エホバに対するあなたの良心
「肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること」― ペテロ前 3:21,新。
1 (イ)キリストの弟子はどんな肝要な事柄を知っていますか。(ロ)彼らはどんな決定を下しましたか。(ハ)どうしてバプテスマは従順の第1段階と言えますか。
弟子は教えられた者ですから,イエスの命じた事柄を知っています。したがって彼らは,エホバのクリスチャン組織の道徳規準を尊重する義務,また良いたより,つまりエホバの御国の音信を携える宣教に関し聖書に述べられている責任や要求についても知っています。献身の決定および献身の行為は,献身を表わす水の浸礼に常に先行します。ですから,バプテスマは資格のある人が取る,従順の最初の段階です。献身の象徴を通して,弟子は神との密接な良い関係を求める願いを表明するのです。
2,3 バプテスマにおいて,弟子はどんなことを神に求めるのですか。
2 『それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父の名によってバプテスマを施しなさい』。(マタイ 28:19,新)この命令は,正しくバプテスマを施された弟子が導きいれられる,エホバとの密接な関係を示しています。すでに調べたように,水のバプテスマは,「肉の汚れを除く」ことを表わすものではありません。それは,ヨハネ第一の書 1章7節と黙示録 1章5節に述べられている,イエスの血によってわたしたちが罪から洗われたことを表わすものではありません。そうではなく,水のバプテスマは「神に対して良心を求めること」を表現するものです。「むかしノアの箱舟が造られていた間,神が寛容をもって待っておられた…その箱舟に乗り込み,水を経て救われたのは,わずかに八名だけであった。〔この水に相当するもの,つまりバプテスマ(肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通じて今あなたがたを救っている〕」。(ペテロ前 3:20,口語,21〔新〕)ノアの時代に全地をおおった洪水が水のバプテスマを思わせると述べたペテロは,洪水の前に箱舟にはいり込むことの実体は,彼が行なうように命令されたもの,すなわち水のバプテスマであると語っていたのです。しかし,それはなぜ「神に対して良心を求めること」になりますか。
3 それは,神に対するまったき献身のうちにイエス・キリストを通して自分を神にささげることによって神に求める願いです。この点に関して,「新約聖書に見られるすぐれた叙述」第6巻の中で,A・T・ロバートソン博士は次のように述べています。「よく吟味してなされた,神に対する聖別の誓い,これがここの意味であろう。つまり,悔い改めて神に帰ったのであるから,今度はその事実をバプテスマ(それ以前に起こった,心の内面的な変化の象徴)によって,公に宣言するのである」。
4 良心に関して,弟子は「過ぎにし日」からどのように変わりますか。
4 したがって,弟子 ― あなたが弟子であるなら,あなたも含まれます ― の神に対する良心はかつては悪いものでしたが,今や救いの良いたよりを受けいれたため,神に対して良心を願い求めるようになり,そのために,まったき献身のうちに神に自分をささげ,良心を持てるよう神に求めるのです。「なんぢら過ぎにし日は,異邦人の好む所をおこなひ,…もはや足れり」。(ペテロ前 3:21–4:6)献身によって,わたしたちは良心を持てるよう神に願いをなし,その願いは献身の後,水のバプテスマによって達成されます。そういう理由に基づいて,わたしたちは水のバプテスマによって献身を表わし,その結果,求めていた良心を得るのです。神のこのバプテスマにかかわるすべての取り決めにより,わたしたちはこの罪深い,良心を持たない,滅びに定められた人類の世から切り離され,解放されるのです。あなたは神の前に良心を持ちたいと願いますか。しかし,神に対する献身もせず,水のバプテスマも受けずして,そうした良心が得られると思いますか。
5 良心に従って,まず最初にだれの名前によって弟子はバプテスマを受けますか。その理由は。
