忠節は試験なり
1,2 忠節とは何を意味しますか? それについてキリストは如何に模範を示しましたか? エホバは御国の所有物を誰に委ねますか?
英語の『ろーや・ルテイ』(忠節)と言う語は,英文欽定訳聖書やアメリカ標準訳聖書にはあらわれて居りません。然し聖書中には,それと全く同じ意味を持つ言葉が沢山あります。『ろーやルテイ』(忠節)という語は,英文モファト訳聖書の申命記 13章4節に用いられて居ります。それは『固着す,附従う,固守す,密着す,』という意のヘブル語ダバク(dabaq)から訳されたものであります。『ろーやル』(loyal)は『適法の』という意のラテン語『れガりス』(legalis)から来た仏語『loyal<ろワヤる>』であります。古代仏語は『loial<ろワヤる>』ですから,英語の『ろ一やル』(loyal仏語も同じ綴りで「ろワヤる」と発音)は,『律法』(loi<ろワ>)という語根から来て居ります。この言葉の一般的語法は,愛とか義務とかに忠実で,自分の言つた言葉に誠実であるという意味,或は叛逆の時にも固く忠節を守る人という意味に用いられます。それは神の律法に完全に一致して為されることを意味して居ります。忠節な人は信頼の出来る者であり,怠慢な者ではありません。そして義務を遂行するのに忠実で,心から神の御計画に一致します。この事についてイエスキリストは模範を示しました。彼に関し次の如くしるされて居ます。『汝わが耳をひらき給えり……我言えらく「視よ我書に記されたる汝の命令を行わん為に来る。汝を喜ばせ汝に仕える事は我が歓びなり,汝の法は我が心のうちにあり」と。』(詩 40:6-8,モファ)彼は常に確固として神の律法を厳守しました。そして,それから離れる事なく,恰も彼が律法であつたかの様でありました。『イエスキリストは昨日も今日も永遠までも変り給うことなし。』(ヘブル 13:8)エホバ神は矛盾をもたず終始一貫して居り,御自身の律法と原則とを決しておろそかに為しません。『父は変ることなく,また回転の影もなき者なり』― ヤコブ 1:17。
2 エホバは,今でも,己が忠実な僕達を現在と未来の奉仕の為に訓練して居ります。そして,如何なる者と言えども,権威に従い忠節である事を学ぶまでは,権威を使行する資格がありません。神の僕の或者は,此の世の人が意味する様な『才能』に優れた人ではありませんでした。そうでなく,主の眼から見て真実の能力を持つて居り,完全に信頼出来る者で,エホバと御心とに忠節でありました。今日,神が御国の所有物を委ねて居る人々も亦,試練下に於いて忠節を表明した者であります。そしてキリストが表明した如く神の律法を固く遵奉して居る者です。これは個人的確信の結果でなければなりません。
3 神の律法を真に遵奉する者は誰達ですか? 彼らはどんな権威に忠節ですか?
3 まこと,我々の忠節は他の者に印象を与え,影響を及すかも知れません。然し,その為に表明されるのではなく,我々の誠実なる為に表明されるのです。又,一人の者の忠節によつて,他の者も同様に忠節であると結論してはなりません。然しながら,個々の確信のもとに,一群の者すべての意見と決意とが同じであり,すべてが自発的に結合されて居るならば,それは忠節な会であります。今日に於いて,エホバの証者こそ,神の律法即ち神の行動規則を真に遵奉して居る唯一つの群であります。彼らは宇宙の最高権威,即ちエホバとイエスキリストとに忠節であり,忠実に附きしたがつて居ります。そして,神権政府とその王に対し不動の忠誠を表明して居ります。彼ら証者は,エホバの定め給うた取極めをも承認して居ます。その取極とはエホバが『忠実にして思慮ある奴隷』を立てて定めたものであります。この奴隷は今や,地上に在る主のすべての持物の責任を完全に委ねられて居ります。彼ら証者は自ら進んでワッチタワー聖書冊子協会を,『忠実にして思慮ある奴隷』の合法的僕として受け容れて居ます。そして,それに忠節であると共に真理と,信仰上の兄弟達に忠節であります。忠節は,ただそれが表明される時に於いてのみ,知られます。そして,悩み,逆境,誘惑に遭遇した時に実際にあらわされます。然し,一度それが表明されるならば,忠節な者には確信がもたらされます。
4 忠節の基本となるものは何ですか? それは如何に発展しますか?
