仲間の兄弟として一致して仕える
「あなたがたは皆兄弟です……指導者と呼ばれてはなりません。あなたがたの指導者はひとり,すなわちキリストです」― マタイ 23:8-11,新アメリカ標準聖書。
1,2 (イ)自分を低くして仕える神のみ子のような生活を送ることが,ほとんどの人にとってやさしくないことを,何が示していますか。(ロ)イエスの使徒たちはこの調整を難なく行ないましたか。
自分を低くして仕える生活という概念は,不完全な人間のほとんどにとって,すぐに受け入れて実行に移せるようなたやすいものではありません。キリスト教世界で起きていることを見てご覧なさい。キリスト・イエスの代理とか任命された神のしもべ(または「奉仕者」)と称する人々は,自分を,会衆内の「普通の」成員,つまり「平信徒」と区別しています。それら僧職者たちは,自分を他の信徒たちよりも優れた者とみなし,その優越感を表わす称号を受け入れます。しかしこれは真の一致への道ではありません。
2 一世紀に住んでいたイエスの真の弟子たちの間にさえ,神のみ子のこの教えに順応することにおいて,少しも問題がなかったわけではありません。彼らは身分に関心をもち,高い地位を望んでいたので,イエスは弟子たちを数回にわたり戒めなければなりませんでした。
3,4 イエスの弟子たちはカペルナウムに向かう途中どんなことを議論しましたか。これはなぜ驚くには及ばないことですか。
3 イエスの公の奉仕の第三年が終わりに近づいていたころのこと,弟子たちは徒歩でカペルナウムに帰る道すがら議論を始めました。何についての議論だったのでしょうか。マルコは次のように記述しています。「家の中におられた時,イエスは彼らにこう質問された。『あなたがたは途中で何を議論していたのですか』。彼らは黙っていた。途中で彼らは,だれのほうが偉いかと,互いに議論したからであった。そこでイエスは腰を下ろし,十二人を呼んでこう言われた。『第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者[しもべ,新英]とならねばなりません』」― マルコ 9:33-35。
4 三年近くイエスの教えを聞いてきたあげくにそんなことをするとは,信じられないことですか。いいえ,彼らの人間的不完全さと周囲の状況を思い起こすなら,そうは考えられません。自分が偉くなることに対する彼らの関心は,不完全な人間の傾向を反映していただけでなく,彼らの時代の背景をも反映しているからです。ある歴史的観察によると,一世紀のユダヤ教信奉者たちの間に広まっていた習慣と態度は次のようなものでした。「すべての事柄,すなわち崇拝,法の施行,また食卓において,すべての交渉において,だれが偉いかという問題は絶えず生じ,各人にどれほどの敬意を示すのがふさわしいかを判断することが常に必要であり,そしてそれは非常に重要なことと考えられていた」―「新約聖書の神学事典」第4巻,532ページ。マタイ 23:6,7と比較してください。
幼子のようになる
5 イエスは,間違った態度を改めさせるために彼らにどんな助言を与えましたか。
5 同じ出来事を伝えているマタイの記録によると,イエスは一人の子供を呼び寄せ,弟子たちの前に立たせて言われました。「あなたがたに真実に言いますが,身を転じて幼子のようにならなければ,あなたがたは決して天の王国に入れません。それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです。そして,だれでも,わたしの名によってこのような幼子ひとりを迎える者は,わたしをも迎えるのです。しかし,わたしに信仰を置くこれら小さな者のひとりをつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります」― マタイ 18:1-6。
6 (イ)一部の弟子は,優越性についてどんな考えを持っていたと思われますか。(ロ)『身を転じて幼子のようになる』ということは,彼らにとって何を意味しましたか。
