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神の目的とエホバの証者(その48)ものみの塔 1962 | 10月15日
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刑を宣告されながらも,長年のあいだ固い立場をとることができたのは,エホバの御霊の力です。遂に証者はエホバの力によって,その正しいことを立証され,法廷で日の目を見る権利を与えられたのです。今ではアメリカ合衆国内で大勢の奉仕者が兵役を免除されています。
ロイス: これで,アメリカの徴兵法に関連した事件の報告は終わりですか。
ジョン: ほとんど終わりましたが,1955年3月14日に,最高裁判所は三つの重要な事件で,エホバの証者に有利な判決を下しました。そのひとつはこのような事件です。法務省では,あるエホバの証者の良心的な兵役拒否者としての主張を認めないようにと勧告していました。それはこの証者が,他のすべての証者と同じく,聖書にしるされた神権的な戦いを正しいものと考え,自己防衛を正当と考えているとの理由に基づくものです。最高裁判所はその勧告を不法なものと認め,それに由来する命令に基づいて下された有罪の判決は取消されました。その日に決定を見た他の件では,長いあいだ確立されてきた選抜徴兵局と法務省との諸規定が無効と宣告されました。公平な聴問を受ける,良心的兵役拒否者の権利を認めなかったのが,その理由でした。その結果,多数の係争中の事件が却下されました。
エホバの証者は長年のあいだ,激しい悪口を浴びせられてきました。その組織の中心は,国際的な本部の所在するこの国において,反政府の烙印を押され,アメリカ各地のエホバの証者は,第二次世界大戦中とその後において,第一次世界大戦中と同じく,徴兵法によって有罪とされた事件が広く報道されたために,非難を浴びることになりました。エホバの証者に対する偏見と差別待遇が一般化するにつれて,正直な心を持つ多くの人々も,良いたよりに耳を傾けなくなったのです。しかし証者は初期クリスチャンと同じく,聖書に基づいた絶対中立の立場を固く守り,そのかたわら良いたよりの伝道に励みました。
エホバの証者が兵役のがれのぺてん師でないことは,アメリカの上級裁判所もやむなく認めるに至りました。これはエホバの力によるのです。彼らは神の奉仕者であって,正義の新しい世の到来を全地で熱心に宣べ伝えてきました。大勢の牧師や他の著名な人々は,証者が徴兵法のために困難に陥つたことを,ひそかに喜んでいました。彼らは証者たちを兵役のがれのずるい者呼ばわりをして,迫害の火に油をそそぐことをしたのです。ゼカリヤの時代にも同様なことをした者がいました。(ゼカリヤ 1:15)世間から非難され,不名誉を着せられたこと,それが徴兵委員会あるいは「隣人」をもって任ずる人々からであろうと,尊敬されている連邦裁判所のほとんどすべての判事は言うに及ばず政府の高官,大統領からのものであろうと,エホバの証者は,政府から妨げられずに伝道するため,戦うことを断念しませんでした。そのために,法廷自身が彼らに加えられた悪名を取り除いたのです。最高裁判所がおそまきながら,ディッキンソン事件に対して下した判決は,i連鎖反応をひき起こし,その結果,奉仕者としてエホバの証者から兵役を免除することを定めた有利な判決が数多く下されました。またそのために,世間一般の人々の間でも,制度に浴びせられた不名誉な非難がおおかた取り除かれました。奉仕者から成るエホバの新世社会は,今でもある人々が偽りにも非難しているような不法の,邪悪な宗教団体としてではなく,アメリカ合衆国憲法の下において,正統派の宗教と同じく高い法的な立場を持つ団体として,この困難な事態から浮かびあがったのです。その個々の奉仕者は,徴兵法の下において正統派の牧師と同じく,保護と免除を得られることが立証されました。
