「網をおろしてすなどれ」
「シモンに言いたまふ『深みに乗りいだし,網をおろしてすなどれ』」ルカ 5:4,文語。
1 ソロモンとアモスはどのように人を魚にたとえていますか。
人をさして「哀れなやつ」(字義的には「哀れな魚」)というような英語の表現は聖書から取られたものではありません。しかし聖書はそれとは別に人を魚にたとえています。賢さをうたわれたエルサレムのソロモン王は,自分の説いた3000の箴言の中で,香柏やヒソプ,獣や鳥,また他の動物や魚について述べ,「人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり,鳥がわなにかかるように,人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時,それにかかるのである」と語りました。(伝道 9:12。列王上 4:32,33)また紀元前9世紀の預言者アモスは自分の民の圧制者にこう語りました。「主なる〔エホバ〕はご自分の聖なることによって誓われた,見よ,あなたがたの上にこのような時が来る。その時,人々はあなたがたをつり針にかけ,あなたがたの残りの者を,魚つり針にかけて引いて行く」。(アモス 4:1,2,〔新世訳〕)エホバ神に敵対する者は,不運な魚のごとく,予期せぬとき突然に捕えられるでしょう。
2,3 (イ)イエスが船を演壇としたのはどこで,またなぜでしたか。(ロ)イエスはその網のたとえ話の中で何と言われましたか。
2 西暦31年の過ぎ越しの祭りを少しすぎたころ,中東のガリラヤの海の,岸から遠くない所に置かれた1そうの漁船は,魚を取るのとは別の目的に使われました。イエス・キリストはその船を演壇とし,彼を岸から押し出さんばかりに集まった大群衆に,一連の預言的なたとえ話をしたのです。すばらしい話を終えたイエスは群衆を去らせ,陸に上がって,ある家にはいりました。そこでイエスの弟子は,敵が麦畑にまいた雑草のたとえ話の意味をイエスに尋ねました。イエスはそのたとえの意味を説明しただけでなく,さらに新しいたとえを語られました。その一つは次にあげる網の話です。
3 「また天国は海におろして,さまざまの魚を集める網のようである。満ちるならば岸にひきあげ,すわって良いものを集めて器に入れ,悪いものを捨てるのである。事物の制度の終結の時にも,そのようになるであろう。天使たちは出て行き,義人の中から悪人を分けてこれを火の炉に投げこむ。彼らはそこで泣き叫び,歯がみをするであろう」― マタイ 13:47-50,新世訳。
4 (イ)器に入れられる「良い」魚はだれを表わしていますか。(ロ)捨てられる「悪い」魚とはだれのことですか。
4 天国についてのイエスのたとえ話はいずれも,天の御国をイエスとともに相続する人々に関するものです。したがって,あとで有利に使用するため器に集められる「良い」魚は,人類のうち天の御国でイエス・キリストとともに治めるにふさわしいことを示す人々を表わしています。(黙示 7:1-8; 14:1-5)神の天の御国は1914年,異邦人の時期の終わりに立てられました。忠実な使徒およびイエス・キリストの他の忠実な弟子の多くはその時以前に死にました。では,事物の制度の終結つまりわたしたちが住む今の時代に取られ,選ばれ,いわば器に入れられる魚はだれを表わしていますか。それは御国相続者の残れる者,今日,地上で「忠実なさとい奴隷」級を,構成する人々にはかなりません。(マタイ 24:45-47,新世訳)象徴的な火の炉に投げこまれて滅ぼされる「悪い」魚とは,天の召しに不忠実であることを示し,「悪人」となり,滅ぼされるクリスチャンのことです。
5 網で漁をする者はだれを表わしますか。なぜ?