6 そうです,彼らの考えは彼らを間違った道に導いていることを,イエスは示されたのです。もしかしたらペテロが,王国へのある「鍵」を彼に与えるというイエスの約束があったために,自分は他の弟子たちよりいくらか優れているのだ,と考えていたのかもしれません。あるいはヤコブとヨハネが,山上の変ぼうの時にイエスと共にいるようイエスより選ばれた三人のうちに入っていたので,同様の考えを持っていたのかもしれません。(マタイ 16:19; 17:1-9)いずれにせよ,イエスは彼らすべてに,『身を転じて幼子のようになる』こと,すなわち小さな子供たちが生来そうであるように,謙そんで,てらいや野心のない者となることを教えたのです。しかしそれは,そうした特質で外面を装うことによりただ子供らしく振る舞うというのではなく,謙そんな子供たちを特徴づけているのと同じ精神を実際に持つよう,そうした特質を身に着けなければならないということでした。幼い子供たちの間には身分の観念などなく,互いを同等と考えます。ですからイエスの弟子たちは,謙そんな心を身につければつけるほど,そして神また兄弟たちの前で自らを小さく感じるようになればなるほど,神の王国に関しては偉大になるのでした。
7 彼らが『小さな者を迎える』その仕方は,彼らの謙そんさの程度をどのように示しましたか。そしてそれはなぜ非常に重要なことでしたか。
7 彼らの謙そんさを計る尺度は,(弟子となって日が浅いために)真理において霊的に「みどりご」のような人々,または彼らの間であまり目だたない,あるいは責任のある立場にいないという点で幼い子供のような人々をどう扱うか,その扱い方にありました。もしだれかが,とりわけクリスチャンの長老が,尊大ぶったり,他の人々に対して横柄な態度を取ったりするなら,その人はそうした目立たない人々をつまずかせる原因になりかねませんでした。それは,つまずきを起こす人に極めて重大な結果を招く可能性がありました。イエスのことばが示している通りです。イエスは見ておられます。同じく神のみ使いたちも見ているのです。―マタイ 18:6,10。啓示 2:23。
8 クリスチャンの間では,「小さい者として行動する人」こそ実際に偉い人であるというのはどうして事実ですか。
8 「あなたがたすべてのあいだでより小さい者[最小の者,新英; 最も低い者,新アメリカ聖書,傍注]として行動する人こそ偉いのです」。(ルカ 9:48)これは世の考え方と正反対であるとはいえ,わたしたちは他の人々との関係においてこれが真実であることを経験しないでしょうか。わたしたちにとって最も大事な人,もし自分の元から去られたり死なれたりするとすれば,わたしたちが最も寂しい思いをするのは,どんな人でしょうか。尊大な態度を取る,そして他の人々を自分に従わせたがる人ですか。それとも,非常に思いやりがあり,よく助けてくれる親切な人ですか。それは言うまでもなく後者です。
9 (イ)使徒パウロはこのクリスチャンの守るべき原則をどのように例示しましたか。(ロ)兄弟たちは,彼らの心の中でパウロが大きな場所を占めていたことをどのように示しましたか。このことからわたしたちは何を学ぶことができますか。
9 前の記事で見たとおり,使徒パウロは,自分を低くして仕えるイエスご自身の模範に見倣いました。(コリント第一 11:1)エフェソスの町の長老たちに話した時,パウロは心から彼らに次のように言うことができました。「アジア地区に足を踏み入れた最初の日からわたしがどのようにあなたがたと終始いっしょにいたか,あなたがたはよく知っています。へりくだった思いを尽くし,涙と……わたしにふりかかる試練との中で,主のために奴隷として仕えました。……三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい。……この手が,わたしの,そしてわたしとともにいる者たちの必要のために働いたことを,あなたがた自身が知っています。わたしはこのように労して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』とのことばを覚えておかなければならないことを,すべての点であなたがたに示したのです」。パウロに再び会うことがないかもしれないことを知ったとき,『すべてのものが少なからず泣いた』のも不思議ではありません。彼らはまたパウロを抱き口づけしました。パウロは,彼らの心の中に大きな場所を占めていたのです。それは単に彼が使徒であったという理由によるのではなく,むしろその人柄のためでした。彼はクリスチャンの長老すべてにとって模範でした。―使徒 20:18,19,31-37。コリント第一 2:1-5; テサロニケ第一 2:5-9と比較してください。
世の方法を模倣しない
10 イエスが弟子たちに謙そんさについてさらに助言しなければならなかった二度目の場合はどんな時でしたか。