5 これはエホバとの密接な関係を示すものであり,弟子はまず最初にそのお名前によってバプテスマを施されます。献身した人は,多くの教会が聖書の示す事実として受けいれなくても,神が父であることを認めねばなりません。その御父の名前は擁護されねばなりません。「エホバという名前を持たれるあなただけが全地の至上者であられる」からです。(詩 83:18,新)また,「命の源はあなたにあるからです」― 詩 36:9,新。
子の名によって受けるのはなぜか
6 (イ)御子はご自分の公式の権威をだれから受けましたか。(ロ)なぜ子の名によってバプテスマを受けるのですか。
6 この御父には,深く愛しておられる御子があります。「それゆえ,行って,…弟子とし,…子…の名によってバプテスマを施し」なさい。(マタイ 28:19,新)わたしたちは御子の足跡に従うべきであり,彼について,ピリピ書 2章9-11節はこう述べています。「神は彼を高く上げて,これにもろもろの名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの,地に在るもの,地の下にあるもの,ことごとくイエスの名によりてひざを屈め,かつもろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして,栄光を父なる神に帰せんためなり」。バプテスマを受ける行為は,神の御子の示された模範に従うことであり,御子は従うのにふさわしいかたです。なぜなら,その天の御父はこう述べておられます。「視よ われ彼をたてゝもろもろの民の証とし またもろもろの民の君となし 命令する者となせり」。(イザヤ 55:4)「(彼には)『王の王,主の主』と記せる名あり」。(黙示 19:16)「神は唯一なり,また神と人との間の中保も唯一にして,人なるキリスト・イエスこれなり」― テモテ前 2:5。
7 (イ)御子はなんの原となられましたか。(ロ)弟子はバプテスマの際,どのような認識を示しますか。
7 わたしたちが望み,かつ信頼している救いは,エホバの偉大な備えとしてのキリスト・イエスに依存しており,わたしたちがその救いにあずかるため,彼は祭司の職務をつかさどることになります。パウロの次のことばは,この点を明らかにしています。「すべて己に順ふ者のために永遠の救の源となりて,神よりメルキゼデクの位に等しき大祭司ととなへられ給へり」。(ヘブル 5:9,10)したがって,この高い位を持つかたの名前によって浸礼を受けることは,エホバに対する献身に,その御子への認識が伴っていること,また,エホバとの関係が御子キリスト・イエスを介している事実を認識していること,さらに,御子の主としての地位を認めて,御父なる神に栄光をもたらしていることを示すものです。水につかることではなく,キリストの犠牲がわたしたちの救いと罪の許しの原となることがよく理解されます。ですから,御子の権威ある職務,すなわち大祭司としての役割を認めるのは喜びです。
8 知識を得ることに加えて,弟子には何が要求されていますか。
8 弟子は御子の追随者として,行ないや道徳に関する聖書の要求を知るだけでなく,個人生活をすべての面にわたって,神のみことばに述べられている高い規準に従わせ,その要求にそった生活を送らねばなりません。さらに,聖書の原則に反した行ないや宗教また企てから手を切らねばなりません。バプテスマを受けることを望む人はまず,少なくとも聖書の基本的な教えについての正確な知識を得なければなりません。このことは,最初に弟子を作り,その後その人々にバプテスマを施せというイエスの指示に一致します。
弟子に対する確かなささえ
9 第三にどんな名によって,弟子はバプテスマを受けるかを説明しなさい。
