新しい世に備えていま生活する
1 神は何をつくることを目的とされていますか。それについてペテロは何と書きましたか。
正義の住む新しい世をつくることは,神の目的です。そのような新しい世の希望こそ,使徒時代の初期クリスチャンたちを励ましたのです。全くのところ,その希望は彼らの全生涯を変えさせました。彼らは近くの諸国民の世界の提供するもののために生活するのを止め,新しい世に備えて生活し始めました。使徒ペテロは,次のように書きました,「これら(彼らのまわりにあつた古い世のもの)はみなくずれ落ちていくものであるから……極力,きよく信心深い行いをしていなければならない……しかし,わたしたちは,神の約束に従つて,義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」。―ペテロ後 3:11-13,新口。
2 エデンで人間が反逆した結果は何でしたか。このことは,神が正義の世をつくるという目的を断念したという意味ですか。
2 ペテロの時よりもずつと以前,宇宙の創造者なるエホバは,そのような新しい世をつくられるという目的を知らせておられました。エホバは,預言者イザヤを通して次のように語られました,「わたしは新しい天と,新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく,心に思い起すことはない」。(イザヤ 65:17,新口)そのような正義の世を持つことは,エホバの最初からの目的でした。しかし,エデンで人間が反逆したために,この地上では悪と不義が栄えるようになり,地球が平和と幸福の楽園になつて地に住む人々に永遠の生命が与えられるということはなく,地上の住民は罪の結果としてくるしみと死をうけるようになりました。しかし,神はこのすばらしい目的を断念していません。なぜなら,正義のものは「地を継ぎ,とこしえにその中に住むことができる」と神は約束しているからです。―詩 37:29,新世。
3 『正義が地に住む』とは,どういう意味ですか。
3 「正義」という言葉は,「公正,実直,美徳,法律を守る」という意味です。それですから,清められた地を持ち,最初のエデンのごとき楽園の美を持つて,「正義の宿る」状態に復興させるのは,神の言明された目的です。それは,公正,真理,実直の繁栄する世界であつて,そこでは地上の全住民が法律を守り,神の法律に従い,神の御心を行ないます。模範的な祈りを与えたイエスは,私たちにそのような地上の状態を求めるように祈れと教えたのです,「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように」。―マタイ 6:9,10,新口。
4,5 (イ)なぜ神は大洪水を地上におこしましたか。(ロ)その大洪水は,何を表わしましたか。今日の地上の状態は,大洪水前の状態とどのように類似していますか。
4 今日,私たちはそのような世界に住んでいません。この世界の住民は,平和に暮らしておらず,大多数の人はたがいに対して公正の取り扱いをしていません。美徳は容易におしのけられてしまいます。人間の法律とか,正しい法律を大切に守ろうとする気持はますますなくなつています。いろいろな報告は,不法が増加していることを明白に示しています。しかし,誠実な人々の心をいちばんなやますものは,この世界が神の法律をほとんど重んじない,あるいは全く重んじていない,という事実です。ノアの日には,類似の状態が地上に存在しました。そのとき,「人の悪が地にはこびり,すべてその心に思いはかることがいつも悪い事ばかりである」(創世 6:5,新口)その悪しき人間社会が悪いものであつた故に,神は洪水でそれをほろぼしてしまいました。そして,ノアとその家族だけが逃げのこることを許したのです。聖書は,「地」の滅びを述べています。それは実際の地が滅んだというのではありません。地上に住んでいた人々の社会,すなわち自分自身の堕落したこの世的な考えのためだけに生活して,神を忘れた人々が滅ぼされたのです。―ペテロ後 3:5,6。
5 むかしに生じたことは,神が現在のこの悪い世をどのように滅ぼすかを,小規模に示すものです。イエス自身もこのことを警告して次のように言われました,「人の子の現れるのも,ちようどノアの時のようであろう」。(マタイ 24:37,新口)この悪い世の終る直前には,地上の状態はノアの時の大洪水の状態と類似するであろう,と正確に予告されました。次の霊感の言葉が事実と全く合つていることに注意してください,「終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者」(テモテ後 3:1-4,新口)聖書中の他の預言を注意深く研究するとき,私たちがいまこの未の日に生活していることは極めて確実に分かります。現在のこの悪い世の終りは,私たちの時代中に起こる,という意味です。