10 弟子たちが偉さのことで議論したときから何か月か後,イエスは再び彼らに助言する必要を認められました。弟子たちはイエスの王国を,地上での支配だと想像していました。(使徒 1:6)イスラエルの君主政体においては,王は王座に座し,さまざまの栄誉ある称号を持つ廷臣たちを従えていたのを彼らは知っていました。彼ら自身の時代においては,世の支配者や他の者たちが,自分たちの周囲で人々の上に権力を振るうのを見ていました。それでイエスの使徒の二人,ヤコブとヨハネは,(母親と共に,母親を通して)イエスに,あなたの王国で“最高”の地位につかせてください,と頼みました。―マタイ 20:20-23。マルコ 10:35-40。
11 あとの使徒たちはこの点責めのない者でしたか。イエスは彼らにどんな助言を与えましたか。
11 仲間の弟子たちは「憤慨」しました。しかし,彼らも以前偉さについて論争したことがあったので,全く野心がなかったわけではありません。そこでイエスは彼ら全部を自分のところに呼んでこう言われました。「あなたがたは,諸国民の支配者たちが人びとに対していばり,偉い者たちが人びとの上に権威をふるう[権力の強大さを感じさせる,新英; 自分の重要さを感じさせる,新アメリカ聖書]ことを知っています。あなたがたの間ではそうではありません。かえって,だれでもあなたがたの間で偉くなりたいと思う者はあなたがたの奉仕者[しもべ,新英]でなければならず,また,だれでもあなたがたの間で第一でありたいと思う者はあなたがたの奴隷でなければなりません。ちょうど人の子が,仕えてもらうためにではなく,むしろ仕え,かつ自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」― マタイ 20:24-28。
12,13 (イ)わたしたちはなぜ,一見好結果的に見えるこの世的な管理方法を,会衆内に持ち込むべきではありませんか。(ロ)ローマ 12章2,3,10,16節の使徒の助言は,イエスの助言とどのように調和しますか。
12 世の支配者や行政府,行政官などのやり方をまねるのは当然のことに思えるかもしれません。しかしイエスは,「あなたがたの間ではそうではありません」と言われました。世の強者や資産家,また彼らの政治体制や商業体制が収めていた成功らしきものがどんなものであったところで,それらはクリスチャン会衆が指導的模範とすべきものではありませんでした。
13 これと一致しているのは,使徒パウロが後ほど与えた,「自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい」という助言です。明らかにパウロは,イエスの助言の対象となったのと同じ問題について考えていました。というのは,さらに次のように述べているからです。「あなたがたの中のすべての者に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。むしろ,神がおのおのに信仰を分け与えてくださったところに応じ,健全な思いをいだけるような考え方をしなさい。兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情をいだきなさい。互いを敬う点で率先しなさい。他の人たちのことを,自分自身に対すると同じような気持ちで考えなさい。高ぶった事がらを思わず,むしろ,へりくだった事がらを求めなさい[貧しい人々の真の友となりなさい,エルサレム聖書; つましい人々と共に行きなさい,新英; 身分の低い人々と交際しなさい,新アメリカ標準聖書]。また自分の目から見て思慮深い者となってはなりません[自分がいかに賢明であるかを考え続けてはいけない,新英]」― ローマ 12:2,3,10,16。
14 (イ)どんな理由のために,イエスの使徒たちは,イエスが彼らに教えておられた教訓をよく学ぶことが非常に大切でしたか。(ロ)「我意」を張らないという資格は,長老間の一致とどんな関係がありますか。
