どのような面で「神を見倣う者」となれますか
「ですから,あなたがたは,あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」― マタイ 5:48。
1 わたしたちは天の父に対してどのような思いをいだくべきですか。なぜですか。
人はだれかに心から感服している場合,自分もその人のようになりたいと思うものです。その人を見倣うためにわざわざ努力することさえするかもしれません。子どもたちはそういうふうです。男の子はよく,「ぼくは大きくなったらお父さんのようになるんだ」と言います。わたしたちも天の父エホバ神に対して同様の思いを持つべきではないでしょうか。ほんとうにエホバ神はあらゆる面でなんと望ましいかたなのでしょう。わたしたちのために必要なものをなんと豊かに備えてくださるのでしょう。わたしたちが永遠の命を享受するように,わたしたちを罪と死からあがなう取決めまでつくってくださいました。(ヨハネ 3:16。詩 145:16)わたしたちは神のようになりたいという気持ちを持つべきではないでしょうか。しかしどんな点でわたしたちは神を見倣うことができますか。またどの程度まで神のようになることができますか。
2 (イ)神が完全であられるようにわたしたちも完全になることができるのはなぜですか。(ロ)英語の「完全」ということばはしばしばどういう意味で使われますか。「完全き」と訳されているヘブライ語とギリシャ語のことばとどのように比較できますか。
2 わたしたちが神のようになる必要をイエス・キリストがどこまで強調されたかに,あなたは驚かれるかもしれません。山上の垂訓の中でイエスは,「あなたがたは,あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」と言われました。(マタイ 5:48)しかしわたしたち不完全な者が完全になれるのでしょうか。そうです,なれるのです。なぜなら,その「完全」ということばは,わたしたちが日常会話の中で使う場合と同じように,相対的な意味で用いられているからです。たとえばある物が,意図された目的のために完全に,あるいは申し分なく役だつなら,その物は完全であると言えるでしょう。そうであるからこそ,ノアやヨブのような神のしもべたちが「完全き者」として語られているのです。(創世 6:9。ヨブ 2:3)ここで「完全き」と訳されているヘブライ語とギリシャ語は,ちょうど英語の「完全」ということばが「非の打ちどころのない,健全な,きずのない」と定義されているように,『非の打ちどころのない,十分に発達した,そこなわれていない』という意味を持ちます。
3,4 (イ)ノアとヨブはどんな意味で完全でしたか。(ロ)わたしたちはどんな意味で,天のみ父が完全であられるように完全であることができますか。
3 なるほどノアやヨブのような人たちは,罪がないという意味では完全ではありませんでした。しかし,彼らが住んでいた時代と彼らの境遇とを考えるなら,彼らが行なった事全体は,神が彼らに求められた事がらでした。彼らは神を喜ばせました。彼らは神が当然のこととして彼らに期待されたことを行ないました。したがって彼らはその意味で非の打ちどころがなく,とががなく,完全でした。
4 この考えが頭にあれば,イエスのことばを理解することができます。「あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」と言われたとき,イエスはわたしたちが罪のない者となるようにという意味ではなく,むしろあるほかの面もしくは点で完全であるようにという意味で言われたのです。このことはイエスのことばの前後関係から理解できます。神は善良で義なる者の上にも,不義で邪悪な者の上にも,太陽の光と雨をそそがれる,とイエスは言われています。それでもしわたしたちが,神を見倣って神が完全であられるように自分も完全になりたいと思うなら,わたしたちは,親族,友人,あるいは自分と同じ人種または国籍の人びとに親切とあわれみと寛大さを示すだけでなく,機会や必要が生じたならばどこであろうと進んで善を行なう用意がなければなりません。そうすれば,わたしたちの愛は非の打ちどころのないもの,完全なものと言うことができます。
5,6 (イ)イエスはある金持ちの青年に,彼が完全に達していないもののように言われましたがなぜですか。(ロ)この1世紀の経験からわたしたちはどんな教訓を学ぶことができますか。