5 網のたとえ話の成就において,漁を行ない,網を岸にひきあげ,取れた魚をより分ける仕事をするのはだれですか。それは天使たちです。象徴的な良い魚をふさわしくない魚から分け,ふさわしくない魚を象徴的な火の炉に投げこむのは,明らかに地上のクリスチャンではありません。油そそがれたクリスチャンは,だれが神の天の御国にふさわしく,だれが永久に滅ぼされるべきかを決定する権威を受けていません。彼らは神の油そそがれたしもべとなった者をさばく立場にいないのです。(ローマ 14:4)異邦人の時期が終わり,栄光を受けたイエス・キリストが天の御国にはいる時,これに伴う天使たちがキリストの指示の下にこの選別のわざをします。(マタイ 13:40,41; 24:30,31; 25:31,32)それでは,網は何ですか。
6 では,網は何を表わしますか。
6 イエスのたとえ話も示すとおり,漁師の網は魚その他の海の動物を無差別に集めます。エホバ神と国民的な契約を結んでいたユダヤ人には,ある種の魚および海の動物を食べることが禁じられていました。(レビ 11:9-12)それでユダヤ人の漁師は,網で取った魚をより分けねばなりませんでした。神の律法が禁じていたものを彼らは捨てたのです。これらのすべての点を考えると,網はイエス・キリストの指揮下にある天使が使う道具を表わすことになります。網は仲立ちイエス・キリストを介して,神との新しい契約下にある神の会衆を自任する地上の組織を表わしています。したがって,それは,霊的イスラエル,天の御国でイエス・キリストとともに治めるため神の霊で油そそがれた聖なる国民であることを唱えます。その中には自らの主張にふさわしい者と,偽りの,あるいは不忠実な者とが含まれます。したがってこの網には,当然,キリスト教を名のる数百の宗派と,幾十万人の自称クリスチャンをもつキリスト教国が含まれます。
7 象徴的な網であらゆる種類の魚を集めるためには,天使のもとでだれが用いられねばなりませんか。「良い」魚はどのように集められましたか。
7 象徴的な網が,一隊となって働く天使の手中にあることは確かです。しかし「網」があらゆる種類の象徴的な魚を集めるためには,「網」の組織に属する人々が働かねばなりません。彼らは,キリスト教の名の下に,地上で集めるわざをしなければなりません。天の御使いは見えない仕事をし,「網」の組織に入れられた成員が見える直接の仕事をします。聖書の原則およびキリストを通して与えられる神の指示に真に従って魚を取るのは,この「網」組織にある者のうちごくわずかの人々です。結果として,その種の働き人だけが,天の御国にふさわしい,真のクリスチャンの「魚」を集めます。キリストの下にある天使は「事物の制度の終結」の時にこの事実を明らかにします。そして1914年の異邦人の時期の終了以来,わたしたちはその時代にいるのです。天使たちは良い「魚」を象徴的な器の中に集めました。
8 1914年から1918年の間,「良い」魚はどのように大いなるバビロンの束縛に陥りましたか。
8 「事物の制度の終結」が1914年に始まる何年も前から,真のクリスチャンの資質をもつ「魚」はキリスト教国から離れて互いに集まり始めました。彼らは世界の至る所でキリスト教国とは別個の会衆を形成しました。しかしその時,到来したのは第一次世界大戦です。これは1914年から1918年まで,主としてキリスト教国の諸国民の間で戦われました。この戦争の間,真に献身し,バプテスマを受けたクリスチャンから成るこれらの別の会衆は,キリスト教国に束縛された状態に陥りました。キリスト教国は宗教上の大いなるバビロンの最も強力な部分ですから,彼らはこうして,紀元前607年のエルサレム滅亡ののち,ユダヤ人が古代バビロンに幽閉されたことにも似た捕われに陥ったのです。しかし彼らはそこにとどまりますか。
9 なぜ「事物の制度の終結」は「良い」魚が大いなるバビロンの束縛下にとどまる時ではありませんでしたか。
9 いいえ! 異邦人の時期は第一次世界大戦の起きた1914年に終わり,その結果,「事物の制度の終結」が始まりました。イエスの網のたとえ話で言えば,これは「天国」の油そそがれた相続者を自任する者たちを分ける時期です。今やキリストの下にある天使は忙しく働き,象徴的な網を岸にひき上げ,「悪い」ものを捨て,神の律法で認められた「良い」ものを会衆の「器」に入れるべき時が来ました。そして天使はこのことを行なったのです。
10 (イ)「良い」魚はそのバビロン的な捕われからいつ出はじめましたか。どのように?(ロ)「悪い」魚はすでにどんな経験をしていますか。なぜ?
