正しい形式の崇拝を選ぶ
「いざわれらをがみひれふしわれらをつくれる主ヱホバのみまへにひざまづくべし。彼はわれらの神なり,われはその草苑の民その御手のひつじなり」― 詩 95:67。
1 どんな要素は,しばしば宗教の選択を支配しますか。しかし,さらにどんな大切な点を考慮すべきですか。
なぜあなたは,いましておられるような仕方で崇拝しますか。なにかの宗教にはいつている大ぜいの人々はおそらく両親の信仰に従つているでしよう。多くの場合,友人や隣人は選択ということに直接の影響をおよぼします。他の人々は,自分の必要物をいちばん良くみたしてくれると感ずる教会を探し求めます。しかし神によつて是認される崇拝の形式を見出して,それをしつかり持つことを考えるのは一層重要なものです。
2 真の崇拝とは何んですか。どのように正しい形式の崇拝を見出すことができますか。
2 私たちの崇拝は,神にささげる私たちの奉仕です。最高者であられる神は,あらゆる被造物よりも,知恵と力の面においてはるかにすぐれておられます。「天の衆群にも,地に住む民にも,彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて『あなたは何をするのか』と言いうる者はない」。(ダニエル 4:35,新口)彼の御心を無視することは,なんと愚かなことでしよう! 彼の御旨にかなわぬ形式の崇拝を行なうことは,なんとおろかなことでしよう! 賢明な道は神の善にして御旨にかなう全き御心が何であるかを十分にわきまえる知るため,聖書を研究することです。私たちはそのような導きをうけるなら,神をよろこばすため,どのように歩むべきかを知ります。つまり,私たちは真実にエホバ神を崇拝し,エホバ神に仕え,彼の御心を行なうということです。そして,人間の見地から判断して,私たちをよろこばせる道を追い求めるべきではありません。―ロマ 12:2。テサロニケ前 4:1。
3 なぜクリスチャンは,すべての宗教が良いという見解を持つことができませんか。
3 聖書は「私たちの父である神の御前で清く,汚れのない形式の崇拝」について述べています。すると,神の御前で清くなく,汚れた崇拝があるということも分かります。もしそれが神の是認をうけないなら,それは無益なものです。正しい形式の崇拝は,神が是認する形式の崇拝です。―ヤコブ 1:26,27,新世。
両親の宗教
4 両親の宗教にかたく従うことは賢明ですか。
4 両親の宗教にかたくつき従う者たちは,賢明な者たちか,あるいは愚かな者たちです。もし両親が,神の御言葉の知識を子供たちにじゆんじゆんと教えこみ子供たちの生活を御言葉に一致調和するように援助するなら,その道を追い求めることは賢明でありましよう。しかし,きわめて多くの場合,両親は子供たちのためにこの道を示していません。聖書のある教えは,クリスチャンの家庭と言われるところであつても,しばしば両親のお気に入りのすこしの聖句だけにかぎられています。その聖句をいつしよに読むかも知れません。多分その聖句を暗記するかも知れません。しかし,その聖句の意味について真剣な考慮が払われることは,まずないのです。多くの家族にとつては,宗教と言えば特定な時に教会に行くだけの意味しかありません。宗教が生活の他の活動におよぼす直接的な影響はほとんどないのです。口先だけの奉仕を求めても,心にふれず,人の毎日の生活に深い影響を及ぼさない宗教について,神の御言葉は次のように述べています,「無意味にわたしを拝んでいる」。(マタイ 15:8,9,新口)教会に行く家庭で育つかもしれませんが,しかし神の御言葉を教えられないなら,あるいは教会の教理が聖書の真理を無にするようなものであるなら,または教会員の行動に示される教会の実が敬虔な実でないなら,そのような宗教に従いつづけることはなんと愚かなことでしよう!