5 神が完全であられるように完全であることによって神を見倣う者となるためには,清い崇拝のためにも全力を尽くさねばなりません。イエス・キリストは,金持ちの青年がイエスのところへ来て,永遠の命を継ぐには何をしなければなりませんかと尋ねたときに,このことを示されました。イエスは次のように説明されました。「完全でありたいと思うなら,行って,自分の持ち物を売り,貧しい人たちに与えなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」。(マタイ 19:16-23)その青年は,多くの物質的財産により,魂を尽くして神に奉仕することから心をそらされていたようでした。彼の心は自分の富の方に向いていました。もしそのような心をそらす重荷をおろすならその青年は益を受けるということをイエスはご存じでした。富はその青年が神への奉仕において完全な者であること,あるいは非の打ちどころのない者になることを妨げていたのです。
6 「完全」であることにかんするイエスのことばは,今日のわたしたちにとってはどんな意味を持ちますか。それは,神に名ばかりの奉仕をして満足することはできないという意味です。わたしたちは,思い,心,魂,力を尽くしてエホバ神を愛さなければなりません。そして神に対する非の打ちどころのない献身を,個人的な欲望や野心に妨げられてはなりません。したがって,神の王国の良いたよりを他の人びとに宣べ伝えるわざに全時間あずかるのにさしつかえる聖書的責任や身体的障害がなければ,わたしたちは全時間宣べ伝えるわざにあずかっているでしょう。神への奉仕においてしりごみするなら完全であるとは言えません。
方正であり公平であること
7,8 (イ)エホバ神が公平であられることについて聖書はなんと述べていますか。(ロ)公平にかんして神を見倣うには,わたしたちがこの世の仕事に雇われているならどんなことが要求されますか。
7 『神が完全であられるように完全である』ことには,神が愛されることを愛するということも含まれます。これには,公平で正しい事がらを追い求めることも含まれるでしょう。神は『公平をこのみ』,『悪しきところなし ただ正しくして直くいます』と聖書は教えています。(詩 37:28。申命 32:4)ですから,「神を見倣う者」となるためには,すべての行動において正直でなければなりません。そしてもし人に雇われているなら,雇い主に対する行動もこれに含まれます。(エフェソス 5:1)今日は不正直なことが盛んに行なわれている時で,人びとはあたりまえのことのように,実際にはまちがいである習慣に従い,事実上『衆の人にしたがいて悪をな』しています。―出エジプト 23:2。
8 たとえば多くの従業員は,できるだけ少なく働くことを習慣にして職場にとどまっています。あるいはだれも見ていなければ自分のものでない物を取るかもしれません。そのようなことをしながら神を見倣う者になることは決してできません。また,福祉や失業にかんする自分に適用しない規定を利用すること,借りて返さないことなども今日では普通になっています。しかし公平さにおいて「完全である」ためには,わたしたちは「人のまえでも正直な備えを」し,「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動」しなければなりません。―詩 37:21。コリント第二 8:21。ペテロ第一 2:12。
9 神のような公平さは,「カエサル」との関係においてわたしたちに何を要求しますか。
9 神の公平さを見倣うには,税金を納めることにおいても良心的であることが要求されます。「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」,そして「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を」と神のことばはわたしたちに告げています。(マルコ 12:17。ローマ 13:7)少し前のこと,ある裕福なクリスチャンは,こうした聖書の命令に注意を払おうとしなかったので,エホバの証人のクリスチャン会衆から排斥されねばなりませんでした。実際にはその人は,古代イスラエルのアカンのように,きわめて例外的な人でした。なぜならエホバの証人は全体として,法律を守る納税者というりっぱな評判を得ているからです。(ヨシュア 7:1-26)たとえばドイツの新聞「ジンデルフィンガー・ツァイトゥンク」は,「いちばん正直な人びとは……エホバの証人」という見出しの記事を掲載し,納税の問題について述べたあと,「エホバの証人は,よくわかるように,連邦共和国内でいちばん正直な人びとである,と連邦財務省は言っている」ということばで記事を結んでいます。神を見倣う者となることこそエホバの証人の目的なのですから,当然そうあるべきです。
