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あなたは洗礼をうけましたか? どのように? なぜ?ものみの塔 1955 | 9月15日
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ではなく,むしろ悔い改めた者になされたと聖書は述べています。それは,ヨハネの教えの目的であり,かつ悔い改めることによつて,律法契約に対する罪のゆるしは得られたのです。洗礼自体,彼らが悔い改めたためになされ,悔い改めが条件とされていたものです。洗礼は,悔い改めのしるしであり,悔い改めを表わすものです。それで,悔い改めは,ヨハネと他の人々の前ではつきり表示されました。悔い改めを公やけに発表して,それを表示した人々は,浸礼者ヨハネの述べ伝えたキリスト・イエス,すなわちメシヤをうけ入れる用意ができていました。
20 (イ)ヨハネの浸礼は,以前の悔い改めを象徴するものであつたという事実を更に示しなさい。(ロ)クリスチャンのうけるイエスの洗礼は,ヨハネの洗礼と異るものか否かを示しなさい。
20 キリスト教徒ギリシャ語聖書(多く新約聖書と言われる)の近代訳は,この点を良く証明しています。たとえば,マタイ伝 3章11節のヨハネの言葉を次のように訳出していることからも分ります。『あなた方が悔い改めているために,私は水の洗礼を授けている。』(新世)『あなた方が悔い改めているしるしとして,私は水の洗礼を施している。』(アメリカ訳)『あなた方の悔い改めを示すため,私は水の洗礼を施している。』(シー・ビー・ウイリアムズ訳)ルカ伝 3章3節ではこう書かれています。洗礼者ヨハネは,『罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』(新世)『悔い改めを条件にしている洗礼を宣べ伝えた。』(ウイリアムズ訳)『罪のゆるしを得ようとして悔い改めた者たちに洗礼を宣べ伝えた。』(ノックス訳)律法に対する罪を悔い改めた象徴として,ヨハネは人々に洗礼を施していました。そのことから,律法に対する罪を持たぬイエスがなぜ浸礼をうけに来たか,ヨハネには分らなかつたのです。しかし,ヨハネにむかつてイエスはこう言いました『いまはそうおつしやるな。義しいことをすべてなしとげるのは,私たちにふさわしいのである。』(マタイ 3:15,新世)使徒行伝 19章1-5節(新世)には,次のように書かれており,イエスの洗礼とクリスチャン浸礼は,洗礼者ヨハネの行つた洗礼と異ることが,更に証明されています。『さて,アポロがコリントにいるあいだ,パウロは内地を通つてエペソに至り,幾人かの弟子に会つた。彼は「あなた方が信者になつたとき,聖霊をうけましたか」と彼らに尋ねた。「聖霊があるなどとは,聞いたこともありません。」と彼らは答えた。「それでは,あなた方は何の洗礼をうけましたか」とパウロは尋ねた。「ヨハネの洗礼です」と彼らは答えた。「ヨハネは悔い改めの洗礼を施し,後に来る方,つまりイエスを信ぜよと人々に語つたのである。」とパウロは言つた。この言葉を聞いて,彼らは主イエスの名によつて洗礼をうけた。』
21 洗礼をうけた者について,まだ何を考慮しなければなりませんか?
21 それで,イエスは新しい型を始められたのです。それは,罪のゆるしを得る洗礼でもなければ,悔い改めの象徴としての洗礼でもなく,献身を象徴したクリスチャン洗礼でありました。イエス御自身も,その浸礼により献身を象徴したのです。今日,洗礼と洗礼をうけた者にたいしてキリスト教の要求している事項については,次の記事を見て下さい。
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新世社会のクリスチャン洗礼ものみの塔 1955 | 9月15日
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新世社会のクリスチャン洗礼
『我らはその(ヱホバの)路を歩まん。』― ミカ 4:2,ア標。
1 いまヱホバに献身する各人は,浸礼をうけるべきですか? 主の『他の羊』も浸礼をうけるべきですか?
前号とこの号の『ものみの塔』の中で,ヱホバへの献身と,その献身の象徴である洗礼について,多くのことが述べられています。さて,論議をいま少し進めます。前に述べられていることを基にして考えるとき,主イエスの『他の羊』は,洗礼をうけるべきですか?(ヨハネ 10:16)この質問の答は,肯定であります。神の御意を行うために献身するすべての人は,その献身の証として浸礼をうけるべきです。そして,主の『他の羊』に属する者たち,つまり地上における永遠の生命の希望を持つ『大いなる群衆』も,その浸礼をうけるべきです。(黙示 7:9)彼らは,義しいことをことごとく果そうと欲しています。そのことから見ても,彼らが浸礼をうけるのは,正しいことであつて,イエスが,御自身の洗礼についてマタイ伝 3章15節で述べている言葉通りです。いま集められているこれらヱホバの崇拝者たちは,各人それぞれ献身していますが,そのことは,他の聖句の中でも古いミカの予言により証明されます。『多くの民来りて言ん。いざわれらヱホバの山に登り,ヤコブの神の家にゆかん。ヱホバその道を我らに教えて,我らにその路を歩ましめたまわん。』(ミカ 4:1-5)それは,神への献身,つまり『彼の路を歩む』ことを示します。ここで,私たちが確信しすることのできるように正しい洗礼の施し方を学ぶのは,大切なことです。
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