9 「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,……聖霊……の名によって彼らにバプテスマを施し……なさい」。(マタイ 28:19,新)聖霊は人格ではなく,エホバの御心を成し遂げ,かつ弟子がエホバに対する献身を忠実に果たすのに不可欠な,エホバ神の活動力です。イエスの述べた次のことばは,聖霊に関するものです。「われ父に請はん,父は他に助主をあたへて,永遠に汝らとともに居らしめ給ふべし。これは真理の御霊なり」。(ヨハネ 14:16,17)神のみことばはクリスチャンの導きとなるため,「霊の剣」と言われています。(エペソ 6:17,新)同様に,ペテロは聖書を神の霊と関係づけて述べています。「預言はどんな時にも人の意志によってもたらされたものではなく,人々が聖霊に導かれ,神から語ったものである」― ペテロ後 1:21,新。
10 (イ)聖霊を通して成し遂げられることを幾つか述べなさい。(ロ)その名によってバプテスマを受けるとは何を意味しますか。(ハ)新しい弟子は何を活用できますか。それはバプテスマとどんな関係にありますか。
10 神の霊はみことば聖書を備え,真理のみことばを保存し,それを明らかにし,神のしもべにそれを理解させ,神のみことばの宣教を行なう権限を,キリスト・イエスの追随者に付与します。(コリント前 2:10)聖霊の名によって正しくバプテスマを受けた人は,良いたよりの奉仕者としてクリスチャンに義務が課せられていること,それゆえ奉仕者は,他の人々を弟子とし,次いで彼らを教える,世界的な大きなわざにあずからねばならないことを認識しなければなりません。これは,神の民の会衆と協力すること,また,会衆を通して設けられるすべてのすぐれた備えを活用しながら,会衆と交わることを意味します。神の霊はその会衆に宿り,その中のすべての人の霊的福祉を図ります。事実,弟子となることを熟慮し,エホバに献身するところまで来た人は,会衆の組織の中で奉仕の地位にあるしもべたちとともに,「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する出版物を検討することができます。ものみの塔協会の出版したこの教訓的な出版物には,聖書の基本的な80の教えが収められています。それを一つ一つ討議してください。そうすれば,浸礼希望者とクリスチャン会衆の彼の仲間を含め全員が,献身を表わしたいと望んでいる人に,神のみことばのそれらの基本的な教えに対する理解と認識があることを知ります。
11 霊の神聖さはどれほど重要ですか。
11 バプテスマが聖霊の名によること,神のみことばは聖霊によって備えられ,かつ保存されてきたこと,さらに神の霊は神聖なものであり,悪霊からのものではないことに対する認識は,聖霊の導きに逆らわずに従うためには重要です。
12 悪霊に源を発する教理と違って,弟子はどんな基本的な真理を知らねばなりませんか。
12 クリスチャンのこうした正しいふるまいは,公私の別を問わず,生活のあらゆる面に関係するため,聖書の基本的な教えをそのように検討することが必要となるのです。その教えには,御国・祈り・今日のクリスチャン宣教・会衆・神とクリスチャンとの敵・サタン悪魔・悪霊・ハルマゲドン・魂・罪・復活・正しいふるまい・道徳的な清さ・血の神聖さ・家族内での神権的なふるまい,そして神のしもべである仲間と一般の人々に対するクリスチャン個人の関係などが含まれます。さらに,神に献身した人が,その象徴としてなぜバプテスマを受けねばならないかも知らねばなりません。
13 ヨエル書 2章28,29節はどのように成就していますか。それは30-32節に関するどんな前兆となっていますか。
13 聖霊の名によってバプテスマを受けることには,ヨエル書 2章28,29節の預言の成就に対する認識も伴います。「われわが霊を一切の人に注がん 汝らの男子女子は預言せん 汝らの老たる人は夢を見,汝らの少き人は異象を見ん その日我またわが霊をしもべ しもめに注がん」。神の霊が,ペンテコステの際に集まっていたご自分の民に注がれたとき,この預言は初期クリスチャン会衆の上に最初の,かつ部分的な成就を見ました。(使行 2:1-4)ヨエルの預言は今日その完全な成就を遂げています。「終わりの時」の今,献身した神のしもべたちに神の霊が最終的に注がれていることは,ヨエルの預言の残りの部分,つまり,エホバとその御国に敵対している巨大な世界的組織の崩壊が必ず成就する前兆になっています。(ヨエル 2:30-32。ダニエル 12:4)バプテスマを受ける人はこの点に関する認識を持たねばならず,その認識に基づき,聖霊に一致した奉仕を行ない,エホバに献身していない人類のこの世の組織から離れなければなりません。
