人間の心は不信実です
「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができよう。我エホバは心を探り,…各自にその道にしたがい,その行動の実にしたがって与えるためである」― エレミヤ 17:9,10,新。
1 聖書は人間の心の傾向について,何を率直に告げていますか。
わたしたちは自分の経験や他人の経験を通して,人間が良い心と正義に傾く思いとを生まれつき持っているわけではないことを日々思い知らされます。生まれたばかりの赤ちゃんは無邪気に見えますが,その内には受胎の時からすでに罪と不完全さが働いています。詩篇記者のダビデはこう表現しています。「見よ! わたしは生みの苦しみとともにあやまちをもって生み出された。わたしの母は罪のうちにわたしをはらんだ」。(詩 51:5,新)自分の子どもを「エホバの訓戒と思いの調整とによって」育てようと努力をしている良心的な親でさえ,「愚かさが少年の心と結びついている」ことを何度となく痛感させられ,「それを彼から遠くへ追いやる」には,「懲らしめのむち」をいろいろな方法で用いなければならないことを知らされてきています。(エペソ 6:4,箴言 22:15,新)全地をおおった洪水の後,ノアとその家族の犠牲を受け入れた時のエホバは,親から子に受け継がれるこのみじめな遺伝を次のように慈悲深く注目されました。「我再び人の故に因て地を詛ふことをせじ其は人の心の図維るところその幼少時よりして悪かればなり」― 創世 8:21。
心は欺きうる
2 (イ)どのように『心は他の何物よりも不信実であり,必死です』か。(ロ)使徒パウロは自分の思いを作り変えた後でさえ,何を認識していることを明らかにしましたか。
2 心と協働することは油断を許しません。注意していないと,自己欺瞞の犠牲になります。聖書はこう警告しています。「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができようか」。(エレミヤ 17:9,新)不信実な人は簡単に信頼や誓約を裏切るという特徴を持っており,不忠節で信用できず,実際に反逆的な人です。考えてみてください! 不完全な状態にあるわたしたちは,すべてその胸の中に潜在的な反逆者を囲っているのです。心の中に根ざしはじめる事柄にわれながら驚く,いや,恥じいることさえ,時として実際にあるのではありませんか。そして心が何かを必死に欲する場合,深刻な問題に陥ってしまうことがあります。そのような新しい愛情を静め,そのような突発的な欲望を除去するため,早急に調節の手段を講じることが肝要です。使徒パウロは新たにされた自分の思いが,心から起こる悪い欲望によって戦いをしかけられ,さらには不完全な肉によって課せられる重みを負わされていることを告白しました。「われ中なる人にては神の律法を悦べど,わが肢体のうちに他の法ありて我が〔思い〕の法と戦ひ,我を肢体の中にある罪の法の下に虜とするを見る」。(ロマ 7:22,23〔新〕)彼は,エホバのみがキリストを通して,わたしたちをこのみじめな状態から救出しうることを認めました。自分だけにしかたよれないならば,わたしたちは何度も道を踏みあやまるに違いありません。「人の心には多くの[計画]あり,されど惟エホバの旨のみ立べし」― 箴言 19:21〔新〕。
3 思いは推理から導き出された結論をもって心に影響を与える立場にありますが,それに聞き従う意図が心にない場合には何が起こりえますか。
3 前に学んだように,心が常に思いに聞き従うとはかぎりません。思いの論理の力にもかかわらず,心がそれを圧倒してしまう時があります。忘れてならないのは,心も推理するということです。もっとも,それは論理に関連してというより,わたしたちの動機,愛情,欲望が具体化し,良いにつけ悪いにつけ一定方向にはずみがつく際,心に何が起こっているかに関係してです。ダビデは『わたしの心の黙考を,エホバよ,あなたの前に,楽しみをもたらすものとならせてください」と祈りました。イエスはそれと対照的に,『心から,邪悪な推理が出て来る』と言われました。(詩 19:14,マタイ 15:19,新)思いは心に影響を与え,それに論理的な推薦をし,あるいは過去の経験に基づいて心に訴え,そして時には,引き起こされる危険を知るゆえ,一定のコースを取るよう強く心を促す立場にあります。しかし,一定の物事に対する欲望や愛情が心の中に強力に築かれてしまっているなら,心が勝ちを制することがあります。