4 奉仕と忠節とを別々に分けることは出来ません。エホバの奉仕には不動の持続がなければなりません。これこそ忠節を発展させる基本であります。若し我々が忠節を保たんと願うならば,小さい機会も大きい機会も最大に利用して,御国の利益の為に喜んで自発的に仕えることが必要であります。忠節を保持せんと願う者は,エホバの御言葉を研究し,エホバの道を学び,エホバの行動原則,意志を理解し,同時に悪の道より如何にして離れるかを学ばなければなりません。『不敬虔なる者の勧めに歩ま………ざる者は幸福なり。かかる人は永遠者の法をよろこびて日も夜もこれをおもう。』― 詩 1:1,2,モファ
5 我々の忠節に関し,エホバの御名は如何意味がありますか?
5 今日,エホバの御名は非難され冒瀆されて居ります。然し,証者達は断固として御名に忠節であります。彼らは,エホバを信じ彼に忠実であります。そして此の世の人々が彼らにあびせる恥辱や不名誉など顧みません。予言的な御言葉は此の状態について次の様に申して居ります。『我は汝の為に謗をおい,恥を負う……汝の家を思う熱心われをくらい,汝をそしる者の謗われに及べり,われ涙をながして食をたち,わが霊魂をなげかすれば反りてこれによりて謗をうく,われ荒布をころもとなししにかれらが諺となりぬ。人は公けにて我を笑草となし,我は酔狂たるものにうたいはやされたり。』(詩 69:7-12,モファ)若し我々が忠節を保たんことを望むならば,それらの事を耐え忍ばなければなりません。使徒パウロは言いました ―『キリストだに己を喜ばせ給わざりき。しるして「汝を謗る者の謗は我に及べり」とあるが如し。』(ロマ 15:3)我らは「名の民」であります。ですから御名に適わしく生きなければなりません。それ故,御名の意味,その象徴するもの,何故我々が彼の民であるか,又御名を如何に讃美し,如何に崇めたたえるかどうかという事を知らなければなりません。そうですとも,我々は益々進歩して御名を愛し,誰かが御名を悪く言う時,身にしみてその害を感じ,丁度自分自信を弁護するが如く御名を擁護する程にならなければなりません。エホバは,御名の啓示によつて我々に誉を与え,我らの中にそれを植えられました。それ故に,その御名によつて与えられるすべての命令に如何にして従うかを学ばねばなりません。その命令は御名により,シオンの大王,主イエスキリストを通じて与えられるのです。イエスは,撰ばれたる者であり「隅の首石」であり,神の大予言者であります。すべての者は彼に聴き,固く遵わなければなりません。
6 兄弟間の不忠節の道について述べて下さい。
6 主の制度そのものに於いても,非常に多くの方法で忠節か不忠節かを表明し得るでありましよう。或者は,自分に指定された地位が他の者に指命された地位より下級であると結論するでしよう。そして,自分は人よりも教育があり人間としての才能を有して居るという理由で,自分より優れた立場に主がたてた人に対し,優越感を懐いているのです。この様な考えを懐いて,彼は信仰の盾を落し,敢えて危険な矢を自分の心に突き刺さすのであります。そして,間もなく不忠節な者となるでありましよう。一方,忠節な兄弟は,自分が如何なる者であり,自分の心が如何に啓発されたかを知つて居ります。又,エホバ王,御国,について自分の知つて居るすべての事柄は,『忠実にして思慮ある奴隷』を通じて得られたものであるという事をも知つて居ります。更に又彼は次の事をも良く知つて居ります。即ち,エホバは真理の知識を与える如く,その知識を取り去ることも出来る,という事です。それ故に,彼はこれらの事柄を良く考えて,自分の兄弟よりも自らを高くする様なことはしません。反つて,兄弟と共に仕える事を自分の特権と考えるでしよう。これによつて,その人は運営規則に対する忠節を表明して居るのです。或は又,人の忠節は,一見した所不当と思われる取り扱い方によつて験されるかもしれません。そして相手の者はそれに対し何ら悔い改め,又は詫を表明せず,その人は非常に深く悲しむかも知れません。然し,その人は歓んでしかも忍耐強くその試練に耐えるでしよう。何故なら『神を愛する者……には,凡ての事相働きて益となる』事を知つて居るからであります。(ロマ 8:28)他の兄弟はまた,自分の血のつながりを有する家族,或は友人と考えて居た者に棄てられるでしよう。その人は何をするでしようか? 神の行動規則を忠節に遵るでありましようか? ―ルカ 14:26。
7,8 30年前の忠節と不忠節との実例をあげて下さい。その結果について述べて下さい。