14 イエスの使徒たちは,一つの集合体として,クリスチャン会衆が設立されるときにその土台となることになっていましたから,イエスが彼らに教えられる事柄をよく学ぶのは,非常に重要なことでした。(エフェソス 2:19,20)もし彼らが,彼ら自身の間の地位の上下についての考えを一掃するなら,そのとき初めて彼らは争いも競争もない一致した集合体として働くことができます。(ローマ 12:4-8,10; コリント第一 12:4-7,12-25,31; 13:1-3と比較してください。)会衆の長老団として奉仕する人々の資格の一つが,「我意」を張らない,であることの理由もまたここにあります。(テトス 1:7)ここで使われているギリシャ語の文字通りの意味は,「自己満足」(「押しが強い」,モファット。「尊大な」,改訂標準訳,アメリカ訳,エルサレム聖書。「威圧的な」,新英。「攻撃的な」,フィリップス訳。「自己を主張する」,解説者のギリシャ語聖書)です。使徒の資格はしたがって,長老が,自分の能力や判断力をひどく鼻にかけた,「自信過剰」の,あるいは「自分をたのむ」者でないことを要求します。我意を張る人は,他の人々と共に,一つの集合体としてむつまじく,へりくだった態度で働くことに困難をおぼえるでしょう。また,その集合体の仲間の成員にとって問題の種となるでしょう。
15 ヤコブ 3章13節に記されている霊感によることばは,長老たちが,自分は他より勝っているという考えや,自分をたのむ考えを避けるのに,どのように役立ちますか。
15 もしクリスチャンの長老が,自分は仲間の長老たちより知恵において勝っている,と考え始めるなら,弟子ヤコブがヤコブ 3章13節に書いていることを思いめぐらすとよいでしょう。「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか。その人は,知恵に伴う柔和さ[慎み深さ,新英; 謙そんさ,アメリカ訳]をもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」。そうです,ほんとうに知恵のある人というのは ― いかに多くの経験や知識が自分にあっても ― その知識はまだわずかなもので,学ぶべきことは依然極めて多いということをわきまえるだけの知識のある人です。そういう人はまた ― どれほど多くの知識をもっていようと ― 次のことを知っています。つまりどんな人であろうと,あるいは地位のいかに低い人であろうと,自分が学び取れるものを何も持たない人というのはいない,ということです。その人は,そういう人々すべてを当然の敬意をもって遇します。
優位を示す称号による分離はない
16 「ラビ」という称号の意味は何ですか。これがイエスのどの弟子にも適用されるべきでなかったのはなぜですか。
16 イエスは死のちょうど三日前,目立つことを好んだ書士やパリサイ人のまねをしないよう,弟子たちに忠告をお与えになりました。書士やパリサイ人は,他の人々からしばしば「ラビ」と呼ばれました。この語の文字通りの意味は「偉大な者」です。それは「高い,尊敬される地位を占める人に対して用いられる語で……ラビと呼ばれる人はそれによって,そう呼ぶ人よりも地位が高いと認められ」ました。(「新約聖書の神学辞典」,第6巻,961ページ)しかしイエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。……また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者[しもべ,新アメリカ標準聖書]でなければなりません」。(マタイ 23:6-12)イエスご自身が「ラビ」と呼ばれたのは正しいことでした。―ヨハネ 1:38,49; 20:16。マタイ 26:49。マルコ 9:5。
17 (イ)会衆内で責任を割り当てられている人々が持つ聖書的名称は,何に強調を置くものですか。(ロ)「使徒」という名称についてさえ,このことはどのように真実ですか。その名称を有していた人々が,他の兄弟たちより勝っていると考える理由はありませんでした。なぜですか。
17 注目すべきことに,ペンテコステに設立されたあとのクリスチャン会衆内におけるすべての割り当ての名称,すなわち「羊飼い」,「教える者」,「福音宣明者」,「預言者」(文字通りの意味は,発言する者[使徒 15:32])などの場合に,それら人間の「賜物」の公の立場よりも,そうした「人びとの賜物」を与えるキリストの目的,すなわち会衆の教化と一致に,より大きな強調が置かれています。(エフェソス 4:12-16)「使徒」という語でさえも「遣わされた者」,つまり奉仕という使命を帯びた代理人として派遣された者,という意味を持つにすぎません。この語は,神のみ子から直接に任命された十二使徒に特別の方法で適用されましたが,会衆が時折派遣した,奉仕の使命を帯びた人々にも用いられました。(使徒 13:1-4; 14:14。