羊を新しい世の社会に集める
6,7 (イ)エホバはいまどんな種類の人々にあわれみを示していますか。(ロ)今日,正義を愛する者たちを集めることについて,イエスはどのように語つていますか。
6 この悪い世の滅びには,当然大ぜいの人々の生命がまきこまれます。しかし,愛ある御親切とめぐみを御持ちになる神は,次のような目的を立てておられます。すなわちこの世が終る前に神は,正しいことを愛する者,正義の栄えるのを見たいと願う人々,神の御言葉なる聖書と新しい世の約束に信仰を示す人々を諸国民から集めることです。それらの人々は,信仰によりこの古い世とその悪い道に背を向け,そして神のつくる新しい世を永久に支配する正義の原則に従います。
7 正義を愛する人々がそのように集められることは,私たちの時代中に行なわれます。そのことは,聖書からはつきり分かります。イエスもこのことを説明するために,「羊と山羊」の譬を語られました。マタイ伝 25章31-46節に記録されているこの譬は,全国民からの人々が集められてこの世から分けられる,ということを示しています。それですから,彼らは分けられて集められた民と示されます。この未の日に羊のような人々が集められて識別できる民を形成する,とイエスは示して次のように語りました,「わたしには……他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう」。(ヨハネ 10:16,新口)これらの者たちは,ゼパニヤ書 2章3節に述べられている召に答え応ずる者たちです,「この地のへりくだるものよ汝らヱホバを求め公義を求め謙遜を求めよさすれば汝らヱホバのいかりの日に或はかくさるることあらん」― またイザヤ書 2章1-3節をも見なさい。
8 どんな選択は,いま生存しているすべての人に直面していますか。
8 それで,今日生活しているすべての人は,真理を学んでから自分の運命について決定を下す機会を持つています。決定を下すことは是非とも必要です。あなたは現在の悪い世のように生活して,その悪行に加わり,その一部になつて,それと共に死にますか。あるいは,あなたは新しい世のことを学び,その正義を願い,新しい世に入つて,そこで永久に生きますか。あなたは不義にみちるこの世を捨てて,いま新しい世に備えて生活しますか。
9,10 (イ)なぜ決定を下すことをおくらせてはなりませんか。(ロ)正義を愛する人々は,ロマ書 12章2節と一致してどんな決定を下しますか。
9 この選択は,いつまでもぐずぐずのばすことはできません。次のような言葉は知恵のある人の言うべきものではありません,「そうだね,その新しい世が来るときに変わろう。もちろん,その時になれば,私は新しい世で神ののぞまれることをよろこんでしよう」。それはちがいます! いまこそ新しい世に備えて生活し始める時であります。そして,霊と真理の中に神を真実に崇拝する者,羊のような者,そして正しいことを愛する者であるとの証拠を示す時です。なぜなら,「父はかくのごとく拝する者を求めたまふ」。―ヨハネ 4:23。
10 この世の滅びは,聖書にハルマゲドンと述べられている戦いのときに来ます。その滅びの来る前に,エホバ神は諸国家の人々に真理を学び,真理に従い,それから正義の道を求めて信仰を表明する機会を与えています。かくして,その機会の与えられた人々は,神の完全な新しい世で正義のうちに生活する人々であることを証明します。神の是認をうけて,その新しい世で神からの生命を得たいと誠実な気持でのぞまれるなら,あなたは次の言葉によろこんで答え応ずるでしよう,「この世の組織制度に従うのをやめなさい。むしろ,神の善にして御旨にかなう全き御心をわきまえ知るために,あなた方の思いをかえて変化しなさい」。―ロマ 12:2,新世。
11 エホバの証者を他の者と非常にことならせるものは何ですか。