弟子たちで構成される群衆に宿る真価
14 ペテロ前書 4章12-14節の原則と,黙示録 7章9,10節の『大いなる群衆』との関係を説明しなさい。
14 「愛する者よ,汝らを試みんとて来れる火のごとき試煉を異なる事として怪しまず,反ってキリストの苦難にあづかれば,あづかるほど喜べ,なんぢら彼の栄光のあらはれん時にも喜び楽しまん為なり。もし汝らキリストの名のためにそしられなば幸福なり。栄光の御霊,すなはち神の御霊なんぢらの上に留まり給へばなり」。(ペテロ前 4:12-14)初期クリスチャン会衆に書き送られたこのことばに宿る原則は,今日弟子となる人々にも当てはまります。そのような人は少しも不思議に感ずる必要はありません。事態を理解し,エホバが敵に対して行動を取られるのを見るのです。エホバにささえられて忠誠を保ち,黙示録 7章9,10節に示されている大いなる群衆の真価を発揮できるよう,弟子たちは祈りの特権を十分に活用します。「この後われ見しに,視よ,もろもろの国・族・民・国語の中より,たれも数へつくすこと能はぬ大なる群衆,しろき衣をまとひて手にしゅろの葉をもち,御座とこひつじとの前に立ち,大声に呼はりて言ふ『救は御座に坐したまふ我らの神とこひつじとにこそ在れ』」。
15 黙示録 7章9,10節の『大いなる群衆』の出所は,イエスのバプテスマに関する命令をどのように確証するものですか。
15 『大いなる群衆』の出所は,『もろもろの民』ですから,イエスの命令に従って,すべての国民が弟子とされている事実を確証していることになります。黙示録 7章の『大いなる群衆』は,献身して,バプテスマを受けた人々,すなわち地上の楽園に対する希望をいだく,キリストの弟子たちによって構成されています。したがって,その恵まれた部類の人々の中にはいるためには,このような崇拝の段階を踏まねばならないのです。
16 黙示録 7章9,10節の『大いなる群衆』の発揮する真価はなんですか。
16 献身した弟子は,サタン悪魔が自分の組織を用いてもたらす迫害の的となります。ですから,忠誠を保ち,そのかん難を耐え忍び,エホバ神を至上者として忠実にたたえ続け,また救いを神とその小羊とに帰することによって,『大いなる群衆』に属する人は最後に救いを得,差し迫ったハルマゲドンの戦いにさえ生き残るのです。その人々は現在いや将来においても,きわめて恵まれた立場を占めているではありませんか。この群衆が信仰と忠実を示し,そのゆえに救いにあずかるとは,なんと称賛に価する業績ではありませんか。
17 弟子にはどのようなしっかりした態度が要求されていますか。それには祈りがどのように寄与しますか。
17 みことばを学ぶだけでなく,そのみことばのうちにとどまる人こそ,真にイエスの弟子であると言えます。「汝らもし常に我が言に居らば,真にわが弟子なり。また真理を知らん,しかして真理は汝らに自由を得さすべし」。(ヨハネ 8:31,32)そのためには,忠誠を保たせる祈りの道は不可欠であり,神の御名が清められるように(ルカ 11:2),また,神の御国に対して(ルカ 11:2),神の御心が行なわれるように(マタイ 6:10; 26:42),一日の物質上の必要に関して(ルカ 11:3),許しを請うために(ルカ 11:4。ダニエル 9:19),よこしまな者のもたらす誘惑からのがれるために(マタイ 6:13),神の御心・知恵・理解にかかわる知識に関して(ピリピ 1:9。ヤコブ 1:5。詩 119:34),さらに神の霊を願い求めて(使行 8:14,15。ルカ 11:13)祈るべきです。バプテスマの際でも,バプテスマを施される人は,浸礼を受けたときのイエスと同様,祈りをささげるときのような気持ちでいなければなりません。(ルカ 3:21)そうすれば,神の霊の実を生み出すよう助けられるでしょう。―ガラテヤ 5:22,23。
再びバプテスマを受ける人もある
18 再浸礼の要求される場合について説明しなさい。
