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「人間におののくことはわなを仕掛けることになる」ものみの塔 1980 | 1月1日
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二人が研究をやめたのは,人間におののいたためです。そうです,二人は恐れというわなに捕らわれたのです。幾世紀も昔,霊感を受けた一賢人は,「人間におののくことは,わなを仕掛けることになる」と述べて,このような恐れについて警告していました。―箴 29:25,新。
確かに,だれにも,他の人に好かれ,隣人や友人,知人から良く言われたいと願う自然の欲求があります。しかし,わたしたちの人生の中でも特に重大な決定を下す際に,他の人の規準に影響されるがままになるなら,大きな危険を身に招くことになります。もしある人が,すべての点で地域社会の期待や規準にかなった生活を送っていかなければならないと感じているなら,やがて追従の奴隷となってしまうでしょう。また,他の人の是認を得たいという強い願望は,神の僕となるために積極的な行動を取る上で真の障害となることがあるのです。
今日大勢の人は,神を愛することも,敬うことも,恐れることもしません。そのような人々は,神について学ぶ気持ちを全く持っておらず,神の存在をさえ疑っています。ですから,聖書に関心を示す人はちょう笑の的となり,他の人からさげすまれるようになる場合があります。このような圧迫に直面すると,人間に対する恐れが生じて,霊的な進歩を続けることに大きな困難を覚える人のいることは容易に理解できます。
人間に対する恐れに屈してしまうと重大な結果を招くことを如実に物語っているのは,古代イスラエルのサウル王の例です。アマレク人との戦いで神の指示を完遂しなかったことを預言者サムエルが問いただすと,サウルは自分が「民を恐れて彼らの声に従った」ことを認めました。このような歩みはどんな結果をもたらしたでしょうか。サウルは次のように告げられました。『あなたはエホバの言葉を退けました。そしてエホバもあなたがイスラエルの王の地位にとどまることを退けておられます』― サムエル前 15:24,26,新。
全能者に退けられたくないなら,人との関係よりも,神のみ前における自分の立場によりいっそう深い関心を払うべく懸命に努力していかねばなりません。『エホバへの恐れは知恵の始めである』と,聖書は述べています。(詩 111:10,新)このような恐れは健全なもので,至高者の不興を買いたくないという心からの願いに発しています。それは,愛に満ちた父親に対する従順な息子の態度に匹敵します。その息子は,父親の機嫌を損ねたり,父親の立派な名に非難をもたらしたりするようなことは何一つ行ないたくないと思っています。ですから,当然,神への恐れには,神の憎まれるものを憎み,神の愛されるものを愛することが含まれます。―箴 8:13。
神に対するふさわしい恐れを抱くには,わたしたちに永遠の命を与えることができ,いかなる時でも,またあらゆる状況の下でもわたしたちを顧みることのできる人間は一人もいないという事実を常に念頭に置いておく必要があります。霊感を受けた詩篇作者は,次のように書いて,この点について全体をは握した正しい見方を告げています。「恐れてはならない,人が富を得るからといって,その者の家の栄光が増し加わるからといって。その死の際に何一つ携えて行くことはできず,その栄光が当人と共に下ることもないからである」。(詩 49:16,17,新)「自分の資力により頼んでいる者,自分の富の豊かさを誇り続ける者,その一人として兄弟をさえ受け戻すことは決してできない。また,自分のための贖いを神に払うこともできない」。(詩 49:6,7,新)しかし,至上主権者は,非常に苦しい境遇にある人を支え,死からの逃れ道をさえ備えてくださいます。(詩 49:15)事実,神はわたしたちにこう保証しておられます。「わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」― ヘブライ 13:5。