4 新しい背広かドレスを買うことに関連して,思いと心の働きを説明しなさい。
4 例として,新しい背広あるいはドレスを買うかどうかについての決定をしなければならない時のことを考えてみましょう。最初に,思いはいくつかの事実に直面します。今の服は着用できないほど古くなったとか,その他なにか十分の理由があって新調する必要があるかもしれません。心もこの点大いに関係してきます。良い服装をしたいという欲望が心にあるからです。新しいドレスあるいは背広を買わねばならないということに,心と思いは同意します。そこで思いは値段・質・スタイルなどについての情報を収集し,買物に行く時にはどの背広,どのドレスを買うべきかだいたいの考えができあがっています。ところがいざ店に着いてみると,ウインドーには人目をひくすてきな服が飾られてあり,衝動的な買手を待ち受けています。それは自分にとってほんとうに実用的とは言えません。高価で,スタイルの面でもやや極端です。しかし,心はそれがほしくてじりじりさせられます。それはほんとうに心を喜ばせます。
5 エホバの意志を行なうべく,わたしたちの心を一つにしつづけるには何が必要ですか。
5 さて何がなされますか。どんな決定がなされますか。それは実際的で,推理から導き出された決定ですか,それとも心のその時の新しい欲望によるものですか。よほど注意しないと,心が思いを圧倒してしまいます。すぐれた判断に逆らう道を取るよう動機付けられるかもしれません。一方,これは時として起こる,心が瞬間的に岐路に立たされる場合かもしれません。そうであれば,心のまさったほうの良い動機と愛情が勝ちを制し,その結果,自分の服装上の必要を満たす最も実際的なアンサンブルを買うという決定を下すことになるでしょう。しかしさらに,正しい決定をまちがいなく下せるようにするためには,前もってエホバの助言で心を強化し,訓練する必要のあることをも思い起こさせられます。「おのれの心を恃む者は愚なり。知恵をもて行む者は救をえん」。エホバの関心事と原則を生活の中で第一にすることを心の中でつちかった人のより強力な欲望は,心の中に突然発する魅惑的な関心事や欲望を制圧することができます。―箴言 28:26。
6 悪い欲望が心に根ざしはじめるなら,直ちに行動することが必要です。なぜですか。
6 ここでこの推理をもう一歩進めて,もっと重要な生活の側面に当てはめてみましょう。不品行を犯す,盗む,他人に害を与えるといった誘惑にわたしたちが直面した時,心はどう反応しますか。さらに重大なことに,心の欲望を満足させようと故意にたくらみ始めると,どんな誤った事態を招きますか。あなたの心は,あなたを誤った道からそらせる動機付けを与えるほど強いものですか。それとも,肉の欲望を充足させる可能性をひそかにもてあそぶことに屈しますか。正しい決定を下すことを延ばすと,悲惨な事態が生じえます。心が何かをもくろみはじめると,強大な力が発生し,感情がかき立てられ,肉体は悪いことに対して備えを開始します。「しかし,おのおの自分自身の欲望[それは心で始まる]に引き出され,かつ誘われて,試みられるのです。次いで,その欲望は,それが熟したときに罪を生み,次に,罪は,それが遂げられたときに死をもたらします」― ヤコブ 1:14,15,新。
7 心が,思いの提出する証明に逆らって進むことを選ぶという点でどのように勝ちを制するか,例で説明しなさい。
7 たとえば,自分の配偶者以外の女性と姦淫を犯す誘惑に直面した,結婚した男の人の場合を考えてみましょう。彼の思いは研究から,また見聞きしたことから,そうした行動を圧倒的に非とする情報を持っているかもしれません。その行動を取った他の人々に及んだ結果を推理し,それが必然的に引き起こす問題や悪影響を考慮することによって,彼の思いはそうした誘惑から離れる方向を強力に指示する証明を,危険区域から出ることを緊急に推薦する情報を提出するかもしれません。しかし,その人の心に誘惑から離れ去る欲望が全くないならどうなりますか。その時には,心は思いが提供し推薦した事柄とは反対の決定をします。つまり,心は,「いや,わたしたちはこちらの方向に行くのだ」と,思いに言っていることになります。彼は自分の心の感情的な力に左右され,思いの助言と推理に逆らって危険地帯にとどまります。
