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崇拝を行なうための唯一の真の神殿ものみの塔 1973 | 3月1日
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たり』とつけ加えたのはそのためです。―ヘブル 10:10〔新〕。
26 クリスチャンの従属の祭司はその「祭壇」から食べますが,ユダヤ人の祭司にはそうする権利がないのはなぜですか。
26 また,パウロがあとの箇所で次のように述べたのもやはりそのためです。『われらに祭壇あり,幕屋につかうる者はこれより食する権をもたず。…このゆえにイエスもおのが血をもて民を潔めんがために,門の外にて苦難を受けたまえり』。(ヘブル 13:10-12)つまり,われらとは霊的な従属の祭司のクリスチャンたちのことですが,それらの人たちは神の「意志」という祭壇にささげられた罪を贖う犠牲を持っています。しかし,エルサレムのヘロデの神殿で仕える祭司たちは,この祭壇にささげられた犠牲を食べる権利はありません。なぜなら,彼らはエホバの真の大祭司で,エホバの新しい契約の仲介者であるイエス・キリストに対する信仰に欠けていたからです。
27 イエスはいつご自身を犠牲としてささげましたか。それで,犠牲を供える基盤となるどんなものが存在するようになりましたか。また,対型的などんな「日」が始まりましたか。
27 完全な人間としてのイエスは,巻物の書に述べられているように,神の「意志」という祭壇に供える犠牲となるため,いつご自身をささげましたか。それは西暦29年にヨルダン川で浸礼を受けるため,ご自身をバプテスマのヨハネに渡した時でした。エホバ神が,みずからを犠牲にしたイエスを受け入れたことは明らかです。なぜなら,イエスが水のバプテスマを受けたのち,エホバはご自分の聖霊をイエスの上に注ぎ,イエスをキリストつまり油そそがれた者とし,また人に聞こえるように天から,『これはわが愛しむ子,わが喜ぶ者なり』と述べたからです。(マタイ 3:13-17。ヨハネ 1:29-34)したがって,その時,神の対型的な祭壇が存在するようになり,またその上に,受け入れられうる罪祭が備えられました。その時以降,イエス・キリストは,ご自分の人間としての犠牲を死に至るまで管理しながら,対型的な祭司の中庭を歩んでゆかれました。大いなる対型的な贖いの日は始まりました。そして,神の大祭司,イエス・キリストは,チスリ10日の年ごとの贖いの日にエルサレムの神殿でアロンの家系の大祭司が行なったと同様の仕方で,神の真の霊的な「祭壇」で仕えていたのです。―ヘブル 8:1-6。
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宗教指導者たちによる評価ものみの塔 1973 | 3月1日
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宗教指導者たちによる評価
● デンマークの一流新聞の一つである,ベルリングスケ・ティンデ紙(1969年8月9日)は社説の中で,「教会が[エホバの]証人の熱意の半分でもよいから持って,キリスト教に関する知識を広めてくれたらと人は思うだろう」と書きました。また,ブルックリンの指導的なプロテスタント牧師は,自分の会衆に向かって次のように語りました。「わたしは,自分たちの宗教について語るエホバの証人に敬服する。…われわれは申し合わせたように,押し黙っている。宗教はわれわれが決して口にしない事がらの一つである。…証人たちは自分の信仰を明らかにしている。毎日,口で表明する。彼らはためらわずに話す」。
使徒パウロ伝道会の司祭で編集者である,J・B・シーリンは,かつて,エホバの証人は「われわれカトリック教徒に対して,挑戦を投げかけている」と書きました。なぜでしょうか。なぜなら,「証人たちは真の教会の特色を備えており,われわれカトリック教徒が,われわれの宗教のこれらの特色を無視している一方で,彼らは徹底的にそれを行なっている」からです。証人たちの熱意について述べたのちに,シーリンはこう質問しました。「大会出席者が朝早く起き,開催都市の町かどでカトリックのパンフレットを配布するようなカトリックの大会のことを聞いたことがあろうか」。
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