忠実で信頼できる
10 聖書はエホバ神が忠実で信頼できるかたであることについてなんと述べていますか。
10 忠実で信頼できる者になるという点でも,エホバ神ご自身がわたしたちの見倣うべき模範を示しておられます。神の預言者モーセがその民イスラエルに言ったとおりです。「あなたは……あなたの神エホバがまことの神,また忠実な神であられ,……契約といつくしみとを……保たれることをよく知っている」。(申命 7:9,新)モーセの後継者ヨシュアもこの同じ事実を証言し,こう言っています。『汝らは一心一念によく知るならん 汝らの神エホバの汝らにつきてのたまいしもろもろの善事はひとつも欠くるところなかりき 皆なんじらに臨みてそのうちひとつも欠けたるものなきなり』。エホバは,わたしたちが全幅の確信と信頼とを寄せて,わたしたちの魂を「ゆだねてゆ」くことのできる「忠実な創造者」です。―ヨシュア 23:14。ペテロ第一 4:19。コリント第一 10:13。
11 (イ)神の献身した子どもたちとして,わたしたちは神に対しどんな責務がありますか。(ロ)今日の神のしもべたちの主要な仕事を遂行するにさいし,自分が忠実で信頼できる者であることをどのように示せますか。
11 ではわたしたちも,エホバ神を見倣う者として,忠実で信頼できる者でなければなりません。わたしたちには,時間,お金,エネルギー,個人的影響力などの個人的資産が任されています。わたしたちはこれらを管理することに忠実でなければなりません。(コリント第一 4:1,2)わたしたちは,神の子のひとりになりたいということ,そして生きているかぎり神に奉仕するということを,神に告げたでしょうか。その約束を忠実に守っていますか。今行なうようにエホバがそのしもべたちに望んでおられる主要な仕事は,神の王国,すなわち悪を滅ぼして地に平和をもたらす政府について宣べ伝えることです。この時代に成就する預言の中でイエスは,「王国のこの良いたよりは……人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と言われました。(マタイ 24:14)わたしたちはこの宣べ伝えるわざにおいて忠実ですか。定期的に参加して,割り当てられた伝道区域内のすべての人びとを訪問していますか。神についてより深い知識を得ることに関心を示す人びとすべてを重ねて訪問していますか。そのような人たちと家庭聖書研究をするようになるとき,わたしたちは信頼できる者ですか。
12,13 (イ)結婚関係においてわたしたちは神のような信頼性をどのように示すことができますか。(ロ)若いクリスチャンたちはどのように自分が信頼できる者であることを示せますか。
12 わたしたちが忠実で信頼できる者であることが重要なもうひとつの分野があります。それは家族関係という分野です。わたしたちは既婚者のクリスチャンとして,互いに愛しいつくしむという誓いを守っていますか。それとも,他の関心または問題,たとえばなんらかの野望などによって配偶者を「ごまかして」いますか。性的関心を忠実に配偶者だけに限っていますか,それとも欲望がさまよい歩くことがありますか。愛と感情移入は,忠実で信頼しうる者であるのに役だちます。そうするならば,わたしたちはエホバを見倣い,エホバが完全であられるように自分も完全であることを証明しているのです。なぜなら確かにエホバは,妻のような組織の,忠実で信頼できる夫のような所有者であられるからです。―イザヤ 54:1,5。
13 また若い人たちはどうですか。信頼できる忠実な者であることによって神を見倣っていますか。たとえば,学校の宿題に関心を持ち,それを勤勉に行なっていますか。家の仕事をする段になっても信頼できる者であることを示しますか。お父さんが夜家に帰るとき,言いつけられていた仕事はできていますか。あなたには若いときに,偉大な創造者のみまえにあなたを価値あるものにする事がらを行なうことによって偉大な創造者をおぼえる機会があるのです。―伝道 12:1。
神が憎むものを憎む
14 わたしたちがエホバを見倣って憎まねばならないものをいくつかあげなさい。