18 さて,教えるわざがあらゆる土地で,あらゆる種類の人々の間で行なわれ,正義を愛する人々が建てられたエホバの御国の音信の伝道に応ずるにつれ,聖書に大要されているとおり,新しい弟子たちがバプテスマを受ける立場を取ります。そうした人々の中には,教会で散水や浸水あるいは灌水の儀式を受けたことのある者,またガンジス川で沐浴した者さえいるかもしれません。そうでなくても,なんらかの宗教儀式において水を用いた経験のある人もいるでしょう。また,神権的なクリスチャン会衆と交わっていた人の中にも,「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する本を研究したことがなく,献身の理解も認識をも持たずに浸礼を受けたかたがいるかもしれません。そのような人は新たにバプテスマを受けるべきか,それとも再びバプテスマを受けるべきか迷っておられるかもしれません。かつてのバプテスマには,先行すべき真の献身が伴っておらず,今度こそ神のみことばの真理に関する知識を得,エホバの御心を行なう献身をして弟子となったのであるなら,そうです,そのような人はバプテスマを受けるべきです。過去に施されたバプテスマが聖書に定められた儀式,つまりエホバに献身したクリスチャン証人の手によって,水中に完全に浸されるものでないならば,新たにバプテスマを受けるべきです。したがって,この点において聖書と一致しておらず,弟子としての有効なバプテスマを受けなかったことがわかるならば,今回はその献身の証拠として,その象徴であるクリスチャンのバプテスマを証人の前で受ける必要があります。
喜びに満ちた儀式
19 クリスチャンの水の浸礼の行なわれる式の大要を述べなさい。
19 バプテスマのために指定された時間に,新しく弟子となった人は会衆の他の人々といっしょに集合します。献身し,浸礼を受けた資格のある奉仕者が,集合した人々に献身とバプテスマに関する重要な事柄を討議する話を約20分間にわたって行なうのは良いことです。これは,浸礼の場所に来る以前にすでに献身した人々が心を探る質問に答える機会を与え,集まった人々はその答えを聞くことができます。肯定の答えをする浸礼希望者は,弟子としての資格を持ち,浸礼を受けるにふさわしい人であり,バプテスマを受けるべきです。バプテスマの際に講演形式のこうした討議をすることには,霊的な益があります。全員が自分の思いをふさわしい状態に整え,行なわれようとしている事柄の象徴的かつ重要な意義に心を集中できます。討議終了後,浸礼希望者は起立し,式の司会者の提起する二つの質問の各に対し,全員に聞こえるような声で答えるべきです。
20 浸礼希望者に提起される,心を探る質問を分析しなさい。
20 希望者個人個人の心と思いを探る二つの質問は次のとおりです。(1)あなたは自分が罪人であり,エホバ神からの救いを必要としていることを認めましたか。また,その救いがエホバ神とそのあがない主キリスト・イエスからくることを認めましたか。(2)今後あなたは,神と神のあがないの備えに対する信仰に基づき,キリスト・イエスを通して,また神の聖霊が明らかにする神のみことばを通して啓示されるエホバ神の御心を行なうため,エホバ神に無条件で献身しましたか。この二つの質問に対して,他の出席者が聞こえるように「はい」と答えた人は,バプテスマを受けるにふさわしいかたです。その答えを聞いた出席者は,希望者が献身を確認したことの証人となるわけです。
21 浸礼の場所に行く前まで,集会はどのように運ばれますか。
21 次いで,特に浸礼希望者のために司会者が祈りをささげますが,その間も希望者は起立したままでいるのがふさわしいことです。その特別な機会そして特に浸礼を受ける人々に対するエホバの祝福,またエホバの御心がその際,さらに将来において行なわれるよう,式の司会者が一同を代表して願う間,集合した証人のすべてはこうべを下げて祈るべきです。祈りに続いて,必要ならば,浸礼の場所に行く指示を浸礼希望者に与えます。
22 (イ)浸礼式の最後の,最も重要な行事の際に適切かつ必要なのはどんな水ですか。(ロ)その時と場所にふさわしいことについて述べなさい。