7 1918年から同22年に至る艱難の時に於いて,神の民達の間にはきびしい試験がありました。主はその時,審判の為宮にあらわれました。問題は,誰がエホバの側に忠節にたち,確固不動で居るであろう?という事でした。『されど彼の来る日には誰が耐え忍ぶや? その顕現るる時には誰がたち得んや? 彼は金をふきわくる者の火の如く布晒の灰汁の如くなればなり。』(マラ 3:2,ロザ)エホバは,御自分の任命した審判官を通じ,官に於いて民の心を試験し,何千もの人々を斥けました。何故なら,それらの人は我利的で不忠節であつたからです。30年もの間,忠実な合法的統治機関,ワッチタワー聖書冊子協会を通じて霊の糧を得,また導かれたにも拘らず,それら多くの者は『エホバは外の代理機関とも交つて居る』と言つたのであります。この様にして,彼らは自分勝手な利をむさぼつたのであります。然し,忠節な者達は,主の制度に忠実でありました。彼らはエホバの道の為に闘いました。そしてその闘争は何年か続きましたけれども,遂に忠節な者が勝ち,不忠節な者は除去されました。その結果として,何千何万もの人々は,今日真理の知識を得て,幸福なのであります。
8 そうですとも,不忠節な者達は,真理が一般の人々に及ぶのを妨げたでしよう。何故なら彼らは次の様に言つたからです。『収穫は終り,主の業は終了しました。今や我々は天にあげられ主のもとに集められるのを持つて居なければなりません』と。然し,忠節な者はこう申しました。『エホバは真理を啓示して居ります。仕事は未だ終りません。貴方達〔不忠節な者〕が怠慢であろうと,又貴方達が主はワッチタワー協会を通じて交つては居ないと攻撃しようとも,我々は断固としてこの仕事を続行します』と。彼らは真理を信じました。一方不忠節な人々は真理より離れ,より明るい光をつくり出さんと試みましたが,彼らの火花は空しく消え去りました。その様は,丁度火焔から離れた火花がたちまち消え失せる様でありました。火花がすべて空中に消え失せる如く,彼ら不忠節な者も亦消え去つて行きました。この悪い組織制度の終りの日に於いてさえ,少数の者は不忠節な行動をもつて,過つた精神状態を表明します。その様な不忠な者が,輝く火花を有して居るかに見えるからとて,決して心配してはなりません。寧ろ,彼らが何処からその火花を得,それがどこへ彼らを導くかを考えて下さい。それによつて,人々は神の民と密接に交り調和する様になるでしようか? 或は主の民より更に遠く離れてしまうでしようか? それは忠実な者を結合さすでしようか? 或はそれは他の人間の観念に従わせる罠でありましようか?
9 『背を向ける』とそれは何を意味しますか?
9 実際には,それらの行動は不調和をもたらすでありましよう。何故なら或者はこの道を,他の者は外の道を歩むからであります。誰が正しいのでしよう? 既にここに於いて分裂があり,一致はないのであります。エホバの道を愛する者は,忠節であり,真実であり,試験されても決してよろめかないでしよう。我々が追い求めて居るのは,エホバの誉と証であつて,如何なる個人のでもありません。若し彼らが主の業に協力する為,一肌ぬごうとしないならば,彼らが自分のたくらみを為すにまかせておきなさい。『人を害せんと心に図るなかれ,然るに彼らはあえて耳を傾けず,背を向け耳をにぶくしてきかず。』(ゼヤリヤ 7:10,11,ア標)『しかりといえども,彼らは自ら誇りて汝の誡命に聴き従わず,汝の例規を犯し,肩をそびやかし,項をこわくして聴くことをせざりき。』(ネヘミヤ 9:29)エホバの道を知り,主の食卓で霊の糧を食した後に,反逆的に肩をそびやかすならば,その人のうえに災害がのぞむでしよう。彼らの責任は非常に大きいのです。何故なら彼らは神の制度に不忠節であり,また他の者をも導いて不忠節にしたからです。
10 忠節は未だ試験されて居ますか? 説明して下さい。
10 すべてのエホバの証者は,何らかの方法によつて忠節を試験されて居ります。屢々,試験するものは小さな事柄であります。1918年より同22年に至る間に試験の時があつたばかりでなく,それ以後も試験の時がありました。何故なら,1933年,ドイツの会衆に大迫害が加えられ始めたからです。その迫害は,今や屈辱を与えられて消滅したナチス制度を通じて加えられたものであります。それから,1939年より第二次大戦の終りまで,甞て神の民に与えられた迫害中,最大の迫害が加えられました。そしてこの度は全世界に及ぶ迫害でありました。然し乍ら,忠実な人々は神の御心に対する忠節を固く保持しました。国々相互間の大きな戦いは,偽りの宗教家に好い機会を与えました。それというのは,彼らが希望する如く,神御自身のお撰びになつた民のうえに憎しみをもたらす機会が与えられたのです。そして恐ろしい傷害が加えられました。然し,従順な人々は,エホバの行動規則に心から忠節でありました。彼らは妥協することを拒絶し,真理を毀つことや,真理から離れる様なことは決してしませんでした。彼らは忠節を保持したのです。