5 (イ)しばしば,自分の宗教を変えることは,なぜむずかしいのですか。イエスはこのことをどう警告しましたか。(ロ)真理を学ぶ人は,家族の反対に面するとき,どんな決定を下さねばなりませんか。このような環境下でも忠実を示す人を,エホバはどのように祝福しますか。
5 以前に信じていた宗教的な教理が聖書的なものでなく,自分の生活の仕方は真実のキリスト教のものでないと確信する場合でも,そのような宗教,特に両親のしていた宗教を捨てる段になると,それはたいへんむずかしことになります。もちろん,家族の他の者たちが神の御言葉を愛するなら,御言葉の教えをその人からよろんで聞くでしよう。しかし,もしそうでないなら,はげしく反対することでしよう。それらの人々は聖書の真理を論破することができないので,新しく興味を持つた人にエホバの証者との交わりを止めるように要求するでしよう。その人にそれ以上の研究をさせないため,家人が聖書研究の文書を駄目にしてしまうかも知れません。その人は忍耐づよく,適当なときには聖書について巧みに語り,そして正しい行いをして,愛の気持のうちに親族たちに真理を見させようと援助いたします。しかし,ある場合には,エホバ神に奉仕したいという誠実な願いを述べ表わした人々は,親族から勘当されています。主イエスは,このことがおこるということを知つていました,そして次のように語つています,「家の者が,その人の敵となるであろう」。自分の家族に対して強いきずなを感じ,そのきずなを守るために全力をかたむけるのは全く当然です。しかし,この場合に次の決定をくだすことは必要です。すなわち,その人は神の命ずる仕方で崇拝しつづけて親族の不興をうけますか。あるいは,その人は正しいと知つているものを捨てて,肉親との良い関係を守ろうとしますか。イエスは次のように答えました,「わたしよりも父または母を愛する者は,わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は,わたしにふさわしくない」。(マタイ 10:36,37,新口)私たちの持つ,より大きな責任は,私たちの天的な父であるエホバ神とその御子イエス・キリストに負うものです。もし,この試練にみちる状況に面するなら,神への忠実をしつかり保ちなさい。エホバはいま新しい世の社会内において家や親族という報いを100倍にして与え,そして新しい世における永遠の生命という報いを与えます。―マルコ 10:29,30。
6 両親がエホバの証者である子供たちはなぜ特に恵まれた立場にいますか。しかし,各人は何をしなければなりませんか。そしてなぜ?
6 両親が神に献身している僕である子供たちは,多くのことに感謝すべきです。その子供たちは,ごく幼い時から神権的な奉仕の生活に対するかたい基礎を置く援助をうけているのです。彼らは今日の地上にある一番良い交わり神の新しい世の社会の交わりを楽しむことができます。日々聖書の朗読を聞き,聖書の論議に参加することができます。神の正義の原則に従つて訓練をうける彼らは,おとし穴を避けることができるのです。多くの人々の生活は,そのおとし穴のためにけがされておりいつまでもつづく後悔の念をいだいています。家族が神の定めた崇拝の型に従つているので,子供たちの生活に強い影響をおよぼし,子供たちの福祉に貢献するでしよう。しかし,「真理のうちにそだてられる」,すなわち両親がエホバの証者である家庭で成長するだけでは,十分でありません。各人が,すべての思いをこめ,すべての心をつくし,そしてすべての力をつくしてエホバ神を愛するように要求されています。それで,それぞれの場合において子供たちは宗教を自分のものにしなければなりません。そして,聖書の研究に個人的な興味を持ち,聖書の教えを学ばねばなりません。また,聖書に対する愛をつちかい,その愛が心にみちるようにし,正しい崇拝を行なうよう努力しなければなりません。「あなたの若い日に,あなたの造り主を覚えよ」とソロモンは助言しました。もしあなたの両親がそのような道をあなたにすすめるなら,ぜひともその良い助言に従いなさい。―伝道の書 12:1,新口。
社会的な影響
7 ある人々にとつて宗教はどのように社会的な便宜手段になりましたか。そのよう行いはなぜ危険なものですか。