8 人の取る行動を選ぶという心の能力を,聖書はどのように描写していますか。
8 任意の行動を選択し,その一つに欲望を定める心のこの能力から,聖書が人の心について,それが『計画を立てる』とか,「おのれのみちを」,すなわち思いが最初に考えた道でおのれに訴える道を「考へはかる」とかと述べている理由の説明がつきます。(箴言 19:21,新; 16:9)これは道徳的また霊的な事柄に関して特にそうです。
9 心が悪いことを行ないたいとの強い欲望を持っているなら,その影響力を思いに及ぼす際何が起こりえますか。
9 しかしながらそれだけでなく,心は次に思いを動かして,悪い道に進むためのなんらかの言い訳あるいは口実を捜し出させ,誤った推理を採用させはじめます。その人は罪の行為に陥るかもしれず,そして当人が罪を犯しているまさにその時に,心は思いを促して弁明を作り上げさせるのです。彼は神の愛ある親切につけ込み,『神はとても慈悲深いのだから。神は私の肉の弱さゆえに許してくださる』などと言いながら,同時にその悪の道を歩みつづけるかもしれません。彼は,心のうちで次のように言った邪悪な人のようになります。「神はわすれたり 神はその面をかくせり神はみることなかるべし」。(詩 10:11。ロマ 1:21,24と比較)そうであれば,罪深い人間の心は「他の何物よりも不信実であり,必死である」と聖書が警告していることに少しも不思議はありません。―エレミヤ 17:9,新。
10,11 (イ)人が自分の心の中で姦淫を犯すことについて,イエスはなんと言われましたか。(ロ)自分の妻でない人に触れてもいない男が,神の目から見て,どうしてその心の中で姦淫を犯すに至りますか。
10 これはまた,対象となった人に触れてもいないのに,どうして姦淫を犯したものとして神にみなされる場合があるのかを理解する助けとなります。自分の妻ではない美しい女を一目見て,男は心のうちで,「とても魅力的な人だ」と言うかもしれません。これはそれについて考える間もなく起こります。このつかの間の推論は必ずしも悪いとも,不純であるともかぎりませんが,男がその女を『見つづける』なら,欲望が必ずや発生し,彼女に対する情欲が心の中に募ります。イエスはこう助言しました。「しかしわたしはあなたがたに言います,女を見つづけて,その女に情欲をいだく[結婚した]者は皆,すでに[どこでですか?]心の中でその女と姦淫を犯したのです」― マタイ 5:28,新。
11 その人は実際の肉体行為をしたのではありません。事情が許さなかったからかもしれず,多くの不快な問題を経験せずに『うまくやりとげる』のは無理であると,感じているせいかもしれません。思いがこの点の警告を与えたのかもしれません。しかし仮りに事情が変わって好都合に見え,深刻な後作用をまぬがれる可能性が多少でもあると当人が考えるなら,彼の心はもうその行為を犯したがり,そうすることを欲します。動機付けは十分に整っています。足りないのは機会だけです。そうした人は神の目から見てすでに有罪です。(ヤコブ 1:13-15と比較)それと全く同じようにして,人は盗み,または殺人の罪さえ犯すことになります。(ヨハネ第一 3:15)聖書が思いと心との間に区別を設けていること,思いではなくて,心が動機の座であることを明確に認識するのがなぜそれほど重要であるかが,これでおわかりでしょうか。
12 ダビデはヨセフとは対照的に,どのように心に導かれるままに道を踏みはずしましたか。
12 ダビデについて,彼はエホバ自身の心にかなった人と言われています。しかし,ある日彼がたまたま窓から外をながめていると,遠くでバテシバが水浴をしていました。彼女にはなんの悪気もなかったことでしょう。ダビデは自分の心の中に色情的な考えがわき起こる前にそれから目をそらせないで,見つづけ,彼女に対する情欲を募らせました。その結果,それに続いて彼は恥ずべき姦淫を犯し,彼女を自分の妻として迎えることができるよう事をはかり,彼女の夫を殺させてしまいました。ヨセフはそれとは対照的に,自分の主人の妻で,性欲に狂った女から誘惑されたとき逃げました。偽りのとがを受けて投獄され,しばらくの間自由を失ったのは確かですが,清い良心と神との関係とは失いませんでした。
エホバは心とそれが必要とするものとを知っておられる
13 エホバが心を正確にご存じであることに関して,聖書は何を明らかにしていますか。