忠節の聖書的模範
11 神の櫃がエルサレムに運ばれた時にダビデが表明した忠節について,簡単に言つて下さい。
11 ダビデの奉仕の清らかさは,考えても常に楽しいものであります。彼は,正義を愛するすべての者に模範をのこしました。確かに彼も人間としての弱味を有して居りました。その弱味に対しては,彼は常に悔い改めの心をもつて赦を懇願致しました。然し彼は決して偽善的でも無遠慮でもありませんでした。彼はエホバに忠実であり,常に彼を崇め讃えました。一例をあげるならば,ガテ人,オベデエドムの家より,エホバの櫃が運び出された時,『ダビデ力を極めて永遠者の前に踊躍り,時にダビデ亜麻布<リンネル>の短袴<キルト>のみ着け居たり。斯くの如く,ダビデ及びイスラエルの全家歓呼と喇叭の音をもて永遠者の櫃を舁のぼれり。』後に『ダビデ其の家族を祝せんとて帰りしかば,サウルの娘ミカル,ダビデを出でむかえて言いけるは,「イスラエルの王,今日如何に威光ありしや,自ら遊蕩者の女の前にて其の身を露すが如く,今日その臣僕の婢女の前に其の身を露したり!」と。ダビデ,ミカルに言う「我は永遠者の前に躍れり! 汝の父よりもまたその全家よりも我を撰みて我を永遠者の民,イスラエルの首長に命じ給える永遠者に讃あれ! 我永遠者の前に躍る時,その栄誉の為に自らを卑く思う! ― 我自らを讃居るにあらず!」と。』(サムエル後 6:14,15,20-22,モファト)ダビデはエホバの栄誉の為忠実でありました。そしてその為自分の妻に憎まれ嘲けられた時にも,怯んだり後すざりしたりしませんでした。又,彼が王サウルを殺そうと思えば殺すことが出来た二つの場合がありました。だが彼は何故サウルを殺さなかつたのでしよう? 彼がサウルを愛して居た為ではなく,又サウルの娘と結婚した為でもありませんでした。ただエホバと,その御言葉に忠節であつた為でした。油そそがれた王に関するエホバの次の御言葉に忠節であつたのです。『わが受膏者たちにふるるなかれ,わが予言者たちをそこなうなかれ。』(歴代上 16:22ア標)この規則は何百年も前のアブラハムの時代に規定されたものでした。エホバの油そそぎし者〔受膏者〕は,エホバにとり己が瞳の如く貴重なものでした。―創世 26:11,申命 32:10。ゼカリヤ 2:8。
12 ポテパルの家に於いて,ヨセフは如何に忠節を表明しましたか? その事は我々にどの様に益するでしようか?
12 ポテパルの家に於けるヨセフの体験も亦,忠節について説明して居ります。彼は非常に信頼し得る者でしたから,彼の主人の事業に関するすべての物は,彼の手に委ねられました。そして,実際上彼は同等な権威を使行したのでした。当時に於いては,女性の放蕩が一般化されて居ました。例外なくポテパルの妻もその様な女性の一人でした。彼女は疑もなく,ヨセフの美と力と活気と男らしさとに魅惑され,恥をもいとわずしつこく彼に言いよつたのでした。その様な状態に於いては,大部分の男性はもろくも崩れ落ちたでありましよう。然しヨセフはそうでありませんでした。彼は自分の雇主に対してばかりでなく,自分の神に対しても,固く忠信を保持しました。その女の誘惑に答えて,かれはこう言いました ―『されば我いかで此の大いなる悪をなして神に罪を犯すをえんや?』と彼は罪を憎みました。そして,彼はその誘惑に負かされない様に落着いて抗議する暇がありませんでした。そこで,彼はそれに導かれる様な所から離れました。ポテパルの妻の不純な情熱は,厳しい憎しみと変りました。彼女は罪なきヨセフの衣を用いてヨセフについて偽りの告発をしました。怒り狂つた夫ポテパルはヨセフに枷をかけました。然しエホバはヨセフを忘れ給いませんでした。何故なら,時いたり獄全体の紀律は彼ヨセフの手に委ねられたからであります。彼は相当長い間獄中にあつたに違いありません。それというのは,彼に関する記録がはじまつてから,彼が獄より釈放されてパロの前に立つまでの間に,13年という年月が過ぎ去つたからであります。―創世 39:9,22; 37:2; 41:46。
13 モーセは,どんな風にして,忠節を立証するのに失敗したのですか? その結果はどうなりましたか?
