バプテスマ
『イエスは……バプテスマをお受けになつた。そして,水の中から上がられるとすぐ……聖霊がはとのように自分に下つて来るのを,ごらんになつた。すると,天から声があつた,「あなたは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』― マルコ 1:9-11,新口。
1 (イ)どんな段階が献身の後につづきますか。(ロ)何がイエスの献身を象徴しましたか。何時彼は聖霊を受けましたか。
全能の神に奉仕したいと,気持と心の中で献身して後,どのようにその献身を完了しますか。別の段階が必要です。それは,水のバプテスマを受けることにより,自分の献身を他の人に公に発表し告白するということです。興味深いことには,キリスト・イエスはこの正しい行いについての模範を残されたということです。『イエスはバプテスマを受けるとすぐ,水から上がられた。すると,見よ,天が開け,神の御霊がはとのように自分の上に下つてくるのを,ごらんになつた。また天から声があつて言つた,「これは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』(マタイ 3:16,17,新口)この言葉から,キリスト・イエスの献身はバプテスマにより,公に象徴されたと知ります。彼が水から上られると,ヱホバの御霊はイエスに下つてきました。そして,ヱホバ神は御子の採つた行いによろこばれていると洗礼者ヨハネの聞こえるところで述べられたのです。
2 (イ)『バプテスマ』という言葉の語源であるギリシャ語の言葉の意味は何ですか。(ロ)バプテスマを施すことは,どのようになされるべきですか。
2 『バプテスマ』という言葉は,『浸す』という意味のギリシヤ語バプティスマから取られています。それですから,水をふり注ぐという意味はすこしもありません。また,バプテスマを施すヨハネのところに行つて浸礼を受けた際のイエスの自発的な行為に気をつけなさい。彼はヨハネに身を全くゆだね,後ろ向きになつて水の中に浸されました。イエスがヨルダン河の水の中に全く没して浸された仕方は,イエスが以前の地上の生涯に関しては死に葬られたということを良く表わし示しました。それから彼が水の中から引き起されたことは,その時以降彼がヱホバの御意を行うために生かされたということを示します。それですから,個人の献身の正しい公のしるし又は象徴として水のバプテスマはまつたく適当なものです! ヨハネがイエスにバプテスマを授けたとき,誰もヨハネに手助けしていません。また,この浸礼の際に他の人がいたなどとは述べられていません。このことは,キリストの弟子が洗礼を受ける正しい仕方の手本となります。つまり,ひとりの人は,受洗希望者を水の中に仰向けに浸し,全く水の中に没せしめてから再び引き起すということです。
3 イエスはバプテスマを施す権威を誰に与えましたか。
3 イエスが全能の神の献身している僕のところに行つてバプテスマを受けられた,ということも重要です。イエスは献身している僕のところに行つてバプテスマを受けられましたが,また他の者にバプテスマを施すよう11人の忠実な弟子たちに告げられています。イエスがガリラヤの山に行かれたときを想い起してごらんなさい。その山のところで,イエスはその弟子たちと会われました。そして,弟子たちに向い心を引き立てる次のような話をされました,『私は,天においても地においても,いつさいの権威を授けられた。それ故に,あなた方は行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。』イエスはその言葉を祭司とか,サドカイ人,又はパリサイ人に向かつて告げず,イエスの忠節な大使であつたそれらの弟子に向かつて告げられたのです。さらに,国民を弟子とするようにとも告げられました。それですから,彼らは最初に教訓と知識を他の人に与えます。後日この条件にもとづき人は同じく全能の神の献身している僕によりバプテスマを受けます。そのときには,人々はヱホバの証者だけから真理を聞き,真理を受けました。今日,類似の状態が存在しています。人々は全能の神の真の証者なる献身した僕たちから真理の教えを聞き入れます,そしてバプテスマを施すことはすでにバプテスマを受けた者によつて為されます。―マタイ 28:18-20,新口。