11 クリスチャンの群れであるエホバの証者は,聖書のこの命令に従おうと努力しています。彼らはあらゆる国々から集められた人々です。彼らは新しい世という聖書の約束を信じており,いま新しい世に備えて生活し始めています。その理由の故に,彼らは実際に新しい世の社会です。彼らが他の人々と非常にことなるのは,この簡単な事実によるのです。新しい世に対する彼らの信仰は消極的なものでなく,積極的なものです。それは生ける信仰で,彼らは信ずることを活発に行いにあらわします。そのわけで,彼らは家々を訪問して,その希望を家の人々に語るのです。この行ないをする彼らは,現在に対する預言の一つを成就する特権にあずかつています,「御国のこの良いたよりは,すべての国民に証をするため全世界に伝道されるであろう。それから全き終りが来るのである」。(マタイ 24:14,新世)しかし,新しい世に備えて生活するということは,単に新しい世について伝道すること以上のものがある,と彼らは知つています。新しい世に備えて生活するということは,あらゆる事柄において,新しい世をつくられる御方の正義の原則に一致して生活するということです。そして,これらの原則は,両親も子供も,雇い主も従業員も,働きの時も遊びの時も,人間のすべての活動を制御しなければなりません。
12 この世は新しい世の生活に変化する人々を,どのように見ますか。しかし,私たちは何を記憶すべきですか。
12 そのような道をとる者たちにとつては,それは大きな変化を意味します。しかし,良い方にむかう変化であることはたしかです。しばしば,そのような変化は誤解されます。この世は,一組の原則と考えにより制御され,新しい世は別の原則,すなわち神の原則と目的により制御されます。私たちが後者に従うと,この世はそれを奇怪なものと考えます。私たちはもはや彼らの考え方や行動に従いません。かつて友と思われていた人々から敵視され,反対をうけるようになるでしよう。イエスはこのことを経験しませんでしたか。使徒ペテロは,次のように書きませんでしたか,「今はあなたがたが,加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしつている」。(ペテロ前 4:4,新口)しかし,クリスチャンの生活の目的は,第一に神をよろこばすことです。それですから,あなたにとつて大切なことは,「どのように歩いて神を喜ばすべきかを」知ることです。―テサロニケ前 4:1。コロサイ 1:10。テサロニケ前 2:4,新口。
13 キリスト教の始まつたとき,人々はどのように類似の問題に面しましたか。
13 正義の新しい世で神の御手から生命をいただきたいと誠実に願うなら,基礎的な行動の原則のいくらかを注意深く考慮することは,益のあることです。神は,今日御自分の恵みと祝福の側に集めて,新しい世の社会として一つの群れに集めている者たちに,そのような行動の原則を守るよう要求せられています。あなたがくださねばならぬ決定は,キリスト教の始まつた時代に生活していた人々が直面した決定に類似しています。彼らは使徒たちの伝道した真理に始めて接しました。そして,まわりの国々の道に従つて以前から行なつてきた道に進みつづけるか,あるいは創造主との良い関係に入るためには,必要な変化をしなければならないか,そのどちらかの選択をすることが必要でした。
新しい世の生活の原則
14,15 どんな道から離れよと,パウロはエペソのクリスチャンたちに告げましたか。
14 (西暦)60年か61年頃,使徒パウロはエペソにいたクリスチャンたちに手紙を書きました。彼らが伝道された真理のことを聞く以前に,初期会衆の成員たちは他の諸国民と同じような生活をしていました。しかし,その種類の生活は,神をよろこばすものでありませんでした。それで,パウロは彼らに次のことを書き送つたのです,すなわち彼らは「今後,異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ,自ら無感覚になつて,ほしいままにあらゆる不潔な行いをして,放縦に身をゆだねている」。―エペソ 4:17-19,新口。
15 そのような生活の仕方は,キリスト・イエスが残した模範的な生活の仕方でしたか。絶対にそうではありません,「しかしあなたがたは,そのようにキリトスを学んだのではなかつた。あなたがたはたしかに彼に聞き,彼にあつた教えられて,イエスにある真理をそのまま学んだはずである。以前の生活に属し,その惑しの欲にしたがつて腐敗して行く古い人格を脱ぎすてなさい。しかし,あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,神の御心にしたがい,まことの義と愛に満ちた親切のうちにつくられる新しい人格をつけなさい。」― エペソ 4:20-24,新世。
16 パウロは,エペソ書 4章25節でどんな基礎的な原則を論じていますか。
