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知恵を追い求めるよう激励されたギレアデ第50期生ものみの塔 1971 | 8月15日
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ができ,かつ喜んでその任命に応じられる人々を訓練するため,1943年に開設されました。それら宣教者は外国の任命地に着くと,ものみの塔協会によって適当な住居および食事を備えられますが,キリスト教世界の宣教師の多くとは異なり,ぜいたくな,あるいは怠惰な生活はしません。
ギレアデを卒業した宣教者は全世界で王国宣明のわざの先頭に立ってきました。1943年当時,良いたよりの活発な奉仕者また伝道者の数はアメリカを除いて,5万3,839人でしたが,1970年には109万4,510人にふえました。確かにイエスが言われたとおりです。『知恵はそのわざによりて正しとせられる』― マタイ 11:19。
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読者からの質問ものみの塔 1971 | 8月15日
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読者からの質問
● 使徒行伝 1章8節に記録されているように,イエスがご自分の追随者にサマリヤで伝道するように指示されたのはなぜですか。それ以前(マタイ 10:5,6),イエスは彼らにサマリヤ人に伝道してはならないと彼らに告げられました。
十二使徒を限られた伝道旅行に送り出す際,イエスは彼らにこう告げられました。「異邦人の途にゆくな,又サマリヤ人の町に入るな。むしろイスラエルの家の失せたる羊にゆけ」。(マタイ 10:5,6)サマリヤ人に対する伝道をイエスが全く禁じたのでないことは,彼ご自身の言動から明らかです。イエスはたとえ話の中の一つで,ユダヤ人がサマリヤ人を隣人として考えるべきことを示されました。(ルカ 10:29-37)キリストはある時,10人の人をいやしたことがありましたが,そのうちのひとりはサマリヤ人で,彼がその10人の中で感謝を表わした唯一の者であることをほめました。(ルカ 17:11-19)さらに,イエスはスカルの井戸でひとりのサマリヤの女に伝道しましたし,その後,サマリヤの同市の他の者たちにも伝道しました。―ヨハネ 4:4-43。
したがって,マタイ伝 10章5,6節のイエスの命令は,その時と場合とに特別に適用された制限として理解されるべきです。キリストは「イスラエルの家の失せたる羊」について言ったことからして,音信をまずユダヤ人に伝える,つまり彼らに最初の機会を与える重要性を強調しておられたことが明白と言えます。ゆえに,使徒たちは伝道旅行の際,ユダヤ人に注意を集中すべきであって,その時点ですべての民族や国民に伝道しようとすべきではありませんでした。区域がユダヤ人の都市や村々に限られたとはいえ,ふたりずつからなる6組の伝道者が比較的短期間の旅行中に行なえる仕事は,確かに十分すぎるほどあったことでしょう。―マルコ 6:7。
イエスが使徒行伝 1章8節に記録されていることを言われた時の事情は,それとはかなり異なっていました。事実上,彼は世界的な伝道のわざが成し遂げられるであろうことを示す,別れの指示ともいうべきものを追随者たちに与えておられたのです。昇天する直前,イエスはこう言われました。『汝らはエルサレム,ユダヤ全国,サマリヤ,及び地の極にまで我が証人とならん』。そして,そのとおりになったのです。迫害のためにクリスチャンの弟子たちは散らされ,その結果,彼らの音信はサマリヤに伝道されました。―使行 8:1-17。
多くのサマリヤ人がバプテスマを受け,聖霊を授かるという結果をもたらした,このサマリヤ人に対する伝道が,西暦36年以前,つまり,割礼を受けていない異邦人(非ユダヤ人)が初めて信者として受け入れられた時以前に起こった事実に注目されるかたがあるかもしれません。(使行 10:34-48)これは明らかに,サマリヤ人が異邦人よりも宗教的にはるかに多くの共通点をユダヤ人と持っていたからです。サマリヤ人は(「サマリヤ五書」によって)聖書の最初の五つの本を受け入れており,それがゆえに,モーセより偉大な預言者の到来を待ち望んでいました。(申命 18:18,19。ヨハネ 4:25)そして,崇拝の方式は多くの点でユダヤ教とは異なっていましたが,それでも彼らはアブラハム,イサク,ヤコブの神を崇拝し,割礼の要求をも含めてモーセの律法を守っていると主張しました。したがって彼らは割礼を施されていない異邦人とはかなり異なった範ちゅうに属していたのです。
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迫害下にあって増加するものみの塔 1971 | 8月15日
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迫害下にあって増加する
● ブルンディの首都ブジュンブラでは,エホバの証人たちがさらにすぐれた進歩を遂げたことにより,健全な会衆が作られました。そして伝道のわざに対する反対にもかかわらず,昨年の平均を200%上回る増加がみられました。7人の兄弟たちが投獄され,刑罰として深さ約60㌢の水の中に二日のあいだ立たされました。彼らは仲間の囚人に伝道する機会をしばしば得ました。結果として,そのうちの多くが,釈放されてから集会に出席しました。中には再度逮捕された兄弟もいます。その兄弟たちは,釈放される時,伝道するのをやめるように命じられましたが,答えとして使徒ペテロとヨハネの語った,我らは見しこと聞きしことを語らざるを得ずということばをくりかえしました。
― エホバの証人の1971年度年鑑より
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