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山上の垂訓 ―「思い煩うのをやめなさい」ものみの塔 1979 | 1月1日
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思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものです。あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです」― マタイ 6:31,32。
イエスが垂訓の中で「諸国民」つまり非ユダヤ人と比較されたのはこれが三度目でした。(マタイ 5:47; 6:7をご覧ください。)諸国民は神とは何の関係もなく,物質的な事柄や肉の快楽を生活の中心としていました。それで,もし神のしもべが,自分たちに生活の必要物を供えてくださる神の力やご意志に疑いの気持ちを抱くなら,「世にあって神を持たない」諸国の人々のようになってしまうでしょう。―エフェソス 2:11,12。
至高者はご自分の民が『必要としているものを知っておられる』のですから,イエスの話を聞いていた人々が次のような助言に留意するのはもっともなことでした。「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」― マタイ 6:33。
イエスの弟子たちはイエスをメシアとして受け入れましたが,それによって彼らは神の天的なメシアによる政府,つまり「王国」の一部になる望みを与えられました。(ルカ 22:28-30。ヨハネ 14:1-4。ダニエル 7:13,14,18,22,27)しかし彼らはそれを絶えず生活の主要な関心事として,「いつも第一に求め」なければなりません。また,神のメシアに信仰を働かせ,神の他の戒めと一致した行動を取ることにより「神の義」を求めなければなりません。もちろん,宗教上の教えを守り賞賛すべき行ないをすることにより神に祝福してもらうといった律法偏重主義的な見方でこのことを行なうべきではありません。神の目に価値のある義とは,神が人類のためにしてくださった事柄に対する愛と感謝に満ちた心から出るものでなければなりません。(ローマ 10:3。ヨハネ第一 4:19をご覧ください。)生活の中で本当に神の崇拝を第一にする人は,自分の崇拝する情け深い神により日常の必要物は「みな加えられる」ことを確信できます。
さらにイエスは次のように言われました。「それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日ごとの悪はその日にとってじゅうぶんです」。(マタイ 6:34)どの日にも,幾分ざ折感を感じさせるようなつらい事があるものです。多くの場合日常の困難な問題は不意に起こり,しかも人間の手にはおえないような事柄が原因となっています。(伝道 9:11に注目してください。)神のしもべはそうした苦境を「その日にとってじゅうぶん」とみなし,一日ごとにそうした苦境に対処しなければなりません。問題を改善するよりもむしろ次の日のことを思い煩うなら,それは神に対する信仰の欠如を示すことになり,きょうの「悪」に対処するのをより困難にします。
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衰えつつある聖書教育?ものみの塔 1979 | 1月1日
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衰えつつある聖書教育?
メソジスト派宣教師によって創設された東京の青山学院大学は,進級を阻止したという理由で,かつての神学部の一学生に,保証金30万円を支払うよう命じられた。1977年10月8日付英文読売紙の報じたところによれば,同大学は,志願者の減少,および経営上の赤字という理由で1973年に神学部を廃止することに決定した。世界情勢を観察している人はこの点でさらに重要な意味を悟ることができる。それは,宗教が衰退しているという現在の傾向である。人々はますます世俗的になっており,宗教心は薄くなりつつある。上記の大学では他の学部は開かれているが,神学部は閉鎖された。しかし,4万5,000人余りの日本のエホバの証人は引き続き,毎週6万1,000余りの家庭で無償の聖書教育の奉仕を行なっている。
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