10 1919年の春以来,真のクリスチャンは大いなるバビロンの捕われから出てきました。「わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ」との声が天から出されたのです。(黙示 18:4)宗教上の大いなるバビロンはバビロン的な偽りの宗教の世界帝国であり,キリスト教とバビロン的な宗教との混合を試みたキリスト教国はその中に含まれています。そこでこの天からの召しによれば,彼らはキリスト教国から出なければなりませんでした。キリスト教国内にとどまる幾億もの「悪い」魚は,まもなく象徴的な「火の炉」に投げこまれ,完全に滅ぼされます。彼らはすでにその方向に進んでおり,偽善的なクリスチャンは「泣き叫び,歯がみ」しはじめています。(マタイ 13:50)なぜ? 神の真実の民であれば,離れるべきであるのに,彼らは大いなるバビロンを離れていないからです。それで彼らはその罪にあずかり,その破滅的な災いの前兆をすでに感じているのです。彼らはまもなく神の定めの時に,大いなるバビロンおよびその政治上の情夫とともに滅びます。
11 クリスチャンを自任する者のうち,大いなるバビロンを出たのはどれほどの人々ですか。彼らはどのように「器に」集められましたか。
11 1919年当時,油そそがれたエホバのクリスチャン証人は,これら大いなるバビロンを愛する者たちとは全く対照的に,天からの召しに喜んで応じました。彼らはクリスチャンを自任する者全体から見れば全くの少数者であり,イエス・キリストがそれまでの19世紀間,建ててきた真のクリスチャン会衆の残れる者にすぎませんでした。(マタイ 16:18。使行 2:1-42)天使の導きの下に,彼らはいわば「器に」,つまり解放されたクリスチャンの会衆に集められ,イエス・キリストの神また父なるエホバへの奉仕のために取って置かれました。
12 象徴的な「良い」魚の,この残れる者は,なぜ直ちに天に取られなかったのですか。
12 象徴的な「良い」魚の,この残れる者には,「天国」にはいる希望がありますが,彼らの期待に反して,直ちに天には取られませんでした。この「事物の制度の終結」の時,そして大いなるバビロンとその政治上の情夫およびその軍勢に終わりが臨む前に,彼らには地上でなすべき仕事があったのです。
13 (イ)御国伝道により,あかしのわざのほかにどんな仕事が成し遂げられていますか。(ロ)使徒時代の仕事を1919年以来ひき続き行なうべきだったのはなぜですか。
13 いま全世界は残れる者が行なう真のクリスチャンの仕事が何であるかを知っています。なぜなら彼らが,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう」とのイエスのことばに従い,地の果てにまで彼らの仕事を広げたからです。(マタイ 24:14)御国伝道者により成し遂げられるのは,すべての民にあかしをすることだけではありません。この御国伝道の結果として,また天使の導きの下に,分ける仕事も行なわれているのです。(マタイ 24:30,31,40-42)分ける仕事は,解放の年である1919年にそのすべてが成し遂げられたのではありません。あらかじめ14万4000人と数を定められた御国相続者のすべてが地からあがなわれるため,象徴的な「良い」魚をさらに取り,会衆という「器」の中に入れることが必要でした。12使徒の時代にイエス・キリストが始められた仕事,つまりすなどる仕事は,「事物の制度の終結」の時である今日まで続けられねばなりませんでした。大漁は保証されていました!