14 「神を見倣う者となり」,またそうすることによって神が完全であられるように自分も完全であることを証明するさらに別の方法は,神が憎まれることを憎むことです。神は何を憎まれますか。神はこう言っておられます。『われエホバは公平をこのみ邪曲なるかすめごとをにく(む)』。『エホバの憎みたまうもの六あり 否その心にきらいたまうもの七つあり すなわちたかぶる目 いつわりをいう舌 つみなき人の血を流す手 悪しき謀計をめぐらす心 すみやかに悪にはしる足 いつわりをのぶる証人 および兄弟のうちにあらそいをおこす者なり』。また聖書は,「エホバを愛しむものよ悪をにくめ」。「邪悪なことは憎悪し……なさい」と励ましています。―イザヤ 61:8。箴 6:16-19。詩 97:10。ローマ 12:9。
15 (イ)「悪をにくむ」とはどういう意味ですか。(ロ)悪事を憎むことはなぜたいせつですか。
15 「悪をにくむ」とはどういう意味ですか。それは悪い事に対して『激しい嫌悪感を持つ』,『悪事をひどくきらう』という意味です。そうです,邪悪な事や悪い事に対して無関心であったり,中立であったりするだけでは不十分なのです。悪事は時にわたしたちの堕落した性向にとって非常に魅力のあるものとなることがあり,刺激,肉体的快楽,あるいは富や安楽さえ約束することがあります。ですから,悪事を嫌悪することは絶対に必要です。それはどのようにしてできますか。
16 どうすれば悪が自分の中に根をおろしかつ生長するのを防ぐことができますか。
16 まず,自分の心,愛情,欲望,そして感情を保護することにより,どんな種類の悪も自分の中に根をおろさせないように,誠実に努力することです。(箴 4:23。ペテロ第一 3:10,11)そのための重要な方法は,どんな本,雑誌,新聞記事を読むかによく注意することです。わたしたちには,悪事について読むのがおもしろいと思うほど,悪に対する不健全な好奇心があるでしょうか。それがあれば悪を憎んでいるとは言えません。そしてもし悪を憎んでいるなら,暴力,残虐行為,性の不道徳その他の悪を呼び物にするテレビ番組や映画などを見ないでしょう。もし見つづけているなら必ず無感覚になってそういうものを憎む気持ちはなくなり,かえってそうした事がらを望むようにさえなるでしょう。
17 (イ)なぜわたしたちは交わりに注意を払わねばなりませんか。(ロ)審理委員のすべての排斥措置をどう見るべきですか。なぜですか。
17 また,悪事を憎むことによって神を見倣う者となりたいなら,わたしたちは「悪い交わりは有益な習慣をそこなう」ということを忘れずに,友だちとして選ぶ人を非常に慎重に考えるでしょう。(コリント第一 15:33)このことには,会衆の審理委員がある人をクリスチャンらしからぬ行為のゆえに排斥するとき,審理委員のその措置を忠実に支持することも含まれるでしょう。(コリント第一 5:1-13)そのような人との交際はよくありません。わたしたちはその人が行なった悪に対し,またその人の行ないがエホバ神とクリスチャン会衆の上に非難をもたらしたことに対して義憤を感ずるべきです。その人の悪い行ないが新しい人や円熟していない人たちをつまずかせる恐れがあることを考えるべきです。わたしたちは使徒パウロと同様の反応を示すべきです。彼は言いました。「だれかがつまずいて,わたしがいきり立たないことがあるでしょうか」― コリント第二 11:29。
愛にかんして神を見倣う
18 (イ)神のように『完全である』ことを証明できる最もすぐれた方法は何ですか。(ロ)この面で神を見倣わねばならないどんな理由がありますか。
18 しかし,『父が完全であられるように完全である』ことを証明しうる最もたいせつな方法は,愛というりっぱな特質を表わすことです。神のことばは神のこの特質を大いにほめたたえています。『神は愛です』と聖書は述べています。とくに神は,「わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに」示されたのです。確かに神の独り子イエス・キリストというこの愛の備えにより,わたしたちは感謝にあふれて答え応じるよう促されるはずです。使徒ヨハネはこれを示し,次のように述べました。「神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたち自身互いに愛し合う務めがあります」― ヨハネ第一 4:9-11,16。ローマ 5:8。
19 どんな面でわたしたちは神のような寛大さを示すことができますか。