16 それから,使徒は諸国民が行なつている悪い事柄のいくらかを述べています。クリスチャンは,もはやそのような事をしてはなりません。もし私たちが初期クリスチャンたちの模範に従い,神をよろこばして神の是認をうける生活をしたいと欲するなら,この組織制度の終りの時に住む私たちにとつてパウロの言葉は極めて大切なものです。最初に,エペソ書 4章25節には,偽りを捨てた私たちは「おのおの隣り人に対して,真実を語りなさい」と書かれているのに気づきます。それより幾百年ものむかし,エホバは預言者ゼカリヤ(第8章16,17節)を通して同じ原則を述べられました,「なんぢのなすべき事は是なり汝らおのおのたがいに真実を言べし又なんじらの門にてさばきする時は真実をとりて平和のさばきをなすべし汝らすべて人の災害を心にはかるなかれ偽の誓を好むなかれ是らはみな我がにくむものなりとヱホバ言たまふ」
17,18 (イ)この古い世の人々は,不正直をどのように見なしますか。(ロ)人々がうそを言う理由のいくらかは何ですか。
17 うそをつくこと,あざむくこと,盗むこと,かたることなどを含む不正直は,この世界で一般的にひろく行なわれてはいませんか。あらゆる年齢,あらゆる生活階級のなかに不正直は見られます。子供たちは自分のした悪事が見つからないようにするためうそを言います。しかし,大人たちも商売とか,借金や負債の責任を避けるため,あるいは何かの悪事をかくすために,たがいどうし不正直であることを示します。このため人々はおたがいを信用しなくなりました。他の人々が不正直をするから,自分も不正直をしても良い,とある人々は言います。しかし,もし私たちが正しいことをしたいなら,私たちは,もはや「異邦人がむなしい心で歩いているように」歩くことはできません。
18 人々がたがいに正直でなく,うそやあざむきを行なう理由はたくさんあります。前にも述べたように,その一つの理由は何かの悪行に対する罰を避けることです。恐れは多ぜいの人に強力な影響をおよぼし,うそを言う基礎的な理由のひとつです。ある国々では,人々は死んだ先祖の「霊」を恐れるように育てられています。そして害を避けるためにはこれらの「霊」をあざむくことが必要であると子供の時から教えられます。このことを信じている者たちは,そのような目的のためにうそをついたりあざむいたりすることは悪くないとしばしば考えます。しかし,そのような考えが人の良心を害し,そして,仲間の者と交渉する際には,偽りを語らずに真理を語る能力が弱まることはたしかです。ある人は次のような態度を取ります,すなわちうそは見つかれば悪いが,うまく行くならうそを言う人は「利口」で,ほめられるにす値ることをした,というような考えです。これは善悪が何であるかについて全くまちがつた考えです。またある人々は誇りの気持からうそを言います。全くのところ,ある人々はその全生涯中うその生活をなし,実際の状態とはちがう者である振りをします。そして,自分の主張を裏づけるため自分に都合の良い偽りの話をつくり上げることが必要です。またある人々は意識的なうそをついてあざむいたりだましたりします。それは他の者以上におおくの利得を得て自分の利己的な益をはかるためです。
19 新しい世の社会内には,なぜうそとか欺きがあつてはなりませんか。
19 神の御言葉の真理を学ぶとき,人は不正直の行ないをことごとく脱ぎすてねばなりません。恐れのかわりに愛を持たねばなりません。すなわち,エホバとエホバの原則に対する愛,およびクリスチャン兄弟たちに対する愛を持つべきです。先祖は墓の中に全く死んでおり,「霊」としてどこかに生きているわけでない,ということを学ぶとき,以前このような信仰を持つていた人々は霊を恐れたり,霊をあざむく必要をもはや感じないでしよう。クリスチャンは,神をあざむくことはできないと知つています。他の人間をあざむいて,うそをつく努力をしようとも,心の最奥の考えを見られるエホバをあざむくことはできません。エホバから否認されることは,災にみちる結果にみちびきます。うそをつく別の原因であるほこりは,神の憎み給うものです。しかし,神は謙遜を是認します。それで,ますます増加する神の新しい世の社会内には,あざむき,うそ,そして他の形式の不正直というようなものが存在してはなりません。―コリント前 4:5,テサロニケ前 2:4。使行 5:3-5。ミカ 6:8。ヨハネ第一書 4:18。マタイ 22:37-39。シンゲン 16:5。
いろいろの関係において正直
20 エホバの証者の間には,信用と確信がありますが,彼らは何に対して警戒するべきですか。