奇跡の漁獲
14 (イ)バプテスマのヨハネの弟子のある者は,どんな職業に従事していましたか。そしてイエスがそのうちの4人にガリラヤの海で会ったいきさつを述べなさい。(ロ)彼らの仕事に最も適していたのはどんな時間でしたか。
14 1900年前のイエスの使徒の中には,ガリラヤの海で魚を取ることを職業としていた者が多くいました。彼れらはバプテスマのヨハネの弟子であり,イエス・キリストが彼らに会ったのは,イエスが水のバプテスマを受けた時より何日かあとの西暦29年の末であり,ヨルダン川の上流地方においてでした。(ヨハネ 1:35-44)それから何か月かのち,つまり翌年になってから,イエスはそれら専門の漁師に,その仕事場であるガリラヤの海で会いました。そのころまでにバプテスマのヨハネはヘロデ王に捕えられてろう獄にあり,イエスは彼の音信を受けついで,「悔い改めよ,天国は近づいた」と宣明し始めていました。(マタイ 4:12-17)ある日イエスは,ガリラヤの海の岸辺に集まった人々に神の国を伝道していました。それは4人の漁師が網を打ち,骨折って働いていた所の近くでした。当時のユダヤ人がごく普通に行なっていたのは,いろいろの網を使って魚を取る方法でしたが,聖書にはその中の4種類の網のことが出ています。(ハバクク 1:15,16。伝道 9:12。詩 35:7,8,新世訳)日没後と日の出まえ,つまり夜が漁をするのに最良の時とされていました。
15,16 (イ)イエスがシモンとその同船者に網をおろしてすなどれと言われたのは,どんな事情の時でしたか。(ロ)その時に起きたことの直接の結果を述べなさい。
15 ルカによる福音書 5章1-10節はこう述べています。「さて,群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき,イエスはゲネサレ[ガリラヤ]湖畔に立っておられたが,そこに2そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは,舟からおりて網を洗っていた。その1そうはシモンの舟であったが,イエスはそれに乗り込み,シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ,そしてすわって,舟の中から群衆にお教えになった。話がすむと,シモンに『沖へこぎ出し,網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。シモンは答えて言った,『先生,わたしたちは夜通し働きましたが,何も取れませんでした。しかし,お言葉ですから,網をおろしてみましょう』。そしてそのとおりにしたところ,おびただしい魚の群れがはいって,網が破れそうになった。
16 「そこで,もう1そうの舟にいた仲間に,加勢に来るように合図したので,彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために,舟が沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロは,イエスのひざもとにひれ伏して言った,『主よ,わたしから離れてください。わたしは深罪い者です。』彼も一緒にいた者たちもみな,取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも,同様であった」。
17,18 (イ)4人の漁師仲間は何が起きたことを悟りましたか。(ロ)イエスがシモンの求めに応じなかったのはなぜですか。イエスは何をされましたか。
17 シモン・ペテロの舟にはほかの者,特に兄弟のアンデレ,そしておそらくは二人の父親であるヨハネが乗っていました。加勢に来た舟にはヤコブとヨハネのほか,その父親ゼベダイと雇い人が乗っていました。ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネの4人はイエスが奇跡を行なわれ,夜通し働いて何も取れなかった所で突然に大漁をもたらされたことを悟りました。
18 このことは,それ以前から個人的に会って知っていたイエス・キリストに対する彼らの認識を深めさせました。このように神聖な神の人を自分の舟に乗せたペテロは,前以上に自分の罪深さを感じ,自分から離れていただきたいと主イエスに願いました。しかしイエスは一人だけで舟を離れようとはされませんでした。イエスが,しっかりした正式の追随者を伴うべき時は来ていたのです。それでイエスはペテロの罪深さのゆえの恐れを静められました。記録はこう述べています。「すると,イエスがシモンに言われた,『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』」。このことばの中でイエスは人を魚にたとえられました。しかしペテロは人をすなどる仕事をだれと一緒に行なうのですか。ほかならぬイエス・キリストとです。その時イエスは魚より大きな獲物つまり「人間」をすなどるため,ご自分に従うことをペテロに求められました。イエスはまた,この新しい仕事のためにペテロの兄弟アンデレをご自分に従うよう招かれました。彼らはふたりとも従いました。