13 エホバが,己の僕達の不忠節な行動を非難し給う事はアロン,ミリヤムの体験に表明されて居ります。又それは或時のモーセの場合さえ見られます。モーセの場合はメリバに於いてでありました。即ち,荒野に於ける旅路の最後の年,イスラエルの子らが水のない所に連れて来られたとモーセにつぶやいて居た時のことでありました。エホバはモーセに次の様に命じました。「汝,杖をとり汝の兄弟アロンと共に会衆を集め,其の眼の前にて汝ら磐に命ぜよ,磐その中より水を出さん。」モーセは民達を集めて言いました。『汝ら背反者等よ聴け我等水をしてこの磐より汝らのために出でしめんかと。モーセその手をあげ,杖をもて磐を二度撃ちけるに水多く湧き出でたり。』その時,エホバはモーゼに言いました ―『汝らは我を信ぜずしてイスラエルの子孫の目の前に我の聖きを顕さざりしによりて,この会衆をわが之に与えし地に導きいる事を得じと。』(民数 20:5-12,ア標)モーセは新しき世に復活されて,報を得るでしようが,それでもメリバに於いては神の不興を蒙つたのであります。何故なら,神は人を偏見る方ではないからです。アロンはモーセの謹しみ無き言動を叱責することが出来たでありましようが,そうしませんでしたから,やはり罪を犯し,刑罰を受けました。即ち貴い特権を剥奪されたのです。―民数 20:24-28。
14,15 ミリアムとアロンがどの様に不忠節だつたかを説明して下さい。我々の為どんな教訓がありますか? 今日に於いても,或人達は如何にこの実例の如き歩み方をして居ますか?
14 ミリアムは,自分の兄弟モーセを,唯一人撰ばれた僕,エホバの僕と認めず不忠節でありました。アロンもこの不忠節な行為に関係しました。彼らは言いました ―『エホバただモーセによりてのみ語り給わんや? 又我らによりても語り給うにあらずや?』 エホバは彼らの思念を知つて居りましたから,三人を一所に集め,モーセを再び支持してミリアムを叱責し,彼の身に癩病を生ぜしめました。この病は後にモーセのとりなしによつて癒されました。(民数 12:1-16,ア標)後にミリアムはカデシに於いて死亡しました。エホバは,御自分の撰び給いし者に対する不忠節を寛し給いませんでした。
15 これは今日に於いても同様であります。現に,我々は新しき世に非常に近づいた時代に住んで居るけれども,やはり同様なのであります。エホバは,『忠実にして思慮ある奴隷』を是認して居ることを,非常に明白に表明して居ります。それにも拘らず,或者達は,前述の言葉と殆んど同じ様なことを言つて居ります ―「エホバは,単に』忠実にして思慮ある奴隷』とのみ語り給うのでしようか? 彼は我々を通じても語られるのではないでしようか?」と。その様な人々は,自分の高い観念を助長させ,傲慢と我慾とに支配されます。そして,自分は何年も前から用いられて来たのに,一体どうして今日の霊的イスラエルを統治することに加われないのだろう?と言い又自分達の意見も聞かれてもよいのではないだろうか?と言います。この様な人々は自分を余りにも重要視すぎて居り,無遠慮であり不忠節であります。彼らは,『忠実にして思慮ある奴隷』の栄誉を考えずに,ただ何故自分達の意見が聞かれないのかを知りたがつて居るかも知れません。これこそ,正にミリアムやアロンの悩みでありました! モーセ,アロン,ミリアムら3人とも約束の地に入れなかつた,という事は注目に価します。それというのは,彼らは3人とも,荒野滞在の第40年目に死亡したからであります。―民数 33:38; 20:1。申命 34:1,5。