7 社会の活動が教会を中心にして大きく行なわれるため,友人や隣人の行く教会に出席しようとする傾向は強くなつています。「あなたの選ぶ教会」に出席しなさい,という宣伝文句がしばしば言われます。そのような行いを支持する論議は,どの宗教も良いものであつて,大切なことは何らかの宗教を持つことだという間ちがつた考えにもとづいています。しかし,すでに聖書から指摘されたごとく,神の御前で無益な崇拝があります。神を無益に敬つている者が存在している,と神は言われています。そのような宗教は,たしかに良いものではありません。このことは,偶像を崇拝している迷信的な異邦人について言えるだけでなく,自称クリスチャンについても言えることです。クリスチャンと称し,キリストを主と認めるだけでは十分でありません。イエスは,次のように言われました「わたしにむかつて『主よ,主よ』言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御旨を行う者だけが,はいるのである。その日には,多くの者が,わたしにむかつて『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名によつて預言したではありませんか。また,あなたの名によつて悪霊を追い出し,あなたの名によつて多くの力あるわざを行つたではありませんか』と言うであろう。そのとき,わたしは彼らにはつきり,こう言おう,『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ,行つてしまえ』」。(マタイ 7:21-23,新口)自分の宗教を社会的な便宜手段にすることは危険です。これらの群れ全部に良い人々が交わつており,彼らは社会内で善を行なつていると論ずるなら,そのような論は自分自身をあざむくものです。私たちが尋ねねばならぬ質問はこうです。彼らは天におられる御父の御こころを行なつていますか。
8 クリスチャンは,どのような面で他の人にならつて良い益をうけることができますか。しかし,何に対して警戒しなければなりませんか。
8 一般的に言つて,人々は大勢に倣おうとする傾向を持つています。人々は,群衆と共に行きます。他の人々のすることなら,彼らもします。彼らはまわりの人々の行ないをいたします。自分の益になるような性格を持つためには自分の交わりに注意しなければなりません。交わる人々が神に奉仕して正義を愛するならその人の従おうとする生命の道は,その人の徳を高めて永遠の福利をもたらすでしよう。一方,もしこの世的な人々と交わるなら,この世的な考えは心に浸透し始め,この世の人々の行ないは,その人に影響しはじめるでしよう。
9 聖書で言う「悪い交わり」とはどういう意味ですか。
9 自分は非常に強い者であるから,信仰から落ちることはないなどと考えてはなりません。「まちがつてはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」。(コリント前 15:33,新口)悪い交わりとは,どういう意味ですか。きたない言葉を使う人々,不道徳な人々,あるいは酒に酔う人々の交わりは悪いものですか。たしかに,そのような人々は悪い友です。しかし,聖書は次の言葉を述べることにより,その適用をさらに広範囲なものにしています,「信者は不信者とどんな係りを持つか」。(コリント後 6:15,新世)悪い交わりとは,不信者との交わりです。たしかに,不信者との接触をことごとく避けることはできません。そのためには,この世から出なければならないでしよう。しかし,彼らを交際相手に選ばないようにすることはできます。
10 この世の人との交際は,どのように賢明でない結婚にみちびきますか。しかし,結婚配偶者を選ぶ際の要因として,宗教に対する円熟したクリスチャンの見地は何ですか。