20 それで,いまこの世界の諸国家から集められてエホバの羊のひとつの「群れ」になつている者の中には,古い世の社会の不信とか疑いはなく,その代りに信用と確信があります。たしかに,神の御言葉の原則は人々の生活を変化させており,彼らは恐れの気持を抱かずにクリスチャン交際を楽しむことができます。古い世にいる人々の交際にはこの恐れの気持が影響を及ぼしているのです。しかし,それは次のことを意味していません,すなわちエホバの証者はだまされやすく,あざむかれやすい人々,そしていわば誰でも彼でも見るだけですべての人を信ずる,というわけではありません。エホバの証者は分別のある注意を払い,悪企みを持つ人と交渉するときは警戒を払います。悪企みを持つ人は,個人的な利益をはかるためとか,新世社会内に行なわれている親切や信用を利用しようとするため,エホバの証者との交際を求めようと徐々に入りこんでくるのです。悪い計画を持つそのような人は,そのわざにより,心の中では真理と正義を愛する者でない,と示します。そして,円熟したクリスチャンは,それらの者の偽善的な擬装をすぐに見破つてしまいます。―マタイ 7:20。
21 正直の原則は,商売しているクリスチャンにどのように適用しますか。
21 自分の商売をしている人についてはどうですか。クリスチャンであるその人は,他の人々と競争し合うため,あざむきの手段を行なつて,自分の収入を増加させるのは正しいことでしようか。次の聖書の原則はその質問に対して全く要点をついたものです,「あなたがたは,さばきにおいても,物差しにおいても,はかりにおいても,ますにおいても,不正を行つてはならない。あなたがたは正しいてんびん,正しいおもり石……を使わなければならない」。それで,クリスチャンの商人は,不正直な利益を得るために,代金に対する品物の分量をすくなくしてお客をだましたり,あるいは仕事の質を悪いものにしないでしよう。同じく,その人は従業員との交渉でも公正にまた正直に行なうでしよう。―レビ 19:35,36,新口。コロサイ 4:1。
22 この記事は,どんな目的のために掲載されていますか。
22 しかし,それは次のことがらを意味するものではありません。すなわちクリスチャンはそのような事の裁判官であるかのように,他の人々のところに行つて,その商売の仕方を告げる権利を持つ,ということではありません。ここに書かれている記事の目的は,この世の人々に生活の仕方を告げることではありません。ここに述べられているものは,クリスチャン生活を支配する原則に過ぎないのです。それですから,異邦人のしている生活の仕方を止めて,新しい世の正義に一致する生活をしたいと欲する人は,この記事から援助を受けることができます。
23 人は自分の仕事にどのように不正直であり得ますか。そして,どんな最も重要な理由のゆえに,クリスチャンは熱心に働かねばなりませんか。
23 正直についての同じ原則は,雇主と雇人の関係にも同様に適用します。同意した賃銀で,ある人のために働こうと約束するなら,その約束を尊重しなければなりません。もしなまけ心をいだいているため割当ての仕事をしないなら,それは実際にはある種の不正直ではありませんか。また,雇主のために働くと同意しておきながら,賃銀をもらう時間を別の目的に使うなら,それは不正直でしよう。たとえ,そうすることが自分自身と他の者にとつてもつと興味深いものであり,益のあるものであると感ずるような場合でも,それは不正直であります。雇主に知らせないで,そして雇主の許可なしに,時間をこのように使用することは,約束に対して不忠実であります。正直で熱心に働く人は,尊敬とよい名声を得ます。(テサロニケ前 4:11,12)クリスチャンの従業員または僕は,自分の仕事を良く行ないます。人々をよろこばせようとか,人々の是認を得ようとするためではなく,そうすることは正しいことであり,正直なことであり,そのようなことはエホバをよろこばしてエホバから報いをうけると知つているからです。パウロはエペソ書 6章5-8節(新世)で次のように書いています,「あなたがた奴隷たち,キリストに従うように,恐れおののきつつ,真心をこめて,肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく,キリストの奴隷として心から神の御旨を行い,人にではなくエホバに仕えるように快く仕えなさい。あなたがたが知つているとおり,だれでも良いことを行えば,それに相当する報いを,それぞれエホバから受けるであろう」。―コロサイ書 3章22-25節と比較しなさい。
24 さらに新しい世の生活のどんな原則はエペソ書 4章28節に述べられていますか。
24 使徒は,エペソ書 4章(28節)の中で新しい世の生活についての別の規則を述べています,「盗む者は,今後盗んではならない。むしろ,困つている人に分け与えることができるようにするため,いつしようけんめい働いて,手ずから良いわざを行なうようにしなさい」。盗むということは,自分の権利に属さないものをひそかに,人に見られずに取りさることです。夜,留守の家に入つて,金銭とか衣服のような品物を持ち去ることが盗みであると理解するのは容易です。しかし,家の使用人として働いているときとか,あるいは商売の事務所または工場で働いているときなどに食物,材料あるいは装具を取りあつかうときはどうですか。そのようなものを自由勝手に持ち去つても良いですか。