合衆国の外における事態はまた異なつています。ヨーロッパ及び他の国々の献身した兄弟たちは,クリスチャン奉仕者として兵役から免除されるべきことを主張しましたが,それらの国々には,宗教の奉仕者を兵役から免除する法の規定がないのです。従って兄弟たちは任命された奉仕者として,最高の神に対しての責務に反する行いを拒絶したため,苦しみを受けました。たとえばスウエーデンのことを考えてみましょう。そこでこの世に対するクリスチャンの中立の立場をとる奉仕者は,刑務所に行き,刑期をつとめなければなりません。出所すると,その奉仕者は再び活発な宣教を始め,再び徴集されます。またしても妥協することなくキリストにならう中立を固く守るため,再び刑を宣告されて刑務所に送られます。出所すると,5回,6回,7回あるいはそれ以上も,同じ事をくり返すのです。できることと言えば,国家当局の前で何回でも自分の立場を述べ,不当な宣告を黙って受けるだけなのです。
ですからお分かりのように,ここアメリカ合衆国では,法によって任命された奉仕者と認められた人々に対しては法律の規定があり,エホバの証者が兵役の免除に値する真実の任命された奉仕者であることを聖書的に,また法律の定めに照らして証明したのは,全く正当なことでした。
トム: 合衆国以外の国で証者がどんなに大変な目にあったかは,今まで知りませんでした,全くここよりも悪かったのですね。たしかにこの問題で,指導者イエスのようにクリスチャンの忠実を守るには,信仰と神への献身が必要だったと思います。
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読者よりの質問ものみの塔 1962 | 10月15日
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読者よりの質問
● マタイ伝 19章30節,20章16節,マルコ伝 10章31節,ルカ伝 13章30節の先の者はあとになり,あとの者は先になるという聖句は,復活の順序を述べたものですか。―ミシガン州の一読者より
いいえ,復活は論義の主題になってはいません。考慮の対象になっているのは二つの級の人々です。真先に神の恵みを受けると考えていた一つの級は,取残されて,神の恵みはとうてい受けられない,あるいは取残されると考えられていたもう一つの級が第一の恵みの地位につきます。尊大ぶったイスラエルの宗教指導者たちは,物質的に豊かであったばかりでなく,多くの霊的特権と機会に恵まれ,まっ先に神の祝福を受ける地位にあるとさえ考えていました。貧しい人々や,普通の人々は,彼らの目には卑しむべき取るに足らない者どもで,『アムハーエレッツ』または彼らの足に踏みつけられている「地の人人」と呼ばれ,およそ神の注意を受ける価値などない者どもでした。ところがイエスは,その思い上がった者たちに対し,アブラハム,イサク,ヤコブそして預言者たちによって予影されていた神の御国の取決めから彼らが閉め出されて,その代わりに軽べつされていた者たちが神の御国の食卓につくということを告げたのです。そして,それらの者たちが,東から西から,北から南からはいって来るというふうに話すことによってイエスは,彼らが普通のユダヤ人ばかりでなく,あらゆる国の貧しい人々の間から来ることを示しました。そうした踏みつけられたユダヤ人,軽べつされていた異邦人は,神の御国にはいる機会に関する限りあとの者たちでした。あるいは,神の祝福をまっ先に得るものとうぬぼれていた宗教指導者たちは少なくともそう考えていました。ですからイエスは,この二つの級とその関係を心に留めて次の結論的言葉を出されたのです,「あとのものでも先になるものがあり,また,先のものであとになるものもある」。―ルカ 13:23-30; 16:14-31,新口。
物質的な意味においてであろうと,一般人からの尊敬とか評判を得るという点においてであろうと,楽で豊かになることを望む人々には,御国にはいることは極めてむずかしいことでしょう。一方,迫害の下で神に奉仕するために,慰安になる持物やこの世での名声を放棄する者たちは祝福されます。この世の評価に従えば,そのような謙そんな人々は,神の恵みを受ける者のリストの最後にのせられ,この世のえらい人々はまっ先にのせられるでしょう。ところがイエスは,富める者と貧しい者の二つの級を比較したのちこう言われたのです,「多くの先の者はあとになり,あとの者は先になるであろう」。(マタイ 19:24-30,新口。マルコ 10:23-31)マタイ伝とルカ伝に記されている,この表現が使われた時の情況は,ルカ伝のそれとは異なっていますが,示されている原則は同じです。それは,牧師階級のように,霊的特権や機会に恵まれて,まっ先に神の祝福を受けるもののように思われている者が結局あとになり,そして,高名の牧師たちから,神の恵みなど受けっこないと思われている者たちが,神によって先にされるということです。
