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幸福になる生き方ものみの塔 1976 | 2月1日
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ました,「あなたがたは地の塩です。……あなたがたは世の光です」。(マタイ 5:13-16)塩には物を保存する力があるのと同じく,わたしたちの携える良いたよりには人の命を保たせる力があります。そしてことばと行ないによって『わたしたちの光を輝かせる』とき,わたしたちは何と幸福なのでしょう!
ついでイエスは,「と言われたことをあなたがたは聞きました」という句で始まる一連の比較をつづけています。(マタイ 5:21,27,33,38)この中でイエスが示されたのは,イエスの真の弟子であるクリスチャンの生き方が,モーセをとおしてイスラエルに与えられた神の律法の要求を上回るものであり,またいっそう大きな益と責任をもたらすということです。クリスチャンは敵をさえ愛し,神が全人類に対して示されたのと同じ種類の愛を培うことを要求されています。こうして彼らは天の父が完全であられるのと同じく全き者であることを証明できます。それは間違いなく幸福になる道であり,彼らが「幸福な神」に似る者となるのを助けます。―マタイ 5:43-48。テモテ第一 1:11。
山上の垂訓の残りの部分を要約して言えば,それはわたしたちがどのようにエホバに近づき,またその状態に留まるかを示しています。それをする方法はひとつには,見せかけの敬虔を避け,とりわけ『地上の宝』また食物や衣服などの事柄に対する思い煩いを避けることです。思い煩うことは幸福と両立しません。イエスはこう言われました,「次の日のことを決して思い煩ってはなりません」,しかし「王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」― マタイ 6:1-34。
すでに述べたように,満たさなければならない条件があります。この生き方は放縦という「広くて大き」い道,幸福ではなくて滅びに至る道ではありません。イエスは次のようにことばをつづけました。「命に至る門は狭く,その道はせばめられており,それを見いだす者は少ないのです」。(マタイ 7:13,14)多くの人は真に無私の気持ちを持つという代価を喜んで払おうとはしません。それで魂をこめた献身の精神をいだいて自分の意志を創造者の意志に従わせることをしないのです。エホバはまことに「栄光と誉れと力を受ける」にふさわしいかたです。―啓示 4:11。
もちろん,わたしたちはエホバの恵みを買い,幸福という形での支払いを要求することはできません。わたしたち罪ある被造物が自分をエホバにささげ,受け入れられる献身をしてエホバとの是認された関係を結ぶのは,エホバの過分のご親切にのみよることです。エホバは愛するみ子の贖いの犠牲によって,このことを可能にされました。(テモテ第一 2:3-6)すべての霊的な食物を豊かかに備え,啓発を与え,ほかにも心をさわやかにする良いものを備えてくださったのはエホバです。そしてエホバは親切な招待を差し伸べておられます。「あなたがたは来て,金を出さずに,ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。……わたしによく聞き従え。そうすれば,良い物を食べることができ,最も豊かな食物で,自分を楽しませることができる……そうすれば,あなたがたは生きることができる」― イザヤ 55:1-3,口。
これこそ幸福をもたらす生き方です。
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なぜ遅らせるのですかものみの塔 1976 | 2月1日
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なぜ遅らせるのですか
● 怠惰な人ほど,“明日”行なおう,という言葉をよく使うと言われています。何かしなければならないことがあるなら,なぜそれを遅らせるのでしょうか。今は神への奉仕で忙しく働くべき時です。聖書も怠惰な人について,こう述べています。『しばらく伏ししばらく睡り 手をこまぬきてまたしばらく休む さらば汝の貧しきは盗人のごとくきたらん』― 箴 6:10,11。
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