4 (イ)エチオピヤ人の宦官は誰から神の言葉の理解を受けましたか。(ロ)彼の献身はどのように象徴されましたか。
4 私たちを更にみちびく為,ピリポとエチオピヤの宦官についての興味深い記録が残されています,『ピリポは口を開き,この聖句から説き起して,イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに,水のある所にきたので,宦官が言つた,「ここに水があります。私がバプテスマを受けるのに,なんのさしつかえがありますか。」そこで車をとめさせ,ピリポと宦官と,ふたりとも水の中に降りて行き,ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると,主の霊がピリポをさらつて行つた。』この場合,全能の神の忠実な僕が教えています。受洗希望者が良いたよりを聞いたとき,自分も僕になつて浸礼を受けたいと欲しました。そして,ヱホバ神に奉仕する為に献身すると明白に公表したのです。―使行 8:35-39,新口。
5 タルソのサウロは誰から教訓を受けましたか。その後に何が起りましたか。
5 タルソのサウロはダマスコに行くよう命ぜられました。そして,ヱホバの僕であるアナニヤがサウロのいるところに派遣され,サウロがアナニヤから指示を受けてからはじめてサウロは視力を回復して聖霊に満たされました。このことについての聖書の記録は次のように述べています,『するとたちどころに,サウロの目からうろこのようなものが落ちて,元どおり見えるようになつた。そこで彼は立つてバプテスマを受け,また食事をとつて元気を取りもどした。』サウロは弟子たち,つまりヱホバの証者と接することが必要でした。そして,神の真の僕であるアナニヤは恐らくサウロにバプテスマを施したのでしよう。―使行 9:18,19,新口。
6 初期クリスチャン会衆の時代中,誰だけが教訓を授けてバプテスマを施す是認を得ましたか。そして,今日にはどんな類似の状態がありますか。
6 特に重要な別の点はこうです,すなわちヱホバは全部の国民を弟子となして洗礼を施せとすべての民に告げていないということです。いまから1900年のむかし,イエスは自分の仲間の証者たち,神ヱホバの子たちだけにその言葉を告げられたのです。人々が彼らのところに来て教えを受け,そしてバプテスマを受けてはじめて聖霊によつて満たされたのです。聖霊に満たされることは,実際に水のバプテスマを受ける前か,または受けてからすぐ後のことでした。今日でも同じ状態です。ヱホバがいま用いている伝達の径路を通してのみ,人は真理の正確な知識を得ます。同様に,ヱホバに献身的に奉仕している者だけが,教えを受けて神に奉仕しようと献身する者たちにバブテスマを授けるのは適当なものです。
7 (イ)水をふりかけることは,なぜ正しいバプテスマではありませんか。(ロ)キリスト教国の宗教制度で行われるバプテスマは,なぜヱホバの御前に受け入れられないのですか。
7 或る人は,自分は以前ある教会でバプテスマを受けており,それはどうも献身のように感ずると言うかも知れません。しかし,ここで質問が生じます。その人はどの教え又は原則に献身しましたか。その人が幼児のとき又はどの年齢の時であろうと,もし水をふりかけるだけのバプテスマを受けたのであるなら,はたしてヱホバに献身したことになるでしようか。否であります。水をふりかけることは聖書的に正しい形式のバプテスマではないからです。しかし,たくさんの宗教制度の中の一つで水による浸礼を受けたならば,そのバプテスマは今日神に受け入れられるものでしようか。否であります。なぜなら,1918年以来,それらの宗教制度はさばきを受けているからです。又その会員はヱホバ神の言葉をまつたく無にしてしまうところの神を侮辱する信条とか人間の言い伝えを教えられてきました。まつたくのところ,たくさんの教会制度の一つで受けるバプテスマは,その特定な宗教制度の人間製の儀式に従うことです。例えば,大部分のキリスト教国の宗派は『祝福された三位一体』の教理を信じて教えています。その教理は,ヱホバが永遠の最高至上権を持つておられ,御子は常に従順で御父にしたがいそして御父とは平等の立場を採らないという聖書の教えを否定するものです。