一つの聖書に対する忠節
16 エホバは,本来のイスラエルに於いて唯一つの聖所しか有して居なかつたのは何故ですか? そして今日も一つしか無いのは何故ですか? 説明して下さい。
16 礼拝所は聖壇であり,犠牲を捧げる処として指定された場所であります。礼拝所は先ず第一にエホバによつて撰ばれねばなりません。そして律法によれば,ただエホバに献られた処だけしか使用出来ません。(出埃 20:24。申命 12:5,11)聖所はただ一つであるべきです。神の民が神権的一致を保つ為に一つであるべきです。(列王上 12:27)イスラエルの時代に於いて,其の礼拝所が数多く生じた結果,偶像崇拝が助長されました。幕屋はイスラエルの中心でありました。そして,正しい礼拝とは,神が撰び給うた所に於ける,イスラエルの一致を意味して居りました。其処は神が自ら住む事を喜んで居られる処でありました。ソロモン王の死後,神の民の間に大叛逆が生じ,分裂しました。そしてイスラエル王は次の様に言いました。『若し此の民エルサレムにあるエホバの家に犠牲を献げんとて上らば,此の民の心ユダの王なるその主,レハベアムに帰りて我を殺しユダの王レハベアムに帰らんと。ここに於いては王,会議て二つの金の犢を造り人々に言いけるは汝らのエルサレムに上ること既に足れり。イスラエルよ汝をエジプトの地より導きのぼりし汝の神を視よ,と。而して彼一つをベテルに安え一つをダンに置けり。この事罪となれり。』(列王上 12:27-30,ア標)ヤラベアムは神の行動規則を遵守致しませんでした。この王はエホバの律法を侮辱しました。そしてエホバと彼の撰び給うた聖所に対し完全に不忠節でありました。これらの未の日に於いても,或人達は,撰ばれた集会所を無視して居ります。だが其の場所こそ,神が『忠実にして思慮ある奴隷』のまわりで,常にワッチタワー聖書冊子協会を用いて己の民に語り給う処なのであります。それは殆んど70年間にわたつて撰ばれ証明された処であります。礼拝と奉仕の為に自分勝手な場所を撰定して,他の人にもその様に教える人々は,丁度典型的神の民の場合の様に,会衆から完全に除去される危険を冒すものであります。(レビ 17:4)彼らはエホバと彼の撰び給うた制度に対して,不忠節であります。
17 偽りの礼拝に反抗したモーセの忠節は何を啓示して居ますか? 我々は何故待ちくたびれるべきではないでしよう?
17 アロンが,民の要求に譲歩して金の犢をつくつた時,モーセは偽りの礼拝に反抗してエホバに忠節でありました。彼は営の門に立つて言いました ―『「すべてのエホバに帰する者は我に来れ」と。さればレビの子孫みな集りて彼に至る」(出埃 32:26,ア標)みな決心せねばなりませんでした。何故ならエホバは侮られ,彼の規定した取極めが無視されたからであります。同様に,現在或人々は待ちくたびれて,『忠実にして思慮ある奴隷』が何か間違をしたのだ,と考えます。それというのは,彼らの信じて居る如く,事が成就しないからであります。待ちくたびれる事は,多くの者を誘惑の手に渡します。若し我々が待つならば,我々はむだ骨を折らないでしよう。然し自分で始めるならば,必ずやむだ骨を折るでしよう。更にその様な人は主と主の認め給うた僕を無視し,侮辱するのです。
18 3人のヘブル人の子らの忠節は,何を示して居ますか? 彼らの忠節な立場は,今日の我々を如何に助けますか?