たとえわたしたちを殺したとしても,人間にはわたしたちが死からよみがえらされるのを妨げることはできません。人間には,わたしたちから,生ける者となる資格,つまり権利を奪い取ることはできないのです。それがおできになるのは全能の神だけです。その理由で,イエス・キリストは弟子たちにこう言われました。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」― マタイ 10:28。
であればなおのこと,死すべき人間の非難やちょう笑を恐れる理由はありません。イザヤを通して語られたエホバの次の言葉はこの点に関して力強い励ましを与えてくれます。「義を知る者たち,その心にわたしの律法がある民よ,わたしに聴け,死すべき人間のそしりを恐れてはならず,単にそのののしりの言葉のゆえに恐怖に打たれてはならない。蛾が彼らをまるで衣のように食い尽くし,衣蛾が彼らをまるで羊毛のように食い尽くすであろう」― イザヤ 51:7,8,新。
創造者の偉大さを考え,人間の弱小さをそれと対比させてみるなら,人間に対する恐れを断ち切るよう助けられます。エホバ神の目から見れば,諸国民すべては,桶の中の水の小さなしずく一つ,もしくは天びんの上の一片の塵にすぎません。(イザヤ 40:11-15,新)畏怖の念を抱かせる宇宙の創造者よりも,一滴の水や一片の塵を恐れるとは,実に理に欠けたことではありませんか。
他の人々が人間に対する恐れに屈せず,首尾よくそれに抵抗しているという事実からも励みが得られます。クリスチャンの使徒ペテロは,「苦しみを忍ぶ点での同じことが,世にいるあなたがたの仲間の兄弟全体の中で成し遂げられている」ことを仲間の信者に思い起こさせました。(ペテロ第一 5:9)そうです,人間からの圧迫に直面しながら,エホバ神の側に堅く立場を定めている人はほかにもいるのです。
全能の創造者の不興を買いながら,人間におののき,人間を喜ばせようとするのは,実に愚かなことです。ジョンとヘレンは,エホバに信頼を置かなかったため,自分たちの幸福を失いました。「大患難」が到来する前のいつの日か,ジョンとヘレンの二人が,また同様の傾向を持つ他の人々が,至高者に対する強固な確信を得て,次のように語った詩篇作者と同様の決意を表明することを願ってやみません。「エホバはわたしの光また救いです。だれをわたしは恐れるでしょう。エホバはわたしの命のとりでです。だれにわたしはおびえるでしょう」― 詩 27:1,新。
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読者からの質問ものみの塔 1980 | 1月1日
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読者からの質問
● ネブカデネザル王の夢に出てくる木の切り株に二本のたがが掛けられていたのはなぜですか。
ネブカデネザルは一本の巨木に関する預言的な夢を見ました。その木は切り倒され,たがが掛けられました。切り株に関連して,次のように記されています。「その根株は地に残しておき,鉄と銅のたがを掛け……その分を野の獣と共にさせて,七つの時がその上を過ぎるに至らせよ」― ダニエル 4:23,15,新。
預言者ダニエルの説明によると,この夢はまず,ネブカデネザルが支配の座から七つの時(明らかに七年)の間切り断たれることを意味していました。わたしたちは,この夢が,異邦人の支配する「七つの時」にも当てはまることを理解しています。その間,エホバは,ダビデの子孫の支配者を擁する王国によって宇宙主権を行使することはされません。「来たるべきわたしたちの世界政府 ― 神の王国」(1978年発行)の71-89ページをご覧ください。
切り株にたがが掛けられたことは,その「木」の成長が七つの時の間抑えられることを意味しているのでしょう。ヨブ記 14章7-9節に示されているように,普通の状況の下では,木の切り株は芽を出し,再び成長を始めることがあります。しかし,この切り株はそうではありませんでした。ネブカデネザルにこの夢が与えられた当時入手できた金属の中で特に強じんなものに鉄と銅がありました。(詩 107:10,16,ヨブ 40:18と比べてください。)ですから,切り株に鉄のたがと銅のたがが掛けられたことは,神の拘束というたがが取り除かれるまで,その「木」が再び成長しないことを二重に確証するものであったようです。
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