13 だれが人間の心を知ることができるのでしょうか。不完全な状態にあるわたしたちには,それが十分にできないことを認めなければなりません。しかし,エホバがそれをなしうることはなんと感謝すべきでしょう。「わが視るところは人に異なり人は外の貌を見エホバは心をみる」。「われエホバ心を察り…おのおのに其途に順ひその行為の果によりて報ゆ」。「なんぢわが心をこころみ また夜われにのぞみたまへり 斯てわれを糺したまへ(り)」。(サムエル前 16:7,エレミヤ 17:10,詩 17:3)イエスも人間の心の働きを正確にご存じでした。「口から出るものは心から出て来るのであり,それらのものは人を汚します」。(マタイ 15:18,新)それらのものとは何ですか。
14 (イ)心のなしうることに関して,イエスはどんな適切な分析を行ないましたか。(ロ)良い心を持とうと努力するのは,しょせん不可能なことなのでしょうか。
14 人間の心は最も高尚かつ崇高な動機付けをいだける一方,イエスが列挙されたように,なんと汚らわしい,嫌悪の情を起こさせるものをも出すではありませんか。「内から,人の心から,害になる推理が出て来るからです。淫行・盗み・殺人・姦淫・人のものをむやみにほしがること・邪悪な行為・欺瞞・ふしだらな行状・そねむ目・冒とく・ごう慢・無分別などです。[マタイの記述は「偽証」を加えている。]これら邪悪な事柄すべては中から出て来て,人を汚すのです」。(マルコ 7:20-23,新)心に発する邪悪な事柄のそうした恐るべき放列を前にして,あっさりあきらめてしまい,むだではないか,と言う人もいることでしょう。ほとんどの人がそうです。それが一つの理由となって,滅びへの広い道にはおびただしい人々が満ち,命への狭くて窮屈な道を歩む人が非常に少ないのです。しかし永遠の命に至る狭い道を開いた際,イエスは不可能な目標をいだかせたのではありません。彼は確かにこう言いました。『狭い戸口を通ってはいるため,力強く努力しなさい。なぜなら,あなたがたに告げます。多くの者がはいろうと努めながらできないからです』― ルカ 13:24,新。
15 正しい動機付けを持つために,欲望や愛情を造り直し形作るにあたり,わたしたちは何を思い起こすべきですか。
15 わたしたちがどのように知識を取り入れ訓戒に服するかが,良いものにしろ悪いものにしろ,どんな愛情または欲望が自分の心の中に発生するか,またそれらがどれほどの強さをもって心から発するかを大きく決定します。心と思いを絶えず不潔なもので養っていながら,良い欲望や動機を持つことは期待できません。その上,思いは,なぜあることが行なわれるべきであるか行なわれるべきでないかについて,心に推薦できる十分な理由を持たねばなりません。それには心を教育することと訓戒することが必要です。(箴言 23:12)そうした後にはじめて,不承不承の傾向が少しでもある心は,正しいことを行なって得られる良い結果を味わうようになり,わたしたちはついに自分の側に心を引き入れることができるのです。朝起きて,「きょうはもう少し人に愛を示すことにしよう」とか,何かそれに似たことを言って自分をそうした心理状態にさせれば事がかたづく,といったなまやさしい問題ではありません。まず,良い習慣と性向が形成されるよう,良い資質を毎日適用することにより自分の生き方としてつちかわれねばならず,その次には,自分自身に対して正直になり,心に深く据えられている悪い資質や傾向の根本原因を知るようにします。次いで,それらを除去したり抑制したりするのに聖書の原則を適用することができます。『知恵があなたの心にはいり込み,知識みずからがあなたの魂そのものにとって快くなる時,思考力みずからがあなたの上に警備を置き,識別みずからがあなたを守り,あなたを悪い道から救出するでしょう』― 箴言 2:10-12,新。
16,17 (イ)生がいの大部分を不道徳な環境の中で過ごした人の心の状況を説明しなさい。(ロ)その人が神のことばの真理を学ぶにつれて,どんな葛藤が展開されますか。