18 3人のヘブル人子らは,真実の忠節を表明致しました。この事は次の事を明白に教えて居ります。即ち,王と臣民との差別は大きなものでありましようが,エホバに対する忠節及び義務と,人間の法律に対する従順との間に正面衝突が起つた時には,その様な差別も消えうせてしまうという事であります。それら3人の人達は,法律に従順でありました。そして従順の法律とそれに対する忠節とは第一の法律でありました。彼らは王を真向から無視する様な事は何もしませんでした。ただ良心の権利を犯す命令に服従しなかつただけです。(そしてこれも誇張的に見えをはつてなしたのでありません。)確かに,彼らが良心の故に禁絶したことは,少しも他人を害する事ではありませんでした。他のイスラエル人は,彼ら3人が忠節に神の法律に従つた事によつて自然強められたのは事実であります。然しその3人は他の人にも自分達の様になれとは励まして居なかつたのです。彼らはその試験に於いて,確固たる決意を持し『おお王よ,汝らこれを知れ』と直ちに答えたのであります。彼らは,『カイザルの物はカイザルに帰し』エホバの物はエホバに帰すことを確実にしたのです。カイザルがエホバに属する物を横取りしようとした時には,カイザルの権威を拒否すべきであります。神はカイザルの物など欲しません。彼らに与えられた問題は神から離れるか,或は焼きころされるか,という問題でありました。然し,エホバに対する真実の献身と忠節は,危険な時にも彼らの霊を落着かせます。彼らは模範的な落着をみせて,確固とした答をしました。彼らは,平穏な日に於いて,神の御心に対する忠節を誓いました。そして,今や試験の時となつたのであります。彼らは,それに直面して,あらゆる反撃,王の嚇と火の炉の刑罰にさえ確固と耐え忍びました。それ故,今日に於いても,貴重な時間を費してから,一番安易な試験を望んではなりません。今知識を得て自ら確信し,如何なる危機に遭遇した時にも自ら為すべき事を知り得る様にしなさい。そうすれば,正しい解答が与えられ,貴方は恥じず恐れず,自分の信ずる事をはつきり告白するでありましよう。真理の確固たる信念によつて,貴方はエホバと御子を否まずにすむでしよう。
塩の契約
19 『塩の契約』とは何ですか? それは何故ダビデと結ばれましたか?
19 イスラエルに於ける謀叛の18年後,イスラエルの王ヤラベアムはユダの王アビヤに戦を挑みました。その戦の始る前に,アビヤは反逆せる王に呼びかけました。『汝ら知らずや,イスラエルの神エホバ塩の契約をもてイスラエルの国を永くダビデとその子孫に賜えり。』(歴代下 13:5,6,ア標)『塩の契約』とは何でありましよう? エホバは命令しました ―『汝素祭を献ぐるには凡て塩をもて之に味つくべし,汝の神の契約の塩を汝の素祭に欠くこと勿れ,汝礼物をなすにはすべて塩をそなうべし。』(レビ 2:13。民数 18:19をも見よ。)塩は腐敗と虫食とを防ぐものであります。ですから,清さと永遠性とを物語つて居ります。塩の不変な性質は,確固たる不変性を示して居ます。古代に於いて,他の人と共に塩を食べる事は,親切と誠実のしるしで,又永久的友情の紐又は誠実の保証であつたと伝えられて居ります。それは忠節の保証でありました。(エズラ 4:14)従つて,神がダビデと結んだ塩の契約は,こばたれる事なく永久に保たれるでありましよう。アビヤは此の契約を,かの裏切者で不忠節な王に想い出させたのであります。然し,それは無駄でありました。彼は2倍もの大軍をもつてアビヤを攻めましたが,遂に敗北しました。
20,21 イエスはマルコ伝 9章49,50節の声明で何を意味したのですか?
20 主イエスは申しました ―『それ人は,みな火をもて塩つけらるべし。塩は善きものなり,然れど塩もしその塩気を失わば,何をもて之に味つけん。汝ら心の中に塩を保ち,かつ互に和ぐべし』(マルコ 9:49,50)疑いもなく,迫害の熱は忠節な何者をも害さないでしよう。そして,大いなる審判主の臨在の結果として生ずる試験と試練とは,神の民を精練し清めるに役立つでしよう。(マラキ 3:2-4)若しも其処に霊の塩がないならば,腐敗し虫食れるでしよう。若しもエホバ神に対する我々の犠牲の中に,誠実と信頼と忠節とがないならば,我々は何の役にもたちません。奉仕を処理する信頼出来る者と兄弟を信ずる事が非常に大切であります。我々は互に和がねばなりません。然し,自ら忠節と信頼と誠実とを有しないならば,それは絶対不可能であります。我々は『心の中に塩を持つ』ことが必要であります。塩は,兄弟の愛を通じて,絶えず我々を奉仕に励まし元気づけ,神に受け容れられる様にしてくれます。
21 自分を自発的にエホバの奉仕に献げる者は,その犠牲を迫害の火に入れることを予期しなければなりません。すべての犠牲は,火で燃やされる前に,先ず塩で準備られます。その様に,我々の心も亦清らかで,主に献げる犠牲として確証する程忠節でなければなりません。そうですとも,神との協定に於ける我々の分を尽くすのに,邪魔物を一切きりすてることさえしなければなりません。『また約束し給いし者は忠実なり。』(ヘブル 10:23)我々が『塩の契約』に与えるのならエホバとの我らの協定中には,何らの欺瞞,不信,偽善もあつてはなりません。それは,我々がエホバを裏切つたり,御名を汚したりすることの決してない為にです。塩に与かるとは,確かに忠節を物語つて居るのであります。それ故,イスカリオテのユダの行為は,何と不埒な恐るべきものであつたのでしよう。彼は主の食卓に坐し,食したのであります!『我と共に手を鉢(椀)に入るる者われを売らん』『されど見よ! 我を売る者の手,我と共に食卓の上にあり!』 同じ食卓で食し居りながら,同時に裏切る事を考えて居たのです。―マタイ 26:23。ルカ 22:21。
22 エホバの僕に対する忠節を保持することは,如何に重要でありますか? そして,エホバの民達は,今日,どの様に地の塩でありますか?