10 特に結婚配偶者を選ぶときには,次の助言を思い起すことが大切です,「不信者と,つり合わないくびきを共にするな」。(コリント後 6:14,新口)この世の知人と共に,一晩を楽しく過ごすということが始まりかもしれません。しかし,両性間の誘引力はつよく,人の感情はすぐに動きます。感情は,自分の都合の良いように理性力を働かせて気持の向きを矯正しようとする代りに正当化しようと極力つとめます。友情が結婚にまで発展すると,信者はこんな風に確信するかも知れません,すなわち結娘配偶者は善意者であつて,真理に入るよう援助を与えることができると信じます。それは,その問題について論ずるようにと神の命じている仕方ではありません。契約の民イスラエルに与えた神の命令は,次のようでした,「彼ら(その地の不信者)と婚姻をなすべからず,汝のむすめを彼のむすこに与ふべからず彼のむすめを汝のむすこにめとるべからずそは彼ら汝のむすこをまどはして我をはなれしめこれをして他の神々につかへしむるありてエホバこれがために汝らにむかひて怒をはつしにはかに汝を滅したまふにいたるべければなり」(申命 7:3,4)クリスチャンに対しては,「主にある者とに限る」という命令が与えられています。つまり,神に奉仕するために献身して主なる神と一致していることをすでに証明している人々とだけ結婚すべきです。それで,この世の人々との交わりを求めることは,真の崇拝から一歩遠ざかることであると聖書は示しています。―コリント前 7:39,新口。
この世の仕事との関係
11 悪魔は,どのように世俗の商売を用いて,新しく興味を持つた人々に正しい形式の崇拝を持たせないようにしていますか。
11 商売も人々の生活に強力な影響力を持つています。牧師の支配権力が強いところでは,エホバの証者になるために教会を去りたいと思う人は,世俗の仕事を失なう危険に面するかも知れません。時には,エホバの証者と聖書を研究しているという理由だけで,その人の親族が経済的な報復という難に面するかも知れません。それで,悪魔は目に見える手先を用いて,ヨブの場合に提出した論議を述べつづけます。悪魔は次のように論じます,すなわち人間は物質面で繁栄する限り神に仕えるが,いつたん経済的な安全が危険な状態に陥るならエホバの崇拝を捨てると論ずるのです。しかし,大ぜいの人々は,自分の崇拝を経済的な理由によつて左右されません。空の鳥と野の獣をやしなわれる神は,神の崇拝を第一にする人々に日々のパンを与えたもうにちがいないと彼らは信じています。―ヨブ 1:9-12。マタイ 6:25-34。
12 世俗の仕事は,人の生活内で,どんな正しい位置を持つことができますか。しかし,どんな危険を避けねばなりませんか。
12 霊と真のうちに神の崇拝を行なう人は,人をつまずかせる物質主義的な影響に対して警戒しつづけねばなりません。「あなたがたは,神と富とに兼ね仕えることはできない」とイエスはいましめられています。(マタイ 6:24,新口)もし私たちが真実に神に仕えたいなら,神のいましめに従わねばなりません。もし富が私たちの主人であるなら,私たちの世俗の仕事は私たちの生活を支配します。富の奴隷になる者とは,必ずしも金持ちではありません。しばしば,自分の家族を支えるのに十分な金を得るため,日々あくせく働く人が,経済的な踏車の奴隷になるのです。私たちは,私たちが従う者の僕です。私たちは賢明にも世俗の仕事を正しい位置におかねばなりません。すなわち自分自身を支え,家族の必要とするものを供給するための手段にしなければなりません。しかし「日常生活の事に煩わされ」るために,神の御心を行なうための私たちの自由を,失うようなことがあつてはなりません。―テモテ後 2:4,新口。
神の導き
13,14 (イ)是認される仕方で神を崇拝するために,なぜ私たちは正確な知識を必要としますか。(ロ)聖書的でない一般の宗教の教えのいくらかは何ですか。しかし,今日どんな制度は,神の是認する形式の崇拝をしていますか。なぜあなたはそう答えますか。
13 私たちが直面するこれらの状況,そしてある面で私たちの崇拝に影響をおよぼすこれらの状況全部について,聖書は私たちがぜひとも必要とする神の導きを与えています。聖書は,神の御前で神を全くよろこばせる道を私たちに示しています。私たちは,ローマのクリスチャンたちに宛てた手紙の中で使徒パウロの語つているような人々に,決してなりたくありません。使徒パウロは次のように語りました,「私は彼らが神に対して熱心であることをあかしする。しかし,それは正確な知識によるのではない。彼らは神の義を知らず,自分自身の義を立てようとつとめるため,神の義に従わなかつた」。(ロマ 10:2,3,新世)彼らは神に奉仕していると考えました。しかし正確な知識に不足していたため,自分自身の人間的な考えに従い,自分自身に奉仕していたのです。