19 一方,ヤコブとヨハネは何をし始めましたか。二人はその仕事をどのくらい続けましたか。
19 一方,ガリラヤでのペテロの漁仲間であるヤコブとヨハネは,舟に乗った父親ゼベダイとともに,舟が沈むほどの奇跡の大漁のために破れた網を直し始めました。そこへ,ペテロとアンデレを伴ったイエスが近づき,水辺までおりて,舟の中のヤコブとヨハネに呼びかけ,さらに大きな漁をする仕事のため,そのふたりをもご自分に従うよう招きました。彼らはそのとおりにしたのです。こうしるされています。「そこで彼らは舟を陸に引き上げ,いっさいを捨ててイエスに従った」― ルカ 5:10,11。
20 マタイとマルコは4人の漁師が召された様子をどのように述べていますか。
20 使徒マタイと弟子マルコはこれら4人の漁師が招かれるに至ったいきさつをこれより簡略にしるしていますが,このふたりは,人をすなどる者となるようにとの招きのことばを,イエスが4人すべてに直接語られたことを示しています。マルコによる福音書 1章16-20節はこうです。「イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ,シモンとシモンの兄弟アンデレとが,海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた,『わたしについてきなさい。あなたがたを,人間をとる漁師にして,あげよう』。すると,彼らはすぐに網を捨てて,イエスに従った。また少し進んで行かれると,ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが,舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで,すぐ彼らをお招きになると,父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において,イエスのあとについて行った」― マタイ 4:18-20。
21 (イ)大工であったイエスが,人のすなどり方をそれら4人に教える資格を備えていたのはなぜですか。(ロ)人をすなどる彼らが生活の心配をすべきでないことを悟らせたのはどんな手本ですか。
21 イエスご自身はそこで4人の人間をすなどられたのです。イエスは以前,海に遠いナザレの大工であり,漁師ではありませんでしたが,象徴的な意味での魚である人間をすなどる方法を知っていられました。そしてヨルダン川でバプテスマを受け,神の聖霊で油そそがれた時から6か月以上たった今,そのわざを始められました。経験をもつ者として,イエスは人をすなどる方法を他の者に教えることもできました。この目的を心にとめたイエスは,ご自分に従い,個人的に訓練を受けるよう,4人の実際の漁師を招かれたのです。それゆえに,彼らはガリラヤの海で魚を取るという自分の職業を捨てねばなりませんでした。普通の漁師は自分の取った魚を売って生計をたてます。しかし,人をすなどる漁師は,人間を売って生活することはできません。では,最大の漁師,主イエス・キリストにいつも従うペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネは人をすなどる漁師として,どのようにして生計をたてるのですか。イエスご自身は,バプテスマのヨハネのもとに行ってバプテスマを受けられたとき,すべてのものを捨てられ,それ以後,ご自分の大工の仕事を再び始められたことは一度もありませんでしたが,エホバ神は,人をすなどるイエスの生活を顧みていられました。
生活を心配する必要はない
22 (イ)人をすなどる面で成功を疑う理由がなかったのはなぜですか。(ロ)人をすなどるこの仕事はイエスが死んでもなぜ挫折しませんでしたか。
22 人を取る漁師のかしらであるイエス・キリストの導きに従って働くかぎり,これら以前の漁師が人をすなどわざるの成功を疑う理由はありませんでした。イエスの命令に従って,ペテロとアンデレは,信仰をいだいてガリラヤの海に網をおろし,一見,漁を得られないかに見えたところから,ヤコブやヨハネなど仲間の手を借りねばならぬほどの大漁を得たのです。その時,彼らの網は破れかかり,引き上げた大量の魚のため,二そうの舟が沈むのではないかとさえ思われました。イエスは,うろことひれをもつ水の生き物を取る面でこれほどの成果をもたらされたのですから,象徴的な魚である人をすなどる面でも同じように成功されるでしょう。約3年後,イエスは刑柱上で死なれましたが,それによって人をすなどるこの重要な仕事がそこなわれ,あるいは終わることはありませんでした。3日目にイエスは死からよみがえらされ,忠実な追随者の行なうすなどるわざを再興させる立場に立たれました。