22 それから,浸礼を施す人 ― すべて献身し,バプテスマを受けたクリスチャン奉仕者で,会衆内の男の成員でなければなりません ― 浸礼を受ける男女,それに式を補佐する人や観覧する人が浸礼の場所に向かいます。海岸・湖・川・室内プールなど,適量の水のあるところならばどんな場所でもよく,それほど広いところが利用できなくても,からだを完全に水中に浸すことができる大きさがあれば,容器や水槽でもかまいません。この喜びに満ちた神聖かつ厳粛な時に臨んで,浸礼会場で遊びにふけるのはふさわしいことではありません。イエスはバプテスマを受けに来たとき祈っておられました。遊んでいたのではありません。ですから,水中に飛び込んだり,泳いだり,その他その場にふさわしくない行ないをされたのではありません。したがって,浸礼場所で,浸礼希望者の用意ができる間,プールや水漕あるいは川の流れに飛び込んだり,泳ぎまわったりしてはなりません。すべての人はその場にふさわしくふるまい,行なわれている事柄やその理由を心に留めるべきです。そうすれば浸礼希望者も同じふるまいをするよう助けられます。
23,24 浸礼は任命とどんな関係がありますか。
23 各人はバプテスマの日付を注意深く記録し,かつ心に銘記すべきです。その日のできごとは,バプテスマに関して神のみことばにしるされている神のご命令に従った結果生じたことですから,バプテスマを受けた日時がクリスチャンの任命の時と見なされ,将来必要に応じて記入したり,確認されたりします。エホバの証人の会衆およびものみの塔聖書冊子協会も同様に見なします。したがって,記録の必要な場合,エホバの証人によるバプテスマは,その国の法律の規定内で,エホバの証人にとって有効な任命式となります。自分が以後忠実な奉仕者であることを示す証拠には,使徒パウロが自分の推薦状として指摘したところのもの,すなわち,弟子を作るわざの結果,新たにエホバ神に献身し,弟子とされた人々が含まれます。―コリント後 3:1-3。
24 以上のことから,世界中のエホバの証人のクリスチャン会衆が,バプテスマについて考慮するのはきわめて適切です。さらに,エホバのクリスチャン証人の大会である,巡回・地域・全国・国際大会において,新しい弟子が,神の定められた水の浸礼の儀式によって献身を表わす備えが設けられているのは,確かに適切なことと言わねばなりません。
25 (イ)エホバのご要求にはどのような価値がありますか。(ロ)それはイエスの弟子にとってどんな確信となりますか。
25 献身の生活にはいる人は,現在および将来に対するまったき確信をもってそうすることができます。その人々は,命の源であられる偉大なかたに仕えるという,賢明な決定を下したのです。彼らはどんな事態にあっても,聖書に述べられている道こそ,それをすでに知っていようと,知っていまいと,最善の道であることを認識しています。エホバ神がご自分の民に取るようにと望まれる進路が最善の進路です。神のご要求はそれ自体最善のものです。クリスチャンは,問題が,実はなにかほかのことをしたいのに,単に聖書が要求しているからこうする,というようなものではないことを知っています。言い替えれば,クリスチャンがある行動を取るのは,別の行動を個人では望んでいながら,神がクリスチャンに前者を要求されているからそうするのではありません。いいえ,神がご自分の民のために述べられている事柄は,それ自体最善のものなのです。エホバが求めるから何かをすると言うだけではなく ― それは十分の理由ではありますが ― エホバ神がお求めになることがそれ自体最善であるからです。これは新しい弟子にとってなんという自信また確信なのでしょう。人間の考えが神のみことばと対立する場合,わたしたちはちゅうちょすることなく,神のみことばが正しく,聖書と対立する人間の考えは誤りであると断言します。エホバ神のようなかたに献身し,奉仕をささげるのはいかにもすばらしいことではありませんか。
[469ページの写真]
バプテスマに関する話の後,オーストラリアのメルボルンにおける浸礼希望者347人が起立し,彼らの心と思いを探る2つの質問を受けるところ