また,人間の魂の不滅という教理はヱホバ神が人間を創造した仕方についての聖書の教えとは矛盾いたします。今日,キリスト教国制度の大部分は,現在の組織制度の支配者が上なる権力であつて,それに服従しなければならないと認めています。これは次の教えと全く矛盾するものです。真のクリスチャンはヱホバによつて御座につけられた王キリスト・イエスに従い,そして設立した御国の良いたよりを宣べ伝えるためヱホバがいま用いている一致結合の清い制度を愛し,かつ敬意を表わせよとさとされているのです! それですから,真の神の御心にかなう献身と水のバプテスマは,神の御言葉,聖書に書かれているヱホバの要求と全く一致調和するものです。そして,自ら進んで学ぶ人はみな正義の要求に熱心に従うでしよう。
8 御父の名によつてバプテスマを受けるとは,どういう意味ですか。
8 『父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。』という言葉を想い起しなさい。学ぶ者すなわち教えられた者は,御父の地位を是非とも知らねばなりません。『父』とは親なること,優先を示しています。それは真の神ヱホバの至上権,正しい主権を指しています。そして又,ヱホバの全きにして最高権威のしるしでもあります。学ぶ者すなわち弟子は,この独特の地位と力を認識しなければなりません。また次の事柄をもくわしく知り,認めねばならないのです。すなわち今日には宇宙支配に関する大論争があり,その論争の適当な解決はヱホバにより成功裡になされるということです。
9 御子の名によつてバプテスマを受けるとは,どういう意味ですか。
9 そして又,子の名によつてバプテスマを受けるということは,弟子が御子の高い権威と地位を認めるということです。ヱホバは権威と地位を子に与えました。御子は悔い改めをなす不従順の人間をあがないます。学ぶ者は,あがない者である御子のあがないの価値を知らねばなりません。神より油そそがれた者,ヱホバの新しい世の統治している王としての御子を尊敬しなければなりません。さらに,善意を持つ大群衆にとつては永遠の父と認めねばなりません。善意者の大群衆は,イエスを通して地上で生命を受けるでしよう。
10 聖霊の名によつてバプテスマを受けるとは,どういう意味ですか。
10 学ぶ人は次のことをも知るようになります,すなわち聖霊は『三位一体』の第三者ではなく,実際にはヱホバの活動力であるということです。その力によつて進んで学ぼうとする人々は神の御意と目的についての理解が得られます。その同じ力は,昔の神の予言者を霊感して神の聖なる言葉を書かせました。その力はキリスト復活後のペンテコストの時にも,又その時から現在にいたるまでのクリスチャンを指示しているのです。神の力なるこの同じ力が,今日世界に存在している神の神権制度を指示しているのです。現在,神の献身した奉仕者たちを支持し,活動せしめているのは,同様にその力であります。そして,奉仕者はその活動力に服し従つているのです。
11 (イ)何時バプテスマは無効なものになりますか。(ロ)昔のエペソ人の最初のバプテスマはなぜ無効でしたか。
11 献身した人によつて施される正しいバプテスマ以外のバプテスマは,無効のものです。また,献身をした際に正しい理解を持つていないならそのバプテスマは無効のものです。パウロがこのことを示しています。それはパウロがエペソに行つて,或る弟子たちを見出したときのことです。彼はこう尋ねました,「あなた方は,信仰にはいつた時に,聖霊を受けたのか。」「いいえ,聖霊なるものがあることさえ,聞いたことがありません。」と答えた。「では,だれの名によつてバプテスマを受けたのか」と,彼がきくと,彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこで,パウロが言つた,「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けたがそれによつて,自分のあとに来るかた,すなわち,イエスを信じるように人々にすすめたのである。」人々はこれを聞いて,主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして,パウロが彼らの上に手をおくと,聖霊が彼らにくだり,それから彼らは………預言をしたりし出した。』このことから分る通り,ヨハネのバプテスマを受けても聖霊は下らなかつたのです。この事実は,ヨハネの後に来る方,すなわちイエスの名によつてバプテスマを受ける重要性および必要性を示しています。ひとつの例として,西暦33年のペンテコスト後にヨハネのバプテスマを受けた者たちは,聖霊をいただく為に再びバプテスマを受けることが必要でした。―使行 19:1-7,新口。