23 (イ)イエスが霊界によみがえらされたために,人をすなどるわざで使徒たちは不利な立場におかれましたか。(ロ)イエスの復活後,7人の弟子がガリラヤの海に集まったいきさつを述べなさい。
23 イエスは神の不滅の霊の子として死からよみがえらされ,それ以後見えない霊界にとどまっていられるため,確かに,肉体としては弟子たちともにいられませんでした。しかし今やイエスは,この人をすなどる仕事を世界的な規模で完全に成功させるため,一段とすぐれた立場にたたれたのです。彼がよみがえらされたのは西暦33年月暦ニサンの16日でしたが,それより1週間以上たったある時,イエスはこの点で励ましとなる保証を与えられました。復活の朝,イエスは,ある弟子たちに現われた天使を通して,忠実な使徒たちに,エルサレムとユダヤの地方を離れ北のガリラヤ地方に行くよう命じられました。そこにイエスは見えるさまで現われ,使徒たちにさらに指示を与えられるはずでした。(マタイ 26:32; 28:7-10,16。マルコ 16:6,7)それで,ある時,イエスの弟子7人はテベリアの海とも呼ばれたガリラヤの海の近くに集まっていました。
24,25 (イ)ひとしきり漁をした7人は,岸辺の質問者に何と答えざるを得ませんでしたか。(ロ)質問者はかれらに何をせよと告げましたか。その後,彼らはどのようにして岸に着きましたか。
24 ペテロが,魚を取りに行きたいと述べると,他の6人は一緒に行きたいと答えました。そして彼らは一晩中,網を打って魚を取ろうとしましたが,魚は1匹も取れませんでした。やがて明けがたになると,岸にだれか人影が立ちました。岸から叫ぶその人の声が舟まで聞こえました。「子たちよ,何か食べるものがあるか」。彼らは,ありませんと答えました。それではやめるようにと彼は告げましたか。
25 こう書いてあります。「すると,イエスは彼らに言われた,『舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば,何かとれるだろう』。彼らは網をおろすと,魚が多くとれたので,それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が,ペテロに『あれは主だ』と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて,裸になっていたため,上着をまとって海にとびこんだ。しかし,ほかの弟子たちは舟に乗ったまま,魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると,炭火がおこしてあって,その上に魚がのせてあり,またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた,『今とった魚を少し持ってきなさい』。シモン・ペテロが行って,網を陸へ引き上げると,百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが,網はさけないでいた」。
26 (イ)彼がだれであるかについて疑うこともできたのはなぜですか。(ロ)復活後,イエスが弟子たちに現われたのはこれが3度目であると言えるのはなぜですか。
26 イエスはこの時,それまでとは異なる肉体をつけて現われました。それでこう書いてあります。「イエスは彼らに言われた,『さあ,朝の食事をしなさい』。弟子たちは,主であることがわかっていたので,だれも『あなたはどなたですか』と進んで尋ねる者がなかった。イエスはそこにきて,パンをとり彼らに与え,また魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえったのち,弟子たちにあらわれたのは,これで既に三度目である」。(ヨハネ 21:1-14)つまり,使徒のすべてあるいは半分以上がともにいる所にイエスが現われたのはこれが3度目です。最初は復活した日曜日の晩であり,その時イエスは肉体を着け,焼いた魚を食べて使徒たちの見るものが霊でないことを示されました。―ルカ 24:22-43。ヨハネ 20:19-25。
27 イエスがご自分の力を2度の奇跡の漁獲で示されたのはなぜ適切ですか。
27 イエス・キリストが奇跡の漁獲によって使徒たちの網を魚で満たし,2度もご自分の力を示されたのは,いかにもふさわしいことでした。彼は「最後のアダム」であり,エデンの園の最初のアダムはある意味で「きたるべき者の型」でした。(コリント第一 15:45。ローマ 5:14)最初のアダムとその妻は,「海の魚」と地上の下等動物すべてを「治め」よとの命令を,創造者なる神から受けていました。(創世 1:26-28)詩篇 8篇4-8節は「最後のアダム」イエス・キリストが同じように魚をさえ服従させることを予告していましたが,イエスが神の国の事柄を推し進めるために,そのような力を実際に行使したことは幾度も記録されています。(ヘブル 2:5-9)その一例は宮の納入金を納めるかどうかの問題の時で,イエスはシモン・ペテロにこう言われました。「海に行って,つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって,その口をあけると,銀貨一枚が見つかるであろう。それを取り出して,わたしとあなたのために納めなさい」― マタイ 17:24-27。
