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へびを扱う崇拝 ― 神の是認されるものですか目ざめよ! 1973 | 11月22日
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がそれから益を受けられるのでないかぎりだれも聞きなれないことばで話すべきではない,という点を強調したのはそのためです。―コリント前 14:28。
ほかにも考えるべきことがあります。へびをつかんでも損われないというマルコ伝 16章17,18節のことばがクリスチャンにそのような力を与えるものであるとすれば,同じ節に述べられるほかの事がらについてはどうでしょうか。キリストの追随者は毒を飲んでも死なないはずではありませんか。ただ上に手を置くだけで病人を治せるという点についてはどうでしょうか。これらは当然尋ねられる質問ではありませんか。
弟子マルコが書いたものか
これらの質問すべてはどんな結論を導きますか。どこかにまちがいがあるに違いないということです。事実,現代の聖書学者のほとんどすべてはこれと同じ結論に達しています。すなわち,これらのことば ― これらのことばだけでなくマルコ伝 16章9から20節にあるすべてのことば ― は,マルコが書いたものではなく,後代に付け加えられたものである,という点で大方の意見の一致があるのです。学者たちはどのような根拠でそのように結論しているのですか。外面的および内面的な証拠の双方に基づいてです。
まず,強力な事実として,最古の聖書写本であり,最も高く評価されている二つの聖書写本,バチカン1209番写本とシナイ写本がこの部分を含んでいません。これらの写本は,マルコの福音書を第8節で結んでいます。また,古代写本で第8節ののちにただ一節だけの短い結びを付けたものが多くあり,また,両方の結びを載せている写本もあります。したがって,写本の中には,第8節で終わっているもの,それに短い結びを加えているもの,長い結びを加えているもの,さらには両方の結びを並べているものがあります。こうしてギリシャ語写本による証言は総合して,マルコが第8節ののちにも何かを書いたという点に疑問を投げかけていますが,これに加えて,最古の聖書翻訳の中には問題の章句を含んでいないものが多くあります。そのような訳の例として,古代シリア語訳,アルメニア語訳,エチオピア語訳を挙げることができます。聖書写本学の権威者ウエストコット博士が,「以下の節[9-20節]は当初の記述ではなく,後代の加筆である」と述べているのも不思議ではありません。同様の見方を取る著名な学者としては,トレゲレス,ティッシェンドルフ,グリースバッハ,グッドスピードなどがいます。a
ギリシャ語写本および初期の翻訳によるこの証言を支持しているのは,教会史家ユーセビウスと聖書翻訳者ジェロームです。ユーセビウスは,長いほうの結びが「正確な写本」にはないこと,「マルコによる福音書のほとんどすべての写本においては,この所[第8節]がマルコによる福音書の終わりとして定められている」ことを記しています。そしてジェロームは,西暦406年から407年ごろに書き残したものの中で,「この章句を載せているギリシャ語写本はほとんどない」と述べています。
ここできわめて適切なのは,新カトリック百科事典(1966年)第9巻240ページにある,これらの節に関する注解です。「写本関係の伝承は,この福音書が当初16章8節で終わっていたこと,バルゲート訳に編入された長い結びはのちに付け加えられたものであり,五世紀中に広く受け入れられるようになったものであることを示している。……その用語と文体はこの福音書の他の部分と急激に異なっており,マルコ自身がこの部分をつづったとはとうてい考えられない。……マルコ 16章1-8節は,イエスの復活に関する預言の成就を宣言しており,この福音書の満足な結びをなしている」。
マルコの文体?
新カトリック百科事典は,マルコ伝 16章9-20節の用語や文体がマルコの福音書と急激に異なっており,マルコ自身がこれらの節を書いたとはとうてい考えられないと論じています。この点に注目してください。そうです,直接的で飾り気のないのがマルコの文体です。彼の文章の段落は短く,文の推移は簡潔です。しかし,この9節以下の結びの場合,上記百科事典が述べるとおり,「一連の陳述が注意深く配列されており,そのおのおのに適宣導入的な表現が付けられて」います。一巻きの手織りラシャの端にしゅすの切れはじをはぎ合わせたもの,という例えがなされていますが,それはいかにも適切です。
用語の問題もあります。9節から20節に使われていることばの中には,マルコ福音書のほかの部分に出て来ないもの,他のどの福音書中にも出て来ないもの,またクリスチャン・ギリシャ語聖書全体を通じてほかのどこにも出て来ないものがあります。これらの節は163のギリシャ語から成っており,そのうち19の語と二つの句は,マルコ福音書の他の部分に一度も出て来ません。言い替えれば,これらの節には109の異なった語がありますが,そのうち11の語と二つの句はこれらの節だけにあるものです。
しかし,マルコがこれらの節を書いたのではなく,これらは霊感による神のことばの一部ではない,という点で最も決定的なのは,その内容そのものです。すでに述べたとおり,キリストの追随者が18節に言われるとおり猛毒を飲んでも害を受けないことになっていたという証拠はありません。へびをつかむことに関してさえ,そのへびをつかむ人々が,へびが自分にかみつかないようにあらゆる手を尽くしていることは明らかであり,しかも彼らがへびを扱うのは一度に五分だけです。
さらに,これら典拠の疑わしい聖句は,イエスが道の途中で会ってご自分を表わし示されたふたりの弟子たちの証言を11人の使徒たちが信じなかったと述べています。しかし,ルカ伝の記述によると,そのふたりの弟子が11人の使徒およびそれとともにいた人々のもとに行った時,それら使徒たちは,「主はほんとうによみがえらされて,シモンに現われたのだ!」と言いました。―ルカ 24:13-35,新。
したがって,前述の事からしてわたしたちはなんと結論すべきでしょうか。すなわち,マルコ伝 16章9-20節は神の霊感によることばを成すものではないとです。それは次の理由によります。(1)これらの節は最も古く最も高く評価されるギリシャ語写本二つおよび他の写本の中に見いだされない。(2)それらは最古そして最良の聖書翻訳の多くにも含まれていない。(3)ユーセビウス,ジェロームなどの古代の学者がそれを偽筆としている。(4)これらの節の文体はマルコの文体と全く異なる。(5)これらの節の中の用語はマルコの用語と異なる。(6)そして,最も重要な点として,これらの節の内容が事実および聖書の他の部分と相いれない。
これら疑わしい節に関しては,これを付け加えた人々はきわめて貧弱な仕事をしただけでなく,誤った前提のもとにそれを行なった,という点を言えるでしょう。どうしてですか。マルコは自分の福音書を実際に現在の第8節で終わりにしたのであろうと考えられるからです。マルコの急絶的な文体に基づいてこうした見方を提示しているのは,ユーセビウス,ジェローム,新カトリック百科事典,それに,「聖書理解の助け」です。
数々の警告を無視して神のことばに付け加えることは重大な結果,ときにはある人々の死という事態にさえ至ります。(申命 4:2; 12:32。箴 30:6。黙示 22:18)他方,「エホバの語られたことばは永久に存続する」のです。―ペテロ前 1:25,新。
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ほんとうの意味で富む目ざめよ! 1973 | 11月22日
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ほんとうの意味で富む
● 商売人の中には,自分のかせいだ最初の一㌦を額縁に入れて壁に飾ることを誇りとしている人がいる。しかし,自分の最初の友人を今だに持つ人は,それよりもどれほど富んでいることだろう。聖書は「〔真実の〕友はいずれの時にも愛す」と述べている。―箴 17:17,〔新〕。
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