19 寛大であることも,愛にかんして神のようになれる方法のひとつです。エホバは,「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の与え主です。そして「神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです」。(ヤコブ 1:17,5)神を見倣う者となるためには,どんなことに寛大であることができますか。ひとつには,わたしたちは神の目的にかんする真理を持っています。わたしたちはそれをただで受けました。ですから,あらゆる適当な機会を捕えて他の人びとに王国の良いたよりを伝えることによりそれをただで与えるべきです。また,地域的,世界的王国伝道のわざを支持するために自分の物質的資産を惜しみなく寄付することによっても神のような寛大さを示すことができます。寛大さを示すさらに別の方法は,困っている仲間のクリスチャンをだれかれを問わず助けることです。そのような寛大さを示すことは絶対に必要です。なぜならそれは,「あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」というイエスの命令に従う重要な方法だからです。―マタイ 5:46-48。ヨハネ第一 3:17,18。
20,21 (イ)何に関連して「神を見倣う者」となるようとくに勧められていますか。(ロ)人を許すことによってどのように神を見倣うことができますか。
20 愛にかんして神を見倣う別の方法は,人を許すことです。事実,わたしたちは神が人を許されるかたであることと関連して,神を見倣う者となりなさいと明確に助言されているのです。いままで検討してきた使徒の助言の文脈に注意してください。「互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたも互いに惜しみなくゆるし合いなさい。それゆえ,愛される子どもとして,神を見倣う者となりなさい。……あなたがたも愛のうちに歩んでゆきなさい」― エフェソス 4:32–5:2。
21 わたしたちのだれもが不完全で,知恵や理解や識別力に限界のある者である以上,わたしたちはわたしたちのクリスチャン兄弟たちの罪を大目に見,また許せるのではないでしょうか。そうです,愛は「多くの罪を覆」います。(ペテロ第一 4:8)もしエホバが,『わたしたちがちりにすぎないこと』,そのために『わたしたちのとがを東が西から遠いようにわたしたちから遠くへ遠ざけて』くださるのであれば,ましてわたしたち不完全な人間は,わたしたちに対して罪を犯す人や許しを求める人たちをいっそう進んで許すべきではないでしょうか。神が「豊かに」許しを与えられる以上,わたしたちはこの点でも神を見倣うべきではありませんか。これは次のことを意味します。つまりわたしたちは,もし加害者が真の悔い改めを示すなら自分に対して犯された重大な罪さえも含め,イエスがペテロに言われたように,すすんで「77回」許さねばならないということです。―詩 103:8-14。イザヤ 55:7。マタイ 18:21-35。
22-24 (イ)エホバの辛抱強さについて聖書はなんと述べていますか。(ロ)わたしたちはみなどのようにエホバを見倣うことができますか。また辛抱強さを示しますか。
22 神がわたしたちのために示してくださっている非常に愛情深い模範である別の方法は,怒ることをおそくし寛大であることです。使徒ペテロは,人の心に訴える力を持つ神のご性質のこの面を指摘して次のように書きました。「エホバは……ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」。(ペテロ第二 3:9)神はご自分がいかに怒ることがおそいかを,王たちが統治していた間のご自分の民イスラエルを扱うさいに示されました。『その先祖の神エホバその民とその住所とをあわれむがゆえにしきりにその使者を遣わしてこれをさとしたまいしに』と聖書は述べています。―歴代下 36:15。
23 わたしたちは他の人たちの欠点に感情を害されないようにすることにより,神の愛のこの面を見倣うことができます。監督下にある人びとが時には無関心であったり不注意であったりすることがあるかもしれません。そういう場合に監督が,いわゆる「むかっ腹を立てる」のはなんと容易なことでしょう。しかし神を見倣う者となるためには監督もがまん強く,辛抱強く,怒るにおそくあることが必要です。