ヨハネのバプテスマ
12 (イ)ヨハネのバプテスマの目的は何でしたか。律法の目的は何でしたか。(ロ)ヨハネのバプテスマは,どのようにイスラエル人を準備しましたか。
12 バプテスマは罪をのぞきさるものではないかと尋ねる人もいます。ヨハネのバプテスマは罪をとりのぞくものではなく,古い契約すなわち律法契約に対する罪を悔い改める為のものでした。マルコ伝 1章4,5節(新口)にこう書かれています,『バプテスマのヨハネが荒野に現われて,罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。………(彼らは)自分の罪を告白し,ヨルダン河でヨハネからバプテスマを受けた。』ユダヤ人は契約を結んだ民であつて,その契約に対して罪を犯し,有罪でした。ヨハネのバプテスマは,彼らにとつて悔い改める機会になつただけでなく,次のことを認める機会にもなつたのです。すなわち彼らはヱホバとの契約関係を破つたこと。そして彼らをメシヤにみちびく正しい道に従い得る,ということです。もしそうでないなら,彼らはメシヤを認めないでしよう。まつたくのところ,パウロの説明するごとく,それこそ律法の目的でした,『それでは,律法はなんであるか。律法は過ちを明白にするためにつけ加えられたもので,約束のなされた裔が来るまで存続するものであり,御使たちを通し,仲介者の手によつて伝えられたものである。それでは,律法は神の約束に反するか。そのようなことは決してない! 生命を与え得る律法がすでに与えられていたなら,義は実際には律法によつて実現したであろう。しかし,イエス・キリストに対する信仰から生ずる約束が,信仰を働かす者たちに与え得る為,聖書はすべての事柄を罪の下に閉じこめた。しかし,この信仰が来る前は,私たちは律法の下に守られ,必ず現われる筈の信仰を待ちのぞみつつ閉じこめられていた。このようにして,律法はキリストにみちびく私たちの守役となつた。それは私たちが信仰によつて義とされるためである。しかし,この信仰が来た現在,私たちはもはや守役の下にはいない。』(ガラテヤ 3:19,21-25,新世)ユダヤ人が律法に対して敬意を払い,かつ律法を理解する為には,自分たちが罪人であり違反者なることを認めねばなりません。契約に対する罪には,血を流すことが必要でした,『ほとんどすべての物が律法に従い,血によつてきよめられたのである。血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。』ヨハネのバプテスマがそのようなきよめをもたらさなかつたことは明白です。しかし,ヨハネのバプテスマは,律法の前にあつて教えに聞き従う従順さという立場をイスラエル人に与えました。そのようにして,彼らはメシヤを認める準備をすることができます。律法がイスラエル人に与えられたのは,彼らがイエスをあがない主と受け入れるためです。なぜならそれ以外の方法によつては罪のゆるしは得られないからです。―ヘブル 9:22。
イエスのバプテスマ
13 (イ)なぜイエスのバプテスマは,罪をゆるすものではありませんでしたか。(ロ)イエスのバプテスマは何をなしとげ何を意味しましたか。