22 今日,主の食卓に坐し,『忠実にして思慮ある奴隷』によつて備えられた霊の食物と塩とを食したる後,引下つて自分自身の食卓を設けて,主を引き寄せようと望む者が居ります。ああ,その様な者のうえには,何と恐ろしい災害がのぞむのでしよう! 彼らはただに友誼をこばち,不忠節を示したばかりでなく,他の者にも同様な事をする様に勧め励まして居るのです。我々は,その状況を正しく認識致しましよう。エホバの証者が地の塩である,という事は何ら疑う余地がありません。これは,丁度,古い世が過ぎ去らんとして居た時にノアが地の塩であつたのと全く同様であります。世界の人口は,彼らノア達に始つたのであります。結果として,その時以来無数の人々が生存して来たのであります。若し,それが当時に於けるエホバの忠信者達の為でなかつたならば,今日,アダムの裔は一人も生きて居ないでありましよう。これは今日に於いても同様であります。『その日もし少くせられずば,一人だに救わるる者なからん,されど撰民の為にその日少くせらるべし。』― マタイ 24:22。
エホバの律法
23 二つの最大の誡命は何ですか? 我々がその誡命に忠節であるならば,結果はどうなりますか? 我々は神に是認される為に何を為すべきですか?
23 『イエス答え給う「第一はこれなり。“イスラエルよ聞け,エホバなる我らの神は,唯一のエホバなり。汝心を尽くし,精神を尽くし,思を尽くし,力を尽くして汝の神エホバを愛すべし”第二はこれなり“おのれの如く汝の隣を愛すべし”此の二つより大いなる誡命はなし」』(マルコ 12:29-31,新世)これは,すべての物をエホバに献げるという意味であります。そして,エホバを愛して居る限り,その人は他の人を自由に害しても良いのだ等と結論してはなりません。何故なら,第二の誡命に遵わなければならないからです。如何なる者といえども,神を愛しながら隣人を害する事は出来ないのであります。ヤコブはこれを『尊き律法』と呼んで居ます。我らの家族に対する聖書的な責務が少いものは,自分が奉仕に最大限に従事して居るかどうかを省るべきであります。我々は,我らの力すべてを尽くしてカイザルを愛すべし,とは命ぜられて居りません。そして,エホバとカイザルに同時に我らのすべての愛と力とを捧げることは絶対に不可能であります。エホバ以外の者が,我々の時と力とを要求することも考えられますから,試練にあうでしよう。そして各自は,先ず第一に誰に遵うかを決めなければなりません。恐らく,貴方は或る行動を為す様に命ぜられ,その行動が聖書の尊き律法と呼んで居るもの,即ち『おのれの如く汝の隣を愛すべし』という律法に反して居る場合に遭遇するでありましよう。自ら考えて下さい=貴方はその様な方法で自分自身を害しますか? 若しそうでないならば,貴方は先ず神の御命令に従わなければなりません。エホバと彼の律法に対する忠節を保つならば,貴方は聰明にして清らかな良心を得,報を受けるでしよう。エホバの律法は宇宙に於いて最高なものであります。兄弟よ,緊急状態や恐るべき環境の為に,貴方達は色々な要求をされるでしよう。然し,如何なる状態も,全智全能の創造主に対する貴方の第一責務を取消し得ない,という事を常に念頭において下さい。忠節は試験されて居ります。先ず第一に神に従い,神を完全に信頼しなさい。そうすれば結果は正しいものであります。然し,若し不忠節となるならば,貴方に関する限り,その結果は非常に悲惨なものでありましよう。神の御言葉と御心とを冷静に考え,それからそれに相応した様に行動しなさい。エホバの大予言者,イエスキリストに聴くべし,然らば汝ら生くべし。