25 ぬすみをふせぐためどんな質問をすることができますか。
25 ある国々の村社会の習慣によると,旅行者はその村を通る時,ある食物を自由に食べても良いことになつています。そうすれば,旅行者は元気を回復して旅行をつづけることができます。これは思いやりのある習慣であつて,賞賛に値するもてなしを示します。その村の人々はみなこの習慣のことを知つており,たとえ旅行者が所有主のいないときに食物を食べても,それを盗みとは決して見なしません。この習慣は,ユダヤ人の律法下にあつた見知らぬ人,旅行者あるいは貧乏人に対する準備を思い起させます。(レビ記 19章9節と10節を見なさい)しかし,習慣は変ります。この習慣はまだある田舎で行われていますが,現代文明の大都市では一般に行なわれていません。それで,それぞれの状況に適応することが必要です。盗みか,盗みでないかを安全にきめるものは,「私はこれを取る権利を持つているか」と自問することです。すなわち「私はこの食物や材料の所有主からそれを使用して持ち去る許可を有しているか」と自問することです。もしもそれが雇主の所有物であるなら,次のように尋ねることもできます,「もし雇主がここにいて,私がそれを持ちさるのを見るときでも,私はこれを持つて行くだろうか」もし,これらの質問に対する答が「いいえ」という否定のものであるなら,それを持ちさることは盗みである,と知ります。
26 正直にそして熱心に働く人は,何をすることができますか。
26 使徒の助言に従い,クリスチャンはいつしようけんめいに働き,手ずから良いことをなし,悪を行なつてはなりません。正直であると共に勤勉でもなければならず,十分の食物を得るために盗みをしてもなりません。クリスチャンは自分自身の必要物を備えるだけでなく,結婚しているなら自分の妻と子供たちの必要物を備えなければなりません。それだけでなく,思いもよらぬ損失や災害を受けた会衆内の仲間の不幸なクリスチャンたちをたすけることが必要です。また,会衆の資金に寄付をすることも必要です。それは会衆の必要な出費をまかない,その地で神の御国の良いたよりを伝道するわざを拡大するためです。
27,28 (イ)人々は金銭を借りるときは,どのように不正直ですか。(ロ)借りても返済しようとしない者たちについて聖書は何と述べていますか。(ハ)クリスチャンは,どんな良い性質をつちかうべきですか。どんな悪い性質を捨てねばなりませんか。
27 この古い組織制度には,利己主義が満ちています。人々は,生活に対する態度のなかにこのことを示します。なるべくわずかのものを与えて,できるだけ多くのものを得ようとつとめているのです。政治的な指導者や宗教的な指導者は,この利己主義に訴えてそれぞれの特定な制度の支持を得ようとしています。この利己主義は,金銭を借りるときは急いでしても,返済するときはおそいという人々の態度に見られます。多くの場合,借りる人は返済しようとする気持をもちません。ある人々は,金持ちから金を借りて返済しなくても,それは別に悪いことではない,金持ちはお金に不自由しないのだからと言つてこのことを正当化しようとつとめます。借金を返済しないために,なんと多くのけんかや争いが起きているのでしよう! そのわけで詩篇 37篇21節は次のように述べているのです,「あしき者はものかりて償はず」。
28 エホバは悪い者たちを祝福しません。エホバは,利己的なもの,貪欲なもの,得ることだけに興味を感じても他のものにはできるだけすこししか与えない,というような者たちを祝福しません。新しい世の生命を望む者たちは,利己主義よりも愛をつちかい,貪欲の精神よりも与える精神をつちかわねばなりません。クリスチャンは,物質の持物を殖やすために負債をするということをせず,むしろ必要なもので満足し,正直にいつしようけんめい働いて必要ななものを得ようとします。使徒パウロは,兄弟たちに無用な重荷を課せないように注意深く行ないました。彼は,使徒というその立場を用いて仲間のクリスチャンたちから物質的な利益を得ようとしませんでした。彼は「金銀」をむさぼらなかつたのです。全時間の使徒であつた彼は,会衆からの援助を感謝しました。その援助によつてパウロは全時間を宣教にささげることができたのです。しかし,この自発的な援助が来ないときは,パウロは手ずから天幕づくりの仕事をして自分の物質的な必要物をまかないました。―使行 20:33,34; 18:3。テサロニケ前 2:9。