16 心が自らを適応しなおすこの過程を示す例として,自分の人生の相当の年月を不道徳な人々との交わりや,官能的な快楽の提供を業とする場所に出入りすることに費やしていた人が,神のことばの真理を喜んで聞いた時その心の中に何が起こるかを考えてみてください。その人は良い動機付けの能力という点で大きな欠如を示してきました。なぜなら,「女と姦淫を犯す者はだれでも心にかけている」からです。(箴言 6:32; 9:1-5,13-18,新)安っぽい小説を読み,好色雑誌を見,けがらわしい冗談を聞いたり話したりすることによって,性的な刺激に対する彼の渇望はその度を強められてきたかもしれません。しかし今や,年老いて死んでゆく代わりに,完全な状況のもとで永久に生きることを期待できると教えられたのです。それは彼の心に訴えます。が,エホバの正義の要求に従う者だけがそこに住むということも同時に学びます。彼はどうするでしょうか。
17 長年の間に築き上げられた,心と肉の不道徳な渇望は,一夜にしてぬぐい去られるものではありません。彼はそれをなんと深く自覚させられることでしょう。思いと心との激烈な葛藤が始まります。(詩 38:7-10)思いはエホバに仕えるのが論理的であることを次のように認めます。神の憤りからのがれうる。病気,苦しみ,死からの自由が得られ,永遠の命に導かれる。実際良い行動は肉体,思い,感情の面で最善の益となる。自分に非行を奨励,助勢してきた以前の友人の代わりに,神の民の間での健全で建て起こされる交わりにあずかれる。しかし心は自分のほしいもの,過去にひそかな喜びを与えてくれたものすべてを今得たいのです。神を崇拝したいという欲望がそこにあるのは確かですが,それは今では相当弱くなっています。奥深くには正しいことをしたいとの欲望がありますが,それとても今ではそれなど強いものではありません。思いは,性病の感染や私生児の出生,あるいは妊娠中絶の責めを負うといった,邪悪な影響の及ぶ可能性を心に思い起こさせ,その点は心にも否定しえないところなのですが,依然としてそうした欲望は存在しています。
18 最終的にどのように心を自分の側に引き入れる結果,心がエホバの意志を行なうことに最高の喜びを見いだすようになるのですか。
18 その人の生がいにとってこれは非常に重大な時です。多くの人はここまでは来ますが,それ以上進みません。新しい秩序での生活はたいへんよいものに響きますが,古い体制の魅力が心の中にあまりにも強く宿っているのです。しかし前進しようと心の中に勇気を奮い起こしつづける人,そうです,正しいことをしよう,神の律法を心の中に取り入れようと自分をしいる人は,正しいことを行ないやすくなってゆくのに間もなく気づきます。そればかりか,心が実際の経験によって神を喜ばせる事を味わい,さらに心がそれを重ね重ね行なうにつれて,それにも喜びを見いだすことができると結論せざるをえなくなります。思いとともに心もその利点を認めるようになり,心の中にはかつての欲望に代わって正しい事柄がはいってきます。二つの事柄が同時に同じ場所を占めることはできません。つまり,「心の割礼」が施されたのです。(ロマ 2:29,コロサイ 2:11,新)やがて彼はかつての知人や悪い影響を及ぼすものから遠ざかるようになります。自分をしいるからではなく,心でそう欲するからです。心は,神の意志を行ないその民と交わることに最高の喜びと最も純真な楽しみを見いだすようになりました。かつての事柄は嫌悪の念を催させます。彼は神の律法に対する愛,深い愛情を心の中に築き上げました。「彼の神の律法は彼の心の中にあり,彼の足どりがよろめくことはない」― 詩 37:31,新。
心の他の動機
19 心は舌にどんな影響を与えますか。
19 わたしたちは道徳的には自分の心を制御できるかもしれません。しかし心の他の面での動機付けについてはどうですか。たとえば,舌をどのように使いますか。イエスは次の原則を述べました。「心に満ちあふれている事柄から口は語(ります)」。(マタイ 12:34,35,箴言 15:28,新)良い心は良い事柄を話すよう人を動機付けます。しかしながら,だれかが「自分の舌を制御せず,自分自身の心を欺きつづけるなら,この人の崇拝の形式は無益です」。うわさ話は心にとって悪い薬となります。注意しないと,それは他人の事柄に“尾ひれ”を付けて告げ回るのがこの上なく好きです。しかし,うわさや不確かなことを広めるのは愛のある行為ではありません。―ヤコブ 1:26,新。
20 (イ)「互いに心から熱烈に」愛しつづけることはなぜ必要ですか。(ロ)許すことは単に思いからではなく,心から来なければなりません。それはなぜ重要ですか。