マタイ伝 20章16節では,この原則はさらに異なった背景をもっています。ここに述べられているたとえによると,ある家の主人は,自分のぶどう園に労働者を雇い,1日に1デナリ払う約束をしました。9時,12時,3時,5時頃にも,新しいグループの労働者を雇い入れ,賃金を払う約束をしました。それは正当なことでした。夕方になってみんが,働いた時間の長さにかかわりなくそれぞれ1デナリずつもらいました。1日中働いた者たちは,自分が同意した賃金を得たにもかかわらず,1時間しか働かなかった者たちが同じほどもらったので不平を言いました。家の主人は,自分が約束を守ったことと,自分のものを自分がしたいようにするのは当然だということを彼らに告げて,彼らを行かせました。そして,結論として先の者はあとになり,あとの者は先になるという表現を用いています。(マタイ 20:1-16)このたとえは,1918年に主が宮に来られた時以来適用します。そして,そのしめくくりは1931年に来ました。それは,エホバの証者という新しい名前の形で,賃金が支払われた時でした。真理に最も長くいた者のうちのある者たちは,気分を害し,不平を言い,そして離脱しました。自分たちをほかのすべての伝道者たちと同じ水準に置くこの新しい名前に彼らは満足せず,証言のわざをすることによってその名にふさわしい生活をしようとしませんでした。それで,奉仕した年月が長かったために,かつては真先の者であった彼らはあとになるか取残され,もっと後に真理にはいった者で,もっと謙そんな者たちが,彼らに取ってかわりました。
それで,この表現を,これらの二つの級に適用すると,異なった背景をもつこの表現が理解できるようになります。そして,イエスの時代のイスラエルの,ユダヤ人の間の状況に言及しているものか,あるいは教会級に異邦人が加えられることに言及したものか,それともこの末の時代のキリスト教国の状態のことを言ったものかが分かります。かつては最初の者と思われていた地位の高い牧師級があとに低められ,あとに低められていた者たちが神によって,彼と共に第一の地位に高められます。―ルカ 14:11。
しかし,あとになるということが,全く取残されることを意味すると,どうして分かりますか。「天国で最も小さい者と呼ばれる」者たちが,ぜんぜん御国にはいれないということを知るのと同じ方法で分かります。つまり内容によって分かるわけです。それは,「天国で最も小さい者」と言われている人人が,学者やパリサイ人であることを暗示しています。そして,彼らも,また彼らの義よりまさった義を持たない者たちも,決して御国にはいらないことを特別に述べています。あとになる先の者として述べられているのはこの同じ牧師級ですから,「最も小さい」と「あと」は,同じ運命を表わしているに違いありません。(マタイ 5:17,20)ある人は,イエスが洗礼者ヨハネについて,「天国で最も小さい者も,彼よりは大きい」と言われているマタイ伝 11章11節を証明として引用して,「天国で最も小さい」とは,天国にはいることを意味するというかもしれません。ところが,ここで「最も小さい」と訳されているギリシャ語は,マタイ伝 5章19節の「最も小さい」というギリシャ語とは異なっており,正確には「小さい方の」と訳されるべきです。(新世訳。ドウェー訳。アメリカ標準訳。ロザハム訳)天の御国にいる者はみな,キリスト・イエスにくらべて小さい方の者たちです。イエスは「天国で大いなる者」と呼ばれます。というのは,イエスだけが律法を完全に守りまたそれを教える者だからです。その内容はまた,あとになる先の者が外に投げ出されて,御国の取決めにはいれないことを示しています。それは,らくだが針の穴を通れないのと同じです。私たちでも「それは私の最少<ザ・リースト>の心配だ」といいますが,その場合全く心配していないという意味です。「それは私が考える最後<ザ・ラスト>のことだ」という時も,そんなことは考えもしないという意味で言っているのです。そういうわけで,あとになる者は,全く取残されてしまいます。
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