13 罪をゆるすあがないとして,イエスは御自分を捧げられました。それは真実です。しかし,忘れてならないことに,イエスのバプテスマは罪をゆるさなかつたということです。イエスには罪がなかつたからです。『キリストは罪を犯さず』とペテロは述べていました。(ペテロ前 2:22,新口)イエスは罪なく,汚れなく,罪人からは全く遠ざかつていました。それでは,なぜ彼はバプテスマを受けましたか。まつたくのところ,ヨハネはイエスにむかい『あなたが私のところにおいでになるのですか』と尋ねました。それに対し,イエスは『今は受けさせてもらいたい』と答えておられます。イエスのバプテスマは罪を洗い去るためではありません,また罪のゆるしを得させる為のバプテスマとしてクリスチャンたちの手本を残したのでもありません。イエスのバプテスマは完全にして絶対の献身を示したのです。モーセの律法は生命を与えることができませんでした。この故,人間が再び生き得る為にイエスは律法を成就するために来たのです。なぜなら,神がクリスチャンとつくられた新しい契約の基礎は,イエスのあがないの御準備によつたからです。イエスは水の中に葬られたときに自分の過去の生活に関しては死んだが,水の中から引き上げられたときはヱホバの御意を行う為に全く生きたと明白に表わし示しました。―マタイ 3:14,15。
14 (イ)キリストに従う者は何時バプテスマを受けますか。(ロ)献身をして後にバプテスマを延引するということをなぜ避けるべきですか。
14 同様なバプテスマをするクリスチャンの場合にも同じことが言えます。それですから,学ぶ者がヱホバの御意を行う為に献身した後は,バプテスマを受けることができます。もちろんそれは何の保留もない真心からの決定でなければなりません。それで,バプテスマは極めて重大な場合ですが,しかし悲しい場合でないことはたしかです。そのことがらに十分の考慮を払うべきです。他の人がバブテスマを受けるからという理由で,バプテスマを受けることはできません。その重要さは,伝道之書 5章4,5節に記されています。すなわち神に誓を立てるならば必ず成就しなければならないということです。神への誓を果す重要性に気づく人は,こんな風に言うかも知れません,『この際は見合わせておくべきだろう。思うような具合に行きそうもないしそれにこの献身を果さないなら死を受けることになる。』たしかに誓を破る者たちは『死に値する』者です。(ロマ 1:32)次の事実を忘れてはなりません,すなわち真理を知る機会があり,また生命をヱホバにささげるとはどういうことであるかを知りながら,なおも献身しない人にとつては,死を意味するということです。人がこの点にまで達したとき,その人は知識を持つており,その理解の程度に応じて責任を有しているのです。
15,16 (イ)バプテスマを受ける以前に,人の生活に何が起るべきですか。(ロ)どんな状態下では,バプテスマは無効ですか。(ハ)どんな状態下にあつて,人は再びバプテスマを受けるべきですか。
15 明らかに分ることですが,バプテスマを受ける以前に人の生活は変化いたします。不道徳な生活を行つていたか,また神の標準から見ると汚れた行いをしていたならば,その生活を清いものにしなくてはなりません。バプテスマを受けても生活を清い正しいものにしておらず,また不道徳な生活をしているか神の律法に違反する行いをしていた場合,バプテスマはヱホバの御意を為す献身を完了するものではありません。そのような献身の見せかけはヱホバの受け入れるところではないのです。汚れた捧げ物は全能の神の受け入れるものではありません。私たちは神のきよい御意を行う為に自らを捧げるべきです。
16 自分がそのような状態にいると知るなら,生活を清めて真の献身をなし,再びバプテスマを受けることが必要でしよう。汚れた人がすでにバプテスマを受けていたにしても,その献身はヱホバによつて受け入れられたものではありません。その人が生活を清めるとき,再びバプテスマを受けるべきです。そのような状態下にあつては,献身は全能の神に受け入れられるものであり,水のバプテスマは有効なものです。
17 (イ)献身とバプテスマは,人の生涯において何をしるしづけますか。(ロ)バプテスマの日は,どのように重要ですか。