28 (イ)こうした奇跡の漁獲を見た使徒たちは人をすなどるわざについて,当然どのように考えることができましたか。(ロ)この2度目の奇跡ののち,人をする者になれとの招きのことばを語る必要がイエスになかったのはなぜですか。
28 人をすなどる者としてイエスに召されたことを記憶していた使徒たちは,2度の奇跡の漁獲によって,その仕事に対する信仰を強めたに違いありません。すなどり人のかしらであるイエス・キリストのご命令に従って,すなどるために網をおろした彼らの努力はむだではありませんでした。イエスのことばに従って人をすなどるために網をおろす時,からの網を引き上げることはないと彼らが考えたのは当然なことです。天国のために集められる者が,きっとその中にいるにちがいありません。しかし,ガリラヤの海での2度目の奇跡の漁獲のあと,ご自分に従って,魚を取る者から人をすなどる者となるようにとの招きのことばを,イエスがくり返す必要はありませんでした。それで今,復活後のイエスは別のたとえを用いられました。いまは愛の資質を考慮すべきであったからです。それでヨハネ伝 21章15-17節(文語)はこう述べています。
29 その時イエスとペテロはどんな問答をしましたか。
29 「かくして食したる後イエス,シモン・ペテロに言ひ給ふ『ヨハネの子シモンよ,なんぢこの者どもにまさりて我を愛するか』ペテロいふ『主よ,しかり,わがなんぢを愛する事は,なんぢ知り給ふ』イエス言ひ給ふ『わがこ羊を養へ』また二度いひ給ふ『ヨハネの子シモンよ,我を愛するか』ペテロ言ふ『主よしかり,わがなんぢを愛する事は,なんぢ知り給ふ』イエス言ひ給ふ『わが羊をかへ』三度いひ給ふ『ヨハネの子シモンよ,我を愛するか』ペテロ三度『われを愛するか』と言ひ給ふをうれひて言う『主よ,知りたまはぬ所なし,わが汝を愛する事は,なんぢしりたまふ』イエス言ひ給ふ『わが羊をやしなへ』」。
30,31 (イ)ペテロに対するイエスの最初の質問の中で,「これら」という代名詞が何を表わすかがわかりにくいのはなぜですか。(ロ)それで,現代のあるほん訳者はこの質問をどのように訳していますか。
30 漁師は魚を愛しませんが,羊飼いは羊を愛します。イエスが地上で生活された土地では特にそうでした。また,羊飼いは自分が世話する羊について責任をとらねばなりませんでした。しかし,ペテロに「なんぢこの者ども(これら,新世訳)にまさりて我を愛するか」と問われた時,イエスが何を意味していられたかは明確ではありません。聖書のギリシャ語原本の中で,ここにある指示代名詞「これら」は属格複数形であり,ギリシャ語文法で代名詞の属格は男性,女性,中性の全体を通じて同じ形をとります。一例として,K・S・ウエストの新約聖書(1961年版)はこう訳しています。「あなたはこれら(の魚)以上に……わたしを愛するか」。このことばによれば,イエスは,ペテロがガリラヤの海で実際の魚を取る仕事以上にイエスを愛するかどうかを尋ねられたとも思われます。同じ考えはG・M・ラムサの訳した聖書(1957年版)の中にも示されており,その訳でこの部分は,「あなたはこれらの物以上にわたしを愛するか」となっています。
31 ジェームス・モファット訳の聖書(1922年版)は「他の者が愛する以上にわたしを愛するか」と訳出し,別の考えを提起しています。(「ジェームス・マードックのアメリカ訳」も同じ)イエスが敵に渡された夜,シモン・ペテロは自分が他の使徒以上にイエスを愛していると言って誇りましたが,そのすぐあとで,自分が語ったほどの深い愛を示せませんでした。(マタイ 26:31-35,55,56,69-75)しかしガリラヤの海でペテロはイエスへの自分の愛が他の者のそれにまさると言って誇ることはありませんでした。しかし,「新英訳聖書」(新約聖書,1961年版)は「あなたは他のすべてにまさってわたしを愛するか」としています。
32 人々を得るため,ペテロはだれの資質を示すべきでしたか。得た人々を守るためには,どんな資質を示すべきでしたか。
32 ここに使われている代名詞「これら」が何を意味するにしても,イエスはここで,よみがえらされた見えない主であり師であられるご自分に対する愛を,地上でどのように示せるかを,ペテロに教えられたのです。つまり地上にいる主の「羊」に愛ある世話を施さなければなりませんでした。ペテロは,神のための人々を得るという面では,すなどり人の持つ資質を示し,集められた人々を組織の内にとどまるよう守るためには,主に仕える羊飼いとして,自分の主の羊にやさしい愛を示さねばなりませんでした。