コリント第二 8:23と比較してください。)したがって,「使徒」という名称は,地位や位階よりもむしろ彼らの奉仕の割り当てを強調するものでした。この名称が,彼らに置かれていた信頼と確信を暗示したことは事実です。しかし,「遣わされた」者たちを,彼らが奉仕する人々よりも優れた者として高めるものではありませんでした。それは,主人が別の人に重要な知らせを伝えるため自分のしもべを遣わしても,それによってそのしもべが知らせを受ける人より偉くなることなどないのと同じです。しかし,知らせを受けた人々は,その知らせを持って来た使者に恩を感じたでしょう。また,遣わされた者たちは,エルサレムの長老団であれ,他のいずれかの会衆であれ,遣わした者に対して責任がありました。彼らは自分たちが行なった事柄に関し,へりくだった態度で報告しました。(ヨハネ 13:16; エフェソス 6:21,22; コロサイ 1:7; 4:7-9と比較してください。)もちろん,一時的な「遣わされた」者たちは,キリストの十二使徒やパウロとは異なり,生涯「使徒」としてとどまったわけではありません。―啓示 21:14。エフェソス 2:20,21。
「人びとの賜物」
18 栄光を受けたキリスト・イエスは,クリスチャン会衆に何を与えましたか。その目的はどこにありましたか。
18 彼らの行なった奉仕がどんなものであったにせよ,そのような人々はみな,キリスト・イエスが天におられる父のみもとに昇られた後,キリストにより「人びとの賜物」としてクリスチャン会衆に与えられたものでした。(エフェソス 4:8)エフェソス 4章11節から13節は,このすべてに関する目的を指摘し,次のように述べています。「彼は,ある者を使徒,ある者を預言者,ある者を福音宣明者,ある者を牧者[牧師,新英]また教える者として与えました。それは,奉仕の業のため,またキリストの体を築き上げるために聖なる者たちをさらに調整することを目的としてであり[神の民を奉仕の業に備えさせ,新英。聖徒たちが共に奉仕のわざにおける一致をもたらし,エルサレム聖書],こうしてわたしたちはみな,信仰と神の子についての正確な知識との一致に達し,十分に成長したおとな,キリストの満ち満ちたさまに属するたけの高さに達するのです」。
19,20 (イ)そのようにして『与えられた』人々は,その望ましい目標の達成に向かってどのように働くべきでしたか。(ロ)使徒パウロは,そのような人すべてが維持すべき正しい態度をどのように明らかにしていますか。
19 「賜物」として奉仕する人々と彼らの仲間の弟子全部が一致して神とそのみ子に奉仕することこそ,そのような「人びとの賜物」全員の目標であるべきでした。『自分の重要さを認めさせるような行動』や専横なやり方,または強制によってではなく,すべての人の益のために一身をささげ,へりくだって仕える模範を示すことによって,彼らはこの目標を達成します。ですから会衆内の人々は,コリントの一部の人々が実際に言っていたように,「『わたしはパウロに属する』,『いやわたしはアポロに』,『わたしはケファに』,『わたしはキリストに』」と言うべきではありません。パウロは,取るべき正しい態度を強調して,兄弟たちに次のように述べました。「パウロであれ,アポロであれ,ケファであれ,世であれ,命であれ,死であれ,今あるものであれ,きたるべきものであれ,すべてのものはあなたがたに属しています。一方,あなたがたはキリストに属し,キリストは神に属しているのです」。―コリント第一 1:12; 3:21-23。
20 そうです,パウロは申し分のない奉仕をしたにもかかわらず,自分もまた「人びとの賜物」の一人であること,そして自分が実際に会衆に『属している』のであって,会衆が自分に属しているのではないことを,心に銘記していました。(コリント第二 1:24と比較してください。)自分自身をこのように見れば,確かに神のしもべはだれも,行なう奉仕がどんなものであっても,兄弟たちの「ボス」のように振る舞うことはありません。
「いちばん若い者」のようである
21 (イ)イエスは,いつまたなぜ,謙そんであることの必要についてもう一度弟子たちに助言する必要を感じられましたか。(ロ)このたびはどんな点を付け加えられましたか。