17 水による儀式的なバプテスマ,又は象徴的なバプテスマで生命が得られるのではありません。むしろ,その後につづくものすなわち神に捧げる忠実な奉仕によつてこそ生命が得られるのです。水によるバプテスマは,生涯を通して続けて行かねばならぬ或る事柄の最初を公に示すものです。実際のところ,この献身の終りはありません。それは永遠のものであり,心のうちに永久永続ということを考えてつくられねばならないのです。献身とバプテスマをなす時に全能の神から課せられる責任は,決して避けることができません。無関心とか不注意に責任を取り扱うこともできず,またその要求を果さないということがあつてはなりません。献身の日以来,それはその人の生涯の職なる伝道の始まりを示すものです。その日以前にも恐らく証言の業に参加したことでしよう。しかし,献身がなされてその後できるだけ早くバプテスマを受ける時まで,その人はヱホバに献身した関係に入つていません。この意味において,バプテスマを受ける日は,新しい生命に誕生したことを象徴する日です。それは新しい生命の始まりを公に宣べ伝え,現在および永久にわたつて神の新世社会内にいて神に献身した他の僕たちと交わることです。バプテスマを伴う献身は,人が古い世に死んで新しい世ひとすじに生きる時を示します。全くのところ,クリスチャンが献身したヱホバの僕およびイエス・キリストの弟子として生きることです。それですから,バプテスマは献身を公に述べ表わすもの,および任命の儀式として両方の用を果します。生涯中にバプテスマを受けるというこの重要な日は,自分の会衆に報告して記録につけるだけでなく,この記録を自分自身でも保たねばなりません。それはヱホバの目に見える制度によつて任命された日です。
18,19 (イ)年若い者がバプテスマを受けるときは幾才ですか。(ロ)バプテスマについては年齢の制限がありますか。
18 幾才のときにバプテスマを受けるべきかという質問がしばしば言われます。年齢というものは決定要素ではありません。10才台になつたばかりの者であつても,その年齢にはかかわりなくもし少年少女が神の真理を学んでヱホバの目的と要求に親しんで,ヱホバを愛しヱホバに奉仕したいと欲して献身をするときは,浸礼を受けることができます。その正しい態度は,イエスの次の言葉に表わし示されています,『もしあなたがたが私を愛するならば,私のいましめを守るべきである。』『もし私のいましめを守るならば,あなたがたは私の愛のうちにおるのである。それは私が私の父のいましめを守つたので,その愛の中におるのと同じである。』― ヨハネ 14:15; 15:10。
19 一方,年老いた人は,もう年を取りすぎたから献身もバプテスマもできないと考えるかも知れません。この場合でも年齢は重要なものではありません。イエスの述べたごとく,神のいましめを遂行しようというひたむきな決意で一杯ならそしてヱホバに奉仕して永遠の生命を得たいと欲するなら,年寄りの者も献身の象徴としてバプテスマを受けることができます。それをひきのばすべきではありません。
20 何が真実の永続する幸福をもたらしますか。
20 生命を愛する人は生命を十二分に欲します。ヱホバだけが附随する祝福と共に生命を与えることができるのです。この愛と無私の献身の故に,人は幸福の中に永遠に存在して神に終りなき奉仕をしようと自発的に身を捧げるのです。
バプテスマを受ける適当な時
21 どんな時にバプテスマを受ける取り極めを設けることができますか。
21 バプテスマを受ける機会はだいたいヱホバの証者の大会のときや,また年に2度行われる巡回大会のときにあります。ふとした具合で定期的に計画されている大会でバプテスマを受けることができない場合,またはなにか病気の為に不能であつた場合,別の時を取りきめることができます。時や場所にかかわりなく,ヱホバに献身している僕が浸礼を施すよう任命されます。
22,23 (イ)バプテスマを受けたいと希望している人々には,どんな重要な質問が提出されますか。(ロ)どんな答は,受洗希望者がバプテスマをすぐ受けられることを示しますか。
22 口を開いて信仰を公に言い表わすことは是非大切なものです。そのわけで,受洗希望者には二つの質問を尋ねます。(1)あなたはヱホバ神の御前にあつて救いを必要とする罪人であると認めかつこの救いは御子イエス・キリストを通して父から来ると認めていますか。(2)神にたいするこの信仰と,救いをもたらす神の御準備に対するこの信仰にもとづいて,あなたは神に全く献身し,今後はイエス・キリストを通し,かつ聖霊のなす啓発の力の下に聖書を通してあなたに啓示される神の御意を行いますか。
23 これらの質問に『はい』と答え得る人は,みなバプテスマを受ける資格を持ちます。そして,ためらうことなくまたおくれることなく,この行いをするすべきです。