24 とくに家庭内では,この辛抱強さという特質を働かせたいものです。世間の夫たちは妻に対して短気なのが普通です。ですから,クリスチャンたちに対する使徒パウロの次の助言は非常に適切です。「夫たちよ,妻を愛しつづけなさい。妻に対して苦々しく怒ってはなりません」。(コロサイ 3:19)妻の扱い方にかんする使徒ペテロのことばもきわめて妥当です。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。あなたがたは,過分の恵みとしての命を妻とともに受け継ぐ者でもあるからです。そうするのは,あなたがたの祈りが妨げられないためです」。この助言に注意を払うことは,全世界で王国の音信を宣べ伝えるという神のご意志を実行するのと同じほどたいせつです。―ペテロ第一 3:7。
25,26 (イ)神はどのように忍耐を示してこられましたか。(ロ)わたしたちはどのように神のような忍耐を示すことができますか。
25 神が完全であられるように完全でありたいなら,神を見倣う必要のある道がもうひとつあります。それは神の愛ある忍耐を見倣うことです。「愛は……すべての事を忍耐します」と聖書は述べています。(コリント第一 13:4,7)神は忍耐を示されますか。そうです。というわけは,神はご自分の創造された者たちがまちがった道へ行くとき苦痛を感じられるにもかかわらず,引き続き正しいことを行なわれるからです。(詩 78:40,41)霊感を受けた使徒がわたしたちに思い出させているとおり,「神(は)……滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍」ばれました。なぜでしょうか。それは神に愛があるからであり,「あわれみの器に対するご自分の栄光の富を知らせよう」としておられるためです。―ローマ 9:22,23。
26 もしわたしたちが,愛にかんして神を見倣う者となりたいなら,わたしたちも耐え忍ばねばなりません。わたしたちは,「りっぱなことを行なう点であきらめ」てはなりません。(ガラテア 6:9)わたしたちが話しかける人びとが無関心であっても,あるいは反対さえしても,愛は王国を宣べ伝えるわざを忠実に続ける助けとなるでしょう。わたしたちは,全世界にわたる王国伝道を促進するための聖書文書を生産するベテルホームで奉仕しているかもしれません。そこでの仕事はきまりきった仕事かもしれませんが,それは神のみ名の立証と他の人びとの救いに役だち,また神がわたしたちのためにしてくださったすべての事に対し感謝している証拠であることを知っているので,エホバ神に対する愛はわたしたちがそこで忍耐するのを助けます。
なぜ神と同じく完全になるよう努力するか
27,28 (イ)神が完全であられるように完全であるという問題は任意の問題ですか。(ロ)神が完全であられるように完全であることはなぜわたしたちの幸福に寄与しますか。
27 神を見倣う者となって,神が完全であられるように完全であることを証明することには多くの事がらが関係しています。しかし,この「完全」の問題は任意の問題でないことに注目してください。イエスは,「あなたがたは,あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」と言われました。(マタイ 5:48)そうです。もしわたしたちが真のクリスチャンとなり,「愛される子どもとして,神を見倣う者」となりたいと思うなら,公平かつ方正,忠実で信頼でき,神が憎まれることを憎み,また寛大であること,人を許すこと,辛抱強いこと,耐え忍ぶことなどによって愛を示すことが絶対に必要です。(エフェソス 5:1)しかし実際に,神が完全であられるように完全であることは,わたしたちが非常な苦労をすることでも,大きな犠牲を払うことでもありません。むしろそれはわたしたちの益となります。エホバは「幸福な神」であられるからです。(テモテ第一 1:11)神を見倣うことはわたしたちの幸福にも寄与します。ではどのように寄与しますか。
28 ひとつには,エホバを見倣うことによってわたしたちはエホバの心を喜ばせます。エホバはわたしたちにこう告げておられます。『わが子よ知恵を得てわが心をよろこばせよ さらば我をそしる者に我こたうることを得ん』。(箴 27:11)自分の人生における歩みが天の父を喜ばせているなら確かにわたしたちは幸福を感じます。そして神を見倣うことによって現在幸福と,心の平和と,満足を得るだけでなく,神のおたてになる事物の新しい体制において永遠に生きるという確かな希望をも持つようになります。確かに,『天の父エホバ神が完全であられるように完全である』よう努力することには十分の理由があります。