについては何が言えますか。
27 陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)は,死んで土の塵に戻った人間一般の墓であるゆえに,きわめて当然のことながら聖書はただ一つの陰府あるいは黄泉のことを述べているに過ぎません。しかし墓は沢山あることが聖書に示されています。預言者モーセに不平を言った昔のイスラエル人の言葉は,その例です。「エジプトに墓がないので,荒野で死なせるために,わたしたちを携え出したのですか」。(出エジプト 14:11)およそ9世紀ののち,預言者エゼキエルは,バビロンに捕われて希望を失ったかに見えた神の民に次のことを告げました。「主エホバかく言たまふわが民よ我等の墓をひらき汝らをその墓より出きたらしめてイスラエルの地に至らしむべし わが民よ我汝等の墓を開きて汝らをその墓より出きたらしめる時汝らは我のエホバなるを知ん」。(エゼキエル 37:12,13,文語)今までに数知れず多くの墓が掘られましたが,その多くは形跡さえ残していません。しかし一つの陰府あるいは黄泉は残り,人間が死ぬかぎり死人を呑み込んで大きくなって行きます。
28 陰府あるいは黄泉の働きについて,どんな疑問が生じますか。確かな答えはどこから得られますか。
28 しかしあくことを知らない陰府あるいは黄泉は,何時までも人間のからだを呑むことをやめないのですか。その中に陥った人間の犠牲者をとらえて離さないのですか。それはアダムの子孫の上に永久に勝ち誇るのですか。最初の父である罪人アダムから人類が受けついだ死を何時までも証しつづけるのですか。これらの問いに対して確かな答えを与えることができるのは,人間の創造主エホバ神をおいて他にはありません。その答えはホセア書 13章14節の預言の中に示されています。「我かれを陰府の手より贖はん我かれらを死より贖はん死よなんぢの疫は何処にあるか陰府よ汝の災は何処にあるか悔改はかくれて我が目にみえず」。(文語)
29 (イ)アメリカ訳など,一部の聖書は,ホセア書 13章14節をどんな形に訳していますか。(ロ)しかしこのようなほん訳においても,どんな問いの答えは与えられていませんか。
29 ホセア書 13章14節を4つの質問の形に訳した聖書のほん訳もあります。たとえば口語訳では,「わたしは彼らを陰府の力から,あがなうことがあろうか。彼らを死から,あがなうことがあろうか。死よ,おまえの災はどこにあるのか。陰府よ,おまえの滅びはどこにあるのか」となっています。(ほかにアメリカ訳)これらの節の前の部分を読むならば,最初の二つの問いに対しては明らかに否定の答えが出ます。神は陰府の手すなわち力から不従順なイスラエル人を救わず,彼らを死からあがなわないでしょう。神はあわれみを示すことなく,ご自身悔い改めることなく,不従順な者が死んで陰府の手にとらえられるに任せます。ゆえに神は死の災がどこにあり,陰府の滅びがどこにあるかをたずねます。陰府と死よ,来て不従順な者を悩まし,滅ぼしなさい。しかしホセア書 13章14節口語訳(またアメリカ訳)の場合にも,次の問いが残されています。死が彼らに災を下し,陰府が彼らを滅ぼしてのち,神は彼らをどうしますか。神は,死と陰府の力の中に彼らを永久にとどめておきますか。それとも神は定めの時に彼らをよみがえらせますか。
30,31 (イ)コリント前書 15章54節から57節において,パウロはだれにとって有利な答を出していますか。(ロ)勝利はイエス・キリストを通してどのように得られますか。この事から私たちはどんな気持ちを抱いて,この研究を更にすすめることができますか。
30 クリスチャン使徒パウロは,死者の復活があることを霊感によって示しています。復活に関して驚くべき事柄を論じた章の中で,パウロは次のように書いています。「〔そのとき〕聖書〔イザヤ書 25章8節〕に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ,おまえの勝利は,どこにあるのか。死よ,おまえのとげは,どこにあるのか』。死のとげは〔アダムから受け継がれた〕罪である。罪の力は〔モーセを通して与えられ,すべての人を罪に定めた戒めから成る〕律法である。しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである」。(コリント前 15:54-57)そうです,全能の神は死を永久に呑み,その勝利を空しくすることができます。神は19世紀前,死と陰府からみ子イエス・キリストを復活させ,この力を持つことを示されました。事実イエス・キリストの復活は,約束された神の国において治める王イエス・キリストにより,神が人類一般を復活させることの保証です。
31 ゆえに私たちは大きな希望を抱いてこのすばらしい事柄の探究をつづけ,だれが死から復活するかという問題を次に考慮できます。