14 人は神の御言葉の正確な知識を持つときにのみ,神を崇拝する仕方を知ります。そのときまで,人は自分自身の不完全で,おそらく間ちがいの多い意見とか,他の人の意見だけに頼ります。しかし,聖書を何が真理かを測る物差にするとき,三位一体,人間の魂の不滅性,地獄の火,崇拝の際の偶像の使用,宗教の信仰合同,その他についての教理が神の是認したまう事柄のなかに含まれていないことは明白になります。聖書を自分の導きにするとき,今日誰が神の御心を行なつているかがすぐに分かります。なぜなら彼らはこの世のことからはなれてイエスの模範に従いエホバ神の御名を知らせているからです。また彼らはキリストの弟子であることを証明します。なぜなら彼らはたがいに愛し合い人種とか国家的な背景や経済的な立場の故に分裂していないからです。また,彼らは主イエスの命令に従い,設立した御国の良いたよりを伝道することにより正しくその舌を用いています。しかも,イエスが命じたとおりに,公にまた家から家に行なつています。聖書の知識によつて善意者たちは次のことを認識することができます。すなわち,地上にある数多い宗教制度のうち,エホバの証者の新しい世の社会だけが,神の御前で清く,汚れのない崇拝を行なつているただひとつの群れであるということです。
15 正しい形式の崇拝を行うようになつてから私たちはさらにどんな知識を得るようにつとめるべきですか。そして,なぜ?
15 私たちは真の崇拝を行なうようになつてから,「エホバの御心が何であるかを悟」れという助言に留意すべきです。(エペソ 5:17,新世)私たちは正確な知識を必要とします。基礎的な真理についての正確な知識だけでなく,以前に書かれたすべての良いことについての正確な知識が必要です。それらは「わたしたちの教のために書かれたのであつて,それは聖書の与える忍耐と慰めとによつて,望みをいだかせるためである」。(ロマ 15:4,新口)私たちの研究は進歩すべきです。そして御言葉の乳以上のものに対する感謝と認識をつちかつて,肉を求めることが必要てす。私たちは円熟に進まねばなりません。―ヘブル 5:14–6:3。
16 なぜ私たちは聖書を定期的に読むべきですか。しかし,なぜ聖書を読むだけで満足してはなりませんか。
16 ものみの塔協会の出版物を個人的に研究したり,会衆で研究したりするほかに,私たちは聖書そのものを読むための時間を取らねばなりません。どのクリスチャン奉仕者も,聖書全部をぜひ読まねばなりません。そして,できるなら,なるべく多く読むべきです。しかし,聖書をずつと読んだといつても,その意味を深く考えるために休止もせず,十分に理解しないままに読みつづけることは賢明でありません。私たちは興味をいだくことが必要です。そして,私たちの読んでいるものは,実際に神の御言葉であるという事実を絶えず認識しなければなりません。(テサロニケ前 2:13)神は浪費する方ではありません。神は無駄なものを聖書中に記録させるようなことをしませんでした。聖書中にあるものは,私たちに教訓をあたえるためであり,生活内で直面する決定において私たちを導くためです。かくして私たちは神の是認する形式の崇拝と一致する道を追い求め,神の奉仕者として効果的なわざをするための備えを身につけることができます。(テモテ後 3:16,17)それで聖書の益をうけるためには,聖書の言葉を知ること以上のものを求めねばなりません。私たちはその意味についての理解と,その使用方法についての認識を必要とします。「知恵を得よ,あなたが何を得るにしても,悟りを得よ」。と霊感をうけた箴言は述べています。―箴言 4:7,新口。
17 聖書を読むとき,私たちはどんな事柄に注意を払うことは良いですか。