21 人の上になりたいという人間の欲望がいかに根深いものであるかは,地上の生涯を終える最後の夜,イエスが使徒たちにそうした原則をもう一度繰り返して話す必要を感じられた事実からうかがえます。まさにその夜,彼らは再び,自分たちのうちだれが「いちばん偉い」かについて激論を戦わせました。イエスは,以前彼らに話したことをもう一度繰り返し,またそれに付け加えて,次のように話されました。「諸国民の王たちは民に対していばり,民の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。だが,あなたがたはそうであってはなりません。むしろ,あなたがたの間でいちばん偉い者はいちばん若い者[年少者,新アメリカ聖書]のように,頭として行動している者は仕える者[しもべ,新英]のようになりなさい。というのは,食卓について横になっている者と仕えている者[しもべ,新英]では,どちらが偉いのですか。それは,食卓について横になっている者ではありませんか。でもわたしは,仕える者としてあなたがたの中にいるのです」― ルカ 22:24-27。ペテロ第二 1:12-15と比較してください。
22 「いちばん若い者」のように振る舞うとはどういうことですか。このことは聖書の記録の中にどのように例示されていますか。
22 「いちばん若い者」または「年少者」のように振る舞うとはどういう意味ですか。若い人たちは多くの場合,どうしてもしなければならないことではありましたが,あまり目立たない仕事を割り当てられました。例えば,アナニアとその妻が二人とも神のご処置により果てたとき,二人を運び出して葬ったのは「若手の人びと」でした。(使徒 5:5,6,10)使徒ペテロは,仲間の長老たちに,群れに対して謙そんさの模範となるよう勧めたあと,次のように言いました。「同じように若い人たちよ,年長者たちに服しなさい」。(ペテロ第一 5:1-5)パウロに比べるとかなり若かったテモテは,パウロの「補佐」または「助け手」あるいは『仕える』者として彼に奉仕していた人たちの一人として語られています。(使徒 19:22,新英; アメリカ訳; エルサレム聖書; 新)年老いたパウロが「わが子」と呼んだ逃亡奴隷のオネシモは,パウロが獄につながれていた間,息子が父親に対するように,『パウロの世話をし,もしくはそばに侍し』,彼に「仕え」ました。(フィレモン 9,10,13,新英; アメリカ訳; 新。テモテ第二 1:16-18と比較してください。)これらの年を取った,多くの経験を積んだ神のしもべたちのそばで自分を低くして働くことにより,若い人々は多くの益を得また訓練を受けました。
23 そのようなへりくだった思いを示さねばならないのは,若い人々だけですか。
23 彼らの仕事は誉れも威厳もないように見えたかもしれませんが,その行ないは,年齢を問わずすべての人が取るべき正しい態度の実例となっています。それで使徒ペテロは,長老たちに従うよう助言したあと,次のようにことばを続けています。「しかし,あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい。神はごう慢な者[高ぶった者たち,行間逐語訳]に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」― ペテロ第一 5:5。
24 この道を歩むことからどんなすばらしい益が得られますか。それはクリスチャンの一致にどのように大きく寄与しますか。
24 へりくだった,慎み深い精神が行き渡っている会衆内で共に奉仕するのは,どんなに楽しいことでしょう。クリスチャンの長老たちが時間の浪費になる論争や激しい議論をする傾向をなくして,兄弟愛の精神を示すとき,それは,人々が一つの集合体として共に効果的に働く,なんと大きな力となるのでしょう。(テモテ第一 2:8)この点,わたしたちすべてが熟考すべきことは確かに少なくありません。わたしたちは,兄弟愛を動機とするそのような謙そんな奉仕からくる真の偉さを求めているでしょうか。わたしたちは各自,人をよく助け,思いやりを示し,目立たない人たちを含めてすべての人に関心を払い,当然与えられるべき個人的威厳と価値をすべての人に与えることにより,それを示しましょう。(ローマ 12:10,15,16)そうすることによってわたしたちは,奉仕の点で卓越しておられる神の子キリスト・イエスの真の弟子であることを示すのです。
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イエスは,謙そんな心を持つことを弟子たちに教えるために,子供のようになりなさい,と言われた