20 さらに深刻なのは,「もしあなたがたがあなたがたの心の中に苦きねたみと言い争いとを持っているなら…そこに混乱とあらゆる忌むべきものとがある」ということです。(ヤコブ 3:14-16,新)「あなたはあなたの兄弟を自分の心の中で憎んではならない」。むしろ,わたしたちは「互いに心から熱烈に愛し合う」ようさとされています。(レビ 19:17,ペテロ前 1:22,新)もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら,彼に憎しみの態度を築き上げる前に,「あなたと彼だけの間で」解決すべきです。人を許す者たちについてイエスはこう言われました。「もしあなたがた各自が,自分の兄弟をあなたがたの心からゆるさないなら,わたしの天の父もあなたがたをこれと同じように扱われるでしょう」。(マタイ 18:15,35,新)箴言 6章16-19節(新)にあげられているように,エホバが憎まれる七つの事柄の中の一つは,「有害な計略をもくろむ心」です。―詩 140:2,新。
21 よほど慎重に注意しないと,心の持つどんな共通の傾向が表われないともかぎりませんか。
21 エホバとその組織とに対するわたしたちの関係には,偽善,むさぼり,高慢,強情などの余地はありません。(テモテ前 1:5,詩 101:5; 131:1,新)『二心の』者と「中途半ぱな心の」者とは,両方とも神のことばにより非とされています。(詩 12:2; 119:113,新)心には口実を設けよう,正当化しよう,うそを言ってその場を切り抜けようとする傾向があります。もしこの策略が功を奏さないとなると,甘言あるいはののしりのことばか悪口をもって威迫の手段に出ます。(ロマ 16:18)わたしたちがエホバに対してだけでなく,自分自身と兄弟たちとに対しても正直であるよう,心を真実性と従順さとの点で訓練する必要があります。罪を犯して,心が自分を『責めはじめた』なら,祈りを通して直ちにエホバに近づき,み前で心をあらわにして,許しと心を清くしてもらうこととを求めるべきです。(サムエル後 24:10,ヤコブ 4:8-10,新)重大な罪を犯したのであるなら,会衆の責任者に知らせて,彼らの助けを求める必要があります。心は叱責を軽んじたり,『脂肪と全く同じように不感となったり』すべきではありません。エホバは心の打ち砕かれた者たちをいやし,彼らの痛むところに包帯をしておられるのです。(詩 119:70; 147:3,箴言 5:12-14,新)エホバの慈悲と,あがないの犠牲によって罪をおおうこの備えを認識するならば,以後み前に思慮深く歩みながら,それ以上心にとがめを受けずに自信をもってエホバに近づくことができます。―ヘブル 10:22,ヨハネ第一 3:18-24,新。
22 心を常に勤勉に監視することはなぜ重要ですか
22 『わたしたちの心をその道に導き入れる』ための助けをエホバによりたのみながら,わたしたちは勤勉の限りを尽くして心を監視する必要があります。心は欺瞞に満ちており,わたしたちが気づかないうちに以前の悪い道に逆戻りすることがありますから,わたしたちは神のことばからの次の勧告を日々思い起こさねばなりません。「あなたの全き心をもってエホバに信頼し,自分自身の理解にたよってはならない」。そうする点でわたしたちには,「すべての考えにまさる神の平安が,あなたがたの心と思いの力とをイエス・キリストを通して守るでしょう」との保証があります。―箴言 23:19; 3:5,ピリピ 4:6,7,新。
23 なぜ「他のすべてのもの以上に」心を守るべきですか。
23 さてこれで,なぜ「守るべき他のすべてのもの以上に」心を守るべきかがおわかりになりましたか。「命の源」がそれから出ているのです。といっても,それは筋肉質のポンプが生命を与える血液を体内の全細胞に循環させ,それによって細胞の生命と健康を保つからというだけではありません。いっそう重要なのは,わたしたちが正しく発達させれば,心はエホバの助けと過分の親切とを得て,新しい事物の体制での完全な健康の伴う永遠の命をわたしたちに確かにさせるものとなる動機,欲望,愛情を生み出すことができます。心に関する偉大な医師であられるエホバは,全人類の心の状態を正しく診断してこられ,彼だけがわたしたちの欠陥のある心のための正しい処方せんを持っています。「わが子よ,わたしの律法を忘れてはならない。そしてわたしの戒めをあなたの心が守るように。そうすれば,命の月と年との長さ,また平安があなたに加えられるからである」― 箴言 3:1,2,新。