17 聖書を読むとき,活発に考えなさい。もしそれが預言的なものであるなら,縮図的な段階および最終的な段階における預言の成就に細心の注意を払いなさい。記録中に触れてある基礎的な聖書の真理に注意しなさい。またそこに示されている指導的な原則に気をつけなさい。書いてあることが預言的なものであろうと,なかろうとそれを読むときは,次のような質問を心に思いうかべなさい。すなわち,これは私の生活にどう影響するだろうか。私の態度や私の活動をここに表わし示されている神の御心と一致させるために,なんらかの調整は必要だろうか。私の学んだ他の聖書の教えに対して,どんな関係にあるのであろうか。他の聖書の教えは,どのようにそれを支持するだろうか。これはどのように他の聖書の教えを確証するだろうか。私の宣教に,どのようにそれを用いることができるだろうか。もし,あなたが特定の聖句を理解しないなら,軽く見すごしてはなりません。その意味が何であるかを見出すために努力を払いなさい。
18 私たちは聖書の中で読んだ事柄の理解を,どのように得ますか。
18 聖書の著者であるエホバ神は大いなる先生でもあります。エホバ神は私たちを援助して,聖書の理解をたすけます。私たちを援助して御言葉を理解させるためにエホバが設けたもうた御準備に対して,私たちは認識と感謝を示すことが必要です。エホバ神が私たちの教訓者であるということを十分に認識するなら,私たちは聖書を読むために坐るとき,いつでも祈のうちに彼を求めます。そして,私たちを援助するエホバ神の御霊を願い求めます。(ヤコブ 1:5)私たちはまた会衆の集会からも益を受けます。これらのものに加えて,神は忠実にしてさとい奴隷を通して私たちが理解を得るための助けとして研究の手引きを備えられました。私たちがそれらのものをうけ取るとき,そして会衆内の予定に組みこまれるとき,それらのものを全部読んで研究すべきです。それらのものは,また参照用にも使用することができます。聖書内の聖句を読んでも,その適用が十分に理解できないときは,協会の出版している書籍内の聖句索引や,ものみの塔の12月15日号(英文)についている聖句索引を見てそれから論議されているところを読みなさい。そうすることにより,あなたは誠実な心をもつて真理を理解したいと思い,エホバがあなたを助けるために備え給うた手段に対して認識を持つていることを示します。それに加えて,僕として任命されている兄弟たちが会衆にいます。彼らは「教える資格」を持つ人々です。彼らもまた,あなたを援助するために備えられているのです。質問の答を見出そうとつとめても,成功しないなら,円熟した兄弟たちのひとりにたずねなさい。その人はよろこんで研究して得た自分の知識をあなたにあたえるか,あるいはあなたと共にその知識を得ようとするでしよう。―テモテ前 3:2。
19 神の御言葉の研究に対して,私たちはどんな見解を持つべきである,と箴言 2章1-6節は示していますか。
19 霊感をうけて書かれた箴言は,理解を得るために私たちが努力せねばならぬ方法を極めて良く表わし示しています,「わが子よ汝もしわが言をうけ,わがいましめを汝のこころにをさめ,かくて汝の耳を知ゑにかたぶけ汝の心をさとりにむけもし知識を呼求めさとりをえんと汝の声をあげ銀のごとくこれをさぐりかくれたるたからのごとくこれを尋ねば汝エホバをおそるることをさとり神を知ることを得べしそはエホバは知慧をあたへ,知識とさとりとその口よりいづればなり」。(箴言 2:1-6)理解は極めて高価な宝です。私たちはそれを掘り求めそれを探すための助けを求めるよう努力しなければなりません。もし私たちが努力を払うなら,エホバは私たちの努力を祝福して,成功をさせるでしよう。
20 正しい形式の崇拝を見出して,それをしつかり保つために,私たちが何をすることは要求されていますか。
20 正しい形式の崇拝を選ぶために,私たちが認識を持ち,努力を払わねばならないことは明白です。神に対する私たちの関係が,いかなる人間的な結びつきよりもはるかに大きな重要性を持つものであることを私たちは認識しなければなりません。私たちは神の御言葉の価値を認識して,御言葉を研究するために努力しなければなりません。神の是認をうける形式の崇拝を見出してからは,あなたの認識を生き生きしたものに保ちなさい。知識にむかつて進歩しつづけなさい。そして生活内のあなたの一切の活動に神の御言葉を良心的に適用しなさい。